黙示録講解

(第310回)


説教日:2017年10月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(63)


 今日も、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。今お話ししているのは、イエス・キリストがテアテラにある教会に指摘しておられる「非難すべきこと」についてです。
 そのことを記している20節ー23節では、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

と言われています。
 ここでイエス・キリストは「イゼベルという女」が「預言者だと自称して」、ご自身の「しもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている」ことを指摘しておられます。この「イゼベル」は列王記第一と列王記第二に出てくる、北王国イスラエルの王アハブの妻「イゼベル」のことです。
 イゼベルは夫アハブをそそのかして、アハブとイスラエルの民に「」に対する罪を犯させました。それと同じように、「イゼベルという女」はテアテラにある教会の信徒たちを惑わして、主に対して罪を犯させているというのです。
 繰り返しになりますが、イゼベルはバアル礼拝を推進して、バアルを北王国イスラエルの主神にしようとしました。そのために、バアルの預言者450人と、バアルの妻アシェラの預言者400人を直接的に庇護していました。その一方で、「」の預言者たちを殺害し、イスラエルから「」の預言者を根絶やしにしようとしました。
 聖書に記されている女性の中で、「」の御前において最も悪をなした人物は誰かと問われれば、すべての人がイゼベルであると答えることでしょう。イエス・キリストは、そのように悪名の高いイゼベルになぞらえることによって、この「イゼベルという女」がテアテラにある教会においてなしていることがどれほど深刻なことであるかを、テアテラにある教会の信徒たちに、そして「イゼベルという女」自身に伝えておられます。
 先主日には、このような意味をもっている警告が、テアテラにある教会の信徒たちに伝えられただけでなく、「イゼベルという女」自身にも伝えられているということに触れましたが、そのことを具体的にお話ししないままになっていました。今日は、このことについてお話ししたいと思います。
 まず、ここに記されているイエス・キリストのみことばに注目してみましょう。
 21節で、イエス・キリストは、

 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

と述べておられます。
 これがどのような形でなされたのかは記されていないので、確かなことは分かりません。ただ、この時、イエス・キリストは、パトモスという島に流刑になっているヨハネをとおして、アジアにある七つの教会のそれぞれに語りかけておられます。具体的には、パとモスにおいてイエス・キリストからの啓示を受けたヨハネは、それを書き記して、自分の許に遣わされてきた人に託したということです。これと同じように、イエス・キリストはヨハネをとおして、この「イゼベルという女」に悔い改めるようにと語りかけてくださっていた可能性があります。それも、このアジアにある七つの教会への語りかけと同じように、パトモスという島にいるヨハネをとおしての語りかけであったのではないかと思われます。
 ここで注目したいのは、

 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

というイエス・キリストのみことばにおける時制の違いです。

 わたしは悔い改める機会を与えた

というみことばは(不定過去時制で表されていて)、イエス・キリストがすでにこの女性に悔い改める機会を与えてくださったことを示しています。これに続く、

 この女は不品行を悔い改めようとしない。

というみことばは、現在時制で表されていて、かたくなに悔い改めようとしていない状態を表しています。
 それで、イエス・キリストは、続く22節ー23節において、

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。

というさばきの宣告をしておられます。
 ここには、三つのさばきの宣告のことばがありますので、それぞれを見てみましょう。
 第一は、「イゼベルという女」に対するさばきの宣告で、

 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。

と言われています。
 最初に出てくる「見よ」ということばは、このさばきが間近に迫って来ていることを示すもので、強い警告としての意味をもっています。
 また、「投げ込もう」と訳されていることばは、現在時制で表されています。これがどのような意味合いをもっているかについては見方が別れていますが、これもさばきが迫って来ていることと、確かなことを示していると考えられます。
 「病の床」と訳されていることば(クリネー)は、文字通りには「」で、これについても見方が別れていますが、結論的には、新改訳のように、さばきとして「病の床」に就くようになることを示していると考えられます。この場合は、ただ単に病気になるというだけでなく、それがさばきであるということですので、深刻な病に見舞われること、それゆえの苦しみを味わうことになるということを意味していると考えられます。
 第二は、「この女と姦淫を行う者たち」に対するさばきの宣告で、

 この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

と言われています。
 「この女と姦淫を行う者たち」の「姦淫を行う者たち」は現在分詞で表されていて、冠詞がつけられて実体化されて人たちを表しています。これによって、実際に「姦淫を行っている者たち」ということを伝えています。
 「この女と姦淫を行う者たち」と言うと、この人々が「イゼベルという女」と姦淫を行っているかのようにも聞こえますが、この後の、

