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説教日:2017年8月27日 |
このようなエペソにある教会のあり方を踏まえて、テアテラにある教会についてのイエス・キリストの語りかけを見ますと、そこには大きな違いがあることが分かります。20節ー23節には、 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。 と記されています。 ここでイエス・キリストは、 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。 と言っておられます。これによって、「イゼベルという女」が、テアテラにある教会の中で、にせ預言者として働いていることが示されていますが、それだけではありません。より大きな問題は、 あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。 ということにあります。にせ使徒、にせ預言者、にせ教師の働きに警戒しなくてはならないことは、聖書において繰り返し語られています。その人々が異なった福音を伝えることは避けられません。問題は、それにどのように対処するかということです。 イゼベルという女をなすがままにさせてい ということは、イエス・キリストが、 また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。 と言われ、さらに、 あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。 と言っておられる、エペソにある教会のあり方とは正反対の状態です。エペソにある教会の信徒たちは「使徒と自称しているが実はそうでない者たち」を「がまんすることが」できませんでした。しかし、テアテラにある教会の信徒たちは「預言者だと自称している」が、実は、にせ預言者である「イゼベルという女をなすがままにさせている」のでした。 この「なすがままにさせている」と訳されていることば(アフィエーミ)は、この訳が示しているように現在時制で表されていて、それがこの時の現実であることを示しています。 このことばにはいろいろな意味があります。ここに述べられていることに当てはまると思われる意味に限っても、いくつかの意味合いがあります。新改訳の「なすがままにさせている」がぴったりしているのですが、いくつかの意味合いに取れます。積極的によしとして「なすがままにさせている」のであれば、「イゼベルという女」の働きを支持していることになります。問題はないのではないかと考えて「なすがままにさせている」のであれば、消極的に支持していることになります。彼女の教えには問題があると思いながらも、何らかの理由で「なすがままにさせている」のであれば、放置しているということになります。実際には、どれか一つということではなく、これらのすべてがあったと考えられます。 イエス・キリストが、 この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。 とまで言っておられることは、イエス・キリストが14節ー15節で、ペルガモにある教会に対して、 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。 と言っておられることより、かなり深刻な状態にあることを示しています。 このことは、「イゼベルという女」の教えを受け入れて従っている人々が、どれほどかは分かりませんが、ごくわずかというのではなく、それなりに、あるいは、相当数いたことを示しています。その人々は積極的によしとしていたと考えられます。また、そこまでは積極的になれないとしても、彼女の教えていることにも一理あるというような思いをもって、寛容であろうとしている人々、消極的な支持者もあったでしょう。あるいは、職業組合に加入して、その会合においてなされていることに参加しなければ、商売を続けていくことはできないという現実には、現実的に対処するほかはない考える現実主義者、悪く言えば、妥協する人々もあったでしょう。さらには、彼女の教えには問題があると思いながらも、現実主義者の言い分に同情して、寛容であろうとする人々、それによって、問題を放置している人々もあったことでしょう。 そのほかいろいろなことが考えられます。教会の歴史を見ても、異端的な教えに多くの人々を引き寄せてきた人々は、人間的には魅力がある人々であり、いわゆる「人格者」であり、自信に満ちていて、雄弁であることが多いのです。彼女が美女であったと見る向きもありますが、それはともかく、自ら預言者であると名乗るほどであれば、自信に満ちていて、雄弁であったと考えられます。私のように小さな声で、ぼそぼそと話すのではなく、大胆に、説得力のある話し方ができたと考えられます。イエス・キリストが、 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。 と言っておられるほどですから、とてもかたくなであったということですが、彼女としては、自信に満ちあふれていたと考えられます。 いずれにしても、いろいろなことが重なって、テアテラにある教会においては、「イゼベルという女」を「なすがままにさせている」状態にありました。これはエペソにある教会の状態と対照的です。 その一方で、エペソにある教会について、イエス・キリストは しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 と語っておられます。エペソにある教会においては、「初めの愛」が失われてしまっていたのです。 これはまた深刻な問題です。イエス・キリストは、もしこの点でエペソにある教会が「悔い改めることをしないならば」、 わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 と警告しておられます。これは、教会の存在そのものが失われてしまうということを意味しています。ここで、イエス・キリストは、エペソにある教会の信徒たちが「初めの愛」を捨ててしまっていることを指摘しておられるだけでなく、教会が「愛」を捨ててしまうことは、教会がキリストのからだである教会としての本質的な特質を失ってしまうことであることを明らかにしておられるのです。 これに対して、イエス・キリストはテアテラにある教会には、 わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。 と語っておられます。 先主日お話ししましたように、ここで賞賛されるべきこととして挙げられている「愛と信仰と奉仕と忍耐」のうち、「愛」こそがこれらの人格的な特質を結び合わせるものであり、それらを真実なものとするものです。コリント人への手紙第一・13章1節ー3節に、 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 と記されているように、「愛」がなければすべては空しいのです。 しかし、イエス・キリストはテアテラにある教会には、その愛があることを認めて、それを第一に挙げておられます。しかも、 また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。 と述べておられます。テアテラにある教会においては「愛と信仰と奉仕と忍耐」が成長しているというのです。この点では、 あなたは初めの愛から離れてしまった。 と言われているエペソにある教会と対照的です。 これらのことから、教会がにせ使徒、にせ預言者、にせ教師などの教えを試して、その偽りを見抜いて、断固それを退けて真理に堅く立っているとしても、愛が失われてしまうことがありえるという現実を示されます。そして、それは教会がキリストのからだである教会の本質を失うことであるということも教えられます。 その一方で、教会が、信仰の現れである愛に満ちていて奉仕がなされ、忍耐深く寛容であるとしても、にせ使徒、にせ預言者、にせ教師などの教えによって内側から侵食されてしまうことがありえるという現実を示されます。 私たちは、教会にはこのような現実がありえるということを心に刻んで、自らを省みたいと思います その際に、これらのことについて、よく言われることですが、エペソにある教会が知的なこと、教理的なことを追求していたから愛が失われたとか、テアテラにある教会が愛に満ちていたから、誤った教えを説く人々に寛容であったというように、単純に考えてはなりません。 テアテラにある教会の実情について考えられることについては、先ほどお話ししましたように、いろいろな事情がありました。エペソにある教会についても、同じように、複雑な事情が考えられます。 たとえば、エペソはアルテミス神殿の「門前町」でしたし、アジア州における皇帝礼拝の中心地でした。そのエペソでイエス・キリストを主として告白して、従い続けることがもたらす試練と苦しみを経験している人々の間にあつれきが生まれてきて、愛が失われてしまった可能性もあります。具体的には、迫害など、より大きな困難を経験している人々が、比較的、平穏な生活をしている人々を妥協していると批判的に見てしまったりすることが考えられます。また、比較的、平穏に暮らしている人々が、迫害など、より大きな困難を経験している人々の仲間と思われたくなくて、その人々と距離を置き、心から思いやり、具体的な形で支えることがないというようなことも考えられます。 確かに、コリント人への手紙第一・8章1節には、 知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。 と記されています。それはよく見られる現実です。 しかし、みことばの真理の上に堅く立つことと、神である主と兄弟姉妹たちへの愛において成長することは切り離すことはできません。教会におけるみことばの教えにかかわる、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の働きの目的について語っている、エペソ人への手紙4章13節ー15節に、 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。 と記されているとおりです。 私たちは自らを省みる時に、このことも、しっかりと心に刻んでおきたいと思います。 |
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