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説教日:2017年10月22日 |
イエス・キリストは彼女のことを、 この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。 と述べておられます。 ここで「偶像の神にささげた物」と訳されていることば(エイドーロシュトス[ここでは複数形エイドーロシュタ])は「偶像にささげた肉」を表しています(BAGDとEDNTはこの意味しか示していません)。[注] [注]このことばは、ここのほか、使徒の働き15章29節(「偶像に供えた物」)、21章25節(「偶像の神に供えた肉」)、コリント人への手紙第一・8章1節(「偶像にささげた肉」)、4節(「偶像にささげた肉」)、7節(「偶像にささげた肉」)、10節(「偶像の神にささげた肉」)、10章19節(「偶像の神にささげた肉」)、黙示録2章14節(「偶像の神にささげた物」)に出てきます。 このことには、テアテラにある教会のあったテアテラが商工業の盛んな町であったことが背景となっています。これについてはすでにお話ししていますが、改めて、まとめておきましょう。 テアテラには、同じ商工業を営む人たちがお互いの利益と援助のために組織した職人組合が多くあったことが分かっています。また、その職人組合に加入しないと、その町で商工業を営むことが実質上不可能になってしまうという現実がありました。 問題は、その職人組合に入っている人が参加しなければならなかった宴会にありました。その宴会は、通常、異教の神殿で行われ、それぞれの職人組合の守護神である偶像を礼拝しました。そして、その宴会において食する肉はその偶像にささげられたものでした。また、その宴会が不品行をともなうものとなっていくことがありました。 その宴会が不品行をともなうものとなってしまうことがどれほどあったかはっきりしないこともあって、ここでイエス・キリストが「不品行を行わせ」と言われているときの「不品行」は、偶像礼拝を指しているという見方もあります。確かに、ここに出てくる「不品行を行わせ」ということば(動詞・ポルネウオー)が表している「不品行」(ポルネウオーの名詞形はポルネイアで21節に出てきます)は、旧約聖書では、一般的な「不品行」とともに、神殿娼婦と性的な関係を持つことを表したり、比喩的に、契約の神である主、ヤハウェを捨てて偶像を礼拝することを表すためにも用いられることがあります。 このイエス・キリストのみことばについて、一般的には、偶像礼拝は、 偶像の神にささげた物を食べさせている ということの前提としてあり、「不品行を行わせ」ということととのかかわりで「イゼベルという女」が教えていることは、たとえ、宴会が不品行をともなうことになったとしてもそれに参加することに問題はないということであったと考えられています。ただ、21節において、 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。 と言われているときの「不品行」は、比喩的な意味の偶像礼拝を表していると考えられています。繰り返しになりますが、この場合は、おもに、職人組合の宴会における偶像礼拝で、そこでは文字通りの「不品行」をともなうものとなっていくことがありました。 これはテアテラにある教会に見られる問題ですが、この前の2章12節ー17節に記されている、ペルガモにある教会に対するイエス・キリストの語りかけにおいても、同じような問題が指摘されていました。14節ー15節には、 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 と記されています。 ここでは「ニコライ派の教え」が旧約聖書に出てくる「バラムの教え」になぞらえられています。そして、バラムについては、 バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。 と言われています。出てくる順序は違いますが、ここにも、「偶像の神にささげた物を食べさせ」ることと「不品行を行わせ」ることが出てきます。このことは、「イゼベルという女」が「ニコライ派の教え」の影響を受けていることを示しています。 ペルガモにある教会に対するみことばでは、 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。 と言われています。これは、ペルガモにある教会においては、事態はまだそれほど深刻になっていないことを示しています。それで、ここでは、「ニコライ派の教え」が、荒野を旅するイスラエルを惑わした「バラムの教え」になぞらえられています。バラムの働きは最終的には、主によって阻止されています。もちろん、16節に、 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。 と記されていることは、これが深刻な事態をもたらす危険性をともなっており、それゆえに、悔い改めるべきことが緊急のことであることを示しています。 これに対して、テアテラにある教会においては、「イゼベルという女」の教えが、すでに、相当な影響を与えていることが示されています。それで、彼女は北王国イスラエルの歴史上、主の御前に、最も悪を行った王と見なされているアハブをそそのかした女王で、彼女自身が聖書に出てくる中で、主の御前に、最も悪を行った女性と見なされているイゼベルになぞらえられています。 ちなみに、「ニコライ派の教え」はエペソにある教会にも入り込んできていました。ただし、エペソにある教会では「ニコライ派の教え」は退けられていました2章6節に、 あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。 と記されているとおりです。 「イゼベルという女」の教えがこれほど危険な教えであったにもかかわらず、テアテラにある教会において、それを受け入れる信徒たちが多かったことには、先ほどお話ししましたように、テアテラが商工業の盛んな町であったという背景があったと考えられます。