黙示録講解

(第318回)


説教日:2018年1月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(71)


 本主日も、黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、26節ー27節に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

という約束のことばについてです。
 これまで2回にわたって、私たちがこのイエス・キリストのみことばから、やがて、私たち「」の民が、敵対する「諸国の民を」徹底的に打ち砕いて、支配するようになることが約束されていると考えやすいことについてお話ししました。
 それには二つのことによっていますが、その結論的なことをまとめておきましょう。
 一つは、私たち自身の問題です。私たちは権威や権力とその栄光というと、自分がなじんでいる、この世の国々の権威や権力とその栄光を考えてしまい、それをメシアの国の権威や権力とその栄光に当てはめてしまいます。この世の国々の権威、権力は武力や経済力などの血肉の力を背景として成り立っていて、権威、権力をもっている人々が、その権威、権力の下にある人々の上に立って支配するもので、その人々が偉大であり、栄光ある人々であるとされます。
 しかし、そのような、この世の国々の権威、権力は、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人の罪によって腐敗してしまっている権威であり権力です。それは罪の自己中心性によって本質的に歪められてしまっています。そして、そのようなこの世の国々の間にある権威、権力の序列の頂点にいるのは、暗闇の主権者であるサタンです。
 みことばがあかししているメシアの国は、そのようなこの世の国々の一つに数えられるものではありません。それで、メシアの国の権威、権力は武力や経済力などの血肉の力を背景として成り立ってはいません。その意味で、この世の国々の権威、権力とは質的に異なっています。
 メシアの国の権威、権力は、その主であり王であるイエス・キリストがご自身の民でありしもべである私たちの罪を贖うために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったこと、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて受けてくださったことに最も豊かに、また鮮明に現されています。また、このような意味をもっている御子イエス・キリストの十字架の死においてこそ、父なる神さまの栄光は最も豊かに、また鮮明に現されています。
 これらのことを離れて、ここに記されている、イエス・キリストの約束のみことばを理解すると、根本的なことを誤解することになってしまいます。
 もう一つのことは、そうは言っても、ここに記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という約束のことばは、武力を用いてメシアに敵対する「諸国の民を」「鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして」支配し、治めることが約束されているとしか思えないと反論されるであろうということです。
 しかし、そのように思えてしまうことにも理由があります。
 この約束のことばは、いくつかことばを変えていますが、旧約聖書の詩篇2篇8節ー9節に記されている、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばを引用したものです。
 そして、この詩篇のみことばは、契約の神である「」がダビデに契約を与えてくださったことを記しているサムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という約束のみことばを背景として記されています。
 「」がダビデに与えてくださった契約の約束は、単なることばの上における約束ではありません。ここに約束されていることは、古い契約の枠の中で、現実の歴史の事実として成就しています。ダビデの「世継ぎの子」はソロモンで、イスラエル王国はソロモンの時代に最も栄えました。そして、そのソロモンが地上の建物としてのエルサレム神殿を建設しました。また、地上の国家の歴史としては、ダビデ王朝はダビデから数えて22代、425年ほど続きました。これは古代オリエントにおいては稀なことでした。
 けれども、これらのことは、また、古い契約の下にある「地上的なひな型」としての限界をもっています。実際、ソロモンはまことのダビデの子ではありませんでした。ソロモンは晩年に背教してしまい、その結果、「」のさばきによって王国が分裂するようになりました。ダビデ王朝の王位継承も永遠には続きませんでした。また、ソロモンが建てた神殿も南王国ユダの王たちの背教の罪のために「」のさばきを受けて、王国の滅亡とともに破壊されてしまいました。その神殿でささげられていた動物のいけにえも「地上的なひな型」としての意味をもっていて、真に「」の民の罪を贖って、民を実質的にきよめるものではありませんでした。
 このような限界があっても、これらの「地上的なひな型」には意味があります。一つには、これによって、「」がダビデに与えてくださった契約の約束は、単なることばの上における約束ではなく、その約束のことばは歴史の事実として成就するものであることが示されています。もう一つは、「」の契約においては、約束のみことばと、その「地上的なひな型」としての成就である歴史的な事実が相まって、「」の契約において約束されていることが必ず実現することがあかしされているのです。
 これらのことは、「」がダビデに与えてくださった契約だけではなく、「」がアブラハムに与えてくださった契約や、モーセを仲保者(仲介者)として与えられたシナイ契約にも当てはまります。
 このようなことがかかわっている「」がダビデに与えてくださった契約の約束を古い契約の下にある人々が読むと、「地上的なひな型」としての意味をもっている地上の国家としてのダビデ王朝にかかわる約束として読めてしまいます。それは、メシア詩篇として知られている詩篇2篇に記されているみことばや、110篇1節ー2節に記されている、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」
 は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。
 「あなたの敵の真ん中で治めよ。」

