黙示録講解

(第307回)


説教日:2017年9月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(60)


 イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは20節ー23に記されている、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

というイエス・キリストのみことばについてです。
 ここでイエス・キリストは、テアテラにある教会にある「非難すべきこと」を指摘しておられます。それは、「イゼベルという女」が、自ら「預言者」を名乗り、イエス・キリストの「しもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている」ということです。
 これまで2回にわたって、この女性が「イゼベル」と呼ばれていることについてその意味と関連することをお話ししました。
 この場合の「イゼベル」はこの女性の名前ではなく、旧約聖書に出てくる、北王国イスラエルのオムリ王朝2代目の王アハブの妻「イゼベル」を指しています。イエス・キリストはこの女性のことを「イゼベル」と呼ぶことによって、彼女がテアテラにある教会においてなしていることが、アハブの妻「イゼベル」がイスラエルでなしたことに相当することを示しておられます。もちろん、状況が違いますから、なしていることの形は違いますが、その実質は同じであるということです。


 イゼベルは夫アハブをそそのかして、北王国イスラエルにバアル礼拝を導入し、それを推進して、バアルをイスラエルの主神に据えようとしました。そして、そのために、バアルの預言者450人と、バアルの妻とされていた女神アシェラの預言者400人をお抱え預言者として、直接的に庇護していました。その一方で、イゼベルは契約の神である「」、ヤハウェ以外に神はないとする「」の預言者たちを殺害し、イスラエルから「」の預言者を根絶やしにしようとしました。
 イゼベルがなしたことでもう一つお話ししたいことがあります。そのことは、今日はお話しすることができませんが、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばとの関係で意味をもっていると考えられます。
 長い引用になりますが、列王記第一・21章1節ー16節には、

 このことがあって後のこと。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリヤの王アハブの宮殿のそばにあった。アハブはナボテに次のように言って頼んだ。「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」ナボテはアハブに言った。「によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家に入った。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。
 彼の妻イゼベルは彼のもとに入って来て言った。「あなたはどうしてそんなに不きげんで、食事もなさらないのですか。」そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うからあなたのぶどう畑を譲ってほしい。それとも、あなたが望むなら、その代わりのぶどう畑をやってもよい』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません』と答えたからだ。」妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」
 彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『おまえは神と王をのろった』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」
 そこで、その町の人々、つまり、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言いつけたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりを行った。彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせた。そこに、ふたりのよこしまな者が入って来て、彼の前にすわった。よこしまな者たちは民の前で、ナボテが神と王をのろった、と言って証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。こうして、彼らはイゼベルに、「ナボテは石打ちにされて殺された」と言ってよこした。
 イゼベルはナボテが石打ちにされて殺されたことを聞くとすぐ、アハブに言った。「起きて、イズレエル人ナボテが、あなたに売ることを拒んだあのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。

と記されています。
 ここには、イゼベルと彼女にそそのかされたアハブが、どのように「イズレエル人ナボテ」のぶどう畑を奪ってしまったかが記されています。
 このことには、いくつかのことがかかわっていて、それを踏まえておかないと、この時にイゼベルとアハブが犯した罪がどのようなものであったかを十分に理解することができません。
 その踏まえておかなければならない、いくつかのことをお話しする前に、このことに対して「」が預言者エリヤをとおしてアハブに語られたことが続く17節ー24節に記されていますので、それを見てみましょう。そこには、

 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のようなのことばがあった。「さあ、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。彼にこう言え。『はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』また、彼に言え。『はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』」
 アハブがエリヤに、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ」と言うと、エリヤは答えた。「あなたが裏切っての目の前に悪を行ったので、私は見つけたのだ。今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。また、イゼベルについてもはこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」

