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説教日:2017年10月8日 |
旧約聖書の背景についてはもう一つ触れておきたいことがありますが、それはいったんおいておいて、これまでお話ししてきたことを踏まえて、「イゼベルという女」がテアテラにある教会においてなしていたことについてお話ししたいと思います。 イエス・キリストは、この「イゼベルという女」のことを、 この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。 と述べておられます。今日は、特に、このことについてお話しします。 まず、この「イゼベルという女」は「預言者だと自称している」と言われています。 イエス・キリストがこのことを「非難すべきこと」として取り上げているのは、女性が預言者であること自体に問題があるという意味ではありません。 聖書の中には女性の預言者が何人か出てきます。その例を見てみましょう。 まず、旧約聖書に出てくる女性の預言者たちを見てみましょう。 出エジプト15章20節では、モーセとアロンの姉のミリヤムが「女預言者」と呼ばれています。 士師記4章4節には、 そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。 と記されています。デボラは「イスラエルをさばいていた」と言われていますが、これは、続く5節に、 彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。 と記されていることを指しています。みことばは、イスラエルに士師が建てられたことを記すとき、「主」が「さばきつかさ」すなわち士師を「起こされた」と記していますが、デボラについてはそのように言われてはいません。デボラ自身も士師の一人として振る舞わないで、士師であるバラクを押し立てて、バラクを支えています。そして、バラクはデボラの預言の賜物を認めて、彼女の語る「主」のみことばに従っています。 列王記第二・22章14節には、 そこで、祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは、女預言者フルダのもとに行った。 と記されています。これと同じことは歴代誌第二・34章22節に記されています。「女預言者フルダ」の立場も、デボラと同じように考えることができます。 ネヘミヤ記6章14節には、 わが神よ。トビヤやサヌバラテのあのしわざと、また、私を恐れさせようとした女預言者ノアデヤや、その他の預言者たちのしわざを忘れないでください。 と記されています。「トビヤやサヌバラテ」はネヘミヤに敵対してエルサレム神殿の建設を妨害した者たちです。「女預言者ノアデヤや、その他の預言者たち」は「トビヤやサヌバラテ」に買収されて、偽りの預言をしました。「女預言者ノアデヤ」が出てきますが、彼女のことはここにしか出てこないので、具体的にどのようなことをしたのかは分かりません。 イザヤ書8章3節には、 そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。 と記されています。ここには名が記されていない「女預言者」が出てきます。ほとんどの学者がこの女性はイザヤの妻であると主張しています。私もいくつかの理由から、彼女はイザヤの妻であると考えています。 一つの問題ですが、彼女がイザヤの妻であれば、「女預言者」などとは言わないで「妻」と言ったはずであると言われることがあります。けれども、この8章3節に続く4節ー8節には、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、そのアッシリアがさらに南王国ユダ全土を覆うまでに迫ってくることが記されています。そして、そのような時に、なおも、7章14節において預言されていた「インマヌエル」が望みとして存在しておられることが示されています。このような重大なことが預言されるに当たって、預言者イザヤと、単なる妻ではなく、同じく預言者であった妻との間に子どもが生まれて、その子が「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(すばやく分捕り物を、迅速に戦利品を)と呼ばれてアッシリア軍の侵略のすばやさを預言的に表すのに用いられたことには意味があったと考えられます。 新約聖書にも女性の預言者が出てきます。 ルカの福音書2章36節には、 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。 と言われています。アンナはすでに84歳になっていましたが、エルサレム神殿において「夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」と言われています。そして、ヨセフとマリヤが「幼子イエス」を主にささげるために神殿に入ってきたときに、 エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。 と記されています。 使徒の働き21章9節には、 翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家に入って、そこに滞在した。この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。 と記されています。これはパウロが、エルサレムにいるユダヤ人クリスチャンたちの窮状を救うために異邦人クリスチャンが献げた献金を携えてエルサレムに上る途中でのことを述べています。 「あの七人のひとりである伝道者ピリポ」は、使徒の働き6章1節ー6節に記されている、毎日の配給のことで起こった問題に対処するために選ばれた七人の一人です。8章に記されていますが、ステパノの殉教の後、エルサレム教会への迫害が激しくなって人々が散らされたとき、ピリポはサマリアに行って福音のみことばを伝えたり、エチオピアの宦官に福音を伝えました。そのピリポに「預言する四人の未婚の娘がいた」ということです。 これらの事例から、みことばは女性の預言者の存在自体を問題としてはいないことが分かります。 イエス・キリストもそのことを問題としているのではなく、「イゼベルという女」が「預言者だと自称している」こと、したがって、主からみことばを与えられて、それを語っているのではないことを問題としておられます。しかも、実際には、主がみことばを委ねてお遣わしになったのではないのに、主からみことばを受けた預言者であると自称して、主の権威を装って語っているのです。