というみことばにも当てはまります。


 とはいえ、古い契約の下にあった人々のすべてが、「地上的なひな型」としての意味をもっているものをわきまえられないで、それらが「本体」であると理解していたというわけではありません。もちろん、その当時の人々が「地上的なひな型」とその「本体」という用語を用いて理解していたわけではありません。それに相当する区別をわきまえていたかどうかということです。
 たとえば、ヘブル人への手紙11章8節ー10節には、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と記されています。
 先主日は、「」がアブラハムとその子孫に関する契約を結んでくださったことを記している創世記15章の13節ー16節のみことばを引用してお話ししました。それに先立つ7節には、

また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出したである。」

と記されています。「この地」とは、この時アブラハムが滞在していたカナンの地です。また、先主日に引用した13節ー16節に記されていることも、アブラハムから4百年後に、4代目の者たち、すなわち、エジプトの奴隷となるイスラエルの民が、エジプトを出て、カナンの地に侵入するようになることを示していました。さらに、アブラハム契約の約束を記している創世記17章7節ー8節には、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

と記されています。
 しかし、実際には、アブラハムはヘブル人への手紙11章9節に、

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

と記されているとおり、カナンの地において「他国人のようにして住み」「天幕生活をしました」。アブラハムはカナンの地を「」から賜った自分の所有地とし、それを守るために自分の国を建てることはしませんでした。
 普通ですと、アブラハムには自分の国を建設するほどの力がなかったからだと考えたくなります。しかし、創世記に記されていることから、アブラハムには自分の国を建設するだけの力があったと考えられます。
 創世記14章1節ー10節には、バビロニアの東にあった国であるエラムの王ケドルラオメルとその連合軍が、途上の民を打ち破りながら、カナンの地にまで遠征してきて、今は死海に沈んでしまっていると考えられている、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ツォアル(ベラ)の王たちと戦ったことが記されています。ケドルラオメルとその連合軍は、これら5人の王たちを打ち破りましたが、ソドムとゴモラの王たちはシディムの谷に散在していた「瀝青の穴」に落ちてしまいました。その結果、少なくとも、ソドムの王は助かりました。後に、戦いから帰って来たアブラハムに会いに出てきます。
 そして、11節ー12節には、ケドルラオメルとその連合軍のことが、

そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。

と記されています。
 この知らせを聞いたアブラハムは、盟約を結んでいたマムレとエシュコルとアネルとともに、ケドルラオメルとその連合軍を追撃しました。14節ー16節には、

アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

と記されています。
 この後、18節ー20節には、「いと高き神の祭司であった」「シャレムの王メルキゼデク」が戦いから帰って来たアブラハムをに出迎えたことが記されています。メルキゼデクは、

 祝福を受けよ。アブラム。
 天と地を造られた方、いと高き神より。
 あなたの手に、あなたの敵を渡された
 いと高き神に、誉れあれ。

と言ってアブラハムを祝福しました。これを受けて、アブラハムは取り戻した「すべての物の十分の一」をささげることによって、神さまが敵をアブラハムの手に渡されたことを(ことばによってではなく、ささげることによって)告白しました。
 これらのことは、アブラハムには自分の国を建設するだけの能力と才覚があったことを示しています。けれどもアブラハムは自分の国を建設しませんでした。そのことについてヘブル人への手紙の著者は、アブラハムは「信仰によって」そうしたとあかししています。さらに、具体的な理由として、

彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

ともあかししています。
 この「堅い基礎の上に建てられた都」がどのようなものか、これだけでは分りにくい気がしますが、16節において、これ以前に取り上げられているアベル、エノク、ノア、そしてこの後に出てくるサラも含めた人々について、

