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説教日:2018年1月14日 |
確かに、イエス・キリストの、 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 というみことばや、その背景となっている詩篇2篇9節に記されている、 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。 というみことばは、メシアとその国が圧倒的な軍事力で敵対する国々を粉砕することを示しているように思われます。 同じメシアの国のことを預言的に示しているダニエル書2章では、基本的には、詩篇2篇と同じく、メシアの国がこの世の国々を打ち砕くということを示しながら、これとは対照的な一つのことを示しています。 そこには、ダニエルが、バビロンの王ネブカデネザルが見た夢がどのような夢であったかを示し、その意味を解き明かしたことが記されています。 ネブカデネザルが見た夢については31節ー35節に、 王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。 と記されています。 この後、ダニエルはこの夢の解き明かしをします。 それによると「頭は純金」と言われているのはネブカデネザル、すなわちバビロンを指しています。その際に、ダニエルは、ネブカデネザルに「国と権威と力と光栄」を与えられたのは「天の神」であると言っています。つまり、神さまはネブカデネザルをも治めておられるということです。その後の国については、それがどの国であるかということは明確に示されていませんので、見方が分かれています。福音派の学者たちは、一般的に、「胸と両腕とは銀」と言われているのは、メディア・ペルシアを指しており、「腹とももとは青銅」と言われているのはギリシア、そして、最後の「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」と言われているのはローマを指していると考えています。 注目したいのは、ダニエルの解き明かしのことばの最後の部分を記している44節ー45節に記されていることです。そこには、 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。 と記されています。 ここでは、「人手によらずに切り出され」た「石」が、「鉄と青銅と粘土と銀と金」によって表されている歴代の国々を「打ち砕いて、絶滅してしま」うと言われています。この「人手によらずに切り出され」た「石」はメシアを王とする神の国、メシアの国を指しています。また、この「人手によらずに切り出され」た「石」(単数)は部分に分けられてはいない一つの国を表しています。 38節には、ダニエルがネブカデネザルに語った、 あなたはあの金の頭です ということばが記されています。ここでは、バビロンのことが、その王であるネブカデネザルであると言われています。これに合わせて言えば、「人手によらずに切り出され」た「石」は、メシアすなわちイエス・キリストであるということになります。 そして、この「石」が「鉄と青銅と粘土と銀と金」によって表されている国々、すなわち、福音派の一般的な理解に沿って言いますと、バビロンからローマに至るまでの国々を「打ち砕いて、絶滅してしま」うというのです。これによって、メシアが最終的にはこれらの国々を支配しておられ、おさばきになる主権者であることが示されています。そして、その主権はダニエルの時代に始まったものではありませんし、ローマの時代に終ったのでもありません。35節に、 その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。 と記されており、44節に、 しかし、この国は永遠に立ち続けます。 と記されているように、メシアの国は「永遠に立ち続けます」。 その意味で、メシアは歴史の主であられます。そのことは、黙示録においてより明確に示されることになります。 ネブカデネザルが夢で見た「鉄と青銅と粘土と銀と金」によって表されている国々からなる巨大な像は、人の手によって造られた偶像です。それは偶像礼拝のための像であることを思わせます。実際、ネブカデネザルがこの夢を見たことはダニエル書2章に出てきますが、次の3章では、ネブカデネザルが巨大な金の像を造って、「諸民、諸国、諸国語の者たち」にその像を拝ませたことが記されています。 このことは、「人手によらずに切り出され」た「石」が、その成り立ちも、素材によって表されている国としての特性も、「鉄と青銅と粘土と銀と金」によって表されている、この世で興っては滅亡していく国々とはまったく違っていることを示しています。 このことを表すのに、ここでは「石」が用いられています。「石」は鉄のような強さがありませんし、価値においても、金、銀、青銅、鉄とは比べものになりません。 とはいえ、この「石」はただの石ではなく、「人手によらずに切り出され」た「石」です。これによって、この「石」によって表されている国は、人が武力や経済力などの血肉の力によって建てた国ではなく、神さまがメシアによって建てられた国であることが示されています。 ここで、メシアの国が「石」で表されていることは、また、この世の国々が金、銀、青銅、鉄などであらわされていることは、詩篇2篇9節において、メシアの主権が「鉄の杖」にたとえられ、この世の国々が「焼き物の器」にたとえられていることとは少し違っています。 もちろん、この違いは、これらのたとえによって表されていることが基本的には同じですが、状況が異なっていることによっています。ダニエルはバビロンの王ネブカデネザルが見た夢について語っていますが、詩篇2篇にはそのような特殊な状況がありません。 