黙示録講解

(第308回)


説教日:2017年10月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(61)


 先主日は、私が夏期休暇をいただいたために、黙示録からのお話はお休みしました。今日は2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話に戻ります。
 イエス・キリストは20節ー23節で、テアテラにある教会にある「非難すべきこと」を指摘しておられます。そこには、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

と記されています。
 ここでは「預言者だと自称している」「イゼベルという女」が、イエス・キリストの「しもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている」ということが取り上げられています。
 ここで「イゼベルという女」と言われているときの「イゼベル」は、列王記第一と列王記第二に出てくる、北王国イスラエルのオムリ王朝第二代目の王アハブの妻「イゼベル」を指していて、ここでは黙示文学における表象として用いられています。これによって、イエス・キリストはこの女性がテアテラにある教会においてなしていることが、アハブの妻「イゼベル」がイスラエルでなしたことに相当することを示しておられます。
 イゼベルは夫アハブをそそのかして、イスラエルにバアル礼拝を導入し、それを推進して、バアルをイスラエルの主神にしようとしました。そのために、バアルの預言者450人と、バアルの妻とされていた女神アシェラの預言者400人をお抱え預言者として、直接的に庇護していました。その一方で、「」、ヤハウェ以外に神はないとする「」の預言者たちを殺害し、イスラエルから「」の預言者を根絶やしにしようとしました。
 前回は、アハブがイズレエルにあった宮殿に隣接するナボテのぶどう畑を奪い取ったことにつてお話ししました。イズレエルは北王国イスラエルの首都サマリヤに次ぐ第二の都市であったと考えられます。
 最初に、アハブがナボテのぶどう畑を手に入れようとして、よい条件を提示して、ナボテと交渉しました。しかし、ナボテは父祖の時代に割り当てられた相続地を手放すことは、「」がモーセ律法をとおして示しておられるみこころに反することであるという理由によって、王の願いを退けました。当然、イスラエルの王であるアハブは、モーセ律法の規定を知っているはずです。それでも、ナボテに有利な条件を出せば、ナボテもぶどう畑を売るだろうと考えていたわけです。しかし、ナボテがいくらそれが王の願いであっても、また、自分に有利な条件であったとしても、「」がモーセ律法を通して示してくださっているみこころに背くことはできないことを示したとき、アハブは引き下がるほかはありませんでした。アハブの中には、かすかにではありますが、「」への恐れが残っていました。しかし、アハブはすべてを受け入れたわけではなく、不機嫌になって食事もしようとはしませんでした。
 しかし、イゼベルは「」ヤハウェの代わりにバアルを北王国イスラエルの主神としようとした者です。「」への恐れはなく、「」のみこころも眼中にありませんでした。彼女の目にはアハブは王の威厳をまったく失ってしまっているとしか写りませんでした。それで、彼女はイズレエルの町の指導者たちに、偽りの証言者を立て、ナボテを冒 罪と反逆罪を犯した者に仕立て上げ、石打の刑を執行するよう指示しました。それが実行に移され、イゼベルはナボテのぶどう畑を没収するようにしてしまったのです。
 アハブはイゼベルからナボテが死んだことを聞き、ナボテのぶどう畑を手に入れようとしてサマリヤからイズレエルに下って行きました。この時、アハブの中からかすかに残っていたであろう「」への恐れは消し飛んでしまっていたと考えられます。
 このことに対して、「」はイズレエルに向かうアハブの許に預言者エリヤを遣わして、「」のさばきを宣告されました。そのことは列王記第一・21章17節ー24節に記されています。今日お話しすることと深くかかわっていますので、そこを見てみましょう。そこには、

そのとき、ティシュベ人エリヤに次のようなのことばがあった。「さあ、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。彼にこう言え。『はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』また、彼に言え。『はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』」
 アハブがエリヤに、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ」と言うと、エリヤは答えた。「あなたが裏切っての目の前に悪を行ったので、私は見つけたのだ。今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。また、イゼベルについてもはこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」

