黙示録講解

(第312回)


説教日:2017年10月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(65)


 イエス・キリストがテアテラにある教会に語りかけられたみことばについてのお話を続けます。今お話ししているのは、20節ー23節に記されている、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

というみことばについてです。
 まず、これまでお話ししたことで、今日お話しすることにかかわっていることを、いくらか補足をしながら、振り返っておきましょう。
 ここでイエス・キリストは、テアテラにある教会にある「非難すべきこと」を指摘しておられます。それは「イゼベルという女をなすがままにさせている」ことにありました。その「イゼベルという女」は「預言者だと自称して」、イエス・キリストの「しもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせて」いました。
 イエス・キリストはこの女性のことを「イゼベルという女」とお呼びになることによって、彼女を、旧約聖書に出てくる、北王国イスラエルの王アハブの妻「イゼベル」になぞらえておられます。イゼベルはバアル礼拝を推進し、バアルをイスラエルの主神にしようとしました。そのイゼベルの働きによって、北王国イスラエルの民はバアルを礼拝するようになりました。
 その状況をうかがわせるのは、列王記第一・19章18節に記されている、

しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。

という「」がエリヤに語られたみことばです。これは、14節に記されている、

私は万軍の神、に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。

というエリヤが「」に訴えたことばに対する答えの中で語られたことです。北王国イスラエル全体がバアル礼拝に染まってしまったかに見える状況の中で、「」は「バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者」たち「七千人」が残るようにしてくださっているというのです。逆に言うと、「バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者」たちは「七千人」しかいなかったということです。このような状態を生み出した張本人はイゼベルでした。
 イエス・キリストは20節で「イゼベルという女」のことを、

この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

と述べています。
 これはテアテラが商工業が盛んであったこととかかわっています。そこでは同じ職業に従事する人々がお互いの利益と援助のために組織した職人組合に加入しないと、実質的に、その職業を維持していくことができないという現実がありました。そして、職人組合に加入している人が参加せざるをえなかった宴会は、通常、異教の神殿で行われ、職人組合の守護神である偶像を礼拝しました。そして、その宴会で食する肉は偶像にささげられた肉であり、その宴会が不品行をともなうものとなっていくこともありました。
 イエス・キリストが「不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている」と言われることについては解釈が分かれています。一つは、「不品行を行わせ」るということが比喩的に偶像礼拝を行わせることを指していて、「偶像の神にささげた物を食べさせている」ということが、偶像を礼拝することだけでなくさらに偶像から賜った肉を食べることにまで進んでいることを示しているというものです。もう一つは、「偶像の神にささげた物を食べさせている」ということが偶像を礼拝することを意味していて、「不品行を行わせ」るということは、その宴会が文字通りの不品行をともなうものとなっていくことを指しているというものです。そのいずれの解釈においても、すべては偶像礼拝の一環として行われているということには変わりがありません。
 それで、イエス・キリストが続く21節で、

 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

と述べておられるときの「不品行」は比喩的に偶像礼拝を指していると考えられます。
 また、イエス・キリストが、

 この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き

と言われているときの「誤りに導き」と訳されていることば(プラナオー)は、黙示録では、ここ以外ではすべて、サタンとサタンに従って働いているものについて用いられています。このことは、この「イゼベルという女」の教えがサタンから出ている教えであること、少なくとも、サタンに与(くみ)する教えであることを示唆しています。
 この女性が「イゼベルという女」と呼ばれてイゼベルになぞらえられているように、彼女の影響はテアテラにある教会において深刻な事態を生み出していました。そのことは、イエス・キリストが、22節ー23節において、

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。

と語っておられる警告の厳しさと緊急性からも十分に知ることができます。
 けれども、この事態の深刻さは、ご自身を「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子」として示しておられるイエス・キリストが、その「燃える炎のような目」でご覧になっておられることです。そのイエス・キリストが、

 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。

と述べておられるように、同じことが、テアテラにある教会の信徒たちには、それほど深刻なこととは思われなかったようです。言うまでもなく、「イゼベルという女」自身も、自分がしていることがテアテラにある教会を根底から変質させてしまうことであるとはまったく思ってはいなかったのです。そのことは、イエス・キリストが、

 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

と述べておられることからも分かります。
 すでにお話ししましたように、テアテラにある教会の信徒たちの間には、職人組合にかかわる問題がありました。それは、この町で生計を立てていくうえで避けて通れない問題でした。しかも、それはイエス・キリストを主として告白して、イエス・キリストをとおしてご自身を示してくださっている父なる神さまのみを神として礼拝している信徒にとってだけ問題となることです。「イゼベルという女」はそのような悩みをもつ信徒たちの思いを汲み取り、配慮を示していたと考えられます。そして、彼女の教えは、悩んでいる信徒たちに光明をもたらすものと思われたのです。
 しかし、「イゼベルという女」の教えは、イエス・キリストが24節で「サタンの深いところ」として取り上げておられる巧妙な教えでした。それについては、先週、詳しくお話ししましたが、罪がどのようなものであるかを経験して知ることなしには、恵みによって罪から自由にしていただいていることがどのようなことであるか本当には分からないというような教えであったと考えられます。このような考え方から、罪を経験すること自体は問題がなく、大切なことは、そのような中で、いかに自分の心をきよく保つかということであるとされていたと考えられます。