 この女の行いを離れて悔い改めなければ

ということばから、これは「イゼベルという女」の誤った教えに導かれて、あるいは、そそのかされて「女の行い」を行っているということを意味していることが分かります。聖書の中では、しばしば、偶像礼拝をしている人々のことを、偶像と姦淫を行っている人々と言い表すことがあります。それと同じように「イゼベルという女」を受け入れ、その教えに従っているということです。
 とはいえ、彼らは単なる被害者であるわけではありません。先ほどお話しした、実際に「姦淫を行っている者たち」ということばが示しているように、彼らが彼女の誤った教えに従って歩んでいるという現実があります。それは、彼ら自身が彼女の教えに納得して、自らの意志によって受け入れているからです。その意味で、その責任は彼らにあります。それで、イエス・キリストは彼らが悔い改めるべきであることを示しておられます。それも、

 この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

というように、厳しい警告をもってのことです。
 こここで、

 大きな患難の中に投げ込もう。

と言われているときの「投げ込もう」ということばは、「イゼベルという女」に対して、

 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。

と言われているときの「投げ込もう」です。それと同じことばがもう1回用いられているというのではなく、その「投げ込もう」ということばが「この女」と「この女と姦淫を行う者たち」の両方にかかっているのです。それで、この、

 この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

というさばきの宣告も、そのさばきが迫って来ていることと、確かなことを示していると考えられます。
 この場合の「大きな患難」は、「イゼベルという女」が「病の床に」投げ込まれると言われていることとは違って、より一般的な苦難、苦しみを表しています。
 この「患難」と訳されていることば(スリプシス)は、黙示録の中では、1章9節で、ヨハネが、

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

と述べているときの「苦難」を表しています。
 また、イエス・キリストのスミルナにある教会へのみことばを記している、2章9節で、

 わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。

と言われており、10節で、

見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

と言われているときの「苦しみ」として出てきます。
 さらに、天において、神の御座の前で仕えている「十四万四千人」(千人の12倍のさらに12倍)の「白い衣を着ている」人々について記している7章14節において、

 彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

と言われているときの「患難」として出てきます。しかも、ここではテアテラにある教会に対する警告に出てくる「大きな患難」と同じ言い方がされています。
 ただ、これらは主イエス・キリストを信じて、従っている信徒たちが主に忠実であるがために受ける迫害による「苦しみ」です。これと同じことばによって表されている「苦しみ」、「患難」であっても、テアテラにある教会において「イゼベルという女」の教えに従って主に背いてしまっている人々が受けようとしているる「苦しみ」、「患難」は、主のさばきとしてもたらされるという意味で本質的な違いがあります。見える形は同じであっても、その意味が本質的に違っているのです。
 第三のさばきの宣告では、

 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。

と言われています。
 ここに出てくる「死病によって殺す」と訳されていることばは、文字通りには「死によって殺す」です。
 これと同じような表現は旧約聖書のエゼキエル書33章27節のギリシア語訳である七十人訳に出てきます。そこでは、主の契約に背いて、偶像を礼拝し、暴虐、忌み嫌うべきこと、不道徳なことを行いながら、なお、自分たちは約束の地を所有すると言っている南ユダの民に対するさばきが宣告されています。そのさばきの宣告の一つとして、

 要害とほら穴にいる者は疫病で死ぬ。

と言われています。この「疫病で死ぬ」という部分を七十人訳は、

 わたしは死によって殺す

と訳しています。
 この事例に示されているように、「死」ということば(サナトス)は「文脈によって特定の死に方、たとえば、不治の病、疫病を意味するようになった」(BAGD, 2nd.ed. p.351a)のです。それで、新改訳では「死病によって殺す」と訳されています。
 ここで「この女の子どもたち」と言われている人々がだれであるかについては見方が別れています。
 一つの見方では、この「この女の子どもたち」とこの前に出てくる「この女と姦淫を行う者たち」は同じ人たちであるとされています。そして、もう一つの見方では、それぞれは別の人たちであるとされています。
 まず注釈をしますと、新改訳は「この女の子どもたち」とこの前に出てくる「この女と姦淫を行う者たち」は別の人たちであるという見方を取っているので、

