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説教日:2017年7月16日 |
イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をお受けになったことは、終わりの日になされる最終的なさばきが執行されたことを意味しています。 また、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことも、終わりの日になされる、歴史と文化を造る使命にかかわる評価がなされ、イエス・キリストが完全な従順に対する報いを受けて、より豊かな栄光の状態に入られたことを意味しています。それによって、「創造の契約」の祝福が実現したのです。 ですから、今から2千年前に起こった、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、「終わりの日に起こること」が、すでに、この歴史の現実になっています。 イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたときの栄光は、神さまが創造の御業において、人をお造りになった時の、神のかたちとしての栄光より、さらに豊かな栄光です。それは、「創造の契約」の祝福として与えられた栄光であり、最初の人アダムが、最後まで神である「主」のみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たしていたなら、そのことの報いとして与えられていたはずの栄光でした。 ですから、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたときの栄光は、終わりの日に完全に実現するようになる新しい天と新しい地に属する栄光です。イエス・キリストにあっては、新しい天と新しい地に属することが、すでに、歴史の中で(2千年前に)実現しています。この新しい天と新しい地も歴史的な世界です。その新しい天と新しい地に属する歴史が、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、すでに始まっています。 先ほど引用しましたエペソ人への手紙2章4節ー6節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 と記されていました。 ここに記されているように、私たちは栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストとともに、栄光を受けてよみがえって、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいています。私たちが天に座する者であるということは、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことにかかわっています。歴史と文化を造る使命について記している創世記1章28節に、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 と記されているように、歴史と文化を造る使命には、それを果たす上での「権威」が伴っています。その権威が与えられていることが、「天に座する」ということで表されています。 ただし、その「権威」とは、私たちの主であられるイエス・キリストが、ヨハネの福音書10章18節において、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 とあかしされておられることに典型的に示されている権威であり、愛によって仕えることに現れてくる権威です。これはもともと愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人に与えられていた権威です。 いずれにしましても、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいている私たちは、イエス・キリストにあって、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史と文化を造る者とされています。このようにして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストにあって、すでに始まっている、新しい天と新しい地に属する歴史、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史を、「新しい時代」、「来たるべき時代」と呼びます。そして、この「新しい時代」、「来たるべき時代」を特徴づけ、「新しい時代」、「来たるべき時代」を生み出し、動かしているのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる「御霊」です。私たちはイエス・キリストにあって、この「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る者とされているのです。 これに対して、エペソ人への手紙2章1節ー3節には、かつての私たちの状態のことが、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されています。今もこの状態にある人が造り出す歴史は「この世の流れ」を生み出しています。このようにして造られる歴史を、「この時代」と呼びます。かつて、私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であり、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んで」いることによって、「この世の流れ」を生み出し、「この時代」の歴史と文化を造り出していました。そして、「この世」、「この時代」を特徴づけ、「この世」、「この時代」を生み出し、動かしているのは、「御霊」と対立する「肉」です。 先主日に取り上げました、ヘブル人への手紙2章5節ー10節には、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」 万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 と記されています。 ここでも、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命は、イエス・キリストの死とよみがえりにあずかって、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっている神の子どもたちに委ねられていることが示されています。 このヘブル人への手紙2章5節ー10節では、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命は、「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けに」なったイエス・キリスト、すなわち、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて成就しているけれども、その完全な実現には至っていないことが示されています。これが完全な形で実現するのは、終わりの日においてのことです。この点は、先に取り上げました、コリント人への手紙第一・15章24節ー28節においてより明確に示されています。 このことについては説明するまでもありません。栄光を受けて死者の中かからよみがえられたイエス・キリストとともに天に座する者としていただいている私たちは、イエス・キリストにあって、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史と文化を造る者とされています。けれども、その新しい天と新しい地そのものは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、再創造されるものです。それで、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史と文化を造ることが完全な形で実現するのは、終わりの日のことです。 ですから、ここには、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいている私たちが、イエス・キリストにあって、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史と文化を造る使命を果たすことには、「すでに」そのことが私たちの間で実現しているという面と、「いまだ」その完全な形で実現していないという面があります。これが、新約聖書の終末論、特に、パウロの終末論を理解する上での鍵となる「すでにそしていまだ」という「合いことば」、「キーワード」が示すことです。 私たちは「すでに」イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いにあずかって、罪を完全に贖っていただいています。また、イエス・キリストが「創造の契約」に約束されている祝福により、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことにもあずかって、復活のいのちによって新しく生まれています。そして、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいています。 また、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、神さまの御前に義と認めていただいており、子としての身分をいただいています。このことに基づいて、私たちは父なる神さまに向かって親しく「アバ、父」と呼びかけるほどの近さと親しさにおいて、父なる神さまとの愛の交わりに生きています。先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章4節ー6節に、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されていたとおりです。 そして、これら、イエス・キリストにあって受けている「新しい契約」の祝福によって私たちは、すでに私たち「主」の契約の民の間の現実となっている、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすようになっています。 これらすべてのことはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいています。そして、今から2千年前の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、イエス・キリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった聖霊は、御子の御霊として、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいてお働きになります。 御霊は私たちを父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、子としてくださり、父なる神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わりに生かしてくださっています。先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章4節ー6節に記されているとおりです。 このように御霊に導いていただいて、父なる神さまを礼拝することを中心として、神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わり、また、同じく神の子どもとしていただいている兄弟姉妹との愛にある交わりに生きることが永遠のいのちの本質です。私たちはこの愛に生きることによって、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていきます。 私たちはイエス・キリストの御霊に導いていただくことによって、また、御霊に導いていただく時にだけ、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことができます。なぜなら、先ほど触れましたように、「新しい時代」、「来たるべき時代」を特徴づけ、「新しい時代」、「来たるべき時代」を生み出し、動かしているのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる「御霊」だからです。そして、これと対比される「この世」とその歴史である「この時代」を特徴づけ、それを生み出し、動かしているのは、「御霊」に対立する「肉」だからです。 ガラテヤ人への手紙5章13節ー16節には、 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 と記されています。 |
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