黙示録講解

(第305回)


説教日:2017年9月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(58)


 黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 先主日まで、19節に記されている、

わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。

という、賞賛すべきことに触れているみことばについてお話ししてきました。
 これに続いて、20節ー23節には、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

と記されています。
 ここでは、19節に記されている賞賛すべきことがあるテアテラにある教会にも「非難すべきこと」があったことが示されています。
 繰り返しになりますが、その「非難すべきこと」についてのみことばは、その長さだけをとっても、新改訳でも、原文のギリシア語でも賞賛すべきことの4倍ほどになります。
 また、ここでイエス・キリストはテアテラにある教会に、問題を指摘した後、悔い改めるようにと迫っておられます。アジアにある七つの教会中で、イエス・キリストが悔い改めるべき点を指摘しておられるのは、エペソにある教会、ペルガモにある教会、テアテラにある教会、サルデスにある教会、ラオデキヤにある教会の五つの教会です。テアテラにある教会以外の四つの教会に対して、イエス・キリストが悔い改めるようにと語りかけておられるみことばを見てみましょう。
 エペソにある教会へのみことばでは、2章5節に、

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

と記されています。
 ペルガモにある教会へのみことばでは、2章16節に、

だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

と記されています。
 サルデスにある教会へのみことばでは、3章3節に、

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

と記されています。
 ラオデキヤにある教会へのみことばでは、3章19節に、

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

と記されています。これに先立って16節に、

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

と記されていますが、これは問題点を指摘しているもので、この後問題点が具体的に示されていきます。
 これらのみことばと比べてみるために、改めて、テアテラにある教会に対してイエス・キリストが悔いらあためるよう語りかけておられるみことばを見てみますと、2章21節ー23節には、

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

と記されています。
 このように比較してみることによって、テアテラにある教会へのみことばにおいては、ほかの教会へのみことばと違って、警告のことばと悔い改めるべきことを示すことばが繰り返されていて問題が、問題がとても深刻であり、それだけ、せっぱ詰まったものであること、また、それゆえに、直ちに悔い改めなければならないものであったことを感じ取ることができます。


 イエス・キリストのみことばを具体的に見ていきましょう。
 イエス・キリストは、まず20節で、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

と言われて、テアテラにある教会の問題を指摘しておられます。
 ここには「イゼベルという女」が出てきます。これが誰を指すのかはよく分かってはいません。いろいろな候補者があげられていますが、どれも決定的なものではありません。代表的な候補者のを紹介しておきましょう。
 一つの見方は、いくつかの写本や古代訳に「イゼベルという女」の後に「あなたの」ということば(スー)があるものがあることに基づいて、これを「あなたの妻」と理解します。これは「」と訳されていることば(ギュネー)が「妻」をも意味していることによっています。さらに、アジアにある七つの教会に対するイエス・キリストの語りかけの冒頭に、

 ・・・(どこどこ)にある教会の御使いに書き送れ。

という語りかけの定型文があります。この見方では、この「御使い」はそれぞれの教会の長老あるいは指導者のことであるとして、この「イゼベル」と呼ばれている人物は「長老の妻」のことであると理解します。しかし、一般的に、本文批評の原則から「」あるいは「妻」と訳すことができることばの後に「あなたの」ということばがあるとすることは支持されていません。また、冒頭の定型文に出てくる「御使い」がそれぞれの教会の長老あるいは指導者であるということも一つの可能性でしかありません。
 これとは別の見方ですが、「イゼベルという女」は、パウロがピリピで福音を伝えたときのことを記している使徒の働き16章14節に、

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

と記されている「ルデヤ」のことであるという見方があります。その根拠とされているのは、彼女が「テアテラ市の紫布の商人」であったということだというのです。すでにお話ししましたように、「テアテラ」は職人組合がとても多かった町です。そして、職人組合に参加しないことは、その商売をしていく上でとても不利な立場に追い込まれていくことになります。この見方では、「テアテラ市の紫布の商人」であったルデヤは、そのことを身をもって経験していたから、職人組合に参加し、その会合において職人組合が奉ずる「神」への礼拝に参加し、その「神」からのお恵みである肉を食べてもよいという教えを説いたというのです。しかし、ここに記されているイエス・キリストのみことばから、テアテラにある教会の信徒たちの中には、職人組合に加入することをめぐって困難な状況にいた人々がかなりいたことがわかります。だからこそ、「イゼベルという女」の言うことに従う人々がいたわけです。その困難の状況にいた人々の中から、ただ聖書にその名が出てくるというだけで、「イゼベルという女」はルデヤであると言うのは、何の根拠もない言いがかりのようなもので、ルデヤを貶めるものでしかありません。
 さらに別の見方では、この「イゼベルという女」は、テアテラの町の外に霊堂を構えて活動していた異教の預言者、占い師シビュル・サンバテのことであるとされています。彼女が受けたとされる「神」からの託宣は、その当時の何人かのユダヤ人の思想家たちにも影響を与えたようです。それで、彼女がテアテラにある教会にも大きな影響を与えることになったというのです。しかし、イエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばでは、21節で、

