黙示録講解

(第316回)


説教日:2017年12月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(69)


 黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、26節ー29節に記されている、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

というみことばについてです。
 先主日は、冒頭の、

 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者

というみことばを取り上げました。今日は、続いて記されている「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者」への約束のことばについてお話しします。この約束のことばにおいては、二つのことが約束されていますが、今日は、26節後半ー28節前半に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

という約束についてお話しします。
 ちなみに、26節は直訳調に訳すと、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者、彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。

となっていて「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者」(主格)が強調されています。


 まず、このみことばを理解するうえで大切なことにかかわる問題があります。それは、この約束のみことばを読んで、どのようなことをイメージするかということです。ここには、「諸国の民を支配する権威」が与えられると記されています。また、それによって、

 鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める

ようになるとも言われています。そして、

 鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める

ということは、注解書のことばを借りますと「徹底的な征服」や「完全な破壊」を表しています。
 このようなことから、ここでは、やがて、私たち「」の民が、敵対する「諸国の民を」徹底的に打ち砕いて、支配するようになることが約束されていると考えるのではないでしょうか。今は、クリスチャンたちは迫害を受け、さまざまに苦しめられているけれども、やがてそれは逆転して、クリスチャンたちが支配する世界がやって来るのだというようなことです。
 けれども、このようなイメージをもつことは、私たちの「」であるイエス・キリストが語ってくださったみことばを根底から歪めることです。
 次の主日には降誕節を迎えますが、イエス・キリストはローマ帝国が圧倒的な権力を振るっている時代と、地域にお生まれになりました。しかも、旧約聖書のみことばを与えられてもっているユダヤ人たちは、そこに約束されているダビデの子として来られるメシアが、ダビデの永遠の王座に着座して諸国の民を支配するようになるということを、信じて待ち望んでいました。イエス・キリストの弟子たちも例外ではありませんでした。
 その当時の人々は、ダビデの子として来られるメシアが、神から与えられた力、権力を働かせて、諸国の民を徹底的に打ち破り、征服して、メシアの国を確立して、モーセ律法によって律せられる平和な世界をもたらすと信じて待ち望んでいました。
 そのように信じていた弟子たちの間には、誰がいちばん偉いかという、自分たちの序列をめぐる論争が生じていました。その論争は何回かなされましたが、その延長線上にある出来事がマルコの福音書10章35節ー45節に記されています。そこには、

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

と記されています。
 このことについては、何度もお話ししてきましたので、今お話ししていることとかかわることを、説明を省いて、結論的なことをお話しします。
 ここで、ヤコブとヨハネは、そして、二人の願いを聞いて腹を立てた他の弟子たちも、イエス・キリストが打ち立てるであろうメシアの国を、この世の支配者たちが実際に築いている国家と同じように武力、経済力などを中心とした物理的な力、血肉の力によって支えられている権力機構をもっていて、最も強大な権力をもつメシアが治める国であるかのように理解しています。そこには、権力の序列があり、メシアの国はこの世の国家の権力の頂点にあることになります。そして、そのメシアの国にも権力の序列があり、メシアが最高位にあり、次いで、そのメシアの右と左に座る者があるということになります。ヤコブとヨハネは、そのメシアに次ぐ権力の座に着かせていただきたいと願い出ました。それに腹を立てた他の弟子たちも、同じ思いをもっていたのです。
 イエス・キリストは彼らが、また、他の弟子たちが思い描いているメシアの国の権威は、この世の支配者たちが民の上に奮っている権威と変わらないということを示しつつ、メシアの国の権威はこの世の支配者たちが振るっている権威と根本的、質的に違うということを教えておられます。何よりも、メシアの国の王であられるイエス・キリストご自身が、ご自身の民の「贖いの代価として、自分のいのちを与える」ことに、メシアの国の権威が発揮されているというのです。ですから、メシアの国における権威は、愛によって仕えることにおいて発揮される権威であるのです。
 ここでは教えられていませんが、この世の支配者たちが民の上に立って権力を振るうことにおいて表されている権威は、罪によって腐敗した権力であって、その腐敗した権力の最高位にあるのは、メシアではなく、メシアに敵対して働いている、暗闇の主権者であるサタンです。
 この世の国々の権力が罪によって腐敗しているのに、腐敗しきってはいません。それは、人があらゆる点において罪によって腐敗している、すなわち、全的に堕落しているのに、腐敗しきっていない、すなわち、絶対的に堕落してはいないことに対応しています。これは、神である「」が人類の歴史を保ってくださるために備えてくださっている一般恩恵に基づく御霊のお働きによっています。
 イエス・キリストはローマ帝国の権威を代表しているローマの総督ピラトに対して、ご自身の御国についてあかししておられます。ヨハネの福音書18章36節には、

わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。

と記されています。イエス・キリストの御国は、この世の国々の一つに数えられるものではありません。軍事力や経済力などを中心とした血肉の力によって支えられている国ではありません。
 でも、黙示録2章26節後半ー27節に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

