黙示録講解

(第299回)


説教日:2017年7月16日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(52)


 イエス・キリストはテアテラにある教会に語られたみことばの冒頭において、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。この場合の「神の子」は、「」がダビデに与えてくださった契約において、ダビデの世継ぎの子が、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座して治めるようになると約束してくださったことを背景としています。
 これまで、このことと関連して、ヘブル人への手紙1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。

と記されていることについてお話ししてきました。
 このことの究極的な背景は、神さまが天地創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになったこと、また、人をご自身との愛の交わりのうちに生きる者として、愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになったこと、そして、神のかたちとして造られている人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことにあります。
 先主日まで、コリント人への手紙第一・15章24節ー28節、エペソ人への手紙1章20節ー23節、そして、ヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されているみことばに基づいて、イエス・キリストが、神のかたちとして造られている人に委ねられているこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を成就しておられることをお話ししました。
 今日は、これらのことを、その根底にある、神さまが一方的な愛と恵みによって与えてくださった契約とのかかわりでお話しします。
 造られた世界のすべてのもの、すべてのことは、神さまが創造の御業とともに与えてくださった「創造の契約」に基づいて支え、導かれています。この「創造の契約」は伝統的には「わざの契約」と呼ばれている契約です。「わざの契約」は、この契約を造り主である神さまが神のかたちとしてお造りになった人と結んでくださった契約として理解しています。「創造の契約」は、造り主である神さまがお造りになったすべてのものにかかわる契約であると理解しています。[注] そして、その枠の中に、しかも、その中心に、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人との契約があると理解します。

[注]神さまがお造りになったすべてのものと契約を結んでおられることは、いくつかのことから分かりますが、より直接的には、エレミヤ書33章19節ー22節に、
エレミヤに次のようなのことばがあった。「はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。」
と記されており、25節ー26節に、
はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれむ。」
と記されていることなどから分かります。

 神さまはこの「創造の契約」に基づいて、ご自身がお造りになったこの世界にご臨在され、今日に至るまで、お造りになったすべてのものの特質を生かしてくださり、すべてのものを真実に保ってくださっています。イザヤ書66章1節に、

 はこう仰せられる。
 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」

と記されているように、「」は、ご自身がお造りになったこの世界、この広大な宇宙にご臨在しておられます。これは「創造の契約」に基づくことであると考えられます。
 それと同時に、神さまは、特別な意味で、この「地」にご臨在しておられます。それによって、神のかたちとして造られている人は、「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができるのです。
 また、神のかたちとして造られている人は、「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることの中で、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすよう召されています。
 そればかりでなく、神さまは神のかたちとして造られている人がこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、神さまのみこころにしたがって果たしたなら、そのことに対する報いとして、最初に神のかたちとして造られた時の栄光にまさる栄光にあるいのち、すなわち、永遠のいのちを与えてくださるという約束を与えてくださいました。[注] それによって、人が最初に神のかたちとして造られたときにあずかっていた、神である「」との愛にあるいのちの交わりのより、さらに栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださるためのことでした。

[注]このことは、聖書を全体として見た時に、神学的に(論理的に)引き出すことができることです。先主日に触れました、ピリピ人への手紙2章6節ー9節に、
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
と記されているように、まことの人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストが、十字架の死に至るまでも父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことは、「創造の契約」の約束に基づくことであったと考えられます。また、ローマ人への手紙5章18節ー19節に、
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
と記されていることも、「創造の契約」を踏まえることによって初めて理解することができます。

