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説教日:2017年12月31日 |
前回は、私たちがそのようなイメージをもちやすいことの原因が二つあることをお話ししました。 一つは、私たち自身の問題です。 この世にあって生きている私たちは権威というと、自動的に、自分がなじんでいる、この世の国々の権威を規準として考えてしまいます。この世の国々の権威は人々の上に立って支配するものであり、それは軍事力や経済力など血肉の力を背景として成り立っています。それで私たちは、自分がなじんでいる権威のイメージをメシアの国にも当てはめてしまいがちなのです。 今日は、特に、このことに関連したことをお話ししたいと思いますが、その前に、もう一つのことのほうを、少し補足しながら、まとめておきます。 もう一つは、ここに記されている、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 という約束のことばのことです。 この約束のことばは、いくつかことばを変えていますが、旧約聖書の詩篇2篇8節ー9節に記されている、 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。 というみことばを引用したものです。 そして、この詩篇のみことばは、契約の神である「主」がダビデに契約を与えてくださったことを記している、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。 という、約束のみことばを歴史的な背景として記されています。 古い契約の時代においてダビデによって確立された統一王国は、武器を用いての戦いによって敵を征服して建てられたものです。それで、これはカナンの先住民に対する不当な侵略ではないかという疑問が出されることでしょう。 しかし、これには、「主」の贖いの御業の歴史における背景があります。それは「主」がアブラハムとその子孫に関する契約を結んでくださったことを記している、創世記15章13節ー16節に、 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」 と記されていることです。 ここでは、まず、アブラハムの子孫、すなわち、イスラエルの民がエジプトの奴隷として「四百年の間」苦しめられることになるということと、「主」がエジプトをおさばきになり、イスラエルの民はエジプトを出てくるようになることが示されています。そして、「四代目の者たち」が、先ほどの「四百年」の後に、この時、アブラハムが住んでいたカナンの地に戻ってくるようになることが示されています。ここでは、「四百年」が「四代」となっていて、一世代が百年とされています。サラとアブラハムの生涯は、それぞれ、127年と175年でした(創世記23章1節、25章7節)。 イスラエルの民がカナンの地に戻ってくる理由として、 それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。 と言われています。この場合の「エモリ人」は、カナンの住民全体を代表的に表しています。 この時、アブラハムに与えられた契約に示されていたことが、イスラエルの12部族が飢饉の中でエジプトに下ったこと、そこで王朝が代わって、イスラエルの民が奴隷として苦しめられたこと、出エジプトの贖いの御業が遂行されて、イスラエルの民がエジプトを出てきたこと、そして、エジプトを出たイスラエルの民がカナンの地に侵入したことにおいて実現しています。 そして、「主」がアブラハムに語られたみことばにおいては、イスラエルの民がカナンの地の住民たちと戦って、彼らをその地から追い出したことは、カナンの地の住民たちの罪の咎がが満ちたことに対する「主」のさばきとしての意味をもっていたことが示されています。 ダビデによる統一王国が建設されたのは、そのことが、一応の終結を迎えたことを意味しています。「主」がダビデに契約を与えてくださった時の状況について記しているサムエル記第二・7章の1節に、 王が自分の家に住み、主が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、 と記されているとおりです。この時、ダビデは「主」のお住まいとしての神殿の建設を志しました。そして、「主」はそれに答える形で、先ほど引用しました契約を与えてくださったのです。 これらのことを考え合わせると分かりますが、「主」がダビデに与えてくださった契約においては、このような古い契約の下における地上の王国として、剣や槍や弓矢などの武器を用いた、さまざまな戦いをとおして確立された国に当てはまることばが使われています。それは、詩篇2篇8節ー9節に記されている「主」のみことばにも当てはまります。 しかし、ダビデによって確立された地上の王国も、その王座も、さらには、その子ソロモンによって建てられた地上の建物としての神殿も、古い契約の下における「地上的なひな型」としての意味をもっています。それらは「地上的なひな型」であって本体ではありません。その本体は、すでにお話ししましたように、イエス・キリストにおいて成就し、現実になっています。 そして、イエス・キリストは、テアテラにある教会への語りかけの中で、そのようなみことばを引用して、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 という約束のことばを語っておられるのです。 