黙示録講解

(第301回)


説教日:2017年8月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(54)


 先主日には講壇交換がありましたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は、黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 このみことばの冒頭において、イエス・キリストはご自身のことを「神の子」として示しておられます。これによって、イエス・キリストは、ご自身が、「」がダビデ契約において約束してくださっていた、ダビデの子としてのメシアであることを示しておられます。ダビデ契約においては、ダビデの子が、「」がをとこしえに堅く立ててくださる王座に着座して治めるようになることが約束されていました。
 まず、今お話ししていることとのかかわりで、これまでお話ししたことをまとめて振り返っておきます。その後で、一つのことをお話しして、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられることについてのお話を終えたいと思います。


 ダビデ契約のことは、表題で「ダビデの賛歌」とされている詩篇110篇1節に記されている、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

というみことばにおいても預言的に示されています。
 ここには、「」が「あなたの敵」(複数形)と言われるメシアに敵対して働く主権者たちが出てきます。古い契約の下では、これは「地上的なひな型」としてのこの世の主権者たちを指していますが、それを突き詰めていきますと、彼らを動かしている暗やみの主権者たちに行き着きます。
 ここには、「」と「」に敵対して働いている暗やみの主権者たちとの間に霊的な戦いが展開されています。とはいえ、「」は存在と一つ一つの属性(ご性質)において無限、永遠、不変の神です。暗やみの主権者たちはもともと御使いとして造られた被造物であり、その存在のすべてを「」に負っています。彼らと「」の間には絶対的な区別があります。それで、暗やみの主権者たちが直接的に「」と戦うことはできません。
 神さまは創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになり、その歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになりました。創世記1章27節ー28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおりです。これが神さまが創造の御業において示されたみこころです。
 暗やみの主権者であるサタンは同じ被造物である人に働きかけることはできます。実際に、サタンは、人が神である「」に罪を犯して御前に堕落してしまうようにと、人に働きかけて成功しました。これによって、人は罪によって暗やみの主権者たちと結ばれて、神である「」に敵対して歩むものになってしまいました。神さまが創造の御業において示されたみこころの実現は阻止されてしまったと思われました。
 これに対して、神である「」は、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている「蛇」の背後にあって働いていた暗やみの主権者サタンに対するさばきの宣告において、神である「」が「女」と「女の子孫」の共同体とサタンとサタンの霊的な子孫の共同体との間に「敵意」をおいて、この二つの共同体の間に霊的な戦いが展開するようになることを示されました。そればかりでなく、最終的には「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られるメシアが、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンに対する最終的なさばきを執行されることが示されました。
 このサタンに対するさばきの宣告において、「女」と「女の子孫」の共同体は霊的な戦いにおいて、神である「」の側に立って、神である「」に敵対して働いているサタンとサタンの霊的な子孫の共同体と戦うことが示されています。これが、「女」と「女の子孫」の共同体の救いを意味しています。それで、このサタンに対するさばきの宣告は「最初の福音」とも呼ばれます。
 また、今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、霊的な戦いは、神さまが創造の御業において示されたみこころの実現をめぐる戦いであるということです。最終的に、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体がその罪に対するさばきを受けて滅ぼされても、また、「女」と「女の子孫」の共同体が救われて滅びを免れたとしても、神さまが創造の御業において示されたみこころが実現しなかったとしたら、霊的な戦いにおいては、暗やみの主権者たちが勝利することになってしまいます。
 もちろん、この時点で、神さまがこの世界の歴史を終わらせてしまったとしても、神さまに不正があるわけではありません。しかし、神さまはご自身の恵みとまことに満ちた栄光がより豊かに現されるようになるためのみこころを示されました。
 このような霊的な戦いの状況にあって、詩篇8篇5節ー6節には、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。これはこの詩人がこれを記したとき、すなわち、神のかたちとして造られている人が神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも、人は神のかたちとして造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられていることには変わりがないことを示しています。変わったのは、人が神である「」を神として礼拝することを中心として、神である「」の栄光をより豊かに映し出す歴史と文化を造ることはなくなってしまい、自らの罪の自己中心性を現す歴史と文化を造るようになってしまったということです。
 先ほど引用しました詩篇110篇1節に記されている、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