 このような教えとともに、おそらく、すでに教えられていたイエス・キリストと使徒たちの教えが誤って適用されて、その教えが補強されていた可能性も考えられます。
 たとえばマルコの福音書7章18節ー19節には、

イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。

と記されています。ここに記されているイエス・キリストの教えでは、食べ物が人を汚すことはできないとされています。そうであれば、偶像に供えられた肉であっても、それ自体が人を汚すことはできないのであるから、それを食べても問題はないというように教えるのです。
 また、コリント人への手紙第一・8章4節ー8節には、

そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。

と記されています。
 4節では、

私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。

と言われています。ここで、

 世の偶像の神は実際にはないものである

と訳されている部分は直訳調に訳すと、

 この世には偶像はないものである

あるいは、

 この世にある偶像はむなしいものである

となります。このどちらを取るべきかということになると、これは、次の、

 唯一の神以外には神は存在しない

と同じ言い方で表されています。それで、

 この世には偶像は(存在し)ないものである

と訳すことになります。しかし、実際には、この世には偶像が溢れているので、新改訳はここで言われていることの主旨を生かして、

 世の偶像の神は実際にはないものである

と訳しています。
 これは旧約聖書においても、繰り返し出てくる教えです。おそらく偶像のむなしさ、それが実際には神ではないことを最も生き生きと伝えているのはイザヤ書44章9節ー19節に記されている「」のみことばでしょう。そこには、

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、「ああ、暖まった。熱くなった」と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って「私を救ってください。あなたは私の神だから」と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、「私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか」とさえ言わない。

と記されています。
 パウロが言うように、「唯一の神以外には神は存在しない」のであり、「世の偶像の神は実際にはないものである」のであれば、そして、イザヤ書にあるように、偶像は実質的には金属や木片と同じであれば、その前に肉を置いたからといって、その肉が汚れるわけではありません。
 このことは、そのとおりです。それで、パウロは同じコリント人への手紙第一の10章25節ー26節において、

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

と教えています。これは、その当時、偶像にささげられた肉が市場で売られていたことを踏まえての教えです。その場合には、いちいちそれが偶像に供えられた肉であるかどうか調べることはしないで、「どれでも食べなさい」というのです。
 その理由として、

 地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

と言われています。
 「イゼベルという女」とその追従者たちは、このような教えを盾に取って、偶像に供えられた肉は汚れているのではないし、それを食べたからといって、汚されることはないのだから、職人組合の会合の際の宴会において出された偶像に供えられた肉を食べることには問題はないと教えた可能性があります。
 さらに、パウロは8章7節において、

しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。

と述べています。そして、引用はしていませんが、9節で、このような人たちのことを「弱い人たち」と呼んでいます。
 このような教えを盾に取って、偶像に供えられた肉は汚れているから食べてはいけないと主張する人は、偶像の神は実際には存在していないことを知らない「弱い人たち」であるとか、口では「唯一の神以外には神は存在しない」と言っているけれども、実際には、偶像の神があると思っている「弱い人たち」であると言いつつ、自分たちはそのことを知っている、信仰の成熟した者たちであると主張していた可能性もあります。

 しかし、これらの教えは、パウロの教えではありません。先ほど引用しました10章25節ー26節に記されている、

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

という教えに続いて、27節ー28節において、

もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。

と教えています。
 ここでパウロは、食事に招待してくれた「信仰のない」人が、「これは偶像にささげた肉です」と言って出してくれた場合には、食べてはいけないと教えています。それは、知らせた人のためであると言われています。この場合、「これは偶像にささげた肉です」と言って出された肉を食べることによって、相手の人に対して、偶像の神がいて、肉をありがたいものにしているということを認めることになってしまいます。また、そのためになされた偶像礼拝を意味あることとしてしまうことになります。そして、食事に招待してくれた「信仰のない」人は親しくしてくれている人ですが、その人に神はすべてのものをお造りになった唯一の神であるということをあかししようとしても、偶像の神もいるとしてしまっているので、矛盾したことをあかししていることになってしまいます。
 このようなことから、パウロは、食事に招待してくれた「信仰のない」人が「これは偶像にささげた肉です」と言って出してくれた場合には、それを食べてはいけないと教えていると考えられます。もちろん、それが招いてくださった人へのあかしの機会となることを想定しているとも考えられます。これは、日常の交際の中で起こっていることであって、職人組合の会合における宴会のように、そこで偶像礼拝が行われているわけではありません。そうであれば、そこで偶像礼拝が行われている職人組合の会合における宴会においては、よりいっそう気をつけなければなりません。
 さらにもう一つのことを考えるために、パウロが

