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説教日:2018年1月21日 |
ダビデ契約において、「主」がダビデの世継ぎの子の王座を永遠に確立されると約束されていることには、より広い、「主」の贖いの御業の歴史における背景があります。 「主」がダビデの世継ぎの子の王座を永遠に確立されるという約束は、創世記12章3節に記されている、「主」がアブラハムを召してくださった時に語られた、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束を実現してくださるためのことです。 このより広い、「主」の贖いの御業の歴史的な背景を踏まえておくことは、イエス・キリストが私たち「主」の契約の民に与えてくださっている、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 という約束を理解するために欠くことができません。このイエス・キリストの約束は、より深いところにおいて、「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福されるという、「主」がアブラハムに与えてくださった約束がかかわっています。 このことを念頭に置いて、お話を進めていきます。 この創世記12章3節に、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 と記されている約束にも、「主」の贖いの御業の歴史的な背景があります。それについては、すでに、いろいろな機会にお話ししていますが、今お話ししていることと深くかかわっていますので、改めて、お話ししたいと思います。 12章3節に記されている、「主」がアブラハムに与えてくださった約束において、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 と言われているときの「地上のすべての民族」は、この前の11章の1節ー9節に記されている、バベルにおいて「主」のさばきを受けて「地の全面」に散らされた「すべての民族」のことです。 2節には、 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。 と記されています。この「シヌアルの地」は、メソポタミアのことです。 この人々のことは、洪水後のノアの子孫たちの系図を記している10章の6節ー12節に、 ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。 と記されています。 この人々はノアの三人の息子のうちのハムの子孫です。ハムの最初の子はクシュですが、このクシュの子であるニムロデがこの人々の王です。「ニムロデ」という名前は、「われわれは反逆しよう」という意味であると考えられています。 8節では、 ニムロデは地上で最初の権力者となった。 と言われています。「最初の」と訳されていることば(ヘーヘール)は、革新的なことの始まりを表すことばによって表されていますので、「最初の権力者となった」と訳されています。ですから、 ニムロデは地上で最初の権力者となった。 ということは、ノアの時代の大洪水によるさばきの後の歴史に起こった大変革でした。その大変革がどのようなものであったかは、ニムロデがどのような存在であったかにかかっています。 そのニムロデについては、さらに、9節に、 彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。 と記されています。 ここで、 主のおかげで、力ある猟師になった。 と言われているときの「おかげで」と訳されたことば(リプネー)は意味の広いことばです。一般には、この場合は、「主がご覧になっても」とか「主の評価によっても」というような意味で、これがさらに、慣用表現として最上級を表し、「この上なく力ある猟師」ということを表していると考えられています。また、このニムロデが「猟師」であったことは、古代オリエントの王たちが、狩りをする能力を誇ったことの始まりと考えられています。 ですから、ここでは前例のないほど強力な猟師であるニムロデが出現したということが示され、ことわざとしては、「この上なく力ある猟師、ニムロデのようだ」と言われるようになったということが示されていると考えられます。 9節に続いて10節には、 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。 と記されています。先ほど触れましたように、「シヌアル」はメソポタミアを指しています。ニムロデの帝国はメソポタミアに建設されました。「彼の王国の初め」の「初め」と訳されていることば(レーシート)は、「初め」とともに「中心」をも表すものです。その中心の一つである「バベル」は、後のバビロンのことです。 これに続く11節ー12節には、 その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。 と記されています。この「アシュル」はメソポタミアの北に位置するアッシリアのことで、続いて記されている「ニネベ」、「レホボテ・イル」、「ケラフ」、「レセン」はその地方の町です。 このように、創世記10章10節ー12節では、ニムロデの帝国がメソポタミアからアッシリヤに広がる大帝国であったことが示されています。そのような大帝国を築くために、どれほどの戦いと殺戮がなされたでしょうか。 バベルでの出来事を記している11章1節には、 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。 と記されています。 これはニムロデの帝国が勢力を拡大していた時代のことですから、ノアの子孫たちは、すでに、地に増え広がっていました。 とはいえ、聖書に記されている系図には、必ずしもすべての名が記されているわけではありませんが、「ニムロデ」はノアの息子であり、ノアとともに箱舟から出てきたハムから3代目に記されています。11章10節ー26節に記されているノアの息子「セムの歴史」から、その当時の人々が30代には子を生んでいることが分かります。それで、「ニムロデ」は洪水後の時代の早い時期に生まれていると考えられます。 また、10章25節には、セムから4代目に記されているペレグの時代にバベルでの出来事が起こったと記されています。「セムの歴史」に記されている年代からペレグは大洪水の101年後に生まれています。このことは、ノアの子孫たちは地に増え広がっていたけれども、それは、今日の私たちの感覚からすると、まだ一定の地域に限定されていたことを示しています。 それで、 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。 と言われていることは、そのように地に増え広がっていったノアの子孫たちが話したことばは一つのことばであったということです。 そして、このような文化的な状況の中で、ハムの子孫であるニムロデは、メソポタミアからアッシリアにまたがる地方を力によって征服して一大帝国を築いていきました。 4節には、 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」 と記されています。 ここに出てくる「町」は単数で、9節で、それが「バベル」であることが示されています。 「頂が天に届く塔」は、メソポタミアに見られるジグラトの起源に当たる建造物ことで、宗教的な建物です。ジグラトの頂上には、特別な祭儀において、天にいるその町の神が人と交わるため下ってくるとされている神殿がありました。 しかし、ニムロデの帝国の人々が建てた塔は、後の時代のジグラトと少し違った意味をもっていたようです。 