黙示録講解

(第314回)


説教日:2017年11月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(67)


 黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 これまで20節ー23節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会にある「非難すべきこと」を指摘しておられるみことばについてお話ししました。
 その「非難すべきこと」はテアテラにある教会が「イゼベルという女をなすがままにさせている」ことにありました。「イゼベルという女」は「預言者だと自称して」、イエス・キリストの「しもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせて」いました。
 イエス・キリストはこの女性を旧約聖書に出てくる北王国イスラエルの王アハブの妻であるイゼベルになぞらえておられます。イゼベルはバアル礼拝を推進して、バアルをイスラエルの主神に据えようとして、「」の預言者たちを殺害して、イスラエルから根絶やしにしようとしました。この女性はイゼベルが北王国イスラエルを偶像礼拝に陥れたように、テアテラにある教会に深刻な状態をもたらしていました。それで、イエス・キリストは、

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。

という厳しい警告を与えておられます。


 イエス・キリストがテアテラにある教会にある「非難すべきこと」を指摘しておられるみことばを記している20節ー23節に続いて、24節ー25節には、

しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

と記されています。
 ここでは「あなたがたに」ということばが最初に出てきて強調されています[「しかし」という接続詞(デ)はその次に出てきますが、この接続詞は分の初めには置かれないものです]。「しかし、あなたがたに、わたしは言う」と語り出されてから、この「あなたがた」のことが「テアテラにいるその他の人たち」と言われています[新改訳では、「その他の人たち」ということば(ホイ・ロイポイ)は訳し出されていません]。このように、ここでは、「あなたがた・・・テアテラにいるその他の人たちに」と呼びかけられています。
 これには意味があると考えられます。
 まず、これによって、イエス・キリストはこの「あなたがた」と呼ばれている人々を「イゼベルという女」と「この女と姦淫を行う者たち」や「この女の子どもたち」、すなわちその教えを受け入れている人々、「この女の」追従者たちから区別しておられます。
 そして、その上で、この「あなたがた」がどのような人々であるかを、二つの点で、明らかにしておられます。
 第一に、この人々は、「この教え」すなわち「イゼベルという女」の教えを受け入れていない人々であるということです。
 この場合、この人々は「イゼベルという女」の教えがどのような教えであるかを知らないために受け入れていないのではなく、その教えがどのようなものか知ったうえで、受け入れることができないと判断していると考えられます。それは、ここでイエス・キリストが、この人々を「その他の人たち」と言われて、「イゼベルという女」と「この女と姦淫を行う者たち」や「この女の子どもたち」、すなわちその教えを受け入れている人々から明確に区別しておられることと、25節で、

 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

と語りかけておられることから分かります。
 その一方で、この人々が「その他の人たち」と呼ばれていることからしますと、イエス・キリストが、

 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。

と言っておられるのは、この人々が「イゼベルという女」の教えを受け入れることができない教えであると判断していながら、「イゼベルという女」の働きを容認していたことを指していると考えられます。そうであるとしますと、

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。

という、イエス・キリストの厳しい警告は、「イゼベルという女」とその追従者たちへの警告であると同時に、この「その他の人たち」と呼ばれている人々に、「イゼベルという女」の教えを容認することができないものであるということを示してくださるためのものであると考えられます。
 イエス・キリストのみことばは、同じみことばであっても、しばしば、それを聞く人がどのような状態にあるかによって、それぞれにふさわしい働きをするものです。
 第二に、この人々は、

 彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていない

と言われています。
 「彼らの言うサタンの深いところ」については、すでにお話ししました簡単なまとめを繰り返しますと、罪がどのようなものであるかを経験して知ることなしには、恵みによって罪から自由にしていただいていることがどのようなことであるか本当には分からないというような教えであったと考えられます。このような考え方から、罪を経験すること自体は問題がなく、大切なことは、そのような中で、いかに自分の心をきよく保つかということであるとされていたと考えられます。テアテラにある教会においては、職人組合の会合のときの祝宴に参加して、守護神とされている偶像を礼拝することに加わり、偶像の神にささげられた肉を、その神から賜ったものとして食べることも、その祝宴が不品行に堕していったとしても問題はないと教えていたと考えられます。
 さらに、偶像は人が考え出した神であり、その実体は木片であったり金属の塊でしかないのだから、そのようなものに肉を供えたからといって、肉が汚れるわけではないし、それを食べたからといって汚されるわけでもないというみことばの教えを誤って適用して、職人組合の会合の際の祝宴に参加して、偶像にささげられた肉を食べることには問題がないという教えの根拠とした可能性もあります。
 ここでは、この人々が、

 彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていない

と言われています。「まだ知っていない」というと、やがて知るようになるという意味合いを伝えているような気がします。けれども、ここでは不定過去時制の否定形で、そのような意味合いはありません。
 この「知る」ということば(ギノースコー)は、知的に知ること、理解すること、悟ること、経験して知るようになること、人格的な交わりをとおして知るようになること、さらには、ヘブル語の「知る」(ヤーダァ)のように、夫と妻の性的な交わりにおいて知ることなど、意味の幅があります。
 ここでイエス・キリストが言っておられることがどのような意味であるかについては見方が別れています。
 先ほど、第一のこととしてお話ししましたように、この人々は「イゼベルという女」の教えがどのような教えであるかを知った上で、そのような教えを受け入れることはできないと判断して、受け入れていなかったと考えられます。そうであるとしますと、この人々は「彼らの言うサタンの深いところ」がどのようなことを意味しているかを知っていたと考えられます。
 私たちには「彼らの言うサタンの深いところ」とはどういうことかよく分かりませんし、学者たちの意見も一致しているわけではありません。その当時の人々であっても、「サタンの深いところ」ということを初めて聞いたときには、私たちと同じように、どういうことだろうかと思ったはずです。ところが、ここでイエス・キリストは、ただ「彼らの言うサタンの深いところ」と言っておられるだけで、それ以上、何も説明しておられません。このことも、この人々は「彼らの言うサタンの深いところ」がどのようなことを意味しているかを知っていたということを示しています。
 このようなことから、ここで、この人々が、

 彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていない

と言われているのは、この人々がそれがどのようなことであるかを知らないという意味ではなく、知っているけれども、それを経験して知っているわけではない、すなわち、その教えに従って生きてはいないということであると考えられます。
 これを別の角度から見ますと、「イゼベルという女」とその追従者たちは、職人組合の会合のときの祝宴に参加して、守護神とされている偶像を礼拝することに加わり、偶像の神にささげられた肉を、その神から賜ったものとして食べることも、その祝宴が不品行に堕していったとしても問題はないと教えて、テアテラにある教会の信徒たちに罪を犯させていただけでなく、自分たちも、実際に、そのようにしていたということになります。もっともらしい教えをもって説得していただけでなく、実際に、それを実践して、いわば行いをもってあかししていたということです。そうであるからこそ、「イゼベルという女」の教えが、テアテラにある教会の信徒たちの間に浸透して、深刻な状況を生み出していたのだと考えられます。
 これに対して、イエス・キリストが「あなたがた・・・テアテラにいるその他の人たち」と呼んでおられる人々は、そのような教えと行いに接しながら、しかも、それに従えば、テアテラの町において、困難な状況に追い込まれることはなく、楽に仕事をしていけるという誘惑も受けながら、それを退けて生きていた人々です。

 この人々に対して、イエス・キリストは、

わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

と言われました。
 最初の、

 わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。

というみことばは、広く、いわゆる、エルサレム会議の決定のことを記している、使徒の働き15章28節ー29節に、

聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。

と記されている中に出てくる、

聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。

ということばとの関連が考えられています。
 確かに、ここには「どんな重荷も負わせない」ということばが出てきます。また、続く部分で、「偶像に供えた物」と「不品行」とを避けるようにと言われています。
 けれども、違いもあります。
 エルサレム会議の決定に、

偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。

という但し書きが加えられているのは、19節ー21節に記されている、

そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。

という、ヤコブのことばから分かりますように、ユダヤ人たちへの配慮を示すことを求めてのことです。それで、異邦人クリスチャンたちが避けるべきこととして、「偶像に供えた物」と「不品行」のほかに「絞め殺した物」と「」のことも含まれています。しかし、「イゼベルという女」が教えていたことは、ユダヤ人たちへの配慮を否定するためではありません。
 ちなみに、このヤコブは、イエス・キリストの兄弟でエルサレム教会の指導者であった人物です。使徒の働き12章1節ー2節に記されていますが、十二弟子の一人であるヤコブは、これより前に、ヘロデ・アグリッパによって、剣で殺されています。
 もう一つの違いは、ことばの上での違いだけです。どちらにも「重荷を負わせない」ということばが出てきます。「重荷」ということば(バロス)は同じですが、「負わせる」に当たることばが違っています。使徒の働き15章28節で用いられていることば(エピティセーミ)は「上に置く」ということを表しています。黙示録2章24節で用いられていることば(バロー)は、「置く」ということを表すこともありますが、基本的には「投げる」ということを意味しています。
 このように、黙示録2章24節に記されていることと使徒の働き15章28節に記されていることは、一見すると同じようなことを言っているように見えますが、その違いも大きいので、単純に比較することはできません。
 それで、使徒の働き15章28節に記されていることと黙示録2章24節に記されていることを比べると、黙示録には「偶像に供えた物」と「不品行」は出てくるけれども、「絞め殺した物」と「」は出てこないということから、黙示録2章24節で言われている「ほかの重荷」とは「絞め殺した物」と「」を避けるべきことだと主張することはできません。
 この二つの箇所を比較して、私たちに分かるのは、何らかの義務が課せられることを「重荷を負わせる」ということばで表すことがあるということくらいです。もちろん、「偶像に供えた物」と「不品行」はどのような場合にも避けなければならないことですが、それは、この二つの箇所を比較して分かるようになることではなく、それ以前に、みことばの教えから分かっている基本的なことです。

 イエス・キリストが、

 わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。

と言われるときの「ほかの重荷」が何であるかについていくつかの見方が示されてきました。
 先ほど、そのうちの一つである「ほかの重荷」とは「絞め殺した物」と「」を避けるべきことだという見方が成り立たないことをお話ししましたが、もう一つの見方にも触れておきましょう。
 先ほどお話ししましたように、ここで「ほかの重荷を負わせない」と言われているときの「負わせる」にあたることば(バロー)は、基本的に「投げる」ということを表します。このことばは、22節でイエス・キリストが、

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

と言われるときの「投げ込もう」と同じことばです(ギリシア語では1回出てくるだけです)。このことから、イエス・キリストが、

 わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。

と言われるのは、22節で言われているさばきが、それ以上、「あなたがた」には及ばないということであるという見方があります。
 けれども、ここに出てくる「負わせる」にあたることば(バロー)には「置く」という意味もあります。それに、22節で言われているさばきは「イゼベルという女」とその追従者たちに下されると、明確に言われています。そして、この人々は「あなたがた・・・テアテラにいるその他の人たち」と呼ばれていて、「イゼベルという女」とその追従者たちとは明確に区別されています。しかも、この人々は、

 この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていない

と言われています。22節で言われているさばきが、この人々には及ばないことは、すでに、これらのことからはっきりしています。
 ですから、イエス・キリストが、

 わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。

と言われるのは、22節で言われているさばきが、それ以上、「あなたがた」には及ばないということであると考えることはできません。
 このようなことから、イエス・キリストが、

 わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。

と言っておられることは、使徒の働き15章28節ー29節に記されていることとのかかわりや、この前の22節とのかかわりで理解するよりは、この後の25節に記されている、

