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説教日:2017年7月23日 |
イエス・キリストがダビデ契約に約束されていたメシアとして、「主」が確立してくださる永遠の王座に着座して治めるようになったことは、エペソ人への手紙1章20節ー23節に、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 とあかしされています。 このみことばについては3週間前にお話ししていますが、少し補足を加えながら振り返っておきます。 20節では、神さまがイエス・キリストを「ご自分の右の座に着かせ」られたと言われています。これは、詩篇110篇1節に記されている、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 という預言的なみことばの成就です。これによって、「主」がダビデ契約において約束してくださっていた永遠の王座は父なる神さまの右の座であることが示されています。その父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、 すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・高く置かれました。 と言われています。この「すべての支配、権威、権力、主権」は詩篇110篇1節で「あなたの敵」と言われている、暗やみの主権者であるサタンとその軍勢たちのことです。父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、彼らの主権を打ち砕き、彼らを最終的におさばきになります。これは詩篇110篇1節に記されているみことばの成就ですが、最終的には、創世記3章15節に記されている、サタンに対する神である「主」のさばきの宣告を成就することになります。 そればかりではありません。エペソ人への手紙1章21節後半に、 また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と記されているように、イエス・キリストは、ただ暗やみの主権者たちだけでなく、被造物世界に存在するあらゆる主権者たち、しかもそれは「今の世ばかりでなく、次に来る世においても」存在するあらゆる主権者たちの「はるか上に」(直訳)置かれました。これは、イエス・キリストが、ダビデ契約に約束されていたメシアとして、「主」が確立してくださった永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座して、すべてのものを治めておられることを示しています。 今お話ししていることとのかかわりで、特に注目したいのは、「今の世ばかりでなく、次に来る世においても」ということばです。この場合の「世」ということば(アイオーン)は、「時代」を意味することばです。このことばは、空間的な広がりをもっているけれども、基本的には、時間的、歴史的な世界を表します。ここには、「この世」、「この時代」と、「来たるべき世」、「来たるべき時代」が示されています。そして、ここでは、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、「この時代」と「来たるべき時代」のすべてのものを治められることが示されています。 エペソ人への手紙1章では、続く22節に、 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 と記されています。 ここに、 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせた と記されているみことばは、直訳調に訳すと、 神は万物を彼の足の下に従わせた となります。これは、詩篇8篇6節に記されている、 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばの、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばの引用です。これによって、詩篇8篇6節に記されていることがイエス・キリストにおいて成就していることを示しています。この詩篇8篇6節に記されているみことばは、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに触れるものです。 ですから、ここでは、父なる神さまの右の座に着座されて、「この時代」と「来たるべき時代」のすべてのものを治められるイエス・キリストは、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられると言われているのです。そして、その意味において、イエス・キリストは「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」と言われています。この「かしら」は「支配者」、「治める者」を表しています。 22節の後半では、神さまはこの、 いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 と言われています。ここでは、「キリストを」(直訳「彼を」)が最初に置かれて強調されています。これによって、この「キリスト」が、22節前半で、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就していると言われているキリストであることが示されています。このキリストが「いっさいのものの上に立つかしら」として教会に与えられているというのです。 これに続いて、23節では、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と言われています。 この、 いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ と言われている部分をより直訳調に訳しますと、 いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の充満 となります。このことばは、その前の「キリストのからだ」と同格で並べられています。それを生かして23節全体を直訳調に訳せば、 教会はキリストのからだ、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の充満です。 となります。 