黙示録講解

(第313回)


説教日:2017年11月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(66)


 黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語りかけられたみことばについてのお話を続けます。
 これまで、20節ー23節に記されている、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

というみことばについてお話ししてきました。
 ここでイエス・キリストは、テアテラにある教会にある「非難すべきこと」を指摘しておられます。それはテアテラにある教会が「イゼベルという女をなすがままにさせている」ことにありました。「イゼベルという女」は「預言者だと自称して」、イエス・キリストの「しもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせて」いました。
 イエス・キリストはこの女性を、旧約聖書に出てくる、北王国イスラエルの王アハブの妻「イゼベル」になぞらえておられます。
 イゼベルはバアル礼拝を推進し、バアルを北王国イスラエルの主神にしようとしました。そのために、イゼベルは「」の預言者たちを殺害して、イスラエルから根絶やしにしようとしました。そのイゼベルの働きによって、北王国イスラエルの民はバアルを礼拝するようになりました。
 イエス・キリストはこの女性をイゼベルになぞらえることによって、彼女がテアテラにある教会に深刻な状態をもたらしていることを示しておられます。その深刻さは、さらに、22節ー23節前半に記されている、

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。

というイエス・キリストの厳しい警告にも示されています。


 イエス・キリストは続く23節後半において、

こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

と述べておられます。
 このイエス・キリストのみことばについては、イエス・キリストがテアテラにある教会への語りかけの冒頭において、ご自身のことを、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子

として示しておられるときの「燃える炎のような目」をもっておられることとのかかわりでお話ししたことがあります。それはもう1年4ヶ月ほど前のことですので、改めて、いろいろな補足を加えながら、お話ししたいと思います。
 ここで、イエス・キリストは、

 わたしが人の思いと心を探る者である

と言っておられます。これは、強調形の「エゴー・エイミ・・・」という言い方で、イエス・キリストが契約の神である「」ヤハウェであられることを意味しています。そして、イエス・キリストは「」ヤハウェなるお方として、「人の思いと心を探る者である」というのです。
 ここで、

 わたしが人の思いと心を探る者である

と言われているときの、「思い」と訳されていることば(ギリシア語・ネフロス)は文字通りには「腎臓」を表すことばで、ユダヤ人の間では、人の意志や感情の源であると考えられていました。また、「」と訳されていることば(カルディア)は文字通りには「心臓」を表すことばですが、知性と感情と意志の主体としてての人間の精神活動の全体を意味しています。この二つのことばが表している意味は重なっていて、明確に区別することができません。ここでは、このような二つのことばを組み合せて、人の内面の奥底に至るまでのすべてを表していると考えられます。
 また、イエス・キリストがご自身のことを、

 わたしが人の思いと心を探る者である

と言われるのは、探ってみるけれども分からないこともあるということではなく、あるいは、探ってみるまでは分からないと言うことではなく、人の内面の奥底に至るまでのすべてをご存知であられるということを意味しています。
 これを私たちに当てはめて言いますと、イエス・キリストは契約の神である「」ヤハウェとして、私たちご自身の民の心のうちにあることを、その奥底にあることに至まで、すべて知っていてくださるということです。
 ここに出てくる「探る」ということば(エラウナオー)は、先々主日と先主日のお話で触れた「サタンの深いところ」との関連で取り上げて引用した、コリント人への手紙第一・2章10節で、

 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

と言われているときの「探る」ということばでもあります。
 これについて、少し注釈しておきましょう。
 ここでは、すべてのことを探られる御霊が「神の深み」までも探り知っておられて、それを私たちに啓示してくださったということが示されています。この場合の「神の深み」は、この前の7節ー8節に、