というみことばは、このような意味をもっている霊的な戦いにおいて、神である「」が、ご自身がお立てになるダビデの子として来られるメシアの働きによって勝利することを示しています。
 それは、みことば全体の光から見ますと、暗やみの主権者たちを滅ぼすことに尽きるものではありません。むしろ、メシアの働きによって、歴史と文化を造る使命にかかわる神さまのみこころが実現することによる勝利です。そのことを示している、新約聖書のエペソ人への手紙1章20節ー23節を、改めて、振り返っておきましょう。そこには、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 詳しい説明は省きますが、20節ー21節では、父なる神さまがイエス・キリストを、

死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・高くおかれました

と言われています。これは詩篇110篇1節に記されていることが、イエス・キリストにおいて成就していることを示しています。
 そして、22節では、

 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ・・・ました。

と言われています。ここに出てくる「キリスト」は代名詞の「彼」で表されています。それで、これは詩篇8篇6節に記されている、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばに記されていることがイエス・キリストにおいて成就していることを示しています。イエス・キリストは暗やみの主権者たちをご自身の主権の下に従わせ、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるのです。
 そればではなく、これに続く22節後半ー23節では、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われています。
 これによって、教会は、暗やみの主権者たちをご自身の主権の下に従わせ、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるキリストのからだであり、このイエス・キリストがご自身のからだである教会にご臨在してくださって、教会を満たしてくださっているということが示されています。
 このことは、暗やみの主権者たちをご自身の主権の下に従わせ、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるキリストのからだである教会が、そこにご臨在してくださっているイエス・キリストに導かれて、霊的な戦いを戦いつつ、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を造るようにと召されているということを意味しています。
 それは、より具体的には、「天上において」父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが遣わしてくださった御霊が、御子イエス・キリストの御霊としてお働きになり、キリストのからだである教会を満たしてくださっているということを意味しています。言い換えますと、ダビデ契約において約束されていた永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、御霊によってご自身のからだである教会を満たしてくださり、養い育ててくださるということです。最初の聖霊降臨節の時の出来事を説明している使徒の働き2章32節ー35節に、

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。
 「主は私の主に言われた。
 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」

と記されているとおりです。
 天上において父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが遣わしてくださった約束の御霊は、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、私たち主の民を、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業がもたらす祝福にあずかる者としてくださいます。イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、ご自身の民をより豊かな栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちに生きる者としてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。
 ですから、私たちは御霊のお働きによって、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともに栄光を受けてよみがえっているのです。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていることは、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちの現実となっています。
 ここで大切なことは、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかって、イエス・キリストとともによみがえったことによって、私たちはイエス・キリストとともに天上において座する者となっていると言われていることです。これは、天上において父なる神さまの右の座に着座されて、暗やみの主権者たちをご自身の主権の下に従わせ、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストとともに座する者となっているということを意味しています。私たちは「あわれみ豊かな神」の「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」このような祝福にあずかっています。
 イエス・キリストはダビデ契約に約束されていた永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座されて、まことのダビデの子であるメシアとして、私たち主の民を御霊によって満たし、御霊によって導いてくださって、イエス・キリストの復活の栄光によって特徴づけられる時代、すなわち、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たす者としてくださっています。私たちはイエス・キリストの復活の栄光にあずかって、イエス・キリストとともによみがえった者として、御霊に導いていただいて「新しい時代」の歴史と文化を造ることにおいて、暗やみの主権者たちとの霊的な戦いを戦います。それによって、神さまが創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されているみこころが実現するのです。

 最後に、一つのことをお話ししたいと思います。私たちが歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすというと、何かとても難しいことをするかのような気がします。しかし、決して、そのようなことではありません。むしろ、その根本にあるのは、ごく日常的なことです。
 そのことを考えるために、マタイの福音書24章37節ー41節に記されているイエス・キリストの教えを見てみましょう。そこには、