 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

と言われています。これは、イエス・キリストがこの「イゼベルという女」が悔い改めて、福音のみことばの真理に立ち返ることを求めておられることを意味しています。それで、この「イゼベルという女」はテアテラにある教会の外から影響を与えている「厄介者」というよりは、教会に属している者として活動していたと考えられます。それで、この「イゼベルという女」はサンバテであるとすることはできません。
 もう一つの見方では、この「イゼベルという女」は特定の個人のことではなく、象徴的に、テアテラにある教会に大きな影響を与えている動き全体を表しているとされています。けれども、そうであれば、21節ー22節前半で、イエス・キリストが、

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。

という警告を与えておられることは、この動き全体に対する警告であり、この動きにかかわるすべての者が警告を受けているということになります。けれどもイエス・キリストは、22節後半において、

また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

と言われて、さらなる警告を与えておられます。この場合「この女と姦淫を行う者たち」はこれから「この女と姦淫を行う者たち」ではなく、今そうしている者たちのこと、すなわち、この動きに加わっている人々のことです。このことから、この「イゼベルという女」は象徴的な存在ではなく、特定の個人であると考えられます。

 これらのことから、この「イゼベルという女」が誰であるかということについては分からないとするほかはありません。それでは、どうしてこの「」が「イゼベル」と呼ばれているのでしょうか。それは、テアテラにある教会の信徒の中に「イゼベル」という名の女性がいて、その女性を特定化する、すなわち、問題は「イゼベル」という名の女性にあるということを示すためではありません。
 先ほど、ルデヤのことが出てきましたが、使徒の働き16章14節で「ルデヤという女」と言われているのは、文字通りには「ルデヤという名の女」です。けれども、この黙2章20節で「イゼベルという女」と言われているのは、文字通りには「その女、イゼベル」です。ですから、これは、必ずしも、その女性の名前を示しているわけではありません。
 この「イゼベル」は黙示文学的な象徴で、その背景には旧約聖書に出てくる北王国イスラエルの王アハブの妻であり、預言者たち、特に、エリヤを迫害した「イゼベル」があります。
 イゼベルについての最初の記録は、その夫であるアハブとの関連で語られています。列王記第一・16章29節ー33節には、

オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年間、イスラエルの王であった。オムリの子アハブは、彼以前のだれよりもの目の前に悪を行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、の怒りを引き起こすようなことを行った。

と記されています。
 まず、アハブのことを見ておきますと、30節ー31節前半には、

オムリの子アハブは、彼以前のだれよりもの目の前に悪を行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。

と記されています。
 この「ネバテの子ヤロブアムの罪」というのは、多少言い方は違いますが、列王記第一と列王記第二に24回ほど出てくるもので、そのうちの20回は、ヤロブアムの後の北王国イスラエルの王の罪を記すときに決まり文句のように出てきます。
 ヤロブアムはソロモンの家来でしたが、ソロモンに反逆するようになります(列王記第一・11章26節)。このことの背景には、ソロモンが晩年になって外国からめとった多くの妻たちが持ち込んできた神々のための祭壇を築いて、偶像礼拝をしたことと、再三にわたる主の警告にもかかわらずそれを止めなかったことがあります。それによって、主のさばきを招くことになり、ソロモンの死後王国が分裂してしまうことになります。そのことについては列王記第一・11章4節ー13節に記されています。そして、主は北の10部族をヤロブアムにお与えになることを、預言者アヒヤをとおして、ヤロブアムに告げられます。そのことは同じ11章の29節ー39節に記されていますが、その中で、主はヤロブアムにダビデに倣って主の道を歩み、主のおきてと命令を守り行うよう戒めるととともに、主の道を歩むことに対する祝福を約束されました。しかし、ヤロブアムは主の戒めに背いて、偶像を造り、これを礼拝するよう北王国イスラエルを導きました。列王記第一・12章28節ー33節に、

そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。

と記されているとおりです。
 そのようにヤロブアムが主に背いたのは、北王国イスラエルの民が、主がモーセ律法の規定に従って、年に3度エルサレム神殿に行って主を礼拝するようになれば、民はエルサレムがある南王国ユダに心を向けるようになってしまうのではないかと心配したからです。それで、このとき、ヤロブアムは、

もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。

と言っているのです。
 主はいろいろな形でヤロブアムに警告を与えられましたが、ヤロブアムは主に背いて罪を犯し続けました。これを受けて、主は預言者アヒヤをとおしてヤロブアムに語られましたが、その最後に、

ヤロブアムが自分で犯した罪と、彼がイスラエルに犯させた罪のために、主はイスラエルを捨てられるのです。

と告げられました(列王記第一・14章16節)。北王国イスラエルの歴史の初めに、すでに、このような罪が犯され、北王国イスラエルの歴史は、その王たちが「ネバテの子ヤロブアムの罪」を犯し続けて、最終的には主のさばきを受けて滅びてしまうに至る歴史となっていきました。
 列王記第一・15章30節に、ヤロブアムの家が「ヤロブアムが犯した罪のため、また、イスラエルに犯させた罪のため」に滅ぼされてしまったことが記されていますが、これ以後、列王記第一と列王記第二には、先ほどお話ししたように20回ほど、北王国イスラエルの王たちが「ネバテの子ヤロブアムの罪」を犯し続けたことと、最終的に北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされてしまったことが記されています。そのことが最後に(20回目に)記されている列王記第二・17章21節ー23節には、

主がイスラエルをダビデの家から引き裂かれたとき、彼らはネバテの子ヤロブアムを王としたが、ヤロブアムは、イスラエルをに従わないようにしむけ、彼らに大きな罪を犯させた。イスラエルの人々は、ヤロブアムの犯したすべての罪に歩み、それをやめなかったので、ついに、は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、イスラエルを御前から取り除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリヤへ引いて行かれた。今日もそのままである。

と記されています。
 この列王記第二・17章21節ー23節に先立って、1節ー6節には、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたことが記されています。そして、その原因が続く7節ー17節に記されています。そこでは、彼らがイスラエルをエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださった主を捨てて、異邦人の風習にならって、さまざまな偶像の祭壇を造り、果ては、自分たちの子どもたちをもいけにえとしたりして、それらに仕えたことが記されています。そればかりでなく、主が預言者たちを遣わして警告してくださったにもかかわらず、彼らが聞き入れなかったことも原因として記されています。そして、それを受けて、先ほど引用した21節ー23節に、それは「ネバテの子ヤロブアムの罪」を犯し続けたことであると言われているのです。
 アハブについて、列王記第一・16章31節前半に、

 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。

と言われているのは、アハブが「ネバテの子ヤロブアムの罪」をさらに越えて罪を犯したことを示しています。今お話ししたことを踏まえますと、それはイスラエルの王たちの罪の原点である「ネバテの子ヤロブアムの罪」を繰り返しただけでなく、それ以上の罪を重ねたということになります。
 そのことが31節後半ー33節に、

それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、の怒りを引き起こすようなことを行った。

と記されています。
 ヤロブアムはベテルとダンに安置した金の子牛を神とする偶像にいけにえをささげて、イスラエルに偶像礼拝を導入しましたが、それをそのまま受け継いだだけでなく、バアル礼拝者であったイゼベルをめとって、バアルを礼拝するようになりました。さらに、父オムリが北王国の首都としたサマリアにバアルの宮を建て、バアルの祭壇を築きました。
 ちなみに、列王記に「バアル」が出てくるのは、ここが初めてです。もちろん、統一王国が成立する前にイスラエルの民がバアルに仕えたことは、民数記に1回(25章3節)、士師記には繰り返し記されています(2章11節、13節、3章7節、8章33節、10章6節)。
 ソロモンは外国人の妻たちが持ち込んできた偶像を礼拝しましたが、その偶像の神々の名の中に「アシュタロテ」「ミルコム」「ケモシュ」「モレク」が出てきますが、バアルは出てきません。また、アハブより前の北王国イスラエルの王たちが民に罪を犯させ、彼らが「むなしい神々」に仕えるようになったことの記録はあります(列王記第一・16章13節、26節)が、具体的にバアルの名は出てきません。それで、アハブが、妻であるイゼベルが礼拝しているバアル礼拝を取り入れ、推進したことは特筆すべきことでした。
 アハブはさらにアシェラ像をも造りました。アシェラ像はすでにヤロブアムの時代に、北王国イスラエルで造られていた記録があります(列王記第一・14章15節)。ただし、その記録は、アハブ以前ではここだけです。エリヤがカルメル山において、バアルの預言者たちと対決したときのことを記している列王記第一・18章19節には、エリヤが、アハブに、

さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。

と言ったことが記されています。ここには、イゼベルによって直接的に支援されていた「お抱えの」バアルの預言者が「四百五十人」、アシェラの預言者が「四百人」いたことが記されています。これによって、バアル礼拝だけでなく、アシェラ礼拝も、イゼベルによって大々的に推進されていたことが分かります。
 このように、アハブが外国人の妻が持ち込んできた偶像を礼拝するようになったことは、「ネバテの子ヤロブアムの罪」をさらにさかのぼって越えて、統一王国イスラエルが主のさばきによって分裂するようになる原因を作ったソロモンが犯した罪を繰り返すことでした。
 これは、アハブの罪の原点をさかのぼって、統一王国であるイスラエルの分裂の原因に行き着くことですが、アハブから下っていきますと、北王国イスラエルの王たちの罪が主のさばきを招いて王国が滅亡することに行き着きます。先ほど触れましたが引用はしませんでしたが、列王記第二・17章7節ー17節には、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされるようになった原因が記されています。その最後の部分である16節ー17節には、

また、彼らの神、のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらに、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。また、自分たちの息子や娘たちに火の中をくぐらせ、占いをし、まじないをし、裏切っての目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こした。

と記されています。ここに記されていることから、ヤロブアムが造った「二頭の子牛の像」を神として礼拝することが根強く残っていたこととともに、アハブがイゼベルの影響を受けて大々的に推進したしたバアルやアシェラへの礼拝が、連綿として続いていたことを汲み取ることができます。
 イゼベルはアハブをそそのかして、北王国イスラエルにバアル礼拝とアシェラ礼拝を大々的に導入した張本人です。
 それとともに、イゼベルは主の預言者を迫害しました。列王記第一・18章3節後半ー4節には、アハブの王宮で仕えていたオバデヤのことが、

オバデヤは非常にを恐れていた。イゼベルがの預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った

と記されています。イゼベルは「」(ヤハウェ)の預言者を根絶やしにしようとしました。しかし、「」はオバデヤを用いてくださって「百人の預言者」をイゼベルの手から救い出してくださいました。それがいつのことで、どれほどの「の預言者たち」が殺害されたのかは分かりません。いずれにしても、アハブの王宮で仕えていたオバデヤにとって、イゼベルが「の預言者たち」根絶やしにしようとして、王に仕える者たちを動員してを探し出し、殺害しているときに、その「の預言者たち」を秘かにかくまうことは、自分のいのちを懸けてのことでした。
 イゼベルが「の預言者たち」を根絶やしにしようとしたことは、北王国イスラエルから「の預言者たち」を一掃してしまおうとしただけのことではありません。それによって、イスラエルから「の預言者たち」の影響を取り除き、お抱えのバアルの預言者とアシェラの預言者たちの働きがより効果的に進められるようにしようとしたのです。「の預言者たち」を殺害しても、王国は存続できますが、人々を殺害してしまうと王国は存続できません。イゼベルは北王国イスラエルから「の預言者たち」を一掃して、お抱えのバアルの預言者とアシェラの預言者たちの働きをとおして、王国をバアルを主神としていただく国に変えようとしていました。
 イゼベルはバアルの預言者だけでなくアシェラの預言者たちも多く抱えていました。それで、北王国イスラエルをバアルを中心とした王国に変えようとするからといって、バアルだけを神とするように求めるわけではありません。イゼベルが「の預言者たち」を殺害したのは、彼らが「」だけが神であり、ほかに神はいないと主張していたからです。その「の預言者たち」がいなくなれば、どうなってしまうでしょうか。
 北王国イスラエルの王たちは、代々、ヤロブアムがベテルとダンに設けた金の子牛の宮において礼拝する罪を犯し、民にもその罪を犯させていたのですから、北王国イスラエルの民の中には、すでに「」だけが神であり、ほかに神はいないという「の預言者たち」の声に耳を傾けようとしない人々がかなりいたと考えられます。そのような状況にあって、「の預言者たち」がいなくなれば、人々は権力者、この場合は、イゼベルの言いなりになって、「」も神々の一人で、自分たちの国の中心の神はバアルとアシェラであると考えるようになってしまうことでしょう。
 イエス・キリストはこのような、イスラエルにおいて偶像礼拝を大々的に推進し、そのために「の預言者たち」を根絶やしにしようとしたイゼベルのことを用いて、テアテラにある教会で自らを預言者として働いている女性の特質と危険性を示しておられます。


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