それによって、テアテラにある教会の信徒たちをよりいっそう欺き惑わすことになります。 このようなにせ預言者、にせ教師に対しては、イエス・キリストが地上の生涯における教えの中で、繰り返し警告しておられたところです。このことは、テアテラにある教会があった初代教会の問題であるだけでなく、今日の私たちの時代の教会の問題でもあります。それで、この問題についてもう少しお話ししたいと思います。 イエス・キリストがメシアとしてのお働きを始めた初期のころのことを記している、マタイの福音書5章ー7章には、一般に「山の上の説教」、「山上の垂訓」と呼ばれる一連のイエス・キリストの教えが記されています。その最後の部分に当たる7章15節ー27節の初めの15節ー20節には、 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。 と記されています。 ここで、イエス・キリストは、にせ預言者に気をつけるようにと教えておられます。そして、 彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 と教えておられます。彼らは見たところは「羊のなりをして」いるけれども、そのうちなる本質は「貪欲な狼」であると言われています。このことは、とても大切なことです。この場合の「羊」については、主の民の群れに属する者であることを指しているとか、害を与えない者であるというように理解されています。そのどちらも当たっていると考えられます。それとともに、ここでは、やはり、見たところとうちなる本質の違いに注意することにこの教えの主旨があると思われます。 このことは、また、続いて、イエス・キリストが、 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。 と教えておられることを理解するうえでも大切なことです。この教えは、さらに、 ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。 と説明された後に、最後に、もう一度、 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。 という教えで結ばれています。 それではその「実」とは何かということが問題となります。これについては、一般に、彼らの行いであるとか、より包括的に、教えから出ている行いであると言われています。 確かに、みことばは口先だけではなく、行いにおいて実践することが大切であることを繰り返し示しています。 ヨハネの手紙第一・3章18節には、 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。 と記されています。 ガラテヤ人への手紙5章6節には、 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。 と記されていて、まことの信仰は「愛によって働く信仰」であることが示されています。そして、6章10節には、 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。 と記されています。 ヤコブの手紙2章14節には、 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 と記されており、17節にも、 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。 と記されています。 けれども、これらは、信仰の本質にかかわることであり、主の民すべてに当てはまることです。それで、もし、行いを預言者とにせ預言者を見分けるための基準であるであるとすると、結局は、その人が生きた信仰をもっているかどうかを見分けるという、一般的なことになります。これでは、にせ預言者か本当の預言者かという賜物における違いを見分けるための特殊な基準としては不十分であると言わなければなりません。もちろん、真の預言者は生きた「愛によって働く信仰」をもっていなければなりません。その上に、さらににせ預言者か本当の預言者かという賜物における違いを見分けるための特殊な基準が必要であるということです。 これに対して、いや、そのにせ預言者の教えから出ている行いを判断することだから、一般的なことではないと言われるかも知れません。けれども、にせ預言者たちは「羊のなりをしてやって来る」と言われています。彼らは本物の信徒であるかのように装ってやって来るのではないでしょうか。そして、本物の信徒であるように見えるからこそ、彼らの言うこと、教えることにだまされてしまうのではないでしょうか。その意味で、彼らが教えていることと行うことの間にはズレがあるのではないでしょうか。 コリント人への手紙第二・11章13節ー14節には、 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。 と記されています。これはそのままにせ預言者にも当てはまり、その「変装」は巧妙なものなのではないでしょうか。 ですから、その人の行いを基準にして、その人がにせ預言者であるかどうかを見分けることは、極めて難しいことであると言うほかはありません。 このことをさらに考えるために、このイエス・キリストの教えに類似している教えを見てみましょう。 マタイの福音書12章33節ー34節には、 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。ここでは、「木のよしあしはその実によって知られる」というときの「実」はその人の語ることばを指しています。 同じことは、ルカの福音書6章43節ー45節に、 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。 と記されています。 これらのみことばから、イエス・キリストがにせ預言者を見分けるための基準であると言われる「実」は、その預言者が語ることばのことであると考えることができます。その人が語る預言のことばによって彼が本当の預言者であるか、にせ預言者であるかを見分けることができるということです。 けれども、これでは十分な答えにはなりません。というのは、その預言者が語ることばが、確かに「主」から受けたみことばであるとどのように判断するかという問題が残るからです。 このことに関して、光を与えてくれるのは旧約聖書に記されている預言者についての教えや、具体的な事例です。 