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

と記されていることから分かりますが、無限、永遠、不変の栄光の神の御子が人としての性質を取って来てくださって、十字架におかかりになって罪の贖いを成し遂げてくださったという、人の思いをはるかに越えた神さまの永遠からのみこころを意味しています。
 今、私たちは、神さまが「すべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」御霊によって啓示してくださった永遠からのみこころがどのようなことであり、それが御子イエス・キリストによって、どのように実現したかということばかりでなく、それが私たち自身の現実となっていることまでも理解し悟ることができるようにしていただいています。さらには、実際に、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによってもたらされた新しいいのちに生きるようにしていただいています。それも、御霊がキリストの御霊として私たちに働きかけてくださったことによっています。
 このことと関連して、この部分の結論である、16節には、

いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

と記されています。

 だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。

という問いかけは、イザヤ書40章13節に記されている、

 だれがの霊を推し量り、
 主の顧問として教えたのか。

というみことばの引用です(「だれが主のみこころを知り」)は七十人訳によっています)。イザヤ書における問いかけは、「誰もそのようなことはできない」という答えを引き出すものです。ところが、パウロは、

 私たちには、キリストの心があるのです。

と応じています。これは、贖いの御業にかかわる神である「」のみこころは人の思いをはるかに越えていて、この世の知者も支配者も悟ることはできません。けれども、「すべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」御霊によって新しく生まれ、導かれている「私たちには、キリストの心があるのです」。それで、私たちは贖いの御業にかかわる神である「」のみこころを理解し悟ることができるようになりましたし、そのみこころにしたがって歩むように導かれています。この意味で、私たちは被造物としての限界にあってのことですが、「神の深み」を知っています。
 これに対して、黙示録2章23節で、

 こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。

と言われるイエス・キリストは、イゼベルとその追従者たちが教えていることは「神の深み」どころか「サタンの深いところ」であるということを示しておられます。

 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストがご自身のことを、

 わたしが人の思いと心を探る者である

として示しておられることは、強調形の「エゴー・エイミ・・・」という言い方で表されていて、イエス・キリストが契約の神である「」ヤハウェであられることを示しています。
 このこととの関連で注目すべき、旧約聖書のみことばがありますのでそれを見てみましょう。
 エレミヤ書17章9節ー10節には、

 人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。
 だれが、それを知ることができよう。
 わたし、が心を探り、思いを調べ、
 それぞれその生き方により、
 行いの結ぶ実によって報いる。

と記されています。
 9節で、

 人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。

と言われているときの「陰険な」ということば(ヘブル語・アーコーブ)は(形容詞で)「欺瞞的な」、「欺きに満ちた」ということを意味しています(K=B, vol. 1, p. 873a)。ここでは、このことばが最初に出てきて強調されています。
 これに続く、

 だれが、それを知ることができよう。

ということばは、「陰険な」(「欺きに満ちた」)「人の心」のうちにあることはだれも知ることができないということを強調するものです。
 ここではこのことを踏まえた上で、続く10節で、

 わたし、が心を探り、思いを調べ、
 それぞれその生き方により、
 行いの結ぶ実によって報いる。

と言われています。
 人はだれも、欺きに満ちた人の心のうちにあることを知ることができません。しかし、「」ヤハウェはそのすべてを探り、調べられる方です。これも、「」がそのすべてを完全に知っておられるということを意味しています。
 ここで、

 わたし、が心を探り、思いを調べ、

と言われているときの「」(レーブ)は、(先ほどのギリシア語のカルディアと同じように)文字通りの「心臓」を表し、転じて、「内的な自己」、「気分や感情の源」、「意志」や「勇気」、「理性」や「知性」、「精神」などを表します。また、「思い」(キルヤー)は、(ギリシア語のネフロスと同じように)文字通りの「腎臓」を表し、転じて、「人の最も内側の部分」、「人の最も隠された部分」などを表します。
 ですから、ここに出てくる「」と「思い」は、黙示録2章23節で、イエス・キリストが、

 こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。

と言われるときの「思い」と「」の組み合せと同じ組み合せで、出てくる順序が違うだけです。
 これらのことは、黙示録2章23節で、強調形の「エゴー・エイミ・・・」という言い方で