神さまはネブカデネザルに彼の価値観が反映している夢をとおして啓示しておられます。それで、彼の国は金にたとえられます。そして、その後に起こる国々は同じ価値の系列にたとえられます。しかし、メシアの国は、ネブカデネザルにとっては、まさに、「石」によって表されるような国でしかありません。 このこととの関連で思い出されるコリント人への手紙第一・1章22節ー25節には、 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 と記されています。また、2章7節ー8節には、 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 と記されています。 さらに言いますと、この二つのたとえの違いを越えて共通していることがあります。 先ほどお話ししましたように、「人手によらずに切り出され」た「石」は、その成り立ちも、素材によって表されている国としての特性も、この世で興っては滅亡していく国々とはまったく違っていることを示しています。それと同じように、詩篇2篇9節においても、「鉄の杖」にたとえられているメシアの主権と、「焼き物の器」にたとえられているこの世の国々の主権が質的にまったく異なっていることが示されています。 「焼き物の器」を打ち砕いて粉々にする「鉄の杖」にたとえられているメシアの主権の強さは、この世の国々が頼りとしている武力や経済力などの血肉の強さとは質的に違っています。それは「神の力、神の知恵」である「十字架につけられたキリスト」の強さです。「十字架につけられたキリスト」は、いわば「神の愚かさ」であり「神の弱さ」ですが、「人よりも賢く」「人よりも強い」のです。 「焼き物の器」を打ち砕いて粉々にする「鉄の杖」にたとえられているメシアの主権の強さは、新約聖書の光の下で見ると、「十字架につけられたキリスト」の強さであるということについては、改めて説明する必要はないかと思いますが、これまでお話ししてきたことを踏まえつつもう少しお話ししたいと思います。 すでに繰り返しお話してきましたが、武力や経済力などの血肉の力によって支えられているこの世の国々の権力の序列の頂点には、暗闇の主権者であるサタンが君臨しています。ヨハネの手紙第一・5章19節に「世全体は悪い者の支配下にある」と言われているとおりです。 また、ヨハネの福音書12章31節ー32節には、 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここでもサタンは「この世を支配する者」と呼ばれています。 このイエス・キリストの教えにもう少し注目しますと、続く33節では、 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。 と説明されています。ですから、イエス・キリストが、 わたしが地上から上げられるなら と言われたのは、基本的には、イエス・キリストが十字架につけられることを指しています。 それと同時に、「地上から上げられる」ということば自体は、栄光を受けたキリストが高く上げられることを示唆しています。これによって、やはり、ご自身の民の罪を贖うために十字架におかかりになったイエス・キリストにおいてこそ、メシアとしてのイエス・キリストの栄光が最も豊かに現されていることが示されています。 これは、すでにお話ししましたので説明は省きますが、黙示録5章6節に、 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。 と記されている、天上において「御座」についておられる方の御前に立っている栄光のキリストが「ほふられたと見える小羊」として表されていることにつながっています。 イエス・キリストが、 わたしが地上から上げられるなら と言われたのは、基本的には、イエス・キリストが十字架につけられることを指しているということから、 今がこの世のさばきです。 と言われているときの「今」は、イエス・キリストが十字架につけられることにかかわる「今」であることが分かります。 神さまがお遣わしになった「栄光の主を十字架につけ」たことにおいて、この世の罪は最もはっきりと現れてきました。 微妙なことですが、この、神さまがお遣わしになった「栄光の主を十字架につけ」たことにおいて、この世の罪は最もはっきりと現れてきたということは、イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架におかかりになったことにおいて、メシアとしてのイエス・キリストの栄光とイエス・キリストをお遣わしになった父なる神さまの栄光が最も豊かに現されていることと対比されます。 ご自身の民の罪を贖うために十字架におかかりになったイエス・キリストによらなければ、救いはありません。そのイエス・キリストを退けてしまえば、自らの罪へのさばきを受けて滅びる他はありません。同じヨハネの福音書3章17節ー18節に、 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 と記されているとおりです。 先ほど触れましたように、12章31節で、 今、この世を支配する者は追い出されるのです。 と言われているときの「この世を支配する者」とは、この世の国々の権力の序列の頂点に君臨しているサタンのことです。 また、 今、この世を支配する者は追い出されるのです。 と言われているときの「今」も、イエス・キリストが十字架につけられることにかかわる「今」です。 イエス・キリストが十字架につけられたとき、イスカリオテ・ユダをとおして(ヨハネの福音書13章2節、27節)、また、ユダヤ人たちをとおして(ヨハネの福音書8章40節、44節)、イエス・キリストを亡き者にしようとして働いていたサタンの思惑が実現しました。