と記されています。
 「」はエリヤをとおして、アハブとイゼベルがナボテになしたことに対するさばきを宣告されされました。「」は、アハブとイゼベルがナボテになした罪のゆえにさばきを受けて死を迎えるようになることを示されただけでなく、オムリ王朝が滅亡することをも宣告されました。
 ここには、驚かされることがあります。繰り返しになりますが、アハブはイゼベルにそそのかされて、バアル礼拝を北王国イスラエルに導入し、それを推進した王です。また、イゼベルはそのためにイスラエルから「」の預言者たちを根絶やしにしようとして、「」の預言者たちを殺害しました。
 アハブとイゼベルは、このようなバアル礼拝を導入し、推進した罪により「」のさばきを受け、また、そのためにオムリ王朝が滅亡すると宣言されてもよいはずです。ところが、ここでは、アハブが、イゼベルの悪巧みによってナボテを殺害し、不当にナボテのぶどう畑を奪い取ってしまったことに対するさばきとして、アハブとイゼベルは死ぬことになり、オムリ王朝が滅亡すると宣告されているのです。
 もちろん、アハブとイゼベルが北王国イスラエルにバアル礼拝を導入し、推進したことと、二人がナボテを殺害し、ナボテのぶどう畑を不当に奪い取ったことは無関係であるわけはありません。バアル礼拝を推進している二人には「」への恐れがないので、このようなことをしているのです。

 このような問題を踏まえると、アハブがイゼベルの悪巧みによって、ナボテのぶどう畑を不当に奪い取ってしまったことには、何か重大な意味があるのではないかという気がします。
 改めて、そのことを記している1節ー4節を見ますと、そこには、

このことがあって後のこと。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリヤの王アハブの宮殿のそばにあった。アハブはナボテに次のように言って頼んだ。「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」ナボテはアハブに言った。「によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家に入った。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。

と記されています。
 ここには「イズレエル人ナボテ」が出てきますが、イズレエルは北王国イスラエルのイッサカル族の領地にある町です。「イズレエル人ナボテ」は、ナボテがこの町に相続地をもつ住人であることを示しています。新改訳第3版の後ろに付録としてついている地図の中の2頁目に「12部族に分割されたカナン」がありますが、その「キネレテの海」(ガリラヤ湖のこと)の南西にイッサカル族の領土が黄色で示されています。その南の境界線近くの西寄りにイズレエルがあります。その町は、イズレエルの平原の東の端にあります。この町は肥沃なイズレエルの平原の産物の流通経路にあり、戦略的にも重要な位置を占めていたようで、考古学的な発掘により、北王国イスラエルの首都サマリヤに次ぐ第二の都市であったと考えられています。
 1節では、アハブのことが「サマリヤの王アハブ」と言われていることから、アハブはサマリヤがあったマナセ族に属していたと考えられます。アハブの王宮は首都サマリヤにあり、第二の都市であるイズレエルにも宮殿があった考えられます。ナボテのぶどう畑は「サマリヤの王アハブの宮殿のそばにあった」と言われています。
 アハブはナボテのぶどう畑を譲ってもらいたいと頼んでいますが、その際に、それを譲ってもらいたい理由を述べた後、

その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。

と提案しています。アハブは丁寧で、とてもよい条件を出して交渉しています。王の権威を笠に着てナボテに無理な要求をしているとは思えません。
 しかし、ナボテは、王であるアハブの申し出に、

によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。

と答えています。
 ナボテの言うことは「」がモーセ律法をとおして示してくださっているみこころがかかわっています。このみこころに照らして見ますと、王の願いがナボテにとって無理な要求であったことが分かります。
 レビ記25章23節ー28節には、

地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。

と記されています。
 ここでは、「」がアブラハム契約に基づいて、イスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れてくださり、それぞれに地を受け継がせてくださること、すなわち、相続地にかかわる戒めが記されています。
 この戒めの根底にあるのは、23節後半に記されている、