と記されています。
 「」はエリヤに、アハブに対して、

はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。

と言うように命じておられます。これによって、「」は、この一連の出来事の責任が夫であり、王であるアハブにあることを示しておられます。それは、聖書が示している夫が妻のかしらであることによっていると考えられます。最初の人アダムが罪を犯したときも、妻であるエバが先に誘惑に屈して、善悪の知識の木から取って食べ、夫であるアダムにも与えたのですが、最終的な責任はアダムにあるとされています。とはいえ、この場合は、アハブがかしらであったということだけではありません。アハブは、イゼベルの悪巧みによってナボテが殺害されたことになんの疑問をもたず、とがめも感じないで、自分がほしかったナボテのぶどう畑を手に入れるためにイズレエルに下って来ています。イゼベルのしたことを受け入れているのです。
 それで、「」はエリヤをとおして、

はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。

と告げられるとともに、オムリ王朝がアハブの代で断絶するようになるというアハブに対するさばきを宣告されました。
 そして、イゼベルについても、

 犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。

というように、イゼベルがナボテが住んでいた「イズレエルの領地」で屈辱の死を迎えることをお告げになりました。
 イゼベルは、アハブに王の威厳を取り戻させ、自分はその王妃としての威厳を示したつもりでした。しかし、アハブとイゼベルの生涯の結末は、恥辱でしかないということが告げられました。アハブもイゼベルも「」の御前においては、まことの王としての威厳、王妃としての威厳を損なった者でしかなかったのです。
 繰り返しお話ししていますが、「」の御前における、まことの王としての威厳と栄光は、最終的には、ご自身のしもべのために十字架におかかりになった神の御子イエス・キリストにおいて最も豊かに示されています。


 前回は、アハブとイゼベルに関しては、ここまでお話ししましたが、これにはその先があり、一つの大切なことが示されています。それで、もう少し、お話を続けます。
 「」がエリヤをとおしてアハブに語られたみことばは、先ほど引用しました17節ー24節の最後の24節で終わっています。これに続く25節ー26節には、

アハブのように、裏切っての目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った。

と記されています。
 これは、いわば列王記の記者による注釈です。これには三つほどの意味があると考えられます。
 一つの意味ですが、「」はエリヤをとおして、アハブとイゼベルが、「」の戒めに従っているナボテの血を流し、そのぶどう畑を略奪したことに対するさばきさばきを宣告されました。そして、そのさばきは、アハブとイゼベルが屈辱の死を迎えるということにとどまらないで、オムリ王朝がアハブの代で断絶するという厳しいものでした。
 アハブとイゼベルがナボテの血を流し、そのぶどう畑を略奪したことがどうして、このような厳しいさばきを招くことになったのかということについては、前回、それが相続地についての「」の戒めにかかわっているからであるということお話ししましたが、後ほど、少し、このことに触れます。
 そして、この25節ー26節では、ナボテのことだけではなく、アハブが妻であるイゼベルにそそのかされて、偶像礼拝に走り、

 エモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った

りして、

アハブのように、裏切っての目の前に悪を行った者はだれもいなかった

と言われるほどであった、ということもあることを思い起こさせています。
 もう一つの意味は、このことを思い起こさせることによって、また、ナボテの件の深刻さを伝えることになるということです。
 「」はエリヤをとおして、アハブに、

 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。

と言われて、オムリの家すなわちオムリ王朝の断絶を宣言しておられます。
 ここで最初に出てくる「ネバテの子ヤロブアム」は、北王国イスラエルの最初の王でした。ヤロブアムはイスラエルの人々の心がエルサレム神殿がある南王国ユダに傾くことを恐れて、二つの金の子牛を作り、これらがイスラエルをエジプトから連れ上った神々であると宣言し、一つをダンに、もう一つをベテルに置きました。それによって、人々はダンとベテルで偶像を拝むようになりました。
 そして、このヤロブアムがダンとベテルに建てた礼拝の場所は、北王国イスラエルの歴史をとおして存続し、王国の滅亡に至る究極の原因となっています。それで、列王記には、イスラエルの歴代の王たちが「ネバテの子ヤロブアムの罪」を犯したとか、「ネバテの子ヤロブアムの道」を歩んだということが繰り返し出てきます。ヤロブアムの罪は、北王国イスラエルの王たちの罪の原点となっていました。
 これに対して「」は、預言者アヒヤをとおしてヤロブアムの家の断絶を宣告され、それは、ヤロブアムの子であるナダブの時代に実現しました。
 そのヤロブアムの家を断絶させたのが、次に出てくる「アヒヤの子バシャ」です。バシャはナダブに謀反を起こして、ヤロブアムの家を断絶させました。
 バシャもヤロブアムと同じ道を歩んだので、「」は預言者エフーをとおして、バシャの家の断絶を宣言されました。それは、バシャの子エラの代になったとき、家来のジムリの謀反によってバシャの家は断絶するようになりました。
 ヤロブアムもバシャも偶像の神々を拝んだだけでなく、イスラエルの人々にも偶像礼拝の罪を犯させたために、「」のさばきを招いて、その王朝は断絶してしまいました。
 アハブはイゼベルにそそのかされて、バアル礼拝とその妻であるアシェラ礼拝を大々的にイスラエルに導入して、自らこれらを拝んだばかりでなく、イゼベルが「」の預言者をイスラエルから根絶やしにしようとして迫害していることを止めることもありませんでした。黙示録2章20節のことばを使えば、イゼベルを「なすがままにさせて」いたのです。これは、ヤロブアムやバシャの罪よりはるかに深く、深刻な罪です。
 そうであるとしますと、ここで、