職人組合に加入しなければ携わっている職業を維持していくことができない一方で、職人組合の宴会に出席して偶像礼拝や不品行に加担することが、主に背くことになるという厳しい状況に置かれていた信徒たちにとっては、「イゼベルという女」の教えは、自分たちの苦しみを汲み取ってくれている暖かい教えであると思われたことでしょう。以前お話ししましたように、彼女自身がとても暖かく魅力的な女性であった可能性があります。 しかし、彼女の教えはそれに従う人々を、主であるイエス・キリストから引き離してしまい、自らの罪がもたらす滅びへと至らせてしまうものでした。その意味で「イゼベルという女」は「預言者だと自称して」いましたが、マタイの福音書7章15節でイエス・キリストが、 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 と戒めておられる「にせ預言者」でした。 このようなこともあって、「イゼベルという女」に従っている人々は、もともとイエス・キリストを信じていなかった人々であるという見方があります。その根拠とされているのは、先ほど取り上げた、イエス・キリストの、 わたしのしもべたちを教えて誤りに導き という教えに出てくる「誤りに導き」ということばが、黙示録の中では、すべて、サタンとサタンに仕えているものたちの働きを指しているとともに、惑わされている人々が主の民ではないということにあります。 けれども、ここでイエス・キリストは、惑わされている人々のことを「わたしのしもべたち」と呼んでおられます。それで、ここで「イゼベルという女」に従っている人々は、イエス・キリストを信じている人々であったと考えられます。また、そうであるからこそ、この人々は厳しい状況に置かれていたのです。 ここにはもう一つの問題があります。 すでにお話ししましたように、ここでイエス・キリストが、 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。 と言われていることは、テアテラにある教会において彼女の教えに従っている人々が相当数いたことを示しています。しかも、その人々はイエス・キリストを信じて、主と告白していたテアテラにある教会の信徒たちでした。 そうであるとしますと、この「イゼベルという女」の教えには相当の説得力があったと考えられます。ただ、職人組合に加入し、その宴会に参加して、偶像の神を拝むのも、その偶像にささげられてから偶像の神から賜ったものとしての肉を食べるのも、さらには、それの宴会が不品行をともなうものになっていったとしても大丈夫であると教えるだけでは、イエス・キリストを信じている信徒たちに対しては説得力がありません。もちろん、彼女は「預言者だと自称して」いましたが、それだけで、テアテラにある教会の信徒たちが納得してしまったとは思われません。むしろ、彼女の教えることに、何か、「なるほど、そう考えればいいのか」と思わせるものがあったのではないか。それゆえに、彼女は「預言者だと」思わせるものがあったのではないかと思われます。 おそらく、このことに対するヒントは、24節に記されている、 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。 というイエス・キリストの語りかけに出てくる「サタンの深いところ」が何を意味しているかにあると思われます。 ことば遣いの上からは、これが何を意味しているかについては意見が二つに分かれています。 一つの見方は、これは文字通り「サタンの深いところ」であると理解します。 もう一つの見方はコリント人への手紙第一・2章10節に、 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 と記されている中に出てくる「神の深み」に注目します。ここで使われている「深み」ということば(バソス[名詞])は、「サタンの深いところ」の「深いところ」(バシュス[形容詞])と異なりますが名詞と形容詞の関係にある同族語です。この見方では、「イゼベルという女」とその追従者たちは、自分たちが「神の深いところ」を知っていると主張しているけれども、イエス・キリストは、ここで、それは実際には「サタンの深いところ」であると言っておられると理解しています。 そして、この理解を支持することとして、2章9節に、 またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たち が出てくることを上げています。けれども、これは決定的な根拠にはなりません。2章9節と同じようなことを示そうとするなら、単に、 彼らの言うサタンの深いところ というのではなく、2章9節のように、 神の深みを知っていると言っているが、実はそうでなく、かえってそれはサタンの深いところである と言われるのではないかという反論ができます。 これをどのように理解するとしても、ここで、「イゼベルという女」とその追従者たちが教えていることが「サタンの深いところ」であることが示されていることには変わりがありません。 それでは、この「サタンの深いところ」とは具体的にはどのような教えなのでしょうか。これについては、一般に、後に教会の教父たちが取り扱うようになるグノーシス主義的な教えのごく初期の形であると考えられています。これについては、バークレーの説明が分かりやすいので、それを引用しておきます。バークレーは、 こういう人たちは、人にはあらゆる種類の罪を経験してみる義務があること、本当の鍛練とは、体を罪にうずめながら精神と霊魂をきよく保つことである、と考えていた。人が快楽にひたらないままで快楽から遠ざかっていたとしても、取るに足らない。情欲に身を任せないままに禁欲したとしても、大したことではない。本当に偉いのは、快楽にふけりながらその限界を守り、そのとりこにならないことである。快楽にふけることは一種の魂の鍛練である。こういうように考えていた。