「頂が天に届く塔」を建てるに当たって、人々は、 さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。 と言いました。 ここで人々が言った、 さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。 ということばには「われわれのために」ということばが2回出てきます。それを生かして訳しますと、 さあ、われわれは、われわれのために町を建て、頂が天に届く塔を建て、われわれのために名をあげよう。 となります。これは、この人々が「頂が天に届く塔」を建てたのは、自分たちを神格化して、神と対抗しようとするためであったことを意味しています。 さらに、この人々は われわれが全地に散らされるといけないから。 と言っています、これは、天地創造の御業のことを記している1章28節に、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されており、ノアの時代の大洪水によるさばきの後のことを記している9章1節に、 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 と記されている神さまの祝福を、意識的に踏みつけようとする姿勢を示しています。 ニムロデの時代は大洪水によるさばきの後の歴史の早い時期のことですから、神さまが洪水後の歴史の初めに与えてくださっていた祝福はまだ記憶されていたはずです。 このように、ニムロデの帝国の人々は、帝国の中心であるバベルに「頂が天に届く塔」を建てて、これを宗教的な中心としました。それは自分たちの獲得した権力の巨大さを誇示し、自分たちを神格化して神に並ぶものとすることでした。人々はこのような考えの下に帝国を統一し、その結束を強めようとしました。それはニムロデの軍事力を初めとする血肉の力に裏打ちされた権力によることです。 これによって、創造の御業において、神さまが人を神のかたちとしてお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されている神さまのみこころを、組織的に踏みにじる歴史と文化が造られていくことになりました。 このような歴史の流れが行き着く先は、大洪水によるさばきの前の状況を記している6章5節に、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 と記されている、人の罪による腐敗が極まってしまい、11節ー12節に、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されている「暴虐」が地に満ちてしまう時代状況です。ですから、このままの状態が続けば、人類は再び「主」の御前に腐敗を極まらせてしまい、終末的なさばきを招くに至ってしまいます。 しかし、11章6節に、 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。 と記されているように、その流れは、もはや、人類が自分たちの力では止めることができないほどになっていました。 このように、人類が罪による腐敗を極まらせ、地を暴虐で満たして、最終的なさばきを招くに至る道を突き進むことを、自らの力によっては止めることができなくなったとき、「主」が介入して、それを止めてくださいました。 11章5節には、 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。 と記されています。人々は「頂が天に届く塔」を建てて、自分たちの名を天にまで上げたつもりでいました。けれども、それは天にまで届いたどころか、「主」はそれを見るために、わざわざ降りてこなければならなかったというのです。ここには一種の「皮肉」が込められていますが、これは擬人化された言い方で、人の高ぶりの愚かさを示しています。 続く6節ー9節には、 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。 と記されています。 これが洪水後の人類の歩んだ道でした。人類は地の全面に散っていきましたが、それは「主」のさばきによって散っていったものです。これを人の側から見れば、お互いの間に対立が広がり、分裂に分裂を重ねながら、地の全面に散っていったということになります。 しかし、これには、「主」の摂理による備えという意味がありました。「主」のさばきによって、考え方や価値観が違ってしまった人々、さらには、お互いの間での憎しみと敵意などによって対立するようになった人々が地の全面に散っていくようになりました。それによって、全人類が一つとなって、罪の腐敗を極まらせてしまう流れを造り出すのではなく、国家あるいは民族が互いに競い合い、牽制し合って、結果的に、腐敗が極まってしまうことが阻止されるように、主が摂理の御手をもって導いてくださるようになったのです。 具体的には、一つの国が国家建設のために規律あるあり方をして栄えていき、栄華を極めるようになると、やがて腐敗が始まり、弱体化します。すると、それを打ち破って、再び、国家形成のために規律を保つ国が興るようになります。 それらの国々は自分たちの罪の自己中心性に縛られ、権力を追い求めているのですが、「主」はそのような人の思惑を越えて、すべてを導いてくださり、歴史を保ってくださいます。このようにして、「主」は終わりの日に至るまで、人類が罪による腐敗を極まらせて、最終的なさばきを招くようになることがないように、歴史を保ってくださっているのです。 これは、9章11節に記されている、大洪水によるさばきの後、箱舟から出てきたノアとその息子たちに神さまが語られた、 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。 というみことばに示されている契約に基づくことです。 「主」はただ人類の歴史を保ってくださっているのではありません。このような歴史的な状況の中で、アブラハムを召してくださり、バベルにおいて散らされたすべての国民が、アブラハムによって祝福を受けるようになると約束してくださいました。それが、創世記12章3節に、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 と記されている約束です。 このアブラハムへの約束は、アブラハムが約束によって生まれたイサクを「主」にささげた時に与えられた約束につながっていきます。創世記22章18節には、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 と記されていて、アブラハムへの約束は、アブラハムの子孫によって「地のすべての国々」が祝福されるということであることが示されました。 御子イエス・キリストはこのアブラハムのまことの子孫、アブラハムの子孫の共同体のかしらとして来てくださり、「地のすべての国々」から集められる、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられました。ガラテヤ人への手紙3章6節ー9節に、 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 と記されており、13節ー14節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されているとおりです。 このようなアブラハムへの祝福がダビデ契約にどのようにつながっているかについては、改めてお話しします。 |
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