 わたしが人の思いと心を探る者である

と言われるイエス・キリストは、エレミヤ書17章10節で、

 わたし、が心を探り、思いを調べ、

と言われる「」ヤハウェにほかならないことを示しています。
 さらに、エレミヤ書17章10節では、

 わたし、が心を探り、思いを調べ、

と言われていていることに続いて、

 それぞれその生き方により、
 行いの結ぶ実によって報いる。

と言われています。それと同じように、黙示録2章23節でも、

 こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。

と言われていることに続いて、

また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

と言われています。
 このことも、イエス・キリストが、エレミヤ書17章10節で、

 わたし、が心を探り、思いを調べ、
 それぞれその生き方により、
 行いの結ぶ実によって報いる。

と言われた「」ヤハウェであられることを示しています。

 このように、イエス・キリストの、

 こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

というみことばは、エレミヤ書17章10節に記されている、

 わたし、が心を探り、思いを調べ、
 それぞれその生き方により、
 行いの結ぶ実によって報いる。

という「」のみことばを背景としていて、ご自身がエレミヤに語られた「」であられることを示しておられます。
 これとともに、

 こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。

というイエス・キリストのみことばには、主のことを「知るようになる」ということにかかわるもう一つの背景があると考えられます。それは旧約聖書の中に出てくる、

 あなたがたは、わたしがであることを知ろう。

あるいは、

 彼らは、わたしがであることを知ろう。

という「」のみことばと、これに類するみことばです。
 これはほぼ例外なく、「」が救いとさばきの御業を遂行されることとのかかわりで語られていて、その多くはさばきの執行とのかかわりで語られています。その事例はエゼキエル書に圧倒的に多く見られますが、出エジプト記やイザヤ書、エレミヤ書などにも見られます。
 出エジプトの贖いの御業とのかかわりでは、6章6節ー7節には、

それゆえ、イスラエル人に言え。
 わたしはである。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。

と記されています。これは、

 あなたがたは、わたしがであることを知ろう。

ということと実質的に同じですが、より具体的に「」がどのような方かが示されています。

 また、7章5節には、

 わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしがであることを知るようになる。

と記されています。さらには、紅海においてエジプトの軍隊を滅ぼすことについて、14章17節ー18節には、

見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしがであることを知るのだ。

と記されています。
 エゼキエル書の事例を見てみましょう。エゼキエルは第二回の捕囚(前597年)においてバビロンに移され、その地で預言者として召され、預言しました。エゼキエル書8章に記されていますが、南王国ユダではエルサレム神殿の中でもさまざまな偶像が祀られ、礼拝がなされていました。そのような状態にある「」の民に対するさばきを記している6章6節ー7節には、

あなたがたがどこに住もうとも、町々は廃墟となり、高き所は荒らされる。あなたがたの祭壇は廃墟となり、罪に定められる。あなたがたの偶像が砕きに砕かれ、あなたがたの香の台は切り倒され、あなたがたのしたわざは消し去られ、刺し殺された者があなたがたのうちに横たわるとき、あなたがたは、わたしがであることを知ろう。

と記されています。それと同時に、「」のあわれみによって「」の民が回復されることも示されています。その例として、干からびた骨のある谷の幻による預言を見てみましょう。37章13節ー14節には、

わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしがであることを知ろう。わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――の御告げ――

と記されています。
 これらの事例に示されていることは、契約の神である「」ヤハウェがアブラハム、イサク、ヤコブへの契約に基づいて、出エジプトの贖いの御業を遂行され、同時に、イスラエルの民を奴隷として虐げていたエジプトへのさばきを執行されたとにおいて、「」こそが歴史の主であられ、真に、救いとさばきの御業を遂行される方であることが明確に示されるようになります。この「」の救いとさばきの御業の前では、偶像たちもエジプトという強大な帝国の王もむなしくかすんでしまうことが示されるのです。
 この「」の救いとさばきの御業はイスラエルへのえこひいきによってなされるのではありません。南王国ユダの民が「」に背いて偶像に仕えるようになったときには、「」はご自身の民をも契約を破ったものとして、厳正におさばきになりました。同時に、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約を覚えてくださって、回復を約束してくださいました。それは、歴史の主として救いとさばきの御業を遂行される「」が必ず実現してくださることです。
 実際に、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約に基づいて、最終的な救いの御業を遂行されたのは、無限、永遠、不変の栄光の主でありながら、人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになってご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストです。そして、この御子イエス・キリストこそが、最終的に、救いとさばきの御業を遂行される契約の神である「」ヤハウェです。