このような二つのことが原因となって、私たちが普通にこの約束のことばを読むと、やがて、私たち「主」の民が、敵対する「諸国の民を」徹底的に打ち砕いて、支配するようになることが約束されていると考えてしまいがちなのです。 今日は、これら二つの原因のうち、最初に触れました、この世にあって生きている私たちは権威、権力というと、自動的に、自分たちが慣れ親しんでいるこの世の国々の権威、権力を規準として考えてしまうということに関連するお話をしたいと思います。 先ほど触れましたように、この世の国々の権威、権力は人々の上に立って支配するものであり、それは軍事力や経済力など血肉の力を背景として成り立っています。 しかし、前回引用しましたが、ヨハネの福音書18章36節には、イエス・キリストが、その当時、地中海世界を支配していたローマ帝国の権威を代表していた、ローマの総督ピラトに対して、 わたしの国はこの世のものではありません。 とあかししておられます。ですから、メシアの国はこの世の国々の一つに数えられるものではありません。メシアの国も、他の国々のように、軍事力や経済力などの血肉の力によって支えられているけれども、メシアの特別な力によって、この世の最も強大な国になって、すべての国々を従わせ、支配するということではありません。メシアの国は、この世の国々の権力の序列の最高位にあるのではないのです。 前回取り上げましたので引用しませんが、マルコの福音書10章35節ー45節に記されている出来事において、イエス・キリストが弟子たちに教えられた教えに示されているように、メシアの国の権威、権力とこの世の国々の権威、権力は、その強大さや規模の程度の違いというように量的に違うのではなく、質的に違います。 その時、その違いを質的にではなく、量的に理解していたヤコブとヨハネがイエス・キリストに、 あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。 と願い出たとき、そして、他の弟子たちも同じ思いをもっていたために腹を立てたとき、イエス・キリストは、この世の権力者について、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 と教えられました。そして、メシアの国における権威、権力はこれとはまったく異なっていることをお示しになりました。イエス・キリストは、 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 と教えておられます。 メシアの国における権威と偉大さ、栄光は、愛によって皆に仕えることに現れてきます。それは、メシアの国の支配者であるイエス・キリストご自身が、私たちご自身の民のために「贖いの代価として、自分のいのちを」お与えになったことに最も豊かに、また、鮮明に現されています。 また、ヨハネの福音書10章18節に、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 イエス・キリストが、 わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 と言われるときの、父なる神さまから委ねられたメシアの権威は、ご自身の民のためにいのちをお捨てになることに最も豊かに、また鮮明に現される権威です。 このように、メシアの国の権威、権力とこの世の国々の権威、権力の違いは、その強大さや規模の程度の違いという量的な違いではなく、質的な違いです。 メシアの国の権威、権力とこの世の国々の権威、権力の違いの根底にあるのは、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているという現実です。このため、この世の国々の権威、権力は、罪がもたらす自己中心性によって腐敗してしまっています。ですから、この世の国々の権力の序列の頂点にあるのは、メシアではなく、暗闇の主権者であるサタンです。 このように言われると、この世の国々の現実と違っているように思われるかも知れません。この世の国々にもよいとことがあり、そんなにひどく悪いものではないのではないかということです。確かに、そう思われるだけでなく、実際に、そうなのです。 しかし、それには理由があります。この世の国々が罪による腐敗をむき出しにしていないのは、神さまの一般恩恵に基づく御霊の抑止的なお働きによって、支配者を含むすべての人々が腐敗しきっていまわないように守られていると同時に、啓発的なお働きによって、いわゆる「市民的な善」を求め、実現するように啓発されているからです。神さまはこのような御霊の一般恩恵に基づくお働きによって、人が罪によって腐敗しきってしまわないようにしてくださっているのです。 人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人のあらゆる面、肉体も霊魂のすべてが腐敗してしまっています。これは神学的には「全的堕落」と言います。しかし、罪がもたらした腐敗は人のあらゆる面に及んでいますが、人は腐敗しきってしまっているわけではありません。 これに対して、悪魔や悪霊たちにおいては、その腐敗があらゆる面に及んでいるだけでなく、腐敗の程度においても、腐敗しきっています。これを神学的には「絶対的堕落」と言います。これは、悪魔や悪霊たちには一般恩恵が施されていないために、罪がむき出しになって現れてくることによっています。 