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでイエス・キリストは、世の終わりにおいて起こることを、ノアの時代に神さまが大洪水によるさばき執行されたことを取り上げて教えておられます。ノアの時代に執行された大洪水によるさばきは、神さまがこれまでの人類の歴史の中で、ただ一度だけ執行された「終末的なさばき」です。しかも、これによって神さまは、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人類だけでなく、生き物たちをも滅ぼしてしまいました。それは、創世記1章28節に記されている、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という神さまが神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命において、生き物たちが人との一体にあるものとされているからです。同じ理由によって、ノアとともに箱舟に入って大洪水によるさばきから救われた生き物たちもいました。
 ですから、ノアの時代の大洪水によるさばきは、神さまが神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命をめぐるさばきだったのです。このさばきによって、人や生き物たちだけがさばかれたのではありません。それまでの時代に人が造ってきた歴史と文化のすべてがさばかれたのです。その意味で、このさばきは「終末的なさばき」であり、世の終わりの最終的なさばきを指し示す「地上的なひな型」です。
 これまで繰り返しお話ししてきましたように、世の終わり、歴史の終わりにおいてなされるさばきは、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られた人にお委ねになった歴史と文化を造る使命にかかわるさばきです。ノアの時代の大洪水によるさばきは、このことを映し出しています。
 洪水前のノアの時代状況を記す創世記6章5節ー6節には、

は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

と記されています。
 ここには、大洪水によるさばきをが執行される前の人の内面の状態が記されています。それは、「みな」、「いつも」、「悪いことだけ」ということばの積み重ねによって、人の内なる腐敗が極まってしまっていたことが示されています。
 その時代の見える状況が11節ー12節に、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。
 愛を本質的な特質とする神のかたちに造られた人が、その本来の姿において地を満たしていたら、愛が地に満ちていたはずです。しかし、ここでは、

 地は、暴虐で満ちていた。

と言われています。
 このようにして、この時代の人々は、ノアとその家族を除いて、罪による腐敗を極まらせ、その罪による腐敗を徹底的に現す歴史と文化を造っていました。神さまはこのような歴史と文化を造り出すに至った人々を、彼らが造り出した歴史と文化とともに滅ぼされたのです。
 ところが、イエス・キリストは、同じ、大洪水によるさばきが執行される前のノアの時代のことを取り上げて、マタイの福音書24章38節で、

洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

と言っておられます。
 あの時代の人々は、悪を好んで追い求め、罪の自己中心性を徹底的に現す暴虐の限りを尽くしていたのですが、イエス・キリストはそのことを取り上げておられません。むしろ、

 人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

と言われて、ごく日常のこと、生活をする上で必要不可欠のことがらで、道徳的にはまったく問題のないことを取り上げておられます。これは、イエス・キリストが大洪水によるさばきが執行される前の時代状況をご存知なかったからではありません。意図的に、それらのことには触れておられません。これによって、イエス・キリストが問題としておられることをはっきりとさせておられるのです。
 イエス・キリストは、続く39節で、

そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。

と言われました。
 創世記6章9節には、

 ノアは神とともに歩んだ。

と記されています。この「歩んだ」と訳されていることば(ハーラクのヒスバエル語幹で「歩き回る」という意味合いを伝えています)は、5章22節で、エノクが「神とともに歩んだ」と言われているときに用いられています。さらには、3章8節には、アダムとエバが神である「」に罪を犯した後のことが、

 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた

と記されています。これは、神である「」がいつものように、エデンの園にご臨在された様子を記しています。ここで「歩き回られる」と訳されていることばがこのことばです。また、「」がアブラハムと契約を結んでくださったときのことを記している、17章1節に、「」がアブラハムに、