この「充満」(プレーローマ)をどのように理解するかについては、意見が分かれていますが、これは、受身的に、教会が「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」によって「満たされている」という意味であると考えられます。これは、言い換えれば、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」が教会に満ちておられるということで、新改訳にはこの理解が反映しています。 ここで、 いっさいのものをいっさいのものによって満たす方 と言われているときの「いっさいのものによって」ということば(エン・パスィン)は、「あらゆる点で」ということを表します(BAGD, 2nd.ed.,p.633a)。この、 いっさいのものをいっさいのものによって満たす方 はイエス・キリストのことです。これによって、この世界のすべてのものは、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、最初の創造によって造られたものも、新しい天と新しい地あるようになるすべてのものも、あらゆる点で、イエス・キリストによって満たしていただき、支えていただいて存在しているということが示されています。 そして、ここでは、「教会」が、その「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」に満たされていると言われています。これは、より一般的な言い方をすれば、イエス・キリストが、御霊によって、ご自身のからだである教会にご臨在してくださっていることを示しています。 そのことを表すのに、ここではイエス・キリストのことが「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われています。それは、この前に記されていることとのつながりを示すためです。 ここで、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われているのは、22節後半で「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」のことであり、さらに22節前半で、 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせた と言われているイエス・キリスト、すなわち、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストのことです。そして、このイエス・キリストは、20節ー21節において、父なる神さまの右の座に着座されて、暗やみの主権者たちばかりでなく、「この時代」と「来たるべき時代」のすべてのものを治められると言われています。 ですから、ここで、 教会はキリストのからだである と言われているのは、「教会」が、父なる神さまの右の座に着座されて、「この時代」と「来たるべき時代」のすべてのものを治められ、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストの「からだ」であるということです。 そして、この「キリストのからだである」「教会」は、父なる神さまの右の座に着座されて、「この時代」と「来たるべき時代」のすべてのものを治められ、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストが、御霊によってご臨在してくださって「満ちておられるところ」なのです。 このことは、「キリストのからだ」である教会は、イエス・キリストが成就しておられる歴史と文化を造る使命の遂行に深く関わっているということを意味しています。キリストのからだである教会は、父なる神さまの右の座に着座されて、「この時代」と「来たるべき時代」のすべてのものを治められ、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストによって満たされているものとして、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を委ねられているのです。「来たるべき時代」の歴史と文化は、新しい天と新しい地の本質をもっている歴史と文化であり、終りの日に再臨される栄光のキリストによって完成し、新しい天と新しい地へとつながっていく歴史と文化です。 イエス・キリストはこのことを、「キリストのからだである」「教会」において実現してくださるために、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)において、父なる神さまの右の座から、約束の聖霊を遣わしてくださいました。最初の聖霊降臨節の日に起こったことについて説明しているペテロのことばを記している使徒の働き2章32節ー33節に、 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と記されているとおりです。 この時から、イエス・キリストは、ダビデ契約に約束されていたメシアとして、「主」が確立してくださった永遠の王座である父なる神さまの右の座に着座して、ご自身が遣わしてくださった御霊によって、「キリストのからだである」「教会」にご臨在してくださり、私たち「主」の契約の民を御霊によって導いてくださっています。それによって、私たち「主」の契約の民は、「来たるべき時代」の歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもっている歴史と文化を造る使命に生きることができます。 このことを踏まえて、コリント人への手紙第一・3章10節ー15節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 と記されています。 ここには、キリストのからだである教会が建て上げられることに関わる教えが記されています。ここに記されていることは、より広く、私たちが「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことに当てはまります。 今日は「来たるべき時代」の歴史と文化を造ることと関わっていることだけをお話しします。 10節ー11節で、パウロは、 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。 と述べてから、 その土台とはイエス・キリストです。 と言っています。 