堕落後の人に見られる「市民的な善」とは、罪のために造り主である神さまを神と認めないという根本的な欠けがあって、そのまま神さまの御前に受け入れられることはないのですが、堕落後の人にとっての一般的な意味での真理を追い求め、正義や公平さや真実さなどを求める思いや、それらを実現するための法による支配を初めとして、美しいものをめでたり、成長を喜びとしたりすることです。これは神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人に造り主である神さまが初めから与えてくださっている、その使命を果たすために必要なさまざまな能力が、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって啓発されることによっています。 しかし、これは一般恩恵に基づく御霊のお働きによるものであって、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人の中から自然と生まれてくるものではありませんし、人が当然もっているものではありません。一般恩恵に基づく御霊のお働きがなかったとしたら、人は悪魔と悪霊たちと同じ状態になっていたことでしょう。 神さまは人類の歴史の中でただ一度だけ、罪による人の腐敗がそのまま現れてくることをお許しになりました。それによって、罪によって腐敗してしまった人の中から自然と生まれてくるものがどのようなものであり、人はどのような状態になってしまうかということを、人類の歴史の現実においてお示しになったのです。 それが、創世記6章に記されている、ノアの時代の大洪水によるさばきをが執行される前の人類の状態です。創世記6章5節ー6節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 と記されています。詳しい説明は省きますが、ここでは人の「心に計ること」が範囲においては「みな」、時間的には「いつも」、内容的には「悪いことだけ」に傾くと言われていて、人の心が徹底的に腐敗してしまっている状態になってしまったことが示されています。これは、その当時の人の内面の状態です。そのことの現れとして、11節ー12節に、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。 ここに出てくる「暴虐」ということば(ハーマース)は、聖書の中では人にのみ用いられています。これは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、自分に委ねられている、愛によって仕えることを本質とする本来の権威を罪によって腐敗させてしまったことによって、「暴虐」を特質とする権威、権力となってしまっていることを示しています。 これが、罪によって堕落してしまった人が行き着く先の状態です。今お話しした、一般恩恵に基づく御霊の抑止的なお働きと啓発的なお働きがなければ、罪によって堕落してしまった人はどのような状態になってしまうかということを示しています。 それで、5節ー6節に続く7節には、 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 と記されており、11節ー12節に続く13節には、 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。 と記されています。 神さまは、ただ、その時代の人々をおさばきになっただけではありません。その時代に至るまでに人類が築いてきた歴史と文化をおさばきになり、清算してしまわれたのです。ノアの時代の大洪水によるさばきは、それまでの人類の歴史を清算してしまうという意味で終末的なさばきです。けれども、それは世の終わりになされるさばき、いわゆる「最後の審判」を指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっています。 この「地上的なひな型」としての大洪水によるさばきの執行によって神さまは、少なくとも、三つほどのことを示しておられます。 第一に、神さまは、世の終わりには最終的なさばきを執行されることを示しておられます。ペテロの手紙第二・3章3節ー7節に、 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。 と記されているとおりです。 第二に、神さまは、終わりの日に執行される最終的なさばきは、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命をめぐるさばきであることを示しておられます。 このさばきにおいて、罪によって本性を極みまで腐敗させてしまった人ばかりでなく、生き物たちも「地とともに」滅ぼされてしまったのは、神さまが創造の御業において与えて、神のかたちとして造られている人に与えてくださった歴史と文化を造る使命が、創世記1章28節に記されている、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命で、「地」とすべての「生き物」たちが、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人との一体にあるものとされているからです。「地」とすべての「生き物」たちは、罪を犯した人との一体にあって、さばきを受けて滅ぼされたのです。 