という約束のことばを普通に読むと、この世の国々を徹底的に打ち破り、征服して、支配することが約束されているように読めてしまうのはどうしてなのでしょうか。

 今日は、このような問題を念頭に置いて、お話を進めていきます。
 黙示録2章26節後半ー27節前半に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という約束のことばは、メシア詩篇の一つである、詩篇2篇8節ー9節に記されている、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばを、いくつかことばを言い換えて引用しています。
 この詩篇のみことばは、契約の神である「」、ヤハウェがダビデに契約を与えてくださったことを記している、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という、約束のみことばを歴史的な背景として記されています。
 この点については、イエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばの初めの部分である黙示録2章18節で、

燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。

と言われている中に出てくる「神の子」とのかかわりでお話ししましたが、ここで、改めて振り返っておきたいと思います。
 その前に、一つのことをお話ししておきます。先ほどお話ししましたように、黙示録2章26節後半ー27節前半に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という、私たち主の民への約束のことばは、メシア詩篇の一つである、詩篇2篇8節ー9節に記されている、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばを引用しています。その意味で、黙示録2章26節後半ー27節前半に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という、私たち主の民への約束のことばは、ダビデ契約において約束されているまことのダビデの子として来てくださったメシアであるイエス・キリストにおいて成就していることです。私たち主の契約の民は、イエス・キリストにおいて成就していることにあずかるという意味で、この約束を与えられています。
 それで、26節後半ー27節前半に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という、私たち主の民への約束のことばに続いて、27節後半で、

 わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

と言われています。
 このこととの関連で言いますと、ここで、イエス・キリストが、神さまのことを「」と呼んでおられることは、先ほど引用しましたダビデ契約の約束の中にある、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という約束と、詩篇2篇では、7節に記されている、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。」

というみことばに基づいています。
 もちろん、このことの究極の根底には、イエス・キリストが永遠に父なる神さまから生まれている御子であるということがあります。けれども、それは新約聖書のより豊かな啓示が与えられてから、分かるようになったことです。
 イエス・キリストが黙示録2章18節ー29節において、テアテラにある教会に語りかけてくださったみことばにおいて啓示してくださっていることは、その語りかけを聞いているテアテラにある教会の信徒たちにも分かることで、ご自身がダビデ契約の約束を成就しておられる方であるということです。そして、その意味において、イエス・キリストはご自身のことを「神の子」と呼ばれ、父なる神さまのことを「」と呼んでおられます。古代オリエントの文化の中では、王のことを「神の子」と呼び、「神の子」となることは、王として即位することを意味していました。

 このことを踏まえて、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という、約束のみことばについてお話しします。
 ここには、契約ということばは出てきませんが、この時に「」がダビデと契約を結んでくださったことは、聖書の他の箇所に記されています。たとえば、詩篇89篇3節ー4節には、

 「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、
 わたしのしもべダビデに誓っている。
 わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、
 おまえの王座を代々限りなく建てる。」

と記されています。その他、歴代誌第二・7章18節、21章7節、エレミヤ書33章21節などを見てください。
 このダビデ契約は「」がイスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れてくださり、ダビデによって統一王国を建ててくださって、平安を与えてくださったことを受けて、ダビデが「」の御名のための家である神殿の建設を志したことを受けて与えられたものです。この契約において「」は、ダビデではなく、ダビデの世継ぎの子が「」の御名のための神殿を建設するようになること、そして、「」がダビデの世継ぎの子の王国の王座をとこしえに堅く立ててくださること、さらに、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

ということを約束してくださったものです。
 ダビデが「」の御名のための神殿を建ててはならないとされた理由は、ダビデが戦士であって、戦いにおいて多くの血を流したからでした(歴代誌第一・22章8節、28章3節)。
 「」はダビデの世継ぎの子であるソロモンの王国を栄えさせてくださり、ソロモンは「」の御名のための神殿を建てました。しかし、ソロモンは晩年に、多くの外国人の妻たち、そばめたちが持ち込んできた神々に従い、その礼拝所である「高き所」を築きました。そのために、王国はソロモンの死後、北の十部族からなる北王国イスラエルと南の2部族(ユダとベニヤミン)からなる南王国ユダに分裂し、北王国イスラエルはソロモンの家来であったヤロブアムに与えられました(列王記第一・11章1節ー13節、26節ー39節)。
 その後、北王国の王たちは偶像の神々に仕え、「」のさばきを招き、謀反によって、王朝は断絶することが繰り返されました。そして、前722年に、アッシリアによって滅ぼされてしまいます。
 南王国ユダにおいても、王たちの背教が続き、「」の聖なる御怒りを引き起こしましたが、「」はダビデ契約の約束を守られて、ダビデ王朝を保持されました(列王記第一・11章34節、15章4節、列王記第二・8章19節)。そのためにも、中には「」に忠実な王たちも起こされました。それでも、ユダ王国の背教の流れは止むことがなく、特に、「」に忠実な王であったヒゼキヤの子マナセの罪において頂点に達します(列王記第二・21章10節ー16節)。その後、マナセの孫、ヨシヤによる改革がなされました(列王記第二・22章1節ー23章28節)が、それも、マナセの罪がもたらした「」の御怒りを静めるものではありませんでした(列王記第二・23章26節)。ヨシヤの子エホアハズ、その子エホヤキム、その子エホヤキン、そして、バビロンによって立てられた、エホヤキンのおじゼデキヤも先祖たちの罪に倣う者であり、ゼデキヤの時代の586年に、南王国ユダは、マナセの罪のゆえに(列王記第二・24章3節ー4節)、バビロンによって滅ぼされ、エルサレム神殿も破壊されてしまいました。
 そうではあっても、ダビデ王朝はダビデが王に即位した前1011/1010年から586年まで425年ほど続いたことになります。その間に、謀反による王朝の転覆はありませんでした。アッシリアによって侵略された時も、ヒゼキヤが「」に信頼し、「」はアッシリア軍をさばかれ、ダビデ王朝のともし火は消されることがありませんでした。これは、古代オリエントの王朝の歴史においては稀なことです(私には、他に同じような事例がないということまで確認できないために「稀なこと」としています)。