そして、パウロは、 ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 と述べています(「家」は原文のギリシア語にはない新改訳の補足です)。 使徒パウロが据えた土台には問題はありません。福音のみことばにあかしされているイエス・キリストが土台として据えられています。問題は、その上にどのように建てるかということにあります。 しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 ということばは、キリストのからだである教会に属するすべての人に当てはまることです。キリストのからだである教会は牧師や長老だけが建てるのではありません。それぞれがイエス・キリストにあって成長すること、すなわち、御霊によって、イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられていくことがキリストのからだである教会が建て上げられることにつながっています。牧師や長老はそのことに仕えているのです。 パウロは続く12節ー13節で、 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 と述べています。 パウロが注意しなければならないと教えているのは、「金、銀、宝石」で建てるのか、あるいは、「木、草、わら」で建てるのかということで、その素材の質のことです。ここでは、大きなものを建てたか、小さなものしか建てられなかったかというような、サイズのことは問題になってはいません。この場合、「金、銀、宝石」の「金」は何か、「銀」は何かというようなことは問題になりません。これらを三つ重ねることによって、いろいろなものがあるけれども、その質は同じであるということが示されています。 この場合に、ある人が「金、銀、宝石」で建てたのか、あるいは「木、草、わら」で建てたのかは、 その日がそれを明らかにするのです。 と記されています。この「その日」は、終わりの日のことです。そのことは、最終的には、終わりの日に明らかになると言われています。終わりの日になされるさばきにおいて明らかにされるということです。これは、人の目に見えることが、そのまま主がご覧になっておられることではないということを意味しています。人がすばらしいと言っても、自分でそう思っても、主の目にはそのように見えていないということが、いくらでもあります。 パウロは、その終わりの日に起こることについて、 その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためす と述べています。ここには「火」が出てきますが、物理的な火ではありません。テサロニケ人への手紙第二・1章7節には、 そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。 と記されていますように、栄光のキリストが再臨されるとき、それに伴う「火」です。その意味で、栄光のキリストの顕現(クリストファニー)に伴う「火」です。「金、銀、宝石」で建てられた建物はその「火」で焼き尽くされることはありませんが、「木、草、わら」で建てられたものは焼き尽くされてしまいます。「木、草、わら」で建てられたものは栄光のキリストの御臨在に耐えることができないものであることが明らかとなります。しかし、「金、銀、宝石」で建てられたものは栄光のキリストがご臨在される新しい天と新しい地に属するものであることが明らかとなり、新しい天と新しい地へとつながっていきます。 このように、これは、終わりの日においてなされる評価としてのさばきにかかわることです。けれどもこれは、人を救いか滅びかに分けるという意味でのさばきではありません。というのは、15節に、 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 と記されていますように、焼き尽くされるのは「木、草、わら」で建てられたものであって、それを建てた人ではないからです。その人が福音のみことばにあかしされているイエス・キリストを、福音のみことばに従って信じているなら、その人は決して、主の聖なる御怒りによるさばきによってさばかれることはありません。福音のみことばは、イエス・キリストがご自身の民の身代わりとなって十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて受けてくださり、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださったとあかししています。私たちの罪に対する最終的な刑罰は、イエス・キリストの十字架に置いて終わっています。 このことは、「木、草、わら」で建てた人が、形としては教会の集会に出席しているけれども、真にイエス・キリストを信じていない人のことではないということを示しています。 また、このことは、人の目に見える形においては一つの教会、同じ教会にあっても、それぞれの人が「金、銀、宝石」で建てたり、「木、草、わら」で建てたりすることがあるということも示しています。すばらしい教会に属しているから大丈夫だということではないのです。 この二つのことは、この教えでは、その教会がイエス・キリストという土台の上に建てられているという意味ではまことの教会でありながら、その上に「木、草、わら」というまがい物をもって建てられることがあると言われていることからも分かります。 それでは、「金、銀、宝石」と「木、草、わら」の違いは何によっているのでしょうか。この二つの違いは、先主日にお話ししました「来たるべき時代」を特徴づけ、それを生み出してくださり、導いてくださっている「御霊」と、それに対立する、「この世」、「この時代」を特徴づけ、それを生み出し、動かしている「肉」の違いに対応しています。 私たちが御霊によって導いていただいて造る「来たるべき時代」の歴史と文化は、新しい天と新しい地に属するものとして、新しい天と新しい地へとつながっていきます。終わりの日に再臨される栄光のキリストは、それを生かしてくださって、新しい天と新しい地を再創造してくださいます。けれども、私たちが肉に動かされて建て上げたものは、「この世」「この時代」に属するものとして、栄光のキリストの御臨在の御前で焼き尽くされてしまいます。 私たちは御霊に導いていただいて、神である主を愛して礼拝し、兄弟姉妹たちへの愛に生きることを中心として、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。 |
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