それによってサタンが勝利したように思われました。サタンもそう確信したはずです。 しかし、その勝利は、血肉の力による戦いの勝利でしかありません。霊的な戦いにおいては、まったく別の様相が展開しています。イエス・キリストが十字架におかかりになって、ご自身の民の罪の贖いのためにいのちをお捨てになったことによって、霊的な戦いにおけるサタンの敗北とサタンへのさばきは決定的なものとなりました。それで、イエス・キリストは、 今、この世を支配する者は追い出されるのです。 と言われました。また、ヘブル人への手紙2章14節ー15節にも、 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 と記されています。 それとともに、イエス・キリストが、 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 と言われたように、イエス・キリストが十字架におかかりになって、ご自身の民の罪の贖いのためにいのちをお捨てになったことによって、ご自身の民が「この世を支配する者」であるサタンの主権の下からメシアであられるイエス・キリストの御許に引き寄せられ、メシアの国の民とされるのです。コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と記されているとおりです。 このように、イエス・キリストが十字架につけられたときサタンが勝利したかのように思われるのですが、それは血肉の力における勝利でしかなく、霊的な戦いにおいては、イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架におかかりになったことによって、サタンの敗北は決定的なものとなっています。このことは、神である「主」の贖いの御業の歴史をさかのぼっていきますと、創世記3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されている、「蛇」の背後にあって働いて、最初の「女」エバを誘惑して罪を犯させたサタンへのさばきの宣告において示されていたことに行き着きます。 このサタンへのさばきの宣告においては、まず、「主」が、罪においてサタンと一つになってしまい、夫アダムに罪を犯させた「女」(エバ)と「おまえ」と呼ばれているサタンとの間に「敵意」を置かれて、そのつながりを断ち切ってしまわれることが示されています。そして、その「敵意」は一代で消えてしまうのではなく「おまえの子孫と女の子孫」と間に受け継がれていくと言われています。 この場合の「おまえの子孫」と「女の子孫」は単数形ですが、集合名詞として、「おまえの子孫」と「女の子孫」それぞれの共同体を表しています。ですから、ここには「女」と「女の子孫」の共同体と、「おまえ」すなわちサタンと「おまえの子孫」の共同体があって、歴史をとおして霊的な戦いを展開していくことが示されています。 また、それぞれの共同体には「かしら」がいます。少なくとも、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体には「かしら」がいて、それは「おまえ」すなわちサタンであることははっきりしています。そうであれば、「女」と「女の子孫」の共同体にも「かしら」がいるはずですが、それは「女」ではなく、「女の子孫」の中にいます。その「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」は、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われているときの「彼」、最終的にサタンへのさばきを執行される方です。 大切なことは、これがサタンへの「さばきの宣告」であるということです。そして、ここで「主」がこの時に、ご自身が直接的にさばきを執行されるなら、罪によってサタンと一つになってしまっている人とその妻もさばきを受けて滅ぼされてしまいます。そうなると、それで人類の歴史は終っていまいます。それによって、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことに示されたみこころは実現しなくなり、霊的な戦いにおいてサタンが勝利することになってしまいます。 もちろん、サタンはその罪によってさばかれ滅ぼされることになります。けれども、サタンはそれも覚悟の上で、創造の御業において示された神さまのみこころの実現を阻止しようとして働いています。 しかし「主」は、ご自身が直接的にさばきを執行されないで、「女」と「女の子孫」がサタンとその霊的な子孫との霊的な戦いを展開することをとおして、サタンとその霊的な子孫へのさばきを執行されることをお示しになりました。これによって、「女」と「女の子孫」は霊的な戦いにおいて「主」の側に立つようにされています。これが「女」と「女の子孫」の救いを意味しています。それで、このサタンへのさばきの宣言は「最初の福音」と呼ばれます。 イエス・キリストの十字架の死は、まさに、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われている「主」のサタンへのさばきの宣告が成就した時でした。 イエス・キリストが、 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。 と言われたことには、このような歴史的な背景があります。 そして、「主」の民が「諸国の民を支配する権威」を与えられることは、「女」と「女の子孫」の共同体として霊的な戦いを戦うことにかかわっています。 |
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