|
説教日:2017年9月10日 |
このこととの関連で一つのことをお話ししたいと思います。 後に、アハブの家はアハブの家に仕えていたエフーによって滅ぼされますが、そのことは列王記第二・9章に記されています。この時には、アハブはすでに亡くなっていて、アハブとイゼベルの子ヨラムが北王国イスラエルの王となっていましたが、アハブの妻イゼベルはまだ健在でした。 1節ー14節にはエフーが「主」によって王として立てられるようになったいきさつが記されています。この時は、8章29節に、 ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにラマでアラム人に負わされた傷をいやすため、イズレエルに帰って来た。 と記されているように、イスラエルはアラムと戦っていましたが、ヨラムは戦いにおいて負傷して、母イゼベルがいるイズレエルに帰ってきていました。 エフーはその戦いにイスラエル軍の隊長として参戦していましたが、預言者エリシャから遣わされた「預言者のともがらのひとり」によって、「主」がエフーをイスラエルの王とされたことを告げられ、王として油を注がれました。その上で、アハブの家に対する「主」のさばきを執行するようにという「主」のみことばを告げられました。この後すぐに、そのことを知ったイスラエルの軍の将校たちは、エフーを王として立てました。 エフーが「主」のさばきを執行するためにヨラムのもとに行ったときのことを記している22節には、エフーとヨラムとのやり取りが、 ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行われているかぎり。」 と記されています。 ここで、ヨラムが言った、 エフー。元気か という挨拶(ハシャーローム・イェフー)の「元気か」は「ハシャーローム」(ハは冠詞)で、通常は普通の挨拶ですが、この場合は、「平和のために来たのですか」「よい知らせをもって来たのですか」というようなことを尋ねるものであると考えられます。 これに対する、 何が元気か。 というエフーの答えは、「何がよい知らせなものか」というような意味合いのことばであると考えられます。それで、ヨラムはエフーの謀反に気がついたことが続く23節に記されています。 いきさつの説明が長くなってしまいましたが、ここで注目したいことは、エフーがイゼベルがしてきて、この時もしていることを、 あなたの母イゼベルの姦淫と呪術 と述べているということです。 この時、エフーは「主」が預言者を通して告げられたことを執行しようとしてやって来ています。決して、自分の野望を実現しようとしているわけではありません。エフーが自ら王となろうとしたのではないことは、エフーが王として油を注がれた後のことを記している11節ー13節に、 エフーが彼の主君の家来たちのところに出て来ると、ひとりが彼に尋ねた。「何事もなかったのですか。あの気の狂った者は何のために来たのですか。」すると、エフーは彼らに答えた。「あなたがたは、あの男も、あの男の言ったことも知っているはずだ。」彼らは言った。「あなたは偽っている。われわれに教えてくれ。」そこで、彼は答えた。「あの男は私にこんなことを言った。『主はこう仰せられる。わたしはあなたに油をそそいでイスラエルの王とする』と。」すると、彼らは大急ぎで、みな自分の上着を脱ぎ、入口の階段の彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、「エフーは王である」と言った。 と記されていることからうかがい知ることができます。将校たちが預言者が何のために来たのかと聞いたときに、エフーはすぐには答えようとせず、将校たちに「うそつき」呼ばわりされて、促されてやっと口を開いたのです。 ここには記されていませんが、エフーに 「主」のみこころを告げた預言者は当然、イゼベルがなしてきたことについても告げたはずです。エフーはそれに同意したので、あえて、イスラエルの王となることを受け入れたのです。そのエフーが、 イゼベルの姦淫と呪術 と述べているのは、それこそが「主」がアハブの家にさばきを下される理由であるということを意味しています。 この「姦淫」ということば(ゼヌーニーム、ザーナー「姦淫する」の名詞形の一つで、複数形)には文字通りの意味と、比喩的な意味があります。 比喩的には、契約の神である主、ヤハウェを捨ててほかの神を礼拝し、それに仕えるようになることを意味しています。イゼベルは北王国イスラエルを、農耕文化にとって決定的に大切な雨、露、霧を支配し、もたらしてくれるとされているバアルを主神とする国家としようとしていました。そして、バアルの伴侶であるアシェラをもバアルとともに据えることによって、より一層、豊かな実りがもたらされると宣伝していたと考えられます。