第三に、神さまはまったくの恵みによって、「残りの者」(ここでこのことばが使われているわけではありませんが)、この場合は、神さまが備えてくださった救いの手段である箱舟に入って救われたノアとその家族たちを残してくださり、その「残りの者」が洪水後の新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすようにしてくださいました。これによって、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすのは、終わりの日のさばきを通るけれども、神さまの一方的な恵みによって救われる人々であることが示されています。イエスの十字架の死にあずかっている私たちにとっては、すでに、終わりの日に執行されるさばきはイエス・キリストにおいて執行されています。私たちは、終わりの日のさばきを通って救われています。 また、生き物たちがノアとともに箱舟に入って救われ、洪水後の時代を生きるようになったのも、「地」とすべての「生き物」たちが、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人との一体にあるものとされているからです。 この第二と第三のこととの関連で、直ちに、思い出されるのは、ローマ人への手紙8章18節ー23節に記されている教えです。 そこには、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されています。 特に注目したいのは、19節ー21節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されている教えです。 ここで「被造物」と言われていることばが示しているのは、人や御使いたち(悪霊たちも含む)以外の被造物、物質的な被造物のことです。御使いたちは罪を犯していないので虚無に服してはいませんし、悪霊たちは「神の子どもたちの現れを」待ち望むどころか、それを阻止しようとして働いています。また、「主」を信じていない人々は、ここに記されている教えをあざ笑います。「主」を信じている私たちは「神の子どもたち」として被造物と区別されていますし、23節で「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も」と言われていていて、そのまえの「被造物全体」と区別されています。 ここでは、「被造物が虚無に服した」のは、先ほどお話ししました、神さまがその被造物を神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人と一体にあるものとされたことによっていることが踏まえられています。人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、被造物も人との一体において「虚無に服した」ということです。それで、人が神である「主」との本来の関係に回復されることがあるなら、その人との一体において被造物も本来の状態に回復されるのです。 ここで大切なことは、被造物が人との一体において本来の状態に回復されるというとき、そのように回復された被造物は、やはり、人との一体にあることになるということです。もちろん、その一体性は、本来のあり方に回復される一体性です。 ローマ人への手紙の流れでは、私たち「主」の民は、ただ、最初に造られたときの人の状態に回復されるのではなく、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストの復活の栄光にあずかって「神の子ども」とされることが示されています。それで、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と言われています。また、それで、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 とも言われています。 同心円的な広がりを考えていただきたいのですが、ここには、メシアの国の王であられるイエス・キリストが十字架においていのちをお捨てになったことと、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことが同心円的な広がりの中心、すべてのこととの核心にあります。また、このことにメシアであられるイエス・キリストの権威と栄光が現されています。そして、このイエス・キリストの栄光と、権威に基づく支配が同心円的に広がっていくのです。 その外側に、イエス・キリストと一体に結び合わされている私たち「主」の民が、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの栄光にあずかって、「神の子ども」としての栄光を受けるようになることがあります。 さらに、その外側に、「神の子ども」としての栄光を受ける私たち「主」の民との一体にある被造物が。私たち「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになることがあります。 このように、イエス・キリストが十字架においていのちを捨ててくださったことに現れている栄光が、私たち「神の子どもたち」に及び、さらに、全被造物に及ぶという、広がりがあります。このことの中に位置づけられている、私たち「神の子ども」が受ける栄光と関連している権威は、イエス・キリストが十字架においていのちを捨ててくださったことに最も豊かに、また鮮明に現れている権威と同質の(質的に同じ)権威です。 |
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