 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。

と訳しています。けれども、これは、

 また、わたしは、この女の子どもたちを死病によって殺す。

と訳すことができます。
 「この女の子どもたち」が「この女と姦淫を行う者たち」と同じ人々である場合には、ここで、

 また、わたしは、この女の子どもたちを死病によって殺す。

と言われていることは、その前で、

また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

と言われていることをさらに説明しているということになります。
 具体的には、

 また、わたしは、この女の子どもたちを死病によって殺す。

という第三のさばきのことばは、「この女と姦淫を行う者たち」とは「この女の子どもたち」とも言うべき人々であることが示されていることになります。その場合には、「この女と姦淫を行う者たち」は、この人々が彼女の罪深い行いに加わっていることを意味していて、「この女の子どもたち」は、この人々が彼女の教えを受け入れていることを意味していると説明されることがあります。
 また、前の部分で、悔い改めることをしないなら、「大きな患難の中に」投げ込まれると一般的な言い方で言われていることは、具体的には「死病によって」殺されるということだと説明されているということになります。
 もう一つの、「この女の子どもたち」は「この女と姦淫を行う者たち」とは別の人たちであるとする見方では、「この女の子どもたち」は、「イゼベルという女」の教えに心酔しきってしまっている人々で、彼女とまったく同じ立場に立っていると考えます。
 これに対して、この前に出てくる「この女と姦淫を行う者たち」は、彼女の影響を受けて、その教えに従っているけれども、まだ、その教えに心酔しきっているわけではないと考えます。それで、この人々に対しては「この女の行いを離れて悔い改めなければ」という条件が付けられている、すなわち、悔い改めの余地があるとされていると言います。しかし、「この女の子どもたち」に対してはそのような条件が付けられていない、すなわち、もはや、彼らに悔い改めの余地はないとされ、その点でも、「この女」と同じであると言われています。
 また、この悔い改めの余地にかかわる「この女の子どもたち」と「この女と姦淫を行う者たち」との違いから、それぞれは別の人々のことであると主張されています。

          *
 問題は、今日お話ししようとしていることにあります。果たして、ここでは「イゼベルという女」には、もはや悔い改める余地はなく、だたさばきを受けるだけであると言われているのだろうかという問題です。
 改めて振り返っておきますと、イエス・キリストは「イゼベルという女」について、

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。

と語っておられます。
 先ほどお話ししましたように、

 わたしは悔い改める機会を与えた

というみことばは、イエス・キリストがすでにこの女性に悔い改める機会を与えてくださったことを示しています。これに続く、

 この女は不品行を悔い改めようとしない。

というみことばは、現在時制で表されていて、かたくなに悔い改めようとしていない状態を表しています。
 そして、このことを受けて、イエス・キリストは、

 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。

というさばきの宣告をしておられます。
 これも先ほどお話ししましたように、「見よ」ということばは、このさばきが間近に迫って来ていることを示すもので、強い警告としての意味をもっています。また、「投げ込もう」と訳されていることばは、現在時制で表されていて、さばきが迫って来ていることと、確かなことを示していると考えられます。
 そして、そのさばきとは、彼女が「病の床」に就くようになることで、単なる病気ではなく、深刻な病に見舞われるようになり、そための苦しみを味わうことになるということを意味していると考えられます。
 これらのことを考えますと、これはもう最後通牒がなされたとしか思われません。それで、私が知るかぎりの学者たちは、もはやこの「イゼベルという女」がさばきを受けることは避けられないとしています。
 けれども、私は先々主日の説教でお話ししました、北王国イスラエルの王であり、イゼベルの夫であるアハブの事例を思い起こすべきであると考えています。
 そのことをまとめると次のようになります。
 列王記第一・21章(節については省略します)に記されていますが、アハブはイズレエルにある自分の宮殿に隣接するナボテのぶどう畑を手に入れようとして、よい条件を出してナボテと交渉しました。けれども、ナボテは「」がモーセ律法をとおして示しておられる、相続地に関するみこころに従って、アハブの願いを受け入れませんでした。相続地に関する「」のみこころは、やがて私たち「」の民が新しい天と新しい地を受け継ぐようになることを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていました。ナボテがアハブの願いを退けたことを知ったイゼベルは、邪悪なはかりごとをもってナボテを陥れ、偽りの証人を立てて、ナボテが神を冒 し、王に反逆したとして処刑し、殺害しました。それによって、ナボテのぶどう畑を没収していまいました。
 それを知ったアハブは、ナボテのぶどう畑を自分のものとするために、首都サマリヤからナボテのぶどう畑のあるイズレエルに下って来ました。「」はそのアハブのもとに預言者エリヤをお遣わしになりました。そして、エリヤをとおしてアハブに、

はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。

というアハブ自身へのさばきを宣告されるとともに、

 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。

と言われて、オムリの家すなわちオムリ王朝がアハブの代で断絶するようになるというさばきを宣告されました。
 アハブは、王の願いを退けてまで、相続地に関する「」のみこころに従ったナボテをわなにかけて殺害したことをよしとしただけではありません。そのような事態になって、なお、ナボテのぶどう畑を自分のものとしようとしていることは、まさにナボテが危険を顧みず、王であるアハブにあかしした相続地に関する「」のみこころに背く罪を犯しているのです。
 この時、「」は預言者エリヤをとおしてアハブに最後通牒を突きつけられました。
 しかし、列王記第一・21章に記されているアハブの罪に対する記述はこのことで終らないで、さらに、それに追い討ちをかけるように、