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

と記されています。このことから、「堅い基礎の上に建てられた都」とは「天の故郷」において神さまが用意しておられた「」であることが分かります。
 そうであっても、このアブラハムに語られた約束のことばを普通に読むと、地上のカナンの地が相続財産であるように読めるのです。それは、実際に、カナンの地が「地上的なひな型」として用いられていることによっています。
 しかし、アブラハムを初め、古い契約の下にあってさえ、「信仰によって」「地上的なひな型」として用いられたものの限界を認め、本体としての「さらにすぐれた故郷」としての「天の故郷」にあこがれるようになった人々がいました[注]。まして、新しい契約の祝福にあずかって、「地上的なひな型」の本体が何であるかを知っている私たちは「地上的なひな型」として用いられたものに当てはまることばで語られていることを、そのまま「本体」について語られているかのように理解してはならないのです。

[注]アブラハムがどのようにして「地上的なひな型」として用いられているものの限界を認めるようになったことについては、ある程度、想像できます。アブラハムは「」を神として礼拝することを求めていました。アブラハムにとって約束の地は、そのことが実現する地でした。ところがカナンの地にはカナン人が住んでいて偶像が祀られ、礼拝されていました。また、侵略者が侵略してその地は戦場となったり、飢饉などが襲ってきて、その地に安住することができなくなることもありました。その地は「」の栄光のご臨在に満ちた地ではなかったのです。

 黙示録4章ー5章には、天において起こったことが記されています。そこでは、「御座に着いている方」すなわち父なる神さまへの礼拝が中心となっています。4章では、もっぱら礼拝のことが記されています。そして、5章では、「御座にすわっておられる方の右の手に」ある「七つの封印で封じられてい」る「巻き物」を開くことができる方が「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」として紹介されているイエス・キリストであることが記されています。
 そして、昨年の降誕節の主日の説教において取り上げましたが、5章6節には、そのイエス・キリストのことが、

さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

と記されています。
 まず、降誕節の主日の説教において取り上げたことをまとめておきます。
 ここでは、栄光を受けてよみがえり、天に上られたイエス・キリストのことが「ほふられたと見える小羊」と言われています。
 それで、8節ー10節では、御座の前で仕えている「四つの生き物と二十四人の長老」は「小羊の前にひれ伏し」「新しい歌を歌って」、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

と、小羊を讃えたことが記されています。
 そして、11節ー12節には、

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。

 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
と記されています。ここでも栄光のキリストは「ほふられた小羊」として讃えられています。しかも、「ほふられた小羊」を讃えるのに「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美」というように、讃美のことばが七つ重ねられて強調されています。この「七」は完全数です。
 さらに、13節には、

また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。
 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

と記されていて「御座にすわる方と、小羊」がまったく同じことばで讃えられています。これによって、「小羊」すなわち、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださったことによって現された栄光こそが父なる神さまの栄光であることが示されています。
 これらのことを踏まえて、改めて、6節に、

さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

と記されていることに注目してみましょう。
 この「ほふられたと見える小羊」ということばは、直訳調に訳すと「ほふられたような小羊」となります。けれども、これは、この「小羊」がほふられたかどうかはっきりしないということを意味してはいません。というのは、12節ではこの方のことが「ほふられた小羊」と呼ばれて、讚えられているからです。
 ここでヨハネが「ほふられたような小羊」というような言い方をしているのは、一般には、「ほふられた小羊」と言ってしまうと、死んでしまっている「小羊」ということを伝えてしまうけれども、実際には「小羊」は生きているからであると考えられています。
 ここでは、ヨハネが最初に、この方を見たときの意外さあるいは驚きに基づく印象が表されていると思われます。というのは、この6節の前の5節においては、「二十四人の長老」の一人がヨハネにイエス・キリストのことを「勝利を得た」「ユダ族から出た獅子」として紹介されているからです。そのことばを聞いたヨハネは、この方を「獅子」(ホ・レオーン、ライオン)の表象で考えたことでしょう。ところが、実際に見たのは、なんと、「ほふられた小羊」だったのです。
 「ユダ族から出た獅子」ということばは、創世記49章9節ー10節に記されている、

 ユダは獅子の子。
 わが子よ。あなたは獲物によって成長する。
 雄獅子のように、また雌獅子のように、
 彼はうずくまり、身を伏せる。
 だれがこれを起こすことができようか。
 王権はユダを離れず、
 統治者の杖はその足の間を離れることはない。
 ついにはシロが来て、
 国々の民は彼に従う。