これは、契約の神である主、ヤハウェに対する真実を捨ててしまうことで、「主」の御前において霊的な姦淫を犯すことです。 同時に、バアルとアシェラの宮を建てて、そこで豊饒の祭りを国家的な祭りとして大々的に行えば、それがやがて文字通りの姦淫、不品行に変質していくことは目に見えています。 このことを踏まえて、黙示録2章20節に記されている、「イゼベルという女」についてのイエス・キリストの、 この女は、、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。 というみことばを見ますと、イエス・キリストがこの女性を「イゼベル」と呼んでおられることの意味が見えてきます。 ここで「不品行」(ポルネウサイ、ポルネウオー「乱れた性的な関係を持つ」の不定詞)と言われていることも、文字通りの意味と、比喩的な意味があります。「イゼベルという女」は、テアテラにある教会の信徒たちに職人組合に加入して、その職人組合が守護神としている神に礼拝をささげ、その「お恵み」としていただく肉を食べることはなんら問題がないと教えていたようです。それは、テアテラにある教会の信徒たちに霊的な姦淫を犯させることです。 それは、テアテラにある教会の信徒たちを愛してくださり、その愛のゆえに十字架におかかりになって、彼らの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを彼らに代わってすべて受けてくださり、彼らを死と滅びから贖い出してくださったイエス・キリストだけが主であり、救い主であるということを否定することです。また、テアテラにある教会の信徒たちを栄光あるいのち、永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座して、御霊によって彼らを神の子どもとしての特権のうちに生きる者として導いてくださっているイエス・キリストだけが主であり、救い主であるということを否定することです。 それと同時に、守護神に対する礼拝とともに始まる職人組合の会合においてもたれる宴会が、やはり、性的な「不品行」がおこなわれる場になってしまうということがありました。アハブの時代は農耕文化でしたから豊饒の神とされたバアルやアシェラが礼拝されましたが、テアテラにおいては、商工業の繁栄のための偶像が礼拝されたという違いがありますが、実質的に同じようなことが起こっていたのです。 このイエス・キリストのみことばでは、「イゼベルという女」が、 預言者だと自称している と言われています。このことも、先ほどのふれましたエフーがヨラムに言った、 あなたの母イゼベルの姦淫と呪術 ということの「呪術」とかかわっていると思われる点があります。 聖書の中にはイゼベルが呪術を行っていることを記している個所はここ以外にはありません。それで、イゼベルがどのような呪術を、どのように、また、何のためにおこなっていたかは分かりません。 この「呪術」ということば(ケシェフ)と関連する「呪術者」ということばが出てくる唯一の個所であるエレミヤ書27章9節には、 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。 と記されています。これは「主」がエレミヤをとおして、南王国ユダの罪に対する「主」のさばきの執行は免れられないことと、「主」はそのさばきを「バビロンの王ネブカデネザルの手」をとおして執行されることを告げられたこととの関連で、語られたみことばです。そのような差し迫った状況の中で、「あなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者」は、ユダ王国の民は「バビロンの王に仕えることはない」と言っていたのです。「呪術者」はある種の魔術をおこなう者ですが、ここでは、そのような魔術的な力を持つ者として偽りを語っていることが示されています。そのような魔術的な力が、その者の言うことに権威があるように思わせることになります。 アハブの妻であったイゼベルが「呪術」をおこなっていたというとき、ただ魔術的なことをしていたというだけでなく、それによって人々を自分に引きつけ、自分の言うことに従わせるようなことがあったのではないかと思われます。イゼベルは北王国イスラエルをバアルを主神とする王国としようとしてアハブをそそのかしていました。そのイゼベルが、魔術的な力をそのために使わなかったと言うことは考えられません。その「呪術」をも動員して、アハブばかりでなく、ほかの家臣たちをもバアルとアシェラを神とするよう働きかけていたはずです。 そのような魔術的な力と、預言的なことばの結びつきは聖書の中にも出てきます。 