アハブのように、裏切っての目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った。

と記されていました。これによってみことばは、アハブの罪の深刻さにだめを押しています。
 誰が見ても、どう考えても、アハブに対するさばきの執行は避けられないとしか思えません。
 しかし、これに続いて、

アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。

と記されています。アハブはエリヤをとおして告げられた「」のさばきの宣告を聞いて、へりくだったったというのです。
 それを受けて、「」はエリヤをとおして宣告しておられた、

はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。

というさばきの執行も、

 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。

というさばきの執行も撤回されました。
 このアハブの事例は1回限りの特殊なことであって、ほかのことには当てはまらないと言うべきでしょうか。しかし、もしそのようなことであれば、どうして、このアハブのことがここに記されているのでしょうか。
 また、私たちは預言者ヨナのことを思い起こします。
 ヨナ書3章4節に記されているように、「」は預言者ヨナをとおして、アッシリアの首都ニネベに対して、

 もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる

というさばきの執行を宣告されました。それは「もう四十日すると」と言われているように、もう間近に迫っているさばきの宣告です。
 ところが、そのさばきの宣告を聞いたニネベの王を初めとする人々は、神の御前にへりくだって、悔い改めました。それをご覧になった神は、

 彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

と記されています。
 これは主のあわれみがどれほど深いものであるかを示しています。それはヨナ自身が認めています。4章2節には、ヨナは「」に、

 私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていた

と述べています。
 ちなみに、これは「」がニネベの人々を赦されたことに対する抗議のことばの中で語られたものです。それは、やがてアッシリアが北王国イスラエルを滅ぼすようになるのですが、そのことをヨナが予見していたからであると考えられます。ヨナが「」の命令に背いて、ニネベに行かないでタルシシュへと行ったのは、自分の身を犠牲にしてでもイスラエルを守ろうとしたためであったと考えられます。ニネベに行って「」のさばきを宣告しなければ、ニネベは滅ぼされるようになります。そうすれば、アッシリアがイスラエルを滅ぼすこともなくなると考えたということでしょう。
 このように、ヨナの抗議にはそれとしての理由があるのですが、「」は「とうごま」のを用いて、ニネベへのあわれみのわけをお示しになりました。そのことについては、ヨナ書4章は全体が11節しかありませんので、お読みになってください。
 このように「」のあわれみがどれほど深いものであるかということは、決して他人事ではありません。私自身が、この罪の深さのためにさばきを受けて滅ぼされて当然の者でした。そのような者が、罪を認めて主の恵みに頼ったときに、その罪を赦していただいています。
 みことばは、「」がさばきを前もって宣告されるとき、それはもう運命のように決まっていて、どうすることもできないということではないことを示しています。言い換えますと、罪を悔い改めるのに遅すぎることはないと教えています。
 もしこれが、みことばが示している「」のみこころであれば、それは、イエス・キリストが「イゼベルという女」について語っておられる、

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。

という最後通牒のようなさばきの宣告も、もう運命のように決まってしまっていると考える必要はありません。
 ここで、

 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

というイエス・キリストのみことばの現在時制の「悔い改めようとしない」は、彼女がかたくなに悔い改めようとしない現実を示しています。その一方で、これは、もう終ったこととして、彼女は悔い改めなかったから、さばきを下すのだということでもありません。悔い改めの機会はなおも残されているのではないでしょうか。
 また、

 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。

と言われているときの、「見よ」も「投げ込もう」も、次に出てくる「この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に」ということばにもかかっています。
 もし、このイエス・キリストのみことばが「この女と姦淫を行う者たち」に対する語りかけとしての意味をもっているとしたら、同じように、「イゼベルという女」に対する語りかけとしての意味をもっているのではないでしょうか。これは彼女を抜きにして語られていることではないと考えられます。
 確かに、「この女と姦淫を行う者たち」に対しては、「この女の行いを離れて悔い改めなければ」と言われています。これに対して、「イゼベルという女」についてはこのようには言われていません。けれども、繰り返しになりますが、

 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

というイエス・キリストのみことばの現在時制の「悔い改めようとしない」は、彼女がかたくなに悔い改めようとしない現実を示しています。イエス・キリストはその現実を突きつけることにおいて彼女に悔い改めを迫っておられると考えることもできます。
 このようなことから、ここで、イエス・キリストは「イゼベルという女」が、このうえなく深刻で、厳しいさばきが迫って来ているという現実に直面していることをお示しになりつつ、なおも、彼女が悔い改める機会を与えてくださっていると考えることができます。
 そうであれば、これは、また、

 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す

と言われている「この女の子どもたち」が「この女と姦淫を行う者たち」とは違うとしても、この人々にも当てはまります。


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