黙示録講解

(第303回)


説教日:2017年8月20日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(56)


 イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 18節において、ご自身を「神の子」としてお示しになったイエス・キリストは、まず、

わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。

と語りかけられました。これによって、イエス・キリストはテアテラにある教会に見られる賞賛すべき点をしっかりとご覧になっておられることを示しておられます。
 このことは、大切なことです。先主日にも概略をお話ししましたが、テアテラにある教会には深刻な問題がありました。そのことは、続く、20節ー23節に記されている、

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

という、テアテラにある教会がもっている「非難すべきこと」についてのイエス・キリストのみことばに示されています。単純に、ことばの量だけを見ても、「非難すべきこと」についてのみことばは、日本語でもギリシア語でも、賞賛すべきことについてのみことばの4倍あります。内容的にも、それだけ具体的で詳しいものとなっています。これに対して、賞賛すべきことについてのみことばは、それに比べると、より一般的なことを挙げているだけです。それで、先主日にも触れましたが、ある註解者は、この賞賛すべきことについてのみことばのことを「単に儀礼上のものに過ぎない、という印象を免れない」とまで言っているわけです。
 けれども、このみことばを「単に儀礼上のものに過ぎない」と考えることはできません。というのは、このテアテラにある教会へのみことばが「儀礼上のもの」であれば、そのほかの教会へのみことばにおいても、少なくとも、儀礼上のほめことばがあることが期待されます。けれども、続く3章1節ー6節に記されている、サルデスにある教会への語りかけは、

わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

というみことばから始まっていて、賞賛すべきことについてのみことばはありません。確かに、サルデスにある教会へのみことばでは、非難すべきことが語られた後に、

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

と言われています。けれども、テアテラにある教会への語りかけでも非難すべきことが語られた後に、

しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

と言われています。
 また、3章14節ー22節に記されている、ラオデキヤにある教会への語りかけは、

わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

というみことばで始まっています。そして、この後にも、賞賛すべきことについて語っているみことばは見られません。
 とはいえ、イエス・キリストのラオデキヤにある教会への語りかけのみことばは、このみことばを取り上げるようになるときにお話ししますが、儀礼的なことばをはるかに越えた、真実な恵みに満ちています。
 このようなことから、テアテラにある教会への語りかけにおいて、イエス・キリストが、

わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。

と述べておられることは、その後に続いて記されている非難すべきことについてのみことばに比べると短くて、具体的ではないと言えるのですが、決して儀礼的に述べられているものではないことが分かります。


 イエス・キリストは、まず、

 わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている

と語りかけておられます。
 ここには「あなたの」ということばが二つ出てきて、一つは、最初に挙げられている「行い」にかかり、もう一つはその後に挙げられている「愛と信仰と奉仕と忍耐」にかかっています。これによって、最初の「あなたの行い」と、その後の「あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐」が区別されています。そして、「あなたの行い」がどのようなものであるかが「あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐」によって説明されています。
 これと同じ形は、イエス・キリストが最初に語りかけておられるエペソにある教会へのみことばにおいても見られます。2章2節には、

 わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。

と記されています。ここでも、「あなたの行い」が「あなたの労苦と忍耐」によって説明されています。
 このように、イエス・キリストのテアテラにある教会への語りかけの最初のみことばと、エペソにある教会への語りかけの最初のみことばが同じ形で表されていることは意図的なことで、この二つの教会の状態が対比されているというか、お互いに照らし合うようになっていると考えられます。
 このことを念頭に置いて、テアテラにある教会に語られたイエス・キリストの、

 わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている

というみことばをさらに見てみましょう。
 この語りかけのみことばは、

 わたしは知っている

ということば(オイダ)から始まっています。イエス・キリストはアジアにある七つの教会のそれぞれへの語りかけを、

 わたしは知っている

ということばをもって始めておられます。
 この、

 わたしは知っている

と言われていることがどのような意味をもっているかについては、すでにお話ししたことですが、ここで改めて、多少の補足をしながら、まとめておきましょう。
 このみことばの根底にあるのは、また、黙示録全体の啓示の根底にあることですが、1章9節ー20節に記されている、イエス・キリストがご自身の栄光の御姿をヨハネに示してくださったことです。
 その中の10節ー13節には、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されています。ここに出てくる「足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方」は、言うまでもなく栄光のキリストです。そして、「七つの金の燭台」は、20節でアジアにある七つの教会のことであると説明されています。それで、ここでは栄光のキリストがアジアにある七つの教会の真ん中にご臨在してくださっていることが示されています。
 そして、その栄光のキリストの御姿が、14節ー16節に、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。
 先主日にも触れましたが、ここで、