という、イスラエルの父祖であるヤコブの預言的なことばを背景としています。「獅子」(ライオン)は権力と力を象徴的に表す生き物です。それで、ここでは「王権」がユダ族に属し、「国々の民は彼に従う」ようになることが預言的に示されています。
 このように、この時、栄光のキリストのことが、まず、ことばによって「勝利を得た」「ユダ族から出た獅子」として紹介され、実際に、ヨハネに示された姿は「ほふられた小羊」であったということには意味があります。この方は、伝えられたとおり、「勝利を得た」「ユダ族から出た獅子」であるのですが、実際にヨハネに啓示された姿は、「ほふられた小羊」でした。この二つに矛盾があるのではありません。むしろ、これによって、イエス・キリストが「ユダ族から出た獅子」として「勝利を得た」のは、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださったことによっているということが示されているのです。

 ここでは、「ほふられたと見える小羊」に「七つの角と七つの目があった」と言われています。この場合の「七つ」は完全数です。
 聖書の中では「」は権力と力を表しています。この場合には、「七つの角」として、完全にして至高の権力と力を表しています。ですから、「ほふられた小羊」はこのような権力と力をもって、敵である暗闇の主権者、サタンに勝利していることが示されていますし、国々の民を治めておられることが示されています。
 もちろん、その勝利は、この世の国々が拠り所にしている武力や建材力などの血肉の力による戦いにおける勝利ではなく、霊的な戦いにおける勝利です。その勝利は、主であるイエス・キリストがご自身の民でありしもべである私たちの罪を贖うために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったこと、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて受けてくださったことによって決定的なものとなりました。
 第二次大戦のヨーロッパ戦線の戦局を決定的なものとしたのは、連合軍の「ノルマンディー上陸作戦」の成功です。それが成功した日を「Dディ」と呼びます。これ以後も、ナチス軍は戦いますが、それは敗走しながらの戦いです。その戦いは連合軍の勝利をもって終りますが、その最終的な勝利の日を「Vディ」と呼びます。霊的な戦いにおける勝利を決定づけたDディは、イエス・キリストが十字架におかかりになった日です。そして、霊的な戦いにおける「Vディ」は、栄光のキリストが再臨されて、すべてを完成してくださる日です。
 さらに「ほふられたと見える小羊」には「七つの目があった」と言われています。この「七つの目」については、

 その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

と説明されています。これが「神の七つの御霊」と言われていることは、その御霊が「全世界」のどこにでも遣わされていることと、そのお働きの完全さを示しています。大切なことは、この「七つの目」が「ほふられた小羊」において「七つの角」と密接に結びついていることです。この結びつきによって、「七つの角」が表している「ほふられた小羊」の霊的な戦いにおける勝利と国々の民を治める支配は、それが「神の七つの御霊」のお働きによるものであることが示されています。
 黙示録12章9節では、サタンのことが「全世界を惑わす、あの古い蛇」と呼ばれています。サタンは虚偽に満ちた霊です。これに対して、ヨハネの福音書14章17節ではイエス・キリストが御霊のことを「真理の御霊」と呼んでおられます。そして、15章26節では、

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

と教えておられます。「真理の御霊」は、サタンに惑わされてしまっている「全世界」に遣わされて、イエス・キリスト、特に、ご自身の民の罪を贖うために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったイエス・キリストをあかしします。
 その場合に御霊が用いられる恵みの手段が福音のみことばです。御霊は福音のみことばを悟らせてくださり、福音のみことばにあかしされている、十字架につけられたイエス・キリストを信じるように導いてくださいます。イエス・キリストはこの「真理の御霊」のお働きによって、「全世界」のすべての民から、ご自身の民を御許に引き寄せてくださいます。そして、「真理の御霊」によってご自身の民を導いてくださいます。
 このようにメシアの国の権威も支配も、武力や経済力などの血肉の力によるのではなく、御霊のお働きによって現実のものとなります。主の民が諸国の民を支配すると言われていることの中心には、諸国の民に仕えることがあります。具体的には、「全世界」に遣わされている主の民が「全世界に遣わされた神の七つの御霊」のお働きに信頼して、それぞれの置かれた所で、イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって、御霊によって導かれて歩みつつ、キリストのからだである教会を形成しながら、福音のみことばにあかしされている十字架につけられたイエス・キリストをあかしすることです。


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