申命記13章1節ー3節には、 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。 と記されています。 ここでは、「預言者または夢見る者」が「何かのしるしや不思議を示し」、それが実現した場合のことが取り上げられています。通常、その「しるしや不思議」が実現したことは、その預言の確かさを示していると受け止められます。しかし、ここでは、その預言者が語っていることばが「主」の教えに背いているので、それは「主」が与えた預言のみことばではないということが示されています。 同じ申命記18章9節ー22節には、「主」がイスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れてくださってから、預言者を与えてくださることが記されています。この「主」のみことばの最後の20節ー22節には、 ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。 と記されています。 ここでは、本当の預言者とにせ預言者の区別の基準が示されています。一つは、「主」の御名によってではなく、「ほかの神々の名によって告げたりする預言者」はにせ預言者であるということです。もう一つは、その「預言者が主の名によって語っ」た場合のことです。その場合には、 そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。 と言われています。これは一般的な理解です。 これには、二つの現実的な問題がともなっています。 一つは、ある預言者が「主」の御名によって語った場合に、その預言のことばに聞き従うべきかどうかの判断をするためには、彼が語ったことが実現したかどうかを見なければならないということになります。けれども、それでは、それが本当の預言であったことが分かったときには、もう結果は出ているので、遅すぎるという問題です。 もう一つは、その預言者が語ったことばが、エレミヤの預言のように、捕囚の期間が70年である(エレミヤ書25章11節ー12節)ことが告げられても、それを聞いた人々にとっては、その実現を見る前にこの世を去ってしまうという問題です。 これに対して、クレイギーは新改訳が「そのことが起こらず」と訳しているときの「起こらず」と訳していることばが直訳では「そのことばはない」となり、神が預言者をとおして告げられたとされることばが、神がすでに啓示しておられるみことばと一致していないということを示唆していると述べています(NICOT, p.263)。 これは、先ほどの、13章1節ー3節に記されている教えと同じようなことです。 そして、クレイギーは、これとともに、そのことが「実現しないなら」という基準があるとしています。この場合は、特に、将来のことを預言することに当てはまり、その預言者の活動が長く続いていく中で、彼がいろいろなことについて語ったことが実現していくことによって、彼が本当の預言者であることが示されていくという理解を示しています。 いずれにしましても、預言者の語ることに聞くべきかどうかを判断することに関する申命記13章1節ー3節と18章20節ー22節の教えにおいては、預言者の行いが判断基準であるという教えはなく、あくまでも、その預言者が語ったことばそのものが真実なものであるかどうかによっているとされています。 このことに関連して、さらに、旧約聖書に出てくるにせ預言者にかかわる事例を見てみましょう。先ほど引用した、ネヘミヤ記6章14節には、 わが神よ。トビヤやサヌバラテのあのしわざと、また、私を恐れさせようとした女預言者ノアデヤや、その他の預言者たちのしわざを忘れないでください。 というネヘミヤのことばが記されていました。 ネヘミヤが神さまにこのように訴えたのは、この少し前の10節ー12節でネヘミヤが、 私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家に行ったところ、彼は引きこもっており、そして言った。「私たちは、神の宮、本堂の中で会い、本堂の戸を閉じておこう。彼らがあなたを殺しにやって来るからだ。きっと夜分にあなたを殺しにやって来る。」そこで、私は言った。「私のような者が逃げてよいものか。私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか。私は入って行かない。」私にはわかっている。今、彼を遣わしたのは、神ではない。彼がこの預言を私に伝えたのは、トビヤとサヌバラテが彼を買収したからである。 と述べている出来事があったからです。 ここに出てくる「シェマヤ」は、「トビヤとサヌバラテ」に買収された預言者の一人です。彼はネヘミヤの味方を装って、敵がネヘミヤを殺しに来ると預言し、ネヘミヤに「神の宮、本堂の中で」会おうと語りかけました。これを聞いたネヘミヤは、シェマヤの預言が偽りであることを見抜きました。ネヘミヤがそのことを見抜いた理由は、彼が、 私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか。 と言っていることからわかります。ネヘミヤは、民数記3章10節、38節、18章4節、7節などに記されている、祭司以外の者が「主」の宮に入ってはならないという「主」の戒めに照らして、シェマヤの預言が偽りであることを見抜いたのです。 これは、「主」がすでに啓示してくださっているみことばの教えに照らして、預言者が語った預言が真実であるか、偽りであるかを判断している事例です。 これらのことから、にせ預言者に惑わされないようにというイエス・キリストの教えを守るためには、すでに「主」が啓示してくださっているみことばの教えを理解し、悟り、それを自分のうちに豊かにもっていることが必要であることが分かります。 このことは、テアテラにある教会の信徒たちを惑わしていた「イゼベルという女」の教えを見分けることについても当てはまります。 すでに「主」が啓示してくださっているみことばの教えを理解し、悟り、それを自分のうちに豊かにもっていることは、私たちにとって、単なる義務ではなく、私たちの喜びでもあります。詩篇119篇11節には、 あなたに罪を犯さないため、 私は、あなたのことばを心にたくわえました。 と記されており、111節には、 私は、あなたのさとしを 永遠のゆずりとして受け継ぎました。 これこそ、私の心の喜びです。 と記されています。 |
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