アハブのように、裏切っての目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った。

と言われていることこそが、アハブが属するオムリ王朝の断絶のさばきに相当することであると感じられます。
 しかし、実際には、「」はこのことではなく、アハブがナボテを殺害し、ナボテのぶどう畑を略奪したことに対して、アハブとイゼベルが屈辱的な死を迎えるだけでなく、オムリ王朝がアハブの代をもって断絶することを告げられました。これによって、「」は、相続地についての「」の戒めがどんなに大切な意味をもっているかを際立たせています。これが、第二の意味です。
 相続地についての「」の戒めの意味については、前回お話ししたことを、改めて、まとめておきましょう。
 相続地についての「」の戒めの中心となっているのは、引用はいたしませんが、レビ記25章23節ー28節に記されています。
 そこでは、「」がひとたび受け継がせてくださった相続地は、その人が貧しさのために売ることがあったとしても、買い戻しの権利がその人に残っていて、必ず、その人に帰ってくることが示されています。具体的には、そのための三つの方法が示されています。まず、その人の親族がそれを買い戻すようにと戒められています。そのような親族がいない場合、その人に余裕ができたときに、ヨベルの年までの年数に応じた金額で買い戻すことができるとされています。それさえもできない場合でも、50年ごとにやってくるヨベルの年には、その土地はその人に帰ってくることになっていました。
 このヨベルの年についての「」の戒めは、自らの力によっては如何ともし難い状態にある「」の民が、「」の一方的な恵みによって、すべての負債から解放されることを示しています。そして、ヨベルの年の解放は、イエス・キリストの贖いの御業において成就しています。
 このような相続地についての戒めによって、「」はご自身の民に受け継がせてくださった相続地を断固として守られるということを示してくださっています。
 この相続地は、神さまが創造の御業においてこの地をご自身の御臨在の場として聖別され、人の住みかとして形造られ、人がご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださったたみこころから出てています。そして、人が罪を犯して御前に堕落してしまった後も、その愛に基づくみこころを変えたもうことなく、それを実現してくださるために遂行された贖いの御業において、アブラハム契約の祝福として与えられたものです。「」はご自身の契約の民に与えてくださる相続地にご臨在してくださって、「」の契約の民をご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるのです。
 このように、相続地についての「」のみこころは、神さまの創造の御業と贖いの御業の中心にある祝福にかかわっています。
 古い契約の下では、カナンの地が約束の地であり、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民がカナンの地に入ったときには、それが、イスラエルの12部族に従って大きく分割され、それぞれの家に相続地として分け与えられました。しかし、それは古い契約の下における「地上的なひな型」で、私たちにとっては、新しい天と新しい地であり、その中心にある永遠の都、新しいエルサレムです。「」は、必ず、私たちに、また、古い契約の下にあってご自身の恵みにあずかっていた民に、これを受け継がせてくださいます。

 以上が二つ目の意味ですが、25節ー26節に、

アハブのように、裏切っての目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った。

と記されていることにはもう一つの意味、三つ目の意味があると考えられます。
 それは、今お話ししましたように、アハブがナボテを殺害し、そのぶどう畑を略奪した罪は、「」がご自身の民に与えてくださっている相続地に関する戒めに示されているみこころを踏みにじるものとしてきわめて深刻なものでした。それに加えて、この25節ー26節には、偶像礼拝を中心とするアハブの罪が、北王国イスラエルの歴代の王たちの罪の原点となっている「ネバテの子ヤロブアムの罪」にも増して深く、深刻なものであったことが示されています。
 そうであるとしますと、「」が預言者エリヤをとおしてアハブに宣告されたさばきは、当然、アハブに降りかかってくるはずです。
 「」は、まず、エリヤに、