 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

と言われたときの「歩み」もこのことばです。これらの事例は、その人々が神である「」との契約関係にあって、「」を礼拝することを中心とした親しい交わりのうちに生きていたことを示しています。
 ですから、6章9節で「神とともに歩んだ」とあかしされているノアは、造り主である神さまとの関係において、言い換えると、神さまのみこころに照らして、すべてのことを見ており、理解していたことが分かります。その造り主である神さまのみこころの中心には、神さまが神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命があります。ノアは、歴史と文化を造る使命をわきまえている者として、自分のことだけでなく、自分が置かれている時代状況のことも、造り主である神さまのみこころに照らして見ていましたから、終末的なさばきが執行されるというみこころが啓示されたときに、それを信じました。
 マタイの福音書24章38節に記されている教えで、イエス・キリストが示しておられる、この時代の人々の問題を理解する上での鍵は、

 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

と言われているときの、

 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで

ということばにあります。このことばは、終末的なさばきが執行されることが、ノアが箱舟を造っているという事実を通して、その時代の人々にあかしされたことと、それにもかかわらず、人々はそれを信じなかったということを伝えています。
 この意味でのノアのあかしがなされたことは、ペテロの手紙第二・2章5節に記されている、

 また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。

というみことばにおいて、ノアとその家族のことが「義を宣べ伝えたノアたち八人の者」と言われていることに示されています。また、ヘブル人への手紙11章7節に記されている、

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

というみことばもこのことを示しています。
 もし、誰かがノアと同じように、神さまのみこころの中心である歴史と文化を造る使命にしたがって、自分と自分の生きている時代のことを見ており、理解していたとしたら、その人は、自分たちがどのような状況にあるかを理解できたはずですし、ノアと心を合わせて、「神とともに」歩んだはずです。そうであれば、

 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。

というようなことはなかったはずです。
 ノアの時代の人々の問題は、ごく日常的なこと、生活のために必要不可欠のことを、造り主である神さまのみこころ、特に歴史と文化を造る使命とは関係ないこととしていたことにありました。そのような人々のものの見方、考え方、生き方の根本にあるのは、かつての私たちがもっていたものでもありますが、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。

と記されているときの、

 神はいない

という根本的な原理原則です。ノアの時代の人々は、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」という、ごく日常的なこと、生活に必要不可欠のことを、

 神はいない。

という根本的な原理原則に基づいて行っていたのです。
 イエス・キリストは、続く39節後半ー41節において、

人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

と言われました。世の終わりにおいても、洪水前のノアの時代の人々と同じことが起こるというのです。
 同じ畑にいて、同じように耕している人が二人います。同じ臼を同じように挽いている女性が二人います。畑を耕すことも、臼を挽くことも、日常生活を続けるうえで必要不可欠のことです。一方は熱心で、他方は怠けているとか、一方は道徳的に悪い人で、他方はいい人だというようなことは問題になっていません。それなのに、

 ひとりは取られ、ひとりは残されます。

と言われています。ひとりは取られて神の御国の祝福に入り、ひとりは残されてさばきを受けることになるということです。ここでイエス・キリストが問題としておられるのは、その人の行いの道徳的な善や悪の根本にあることなのです。
 これまお話ししてきたように、ひとりは、

 神はいない。

という、ものの見方、考え方、生き方の根本的な原理原則にしたがって、畑を耕し、あるいは臼を挽いているのです。その人にとっては、種を蒔けば、芽が出て、やがて実が稔るのは「当たり前のこと」です。その人からすれば、このような「当たり前のこと」に神をもち出す必要はないということになるでしょう。
 もうひとりは、まったく同じことを、造り主である神さまの御前においてなしています。畑を耕し、臼を挽くときに神さまを身近に覚え、神さまの愛といつくしみを受け止めて、感謝しているということでしょう。その人にとっては、畑を耕すこと、臼を挽くこと、日常のすべてのことが、神さまの御前におけることであり、神さまの愛といつくしみに触れることであるのです。
 このようにして、歴史と文化を造る使命を果たすことは、信仰によって、日常の生活のすべてのことを造り主である神さまの御前におけることとし、すべてのことにおいて神さまの愛といつくしみに触れていくことから始まって、神である「」に感謝し、「」を神として礼拝することに至ります。


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