終わりの日に至るまでの時代の状況についてイエス・キリストが語られたみことばを記しているマタイの福音書24章の24節には、 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。 と記されています。 また、終わりの日に現れる「不法の人」について、テサロニケ人への手紙第二・2章9節ー10節には、 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。 と記されています。 何らかの魔術的な力を発揮する者は、その力の現れによって人々を自分に引きつけ、人々を自分の言うことを信じるように導きます。また、にせ預言者は自分の言うことに権威をもたせるために「しるしや不思議なことをして見せます」。この二つのことは、一つのことの裏表のような関係にあります。 いずれにしても、「イゼベルという女」がテアテラにある教会において「預言者だと自称して」、主イエス・キリストの「しもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせてい」て、それがきわめて深刻な事態になっていたということから、彼女には、「しるしや不思議」が、あるいは、「しるしや不思議」とまではいかないとしても、人を引きつける何らかの「カリスマ的な力」が備わっていたと考えられます。 これらのこととの関連で、もう一つのことを考えておきましょう。 テアテラにある教会の状態がきわめて深刻な事態にあるということは、あくまでも、18節に、 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。 と記されているように、「燃える炎のような目」を持っておられ、23節に、 こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。 と記されているように、人の心のうちにあることまでも、すべて過つことなく見通しておられるイエス・キリストがご覧になってのことです。 これに対して、テアテラにある教会の信徒たちは、自分たちがきわめて深刻な状態にあるとは思っていなかった可能性があります。 19節に、 わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。 と記されています。ここでイエス・キリストご自身が認めておられるように、テアテラにある教会は愛に溢れた教会であったのです。また、奉仕にも熱心で、信仰も深く、迫害の苦しみの中でも主に信頼して、忍耐深く主を待ち望んでいました。しかも、それらの点で成長していました。このようなことは、テアテラにある教会の信徒たちが見たり、聞いたり、実感することができたはずです。 このような教会にあって、「イゼベルという女」はとても魅力がある女性で、職人組合のことで悩んでいる人々の苦しい思いを察し、深い同情と説得力をもって、その人々を支え、悩みから救い出しています。そのような女性が中心となって、テアテラにある教会は明るく、また、当然、財政的にも豊かであったでしょう。 そうであれば、テアテラにある教会の信徒たちには、イエス・キリストが指摘しておられる「イゼベルという女」の問題は見えにくくなっていた可能性があります。そような場合には、パウロがコリント人への手紙第二・11章13節ー14節に記している、 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。 というみことばがあてはまります。 テアテラにある教会がまったくこのとおりであったというわけではありませんが、これに類する状態にあったと考える理由があります。それは、先主日に、具体的にお話ししましたが、イエス・キリストは、このテアテラにある教会へのみことばにおいて、アジアにある七つの教会のほかの六つの教会に対する警告のことばと比べると、かなり長い警告のことばを語っておられ、その中で、悔い改めるべきことを繰り返しておられるということです。もし、テアテラにある教会の信徒たちが、ここでイエス・キリストが指摘しておられる問題の深刻さに気づいていたとしたら、イエス・キリストはこのような形で語りかけられることはなく、ほかの六つの教会と同じように語られたのではないでしょうか。 今日は、絶対的なものはないとされる時代です。聖書は誤りない神のみことばであるとか、イエス・キリストだけが主であり、救い主であると主張すると、ドグマティズムであるとか、寛容さに欠ける冷たい信仰だと言われかねません。 また、人の目から見てとてもよいとしか思えないことの中に、イエス・キリストがご覧になっている大きな問題が潜んでいることもありえます。主がみことばをとおして示してくださっている教えに学びつつ霊的な洞察力を養っていきたいと思います。 これらの点からも、イゼベルにかかわる問題は、形は違っても、私たちが直面している問題でもあります。 |
|
||