「主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。」また、彼に言え。「はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。」

と告げるように命じられました。これはアハブがナボテに対してなした罪に対して、アハブ自身に下されるさばきの宣告です。
 「」はさらにアハブに会ったエリヤをとおして、

今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。また、イゼベルについてもはこう仰せられる。「犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。」アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。

というさばきを宣告されました。これは、アハブの家の断絶の宣告と、イゼベルへのさばきの宣告です。アハブはオムリ王朝の2代目の王ですので、これはオムリ王朝がアハブの代で断絶するというさばきの宣告となります。
 そして、これに続いて、列王記の記者が、

アハブのように、裏切っての目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った。

と記して、アハブの罪の深刻さに駄目押しをしています。
 ところが、驚くべきことが起こりました。このことを記している25節ー26節に続く、27節ー29節には、

アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のようなのことばがあった。「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」

と記されているのです。
 アハブはエリヤをとおして告げられた「」のさばきの宣告を聞いて、へりくだりました。このこと自体が「」のあわれみによることです。
 アハブは、その当時なされていた4つのことをもって、へりくだりを表しています。まず、「自分の外套を裂き」ました。「外套」はその当時の外套で、緩やかで足首の方まで垂れているローブです。その一部を上から下まで裂いたということです。そして「身に荒布をまとい」ました。「荒布」はオリエント種のヤギかラクダの長い毛を織って作った暗い色の荒い生地のことです。それを身にまとったということは、「荒布」を粗末な着る物にしたものを身にまとったということです。これは悲しみや悔いなどを表すためのことです。ここでは、それをまとって伏した、横になったと言われています。アハブはまた断食をしました。これは、悲しみや悔い改めなどを表すものです。そして、「打ちしおれて歩いた」と言われています。
 「」はアハブのへりくだりを認めてくださり、エリヤに、

彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。

と告げられました。
 実際に、「」がエリヤをとおしてアハブに宣告しておられた、オムリ王朝はアハブの代で断絶するというさばきは執行されることはありませんでした。アハブはこの後、22章に記されているアラムとの戦いにおいて戦死しますが、その子アハズヤが北王国イスラエルの王となりました。これは、「」の深いあわれみによることです。
 このことを念頭に置いて、改めて、列王記の記者が、

アハブのように、裏切っての目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った。

と記して、アハブの罪の深刻さに駄目押しをしていることを振り返ってみますと、また別のことが見えてきます。
 このみことばは、もはや、アハブに対するさばきは避けられないものであるということを伝えているとしか思えなかったものです。ところが、実際には、これほどまでに深刻な罪を犯したアハブであっても、「」の御前にへりくだって、罪を悔い改めるなら、「」はその罪を赦してくださり、さばきをとどめてくださるということを伝えているのです。
 これに対して、イゼベルは夫であるアハブのへりくだりに倣うことはありませんでした。みことばに記されているわけではありませんが、イゼベルにとっては、それは王の威厳を損ねることとしか写らなかったことでしょう。イゼベルへのさばきの宣告は、

 犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。

というものでした。このことは、列王記第二・9章30節ー37節に記されているように、「」によって立てられたエフーによって、イゼベルの現実となりました。

 このようなことを踏まえて、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばを見ると、どうなるでしょうか。
 20節で、イエス・キリストは、「イゼベルという女」が、イエス・キリストの「しもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている」ということを指摘しておられます。そして、続く21節ー23節前半では、

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す

と語りかけておられます。
 これは、まことに厳しいさばきの宣告です。けれども、「イゼベルという女」はもう手遅れであるというのではなく、イエス・キリストはこの時も、なお、悔い改める機会があるということを示しておられると理解することができます。確かに、イエス・キリストはこの女性のことを「イゼベル」になぞらえておられます。しかし、それによって、彼女自身に警告を発しておられます。「あなたは、あのイゼベルのようであってはいけない」というように。
 ただ、この女性がこの主のあわれみ深いみことばをどのように聞いたのかは分かりません。
 いずれにしましても、私たちは主のあわれみが私たちの思いをはるかに越えて深いことを心に刻みみたいと思います。そして、身を低くしつつ、なお、確信をもって、主の御前に近づきたいと思います。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第307回)へ戻る

(c) Tamagawa Josui Christ Church