その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、

と言われていることが、テアテラにある教会へのみことばの中で、イエス・キリストがご自身のことを、

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子

として示しておられることへとつながっています。同じように、イエス・キリストはアジアにある七つの教会のそれぞれに語りかけられた中で、この1章14節ー16節に記されている、ヨハネに示された栄光の御姿との関連でご自身のことを示しておられます。
 このイエス・キリストの栄光の御姿に接したヨハネのことが17節前半に、

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。

と記されています。自らのうちになおも罪を宿している者が主の栄光の御臨在の御前に立つとき、その罪の現実を思い知らされ、自分が滅ぼされるべき者であることを恐ろしいほどの現実として自覚するようになります。

 これは、イザヤ書6章1節ー5節に、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。」

と記されている預言者イザヤが経験したことと実質的に同じことです。
 しかし、そのような罪をうちに宿す者として主の栄光の御臨在に接したために、気を失ってしまうほどの恐ろしさをもって滅びを実感するようになった者に、主はそれをはるかに越える恵みの深さと豊かさを示してくださいます。イザヤの場合には、続く6節ー7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されているように、「」の栄光の御臨在の御許には罪の贖いが備えられており、イザヤはただ「」の恵みによってそれにあずかっていることを示されました。そして、この圧倒的な「」の贖いの恵みに触れた者として、そのあかしのために「」の御臨在の御許から遣わされました。
 同じことはヨハネにも起こっています。黙示録1章17節後半ー19節には、

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」

と記されています。
 詳しい説明は省きますが、栄光のキリストは、まず、

 恐れるな。

と言ってくださいました。これは単なることばではなく、その現実を生み出す力をもっている主のみことばです。そして、このみことばには根拠があります。それは語っておられる方が、

 わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。

とあかししておられるように、ご自身が十字架の死によってご自身の民の罪を完全に贖い、ご自身の民をご自身の栄光の御臨在の御前に立つのにふさわしい栄光をもつ者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえった方であるからです。その意味で、栄光のキリストは、イザヤが幻の中で仰ぎ見た、主の神殿にご臨在しておられる栄光の「」の本体です。
 実際、栄光のキリストはヨハネに、

 恐れるな。

と言ってくださった後、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

と言われてご自身を示してくださっています。これは、強調形の「わたしは・・・である。」ということば(エゴー・エイミ)で始まっています。これは、出エジプトの時代に神さまがモーセに、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

と言われてご自身の御名を示してくださったことを受けています。この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、ギリシア語訳である七十人訳では、強調形の「わたしは・・・である。」ということば(エゴー・エイミ)で始まる、

 わたしは「在る者」である。(エゴー・エイミ・ホ・オーン)

と訳されています。そして、このことから、強調形の「わたしは・・・である。」ということば(エゴー・エイミ)で始まるみことばは、契約の神である主、ヤハウェがどのようなお方であるかを示すもの、いわば「」の自己啓示のみことばとなっています。それで、栄光のキリストがヨハネに、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

と言われてご自身を示してくださったことは、何よりもまず、ご自身が契約の神である主、ヤハウェであられることを示してくださったことでした。そして、

 わたしは、最初であり、最後であり

ということは、栄光のキリストが契約の神である主、ヤハウェとしてこの歴史的な世界のすべてのことを始められた方であり、終わらせる方、すなわち、歴史の主であることを示しています。さらに、

 わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。

ということは、その歴史の主であるヤハウェなる方が、先ほどお話ししましたように、ご自身が十字架の死によってご自身の民の罪を完全に贖い、ご自身の民をご自身の栄光の御臨在の御前に立つのにふさわしい栄光をもつ者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえった方であるということを示しているのです。
 栄光のキリストは、ご自身のことをこのように示してくださった上で、ヨハネに、

 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

と言われて、ご自身をあかしするようにと召しておられます。この点は、先ほどお話ししたイザヤの召しと同じです。

 これらのことを、先ほどお話しした12節ー13節に、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されていることに当てはめると、契約の神である主、ヤハウェうなる方であり、この歴史的な世界のすべてのことを治めておられる歴史の主である栄光のキリスト、特に、ご自身の十字架の死によってご自身の民の罪を完全に贖い、ご自身の民をご自身の栄光の御臨在の御前に立つのにふさわしい栄光をもつ者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえられた栄光のキリストが、アジアにある七つの教会の真ん中にご臨在しておられるということになります。
 この栄光のキリストが、アジアにある七つの教会の一つ一つの教会に、

 わたしは知っている

と語りかけておられます。これは、イエス・キリストがこの歴史的な世界のすべてのことを治めている歴史の主であるから、当然すべてのことを知っておられるというだけのことではありません。そのことは当然のこととして踏まえた上で、さらに、特別な意味でアジアにある七つの教会の一つ一つの教会のことを知ってくださっていることを意味しています。イエス・キリストはご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、アジアにある七つの教会の一つ一つの教会に深くかかわってくださっておられるので、それぞれの教会に、