 しかし、このようなダビデ王朝の歴史も、また、人の手による「」の神殿、すなわち、ソロモンが建てた、地上の建物としての神殿も、「地上的なひな型」としての限界をもっていました。ダビデの子ソロモンは永遠の王座を確立するどころか、背教してしまって、王国を分裂させる原因を作りました。ソロモン以降のダビデの子たちも、何人かの例外はありますが、「」の御前に罪を犯し続け、ついに、ユダ王国は滅亡してしまいました。また、地上の建物としての「」の神殿も破壊されてしまいました。
 この古代オリエントの王朝の歴史においては稀なことであるダビデ王朝の存続には、意味があります。「」が主権的なみこころにより、また、一方的な恵みによって与えてくださったダビデ契約の約束は、ただ約束のことばによってあかしされているだけでなく、ダビデの血肉の子孫たちによるダビデ王朝の存続という歴史的な事実をとおしてもあかしされているのです。これは、ダビデ契約に限らず、「」のすべての契約の約束において見られることです。
 これによって「」は、基本的には、ご自身の契約の確かさを示しておられます。また、それと関連して、「」はご自身の契約のみことばは、単なることばではなく、歴史の中で成就するみことばであることを示しておられます。
 イザヤ書46章10節には、

 わたしは、終わりの事を初めから告げ、
 まだなされていない事を昔から告げ、
 「わたしのはかりごとは成就し、
 わたしの望む事をすべて成し遂げる」と言う。

という「」のみことばが記されています。また、50章10節ー11節には、

 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、
 必ず地を潤し、
 それに物を生えさせ、芽を出させ、
 種蒔く者には種を与え、
 食べる者にはパンを与える。
 そのように、
 わたしの口から出るわたしのことばも、
 むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
 必ず、わたしの望む事を成し遂げ、
 わたしの言い送った事を成功させる。

と記されています。
 いずれにしましても、ダビデの血肉の子孫たちによるダビデ王朝の存続の歴史は、「」がダビデにお与えになった契約の約束が必ず実現することをあかしするとともに、それ自体は「地上的なひな型」でしかないことを示していました。その意味で、これはやがて来たるべきまことのダビデの子において成就することを指し示していました。
 このことは、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という、ダビデ契約の約束のみことばと関連している詩篇2篇7節ー9節に記されている、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。」

というみことばにも当てはまります。
 それで、最初に、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されているダビデ契約の約束のみことばも、また、それと関連している詩篇2篇7節ー9節に記されているみことばも、それを与えられたダビデを初め、古い契約の下にあった人々に分かることばによって与えられています。それは、「地上的なひな型」としての意味をもっている、ダビデの血肉の子孫である王たちが形成している王国に当てはまることばです。
 黙示録2章26節後半ー27節前半に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という、私たち主の民への約束のことばは、そのような「地上的なひな型」としての意味をもっている、ダビデの血肉の子孫である王たちが形成している王国に当てはまることばで記されているものを、一部のことばを変えて引用しています。それで、これを普通に読みますと、この世の国々を徹底的に打ち破り、征服して、支配することが約束されているように読めてしまうのです。
 このことを踏まえると、イエス・キリストの約束のことばをどのように理解したらよいのか分かってきます。

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という、私たち主の民への約束のことばは、これに続いて、イエス・キリストが、

 わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

とあかししておられることからも分かりますが、まことのダビデの子として来てくださった、イエス・キリストがそのメシアとしてのお働きにおいて発揮された権威がどのような権威であるかを理解することによって初めて、語ってくださったイエス・キリストの意図に沿って理解することができるようになります。


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