 黙示録2章23節では、「」ヤハウェであられるイエス・キリストが、

 こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。

と語っておられます。これは、その前の22節ー23節前半で、

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。

と言われていることを受けています。
 そうしますと、もう「イゼベルという女」と「この女の子どもたち」と呼ばれている追従者たちのさばきは避けられないのではないかという気がします。
 これに関連して三つのことをお話ししたいと思います。
 第一に、これまで見てきたように、最終的に、救いとさばきの御業を遂行しておられるのは「」であって、偶像やこの世の帝国ではないということは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に基づいて、罪の奴隷となって「」に背いている民の罪を贖って、ご自身のものとして回復してくださることにおいてこそ、明確に現されます。それこそが「神の深み」と呼ばれる、永遠からの「」のみこころの中心にあることだからです。もし、「イゼベルという女」と「この女の子どもたち」がイエス・キリストの最後通牒とも思える厳しいさばきのことばに接して、あのアハブのように悔い改めたとしたら、それも、イエス・キリストこそが「」ヤハウェであられることを明確に現すことになるでしょう。
 第二に、もし、「イゼベルという女」と「この女の子どもたち」がイエス・キリストの最後通牒とも思える厳しいさばきのことばに接して、悔い改めたとして、それをきちんと見分けることができるのは「」ヤハウェであられ「人の思いと心を探る者である」イエス・キリストだけです。「イゼベルという女」と「この女の子どもたち」が悔い改めた場合にも、「全教会は」イエス・キリストが「人の思いと心を探る者であることを知るようになる」のではないでしょうか。
 第三に、直接的には関係がないかも知れませんが、私たちが心にとめておきたいことがあります。

こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

というイエス・キリストのみことばの背景になっている、

 人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。
 だれが、それを知ることができよう。
 わたし、が心を探り、思いを調べ、
 それぞれその生き方により、
 行いの結ぶ実によって報いる。

というエレミヤ書17章9節ー10節に記されている「」のみことばを記したエレミヤは、その後の14節において、

 私をいやしてください。よ。
 そうすれば、私はいえましょう。
 私をお救いください。
 そうすれば、私は救われます。
 あなたこそ、私の賛美だからです。

と「」に祈っています。
 これは、エレミヤが自分の心が「何よりも陰険で、それは直らない」ということを知り、「」だけがそのような自分の心を造り変えてくださることがおできになることを認めたうえでの祈りです。それは、「」が、

 人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。

と語ってくださったことに心を刺されたためのことです。エレミヤは、その、

 人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。

という「」のみことばを他人事のように聞いていたのではありません。自分こそがそのような者であると心から感じていたのです。
 イエス・キリストが「イゼベルという女」と「この女の子どもたち」に厳しい警告を発しておられるのは、ご自身のしもべたちを守り、救いの中に保ってくださるためです。それはまた、マタイの福音書5章44節で、
 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
と教えられたイエス・キリストの警告です。自らを欺いて滅びの道を進んでしまっている「イゼベルという女」と「この女の子どもたち」になおも悔い改めを迫るものであると考えられます。
 私たちは先ほどのエレミヤの痛切な祈りを聞いて、あのエレミヤがと絶句します。そして、

 人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。

という「」のみことばはが自分のこととして迫ってきます。「人の思いと心を探る者である」イエス・キリストは、そのような私たち一人一人の現実をすべて、つぶさに知っていてくださいます。そして、私たちのためにすべてのことを備えてくださり、私たちが救いのうちにとどまるように、御霊によって導き続けてくださっています。


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