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説教日:2017年12月10日 |
以上、イエス・キリストが「わたしのわざ」と言われるときの「わざ」ということば(タ・エルガ)が、その他のイエス・キリストのみことばの中でどのように用いられているかを見てみました。このことから、二つのことをお話ししたいと思います。 第一に、19節において、イエス・キリストがテアテラにある教会において見られる賞賛されるべきこととして、テアテラにある教会の信徒たちの「あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐」を挙げておられることは注目に値します。先ほどお話ししましたように、これは「あなたの行い」という一般的なことを、具体的に、「あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐」として説明しています。逆に言いますと、これは「あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐」を「あなたの行い」としてまとめているということでもあります。これによって、テアテラにある教会の信徒たちの「愛と信仰と奉仕と忍耐」(それぞれが単数形)が、実際に、さまざまな「行い」(タ・エルガ・複数形)において現されていたということが示されています。 これらの「行い」はテアテラにある教会の信徒たちの「愛と信仰と奉仕と忍耐」の現れですが、すべて、彼らがイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪と死の力から贖い出され、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことにあずかって新しく生まれたことによって、生み出されたものです。また、「愛と信仰と奉仕と忍耐」の現れであるこれらの「行い」は、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に、 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。 と記されている、主の教えと戒めに沿ったものです。ここに出てくる「愛をもって互いに仕える」ことは、「愛と信仰と奉仕と忍耐」にほぼ対応しています。ことばとしては、「愛」は同じことば(アガペー)ですが、「愛をもって互いに仕える」の「仕える」(ドゥーレウオー)は「しもべとして仕える」という意味合いがあり、「愛と信仰と奉仕と忍耐」の「奉仕」(ディアコニア)は「給仕として仕える」という意味合いがありますが、類義語です。 このようなことから、イエス・キリストがテアテラにある教会において見られる賞賛されるべきこととして挙げておられる、テアテラにある教会の信徒たちの「愛と信仰と奉仕と忍耐」の現れとしての「行い」(タ・エルガ)は、イエス・キリストが言われる「わたしのわざ」(タ・エルガ)に相当すると考えられます。 19節でイエス・キリストは、さらに、 あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっている とも言われて、テアテラにある教会の信徒たちの「愛と信仰と奉仕と忍耐」の現れとしての「行い」が深く豊かに育っていることも認めておられます。 このこととを念頭に置いて、26節でイエス・キリストが「勝利を得る者」のことを「最後までわたしのわざを守る者」と説明しておられることを見ますと、一つのことが見えてきます。イエス・キリストは、テアテラにある教会の信徒たちの間で「愛と信仰と奉仕と忍耐」の現れとしての「行い」が深く豊かに育っていることを踏まえて、それが「最後まで」続けられていくことを求めておられると考えられます。 このように、「最後まで」イエス・キリストが言われる「わたしのわざ」を守ることには、イエス・キリストご自身が賞賛すべきこととして挙げておられる「行い」において「愛と信仰と奉仕と忍耐」を現し続け、その点において深く豊かになっていくことが積極的なこととして考えられます。 第二に、この積極的な面がイエス・キリストが言われる「わたしのわざ」を守ることの中心にあるのですが、それは、平穏のうちになされることではなく、いわば、嵐の吹きすさぶ中でなされることです。つまり、イエス・キリストが20節で指摘しておられるテアテラにある教会の「非難すべきこと」が引き起こしている問題の深刻さの中にあってなされることです。 テアテラにある教会においては、「イゼベルという女」が、イエス・キリストが「わたしのしもべたち」と呼ばれる信徒たちを「教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている」という深刻な問題がありました。イエス・キリストが、 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。 と言われるとおり、この問題をそのままにして、イエス・キリストが言われる「わたしのわざ」を守っていることにはなりません。 22節でイエス・キリストが、 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。 と警告しておられるときの「この女の行い」(タ・エルガ)と、26節でイエス・キリストが「最後までわたしのわざを守る者」と言われるときの「わたしのわざ」(タ・エルガ)はまったく相容れないものです。 ここで、イエス・キリストが、 最後までわたしのわざを守る者 と言われるときの「守る」ということば(テーレオー)は、戒めなどを守ることを表しますが、より基本的に、見張りをして敵や危険などから守ることを表します。ヨハネの福音書17章15節には、 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。 というイエス・キリストの祈りのことばが記されています。ここで、「悪い者から守ってくださる」と言われているときの「守る」がこのことばです。また、マタイの福音書28章4節には、 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 と記されています。この場合の「番兵たち」は直訳では「見張っていた者たち」で「守る」ということば(テーレオー)で表されています。彼らはイエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの死体を盗みに来るかもしれないというユダヤ人たちの求めに応じたローマの総督ピラトの命令に従って、イエス・キリストの墓を見張っていたのです。 「イゼベルという女」が、イエス・キリストが「わたしのしもべたち」と呼ばれる信徒たちを「教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている」という深刻な問題を抱えているテアテラにある教会では、イエス・キリストが言われる「わたしのわざを守る」ということは、先にお話しした「愛と信仰と奉仕と忍耐」を現わす「行い」をするという積極的なこととともに、「イゼベルという女」の教えを退け、 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。 というイエス・キリストの警告に基づいて、「イゼベルという女」とその信奉者たちに、悔い改めて、「この女の行い」を離れるよう、説得することも含まれることになります。 以上はイエス・キリストが言われる「わたしのわざ」ということばの用例から考えられることですが、これとともに、24節ー25節において、イエス・キリストが、 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。 