そしてサタンの深みを知っている者とは、悪を経験するために、わざわざ悪の深みに入り込んだ人のことである。 と述べています(バークレー『ヨハネの黙示録(上)』村松あき子訳、142ー143頁)。 ただ、バークレーはこれを「異端者の間で広く受け入れられていた一種の信仰」と呼んでいて、それがグノーシス主義的な教えであると特定化していません。これは、グノーシス主義の道徳廃棄論者的な教えと実質的には同じ教えです。その道徳廃棄論者的な教えに基づく生き方は「教父たちの記していることから分かることであるが、そのおもな現れは、不道徳なことを行うこと、また、偶像にいけにえとしてささげられた物を食べることにあった。まさに、テアテラとペルガモの異端的な信徒たちの場合と同じである。」と言われています(Stephen S. Smally, The Revelation to John. IVP,2005, p.76)。 黙示録が記された時代に、ごく初期のグノーシス主義的な考え方が広まっていたのであれば、アジアにある七つの教会の信徒たちも、イエス・キリストを信じるようになる前から、そのような教えになじんでいたはずです。そうであれば、彼らは「イゼベルという女」とその追従者たちが教えていたであろうグノーシス主義の道徳廃棄論者的な教えを、私たちよりはるかに受け入れやすい状態にあったと考えられます。それは、特に、テアテラにある教会の信徒たちの中で、職人組合に加入していた人々にとっては、より受け入れやすいものであったと考えられます。 しかし、イエス・キリストはこのような教えは、まさに、文字通り「サタンの深いところ」であり、決して「神の深み」ではないということを示しておられます。 同じような危険は別の形でももたらされます。 たとえば、ローマ人への手紙5章20節ー22節には、 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。 と記されています。ここでは、 罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 という、私たちの思いをはるかに越えた主の恵みの豊かさが示されています。けれども、このような教えさえも、ねじ曲げられてしまう可能性があります。 パウロは続く6章1節ー2節において、 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。 と記しています。これは、 罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 というのであれば、 恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべき なのではないかという主張が出てくることを想定しています。これは単なる想定ではなく、明らかに、実際に、そのような主張があったと考えている学者もいます。 ここまであからさまに、 恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべき なのではないかと言わなくても、実質的には、これを隠れみのにして、罪に対して緩やかに考えたほうがよいと主張されたり、罪を軽く考えてしまうことがあります。 しかし、パウロは、 絶対にそんなことはありません。 と言って、これを強く否定しています。そして、その理由として、 罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。 と述べています。エペソ人への手紙2章1節で、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった と言われている私たちが「罪に対して死んだ」のだと言うのです。そして、そのように、私たちが「罪に対して死んだ」のは、まさに、 罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 と言われている「恵み」によって、私たちの現実となったことなのです。 確かに、私たちのうちにはなおも罪の性質が残っていますし、私たちは実際に罪を犯します。そうであるから、ヨハネの手紙第一・1章9節には、 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 と記されています。この約束も、 罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 と言われている「恵み」に基づいています。しかし、これも、私たちが罪のうちにとどまっていてよいということを教えるものではありません。ヨハネはこのすぐ後の2章1節において、 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。 と記しています。そして、これに続く1節後半ー2節において、 もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。 とも記しています。ここでも、罪に対して死んでいる私たちがなおも罪を犯してしまうことに対して、「私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物」となってくださったイエス・キリストが、その私たちのために取りなしてくださっていると言われています。ここでも、やはり、イエス・キリストにあって私たちに示されているのは、 罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 と言われている「恵み」にほかなりません。 主が完全な罪を贖いを備えてくださって、どのような罪をも赦してくださるのは、その恵みによって、私たちがイエス・キリストにあって罪に対して死んでいることを、私たちの地上の生涯をとおして、私たちの成長とともに、よりはっきりと私たちの現実にしてくださるためです。 |
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