 地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。

ということです。
 創造の御業においてすべてのものを造り出された神さまは、この「」をご自身がご臨在される所として聖別してくださり、「人の住みか」として形造られました(イザヤ書45章18節)。それによって、神さまは、ご自身がご臨在されるこの「」において、神のかたちとして造られている人を、ご自身を礼拝することを中心とした愛の交わりに生きることができるようにしてくださったのです。その意味で、天地創造の御業の初めから「」は神である「」のものであり、「」がそれを神のかたちとして造られている人に受け継がせてくださったものです。そのことの中心にあるのは、人が神である「」との愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。
 最初の人アダムが神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人類は神である「」との愛にあるいのちの交わりに生きるという祝福と特権を失ってしまいました。けれども、神である「」は最初の人アダムが罪によって堕落してしまった直後に、福音のみことばをとおして、贖い主を約束してくださり、この贖い主をとおして、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる祝福と特権にあずかるようにしてくださることを約束してくださいました。
 神である「」がアブラハムと結んでくださった契約は、「」が一方的な恵みによってアブラハムとアブラハムの子孫をこの祝福と特権にあずからせてくださることを約束してくださるものでした。
 そして、神である「」はアブラハム契約の約束に基づいて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、約束の地であるカナンに導き入れてくださって、その地を相続させてくださいました。このすべては、約束してくださった贖い主をとおして、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる祝福と特権にあずかるようにしてくださることを指し示す、古い契約の下での「地上的なひな型」としての意味をもっていました。
 このような意味において、「」はイスラエルの民に、

 地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。

と教えてくださっています。
 「」が「」のものであるということは、「」の究極の所有者が「」であるということを意味していますが、それだけではありません。この「」がどのようなものであるかは、「」をお造りになった「」が決めておられることであって、人間がかってに決めてしまうことができないということを意味しています。この「」は、神である「」がご臨在される所として造られ、聖別されたものです。そして、神のかたちとして造られている人が、そこにご臨在される「」を神として礼拝することを中心として「」との愛の交わりに生きる所として、人に相続させてくださったものです。
 これがこの「」の本来の意味であり、この「」が存在する限り変わることがありません。それなのに、神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、自分たちのものであり、自分たちの思うようにしてよいものとしてしまっています。
 神である「」がアブラハム契約に基づいて、イスラエルの民が約束の地であるカナンを相続地として受け継ぐようにしてくださったのは、このような「」の本来の意味を回復してくださり、ご自身の民がその「」にかかわる祝福と特権にあずかるようにしてくださるためでした。
 しかし、古い契約の下での約束の地であるカナンは、新しい契約の下で「」の契約の民が受け継ぐ相続財産である、永遠の都、新しいエルサレム、さらには、新しい天と新しい地を指し示す「地上的なひな型」でしかありません。カナンの地は血肉の戦いにおいて武力で勝ち取ったものです。それは「」の契約の民が受け継ぐ永遠の相続地ではありません。
 それで、「」はカナンの地においては、イスラエルの民は「」の御臨在の御許に「居留している異国人」であると教えてくださったのです。そのことは、ヘブル人への手紙11章8節ー10節に、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と記されている、アブラハムの歩みに如実に示されています。

 このレビ記25章23節ー28節に記されている「」の戒めはこれらのことと深くかかわっています。
 ここでは、

 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。

と戒められています。これは、また、「買い戻しの権利を放棄」させて「」を買ってはならないということを意味しています。
 人が貧しくなって所有する土地を売った場合、その土地には「買い戻しの権利」がついています。25節ー28節には、その土地を買い戻すための三つ方法が定められています。
 一つは、25節に、

もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。

と記されています。
 二つ目の方法は、26節ー27節に、

その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。

と記されています。ここで「売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し」と言われているのは、ヨベルの年までの残った年数を割り出して、その分を返すという意味です。ちなみに、ヨベルの年は50年ごとにやって来ます。それで、最初に土地を売るときには、ヨベルの年までの年数を数えて、その割合に応じて土地の売値が決まります。この二つ目の方法は、そのような手当てがなされた上で、さらに、そのヨベルの年までの間に土地を買い戻すときの規定です。
 三つ目の方法は、28節に、

もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。

と記されています。「買い戻しの権利のある親類」もなく、自分にも経済的な余裕がないままであっても、ヨベルの年には、その土地は自分の元に返ってくるというのです。
 「」は、神である「」がご臨在されるところとして造られ、聖別されており、神のかたちとして造られている人が、そこにご臨在される「」を神として礼拝することを中心として「」との愛の交わりに生きる所として相続させていただいているものです。そして、カナンの地は、そのような意味をもっている「」を指し示す「地上的なひな型」として大切なことを示しています。それは、「」がご自身の民をそのような祝福と特権にあずからせるために相続させてくださった「」は、それを相続財産として受け取った人とその子孫から決して失われることはないということを指し示しているのです。一時的に、それがほかの人の手に渡ることがあったとしても、必ず、その人とその子孫のものとして回復されるということが示されています。このようにして、「」はご自身の民を必ずご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださることがあかしされています。

 これだけでは、ナボテがぶどう畑である土地をアハブに売ろうとしない理由にならないのではないか、ナボテは「買い戻しの権利」をつけて、アハブにその土地を売ってもよかったのではないかと問われるかも知れません。しかし、「」がご自身の民に与えてくださった相続地は、「」のものであり、それを貧しさのために売ることはあるとしても、自分の儲けのために売り払うということは、「」を相続地として与えてくださった「」のみこころに反することです。
 そればかりではありません。「」が古い契約の下でイスラエルの民に相続地として与えてくださったカナンの地に関しては、もう一つの定めがあります。民数記36章8節ー9節には、

イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。

と記されています。
 ここに記されていることには歴史的な背景がありますが、それは措いておきます。ここに記されている「」の戒めは、イスラエルが受け継いだ、

 相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。

というものです。「」は個人個人に相続する「」を与えてくださっただけではなく、イスラエルの12部族に従って、相続地を分け与えてくださいました。その相続地を人が変えてはなりませんでした。その理由は、これまでお話ししたとおりです。
 先ほどお話ししましたように、ナボテはイッサカル族に属していましたが、アハブはマナセ族に属していました。それで、イッサカル族に属しているナボテの土地をマナセ族に属しているアハブのものとすることはできません。
 ナボテが、王であるアハブの申し出に、

 主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。

と答えていることには、このような「」が相続地として与えてくださった土地に関する「」の戒めがかかわっています。ナボテは、たとえ相手が王であっても、「」の戒めに背いて相続地を譲渡してはならないことをわきまえていました。アハブも、そのことは認めざるをえなかったということでしょう。アハブは「不きげんになり、激しく怒りながら」家に帰り、「寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった」と言われています。
 しかし、イゼベルは違いました。バアル礼拝者であるイゼベルには、「」の戒めは眼中にありません。偽りのはかりごとをもって、「」を恐れ敬い、王に逆らっても「」に従いとおしたナボテを「神と王をのろった」者、すなわち、神を冒 し、王に反逆した者として処刑してしまいました。そして、ナボテの相続地を没収してしまったのです。
 アハブは、おそらく細かい経緯を調べることなく、それを受け入れて、ナボテの土地を自分のものとしようとしていました。これは、単なる、王の不正と暴虐ではありません。アハブは「」の贖いの御業の目的、ひいては、「」の創造の御業の目的の中心にあることを根底から否定することをしてしまいました。それは、「」がイスラエルに相続地を与えてくださったことの意味を覆すことであり、自ら、「」の相続地にふさわしくない者であることをあらわにしてしまいました。それで、この時に、アハブとイゼベルがナボテになしたことを理由として、アハブとイゼベルへのさばきと、オムリ王朝の滅亡というさばきが宣告されたのです。
 その一方で、このことは、私たちに大切なことを伝えています。それは、「」はご自身の民に受け継がせてくださった相続財産を断固として守られるということです。言い換えますと、「」は、必ず、私たちご自身の民に、永遠の都、新しいエルサレム、さらには、新しい天と新しい地を、相続財産として受け継がせてくださり、私たちご自身の民をご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださるということです。


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