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

と教えているときの、

 地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

という理由に注目したいと思います。
 取り上げられている問題は異なっていますが、原理、原則的なことはこれと同様のことが、テモテへの手紙第一・4章3節後半ー5節にも、

しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

と記されています。
 最後の、

 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

ということに注目しますと、この場合の「聖められる」ということは、その前の部分で「神が造られた物はみな良い物です」と言われていることから分かりますように、汚れた食べ物があるわけではありませんから、汚れた食べ物がきよめられるという意味ではありません。これは、やはり、その前の部分で、

 神が造られた物はみな良い物です

と言われているときの「良い」ということに相当することです。そして、

 神のことばと祈りとによって、聖められる

と言われているときの「神のことば」は、神さまが創造の御業においてすべてのものを良いものとしてお造りになり、「良い」と宣言されたことを指しています。すべてのものは造り主である神さまのものです。コリント人への手紙第一・10章26節のことばで言えば、「地とそれに満ちているものは、主のもの」です。その意味で、すべてのものはきよいのです。これは神さまの創造の御業に基づいている、客観的なことです。
 それとともに、これには、食べる人の意識という主観的なこともかかわっています。それが、

 神のことばと祈りとによって、聖められる

と言われているときの「祈り」です。これもその前の部分において、

 しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

と言われているときの「人が感謝して受ける」ということに当たります。神さまがお造りになった良いものを食べ物として与えてくださっていることを認めて、感謝をもって受け取るということです。今お話ししていることとのかかわりで大切なことはこの主観的なこと、すなわち、それを造り主である神さまに感謝して受け取るということです。これは、偶像に供えた肉としてありがたくいただくということと相容れないことです。まして、職人組合の会合の際の宴会において、偶像を礼拝してから、そこでささげた肉をありがたくいただくということとはまったく相容れないことです。

 さらにこれと関連して、もう一つのパウロの教えを見ておきましょう。コリント人への手紙第一・10章19節ー20節には、

私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

と記されています。
 ここでパウロは8章4節で述べている、

 世の偶像の神は実際にはないものである

ということを否定しているのではありません。また、そのような偶像にささげた肉が汚れると言っているのでもありません。それは、この10章のこれより後の部分にあって、先ほど引用しました25節ー26節で、

 市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

と教えていることからも分かります。
 パウロが問題としているのは、それを偶像にささげ、偶像からいただく肉として食べる人が、その偶像にあやかり、偶像とつながろうとしているということです。実体のない偶像は人と交わり、人を動かすことはできません。しかし、実際に、その人を偶像に縛りつけている存在がいるとパウロは教えています。そして、それは悪霊たちであるというのです。
 エペソ人への手紙2章1節ー2節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と記されています。「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」を支配しているのは「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」であると言われています。これは単数形で、悪霊たちのかしらであるサタンのことを指しています。
 サタンは優れた御使いとして造られたのに神のようになろうとして堕落しました。それで、神さまに逆らうことを動機とし目的として働いています。そのサタンが人を欺いて、造り主である神さまを礼拝することから引き離すのに最も有効なものとして用いているのが偶像礼拝です。ローマ人への手紙1章22節ー23節には、

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしま」うことが偶像礼拝の本質です。
 この世界には偶像が溢れています。しかし、サタンは一介の被造物であり、その存在に限りがあります。ですから、実際に、人々を偶像に縛りつけるように働いているのは悪霊たちです。
 ここで注意したいのは、悪霊たちが偶像にささげられた肉を汚すことはないということです。神さまが良いものとしてお造りになったものを汚れたものに変えてしまう力は悪霊たちはありません。サタンと悪霊たちが欺きによって生み出している「この世の流れに従い」、偶像礼拝をする人々が「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしま」うことによって、造り主である神さまに対して罪を犯し、自ら汚れたものとなってしまうのです。
 聖いとか、汚れているということは神さまとの関係のあり方について言われることです。聖いとは神さまとの関係が本来の関係にあり、神さまのものであることを意味しており、汚れているということは、神さまに敵対している状態を意味しています。サタンと悪霊たちは人を神さまに背かせることによって、汚れた状態に閉じ込めてしまっています。その主要な手段が偶像礼拝です。
 「イゼベルという女」は善意ではあるのでしょうが、目に見える問題を解決しようとして、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしま」うという偶像礼拝の本質的な問題が生み出す、キリストのからだである教会にとって決定的な弊害をもたらしてしまっています。


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