と語っておられることとのかかわりで考えられることもあります。 このイエス・キリストのみことばについては前回お話ししましたが、3週間ぶりのお話となってしまいましたので、今日お話しすることと関係があることの結論的なことをまとめておきます。 このイエス・キリストのみことばは、テアテラにある教会の信徒たちの中で「イゼベルという女」の「教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていない」人々に語られています。 イエス・キリストはこの人々のことを「あなたがた・・・テアテラにいるその他の人たち」と呼びかけておられます。原文のギリシア語の順序では、この後に関係代名詞で導入される「この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていない」が続きます。「その他の人たち」ということば(ホイ・ロイポイ)は、新改訳では訳し出されていません。 この人々が「その他の人たち」と呼ばれていることには少なくとも二つの意味があります。 一つには、これによって、イエス・キリストはこの人々を「イゼベルという女」と「この女と姦淫を行う者たち」や「この女の子どもたち」、すなわちその教えを受け入れている人々、「この女の行い」している人々たちから区別しておられます。 もう一つには、20節でイエス・キリストが、 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。 と言われるのは、この人々が「イゼベルという女」の教えを受け入れることができない教えであると判断していながら、「イゼベルという女」の働きを容認していたことを意味していると考えられます。 この人々に、イエス・キリストは、24節後半ー25節で、 わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。 と言っておられます。ここで「あなたがたの持っているもの」と言われているときの「持っている」ということば(エコー)は、この「あなたがた」のことが24節で「この教えを受け入れておらず」と言われているときの「受け入れている」と同じことばです。この対比に注目しますと、ここでは、「あなたがたの持っているもの」と、この「あなたがた」が「受け入れて[直訳『持って』]いない」「この教え」が対比されていることになります。このことから、「あなたがたの持っているもの」とは「この教え」すなわち「イゼベルという女」の「教え」と対比される教えのことで、ここで語りかけてくださっているイエス・キリストの教えのことであると考えられます。それは、アジアにある七つの教会にとっては、ヨハネやパウロによって伝えられたイエス・キリストの教えであり、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストの教えです。 ここでイエス・キリストが、 あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。 と言われるときの「しっかりと持っている」ということば(クラテオー)は、その前の「持っている」(エコー)よりも強いことばで、「しっかりと持っている」と訳されています。 ここで、すでに「あなたがたの持っているもの」を「しっかりと持っている」ようにと言われていることには意味があります。 一つには、この時もなお、「イゼベルという女」とその信奉者たちの巧妙な働きは続いています。そのような中にあっては、忍耐深く、また知恵深くイエス・キリストの教えをもち続ける必要があります。 さらに、たとえ、「イゼベルという女」とその信奉者たちが悔い改めるか、イエス・キリストが警告しておられるさばきが執行されるかして、彼らの巧妙な働きがなくなったとしても、テアテラにおいて何らかの職業に従事していくうえでの困難な問題、特に、職人組合に加入することに関連する問題がなくなるわけではありません。また、ローマの属州では皇帝礼拝にかかわる迫害が迫って来ていました。このような厳しい状況の中で、やはり、忍耐深く、また知恵深くイエス・キリストの教えをもち続ける必要があります。 このように、テアテラにある教会の信徒たちにとっては、また、アジアにある七つの教会のその他の教会の信徒たちにとっても、厳しい状況は続くことになります。それで、イエス・キリストは、25節で、 あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。 と言われて、イエス・キリストの教えを、イエス・キリストが来られるまで、すなわち「最後まで」忍耐深く、また知恵深くもち続けるように求めておられます。 このように見ると、この25節に記されている、 あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。 というイエス・キリストの教えと、26節でイエス・キリストが、「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者」と言われることが深くつながっていることが分かります。 具体的には、「あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで[すなわち『最後まで』]、しっかりと持って」いることをaとすると、これが「最後までわたしのわざを守る」ことと対応していて、aとなります。その間に、「勝利を得る」ことがあり、bとなります。そうするとこの部分は、aーbーaという交差対句法の形になっていることになります。 ここで、aに分類される「あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持って」いることは、同じくaに分類される「最後までわたしのわざを守る」ことと対応していますが、それぞれが照らし合う関係にあります。 「あなたがたの持っているもの」とは、「イゼベルという女」の「教え」との対比で考えると、イエス・キリストの教えであるということになります。そのイエス・キリストの教えをしっかりともっているということは、このaーbーaという交差対句法によるつながり(対応)から、イエス・キリストが言われる「わたしのわざを守る」ことになります。そして、イエス・キリストが言われる「わたしのわざを守る」ことは、イエス・キリストの教えを理解し受け入れることで終わらないで、その教えが生き方において現れてくるということを意味しています。 より具体的には、、イエス・キリストが言われる「わたしのわざを守る」ことは、最初にお話ししましたように、テアテラにある教会の信徒たちが、「イゼベルという女」とその信奉者たちの巧妙な働きの中で、また、テアテラの町で生きていくことにともなう困難さの中で、なおも、イエス・キリストの教えをしっかりと持ち続け、「愛と信仰と奉仕と忍耐」を現す「行い」を深く豊かにしていくことを意味しています。 さらに、ここでは、テアテラにある教会の信徒たちは、さまざまな困難な状況の中で、イエス・キリストが来られるまで、すなわち最後まで、イエス・キリストの教えをしっかりと持ち続け、「愛と信仰と奉仕と忍耐」を現す「行い」を深く豊かにしていくことによって、「勝利を得る者」となることが示されています。この「勝利を得る者」となることは、アジアにある七つの教会の間にご臨在してくださっている栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて働かれる御霊によって、私たち主の民になしてくださることです。 |
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