 わたしは知っている

と語りかけておられるのです。
 そして、一つ一つの教会への語りかけの中で、それぞれの教会の実情に従って、賞賛されるべきことを指摘して、励ましておられますし、非難されるべきことを指摘して、悔い改めを求めておられます。
 これは、アジアにある七つの教会の一つ一つの教会への語りかけの最後に約束されている祝福に、七つの教会のすべてをあずからせてくださるためです。
 アジアにある七つの教会のそれぞれに語られたみことばには、それぞれに異なった祝福が約束されています。けれども、その約束のみことばの前か後には、必ず、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

というみことばが記されています。「御霊が諸教会に言われること」と言われているように、それぞれの教会に語られたみことばは、また「諸教会に」対して語られているのです。それゆえに、黙示録に記されているみことばは、今日の私たちにも語りかけられていると考えることができます。それは、特に、この、

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

というみことばとともに語られている祝福の約束の一つ一つに当てはまることです。

 テアテラにある教会に語りかけられたみことばにおいては、まず、

 わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている

と言われています。繰り返しになりますが、ここでは「あなたの行い」が「あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐」として説明されています。この「愛と信仰と奉仕と忍耐」については、最初の「愛と信仰」を一組にし、次の「奉仕と忍耐」を一組にして、「愛と信仰」が動機となって「奉仕と忍耐」が生まれてくるとする主張と、これら4つの特質はそれぞれ別々に理解した方がよいという主張があります。文の構成の上では、「愛と信仰」と「奉仕と忍耐」という組み合せを示唆するものはありません。けれども、内容の上から、「愛と信仰」が動機となって「奉仕と忍耐」が生まれてくると言われますと、なるほどという気がします。つまり、「愛と信仰」が「奉仕と忍耐」として現れてくるということです。確かに、ガラテヤ人への手紙5章13節には、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

と記されています。このみことばから、愛がまことの奉仕を生み出すことが分かります。
 ただ、問題もあります。
 このイエス・キリストの賞賛のみことばにおいて、「愛と信仰」が動機となって「奉仕と忍耐」が生まれてくるということになっているとしますと、イエス・キリストが賞賛しておられる「愛と信仰」の現れが「奉仕と忍耐」に限定されてしまうという問題です。しかし、「愛と信仰」の現れには、本来、そのような限定はありません。
 十字架にかかって死なれ、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストを信じて義と認められ、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている神の子どもたちの人格的な特質は、ガラテヤ人への手紙5章22節ー23節に、

 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

と記されている御霊の実としての人格的な特質、すなわち、御霊が生み出す人格的な特質です。
 そして最初に挙げられている「」は、コロサイ人への手紙3章12節ー14節に、

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

と記されているように、そのほかのすべての人格的な特質を結び合わせる「結びの帯」です。また、ローマ人への手紙13章8節ー9節には、

他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。

と記されています。律法は主の民の生活のあらゆる面にかかわっています。それで律法をまっとうする「」は、「奉仕と忍耐」に限られるのではなく、生活のあらゆる面に現れてきます。
 また、信仰との関係も見てみましょう。ガラテヤ人への手紙5章6節には、

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

と記されています。ここでは、まことの信仰は「愛によって働く信仰」であると言われています。
 この場合、愛と信仰の関係は、パウロがこのガラテヤ人への手紙で論じていることに照らして言いますと、信仰の結果、愛が生まれてくる、愛は信仰の現れであるという関係にあります。
 どういうことかと言いますと、パウロはこの手紙で、人は割礼を受けて、モーセ律法の戒めを守ること(それには、神と人を愛することも含まれています)によって義とされるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められると論じています。そして、信仰によって義と認められて、神さまとの関係が回復されている神の子どもたちのうちに、先ほどお話しした、御霊の実としての人格的な特質である愛が生み出されると論じています。その意味で、愛は信仰の結果である、愛は信仰の現れであるということになります。
 この愛が生活のあらゆる面にかかわっているように、「愛によって働く信仰」もまた、神の子どもたちの生活のあらゆる面に現れてきます。ローマ人への手紙1章17節に、

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

と記されているように、信仰によって義と認められた人は、信仰によって生きるのです。
 このようなことから、テアテラにある教会へのみことばにおいてイエス・キリストが賞賛しておられるのは、「愛と信仰」が動機となって「奉仕と忍耐」が生まれてくるという意味での「愛と信仰と奉仕と忍耐」ではないと考えられます。イエス・キリストはテアテラにある教会の信徒たちがもっている「愛と信仰と奉仕と忍耐」のそれぞれに目を向けてくださって、それぞれが信徒たちの内側でどのような状態にあるかも、またそれぞれが具体的な形で現れてきていることについても評価してくださっていると考えられます。
 この後、テアテラにある教会に巣くっている深刻な問題が取り上げられています。そこには厳しいことばもあります。けれども、それだからといって、主はテアテラにある教会に見られる賞賛すべきことを無視されることはありません。


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