 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

ということとのかかわりで理解したほうがよいと思われます。そうすると、

 あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

という戒め以外の重荷は負わせないということになります。
 それでは「あなたがたの持っているもの」とは何でしょうか。
 これを理解する鍵は、この前の24節で、

しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。

と言われていることです。ここで、

 この教えを受け入れておらず、

と言われているときの「受け入れている」に当たることば(エコー)は、25節で、

 あなたがたの持っているものを、

と言われているときの「持っている」と同じことばです。このことから、「あなたがたの持っているもの」とは、ここで語りかけてくださっているイエス・キリストの教えのことであると考えられます。それは、使徒たち(アジアにある七つの教会にとっては、ヨハネやパウロ)によって伝えられたイエス・キリストの教えであり、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストの教えです。この人々は「イゼベルという女」の教えを持つようになることを拒み、イエス・キリストの教えを持っているということです。これを言い換えますと、この人々はイエス・キリストの教えを持っているので、「イゼベルという女」の教えを受け入れなかったということです。
 ここでイエス・キリストは、

 あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

と言われます。
 この「しっかりと持っていなさい」という命令形の「しっかりと持つ」ということば(クラテオー)は、その前の「持っている」よりも強いことばです。それで「しっかりと持っている」と訳されています。
 ここで、すでに持っているものをしっかりと持っているようにと言われていることには、いくつかのことがかかわっています。
 一つには、この時もなお、「イゼベルという女」とその追従者たちの巧妙な働きは続いています。そのような中にあっては、忍耐深く、また知恵深くイエス・キリストの教えをもち続ける必要があります。
 それとともに、ここでは、

 わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

と言われています。
 この場合の「わたしが行くまで」は、22節に記されている「イゼベルという女」とその追従者たちへのさばきを執行されるために、イエス・キリストが特別な意味でご臨在される時のことを指すというより、終わりの日にイエス・キリストが再臨されることを指していると考えられます。というのは、イエス・キリストの教えを「しっかりと持ってい」ることは、地上の生涯の全体にわたって、主の民として歩むために欠くことができないことでからです。
 「わたしが行くまで」と言われていることは、必ずしも、この人々が終わりの日まで生きているということ、言い換えれますと、イエス・キリストはこの人々が生きている間に再臨されるという意味ではありません。黙示録に限らず、新約聖書は終わりの日にイエス・キリストが来られて、救いとさばきの御業を遂行されて、ご自身の民の救いを完全に実現してくださることを見据えて、今を生きるべきことを示しています。それで、

 わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

ということは、最後まで忍耐深く、心を尽くしてイエス・キリストの教えを持ち続けるということを意味しています。
 そのように生きることは、テアテラの町においては、ことに、さまざまな職業にかかわっている信徒たちにとっては、生きていくうえでの困難をともなうことでした。より一般的にも、アジアにある七つの教会のいくつかの教会が実際に直面していましたが、ローマの属州にあっては、皇帝礼拝にかかわる迫害を受けることはめずらしいことではありませんでした。黙示録12章11節には、霊的な戦いの状況にある主の民のことが、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼[サタン]に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。
 これらの状況にあって生きている主の民は、すでに、主から与えていただいて持っている福音のみことばにあかしされているイエス・キリストの教えを「しっかりと持って」いる必要があります。そのためには、ただ、イエス・キリストの教えを理解して受け入れているというだけでなく、忍耐深く、また知恵深く、それに従って生きていくことが必要です。
 最後に、これらのことを踏まえて、もう一つのことに触れておきたいと思います。
 「イゼベルという女」の教えは、テアテラにある教会の信徒たちのうちの追従者たちに一時的な解決の道を示していたかも知れません。けれども、それはイエス・キリストが「わたしが行くまで」と言われる日まで彼らを支えるものではありません。しかし、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストの教えはイエス・キリストが「わたしが行くまで」と言われる日に至るまで、どのようなことがあったとしても、私たちをしっかりと支えてくれるものです。マタイの福音書7章24節ー25節に、

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

と記されているとおりです。


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