 これらすべてのことは、神さまが一方的な愛と恵みによって与えてくださった「創造の契約」の祝福です。
 このために神さまは、人が委ねられた歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかについての評価をされます。それは歴史と文化を造る使命に関わる評価ですので、歴史の中のさまざまな機会にもなされますが、最終的には、歴史の終わり、すなわち、終わりの日になされます。
 それは、本来は、人が歴史と文化を造る使命を果たしたことに対する報いを与えてくださるための評価であり、それによって、人に永遠のいのちを与えてくださり、人がより豊かな栄光において、神である「」との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださるためのものでした。
 しかし、実際には、人が神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまいましたので、その評価は、神である「」に犯した罪に対するさばきとなってしまいました。「」に罪を犯して、堕落し、その本性が罪によって腐敗してしまい、思いとことばと行いにおいて罪を犯してしまう人は、「」の栄光の御臨在の御前から退けられ、「」との愛にあるいのちの交わりを失ってしまいました。
 これによって、詩篇14章1節に、

 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。

と記されているように、人は造り主である神さまを神として礼拝することはなくなり、自らの罪の自己中心性に縛られて、罪が生み出す自己中心的な欲望、野望を満たそうとする者となってしまい、その自己中心的な欲望、野望を満たすために都合のよい神としての偶像を作り出してしまっています。
 それで、人は神である「」に罪を犯して堕落した後の時代においては、自分たちの罪の現実を映し出す歴史と文化を造り出すようになってしまいました。そのために、人は罪を犯して堕落してしまったことと、造り主である神さまを神としない歴史と文化を造り出してしまうことに対するさばきを受けなければならないものとなってしまいました。
 これに対して、神である「」は、人がご自身に対して罪を犯して堕落した直後に、創世記3章15節に記されています「最初の福音」を与えてくださり、やがて来たるべき贖い主を約束してくださいました。「最初の福音」では、この贖い主は「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来てくださることが示されています。
 このことを出発点として、やがて「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来てくださる贖い主にかかわる「救済の契約」が与えられています。この「救済の契約」は、一般的には「恵みの契約」と呼ばれています。この「救済の契約」に、やがて来たるべき「本体」を指し示し、説明し、約束する、いわば「地上的なひな型」としての意味をもっていた「古い契約」と、それが御子イエス・キリストにおいて成就していることに基づいている「新しい契約」があります。
 神さまは、ご自身がご計画された時が満ちたときに、ご自身の御子を贖い主としてお遣わしになりました。ガラテヤ人への手紙4章4節ー6節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されているとおりです。
 イエス・キリストは、その地上の生涯を通して、完全に父なる神さまのみこころに従い通され、最後に、十字架におかかりになって、私たち「」の契約の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。ガラテヤ人への手紙4章5節に沿って言いますと、「律法の下に」あって罪に定められていた私たちを「贖い出」してくださったのです。それで、私たちの罪に対する最終的なさばきは、イエス・キリストの十字架においてすでに執行されて終わっています。私たちは罪に対する刑罰としてのさばきを受けることはありません。
 そればかりではありません。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、人が最初に造られた時の神のかたちとしての栄光より、さらに豊かな栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。私たちはイエス・キリストにあって、また、イエス・キリストとともによみがえっています。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されているとおりです。また、ガラテヤ人への手紙4章5節ー6節に沿って言いますと、私たちは「子としての身分を受け」ているのです。
 これらのことは、究極的には、「創造の契約」において約束されていた祝福の約束に基づくことです。イエス・キリストは創造の御業において神のかたちとして造られた時の状態にある人の性質を取って来てくださり、神さまが神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就され、「創造の契約」に約束されている祝福にあずかって、人が最初に神のかたちとして造られた時の栄光より、さらに豊かな栄光をお受けになったのです。そして、ご自身の血による「救済の契約」に基づいて、私たちご自身の民をこの祝福にあずかる者としてくださいました。


 イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をお受けになったことは、終わりの日になされる最終的なさばきが執行されたことを意味しています。
 また、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことも、終わりの日になされる、歴史と文化を造る使命にかかわる評価がなされ、イエス・キリストが完全な従順に対する報いを受けて、より豊かな栄光の状態に入られたことを意味しています。それによって、「創造の契約」の祝福が実現したのです。
 ですから、今から2千年前に起こった、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、「終わりの日に起こること」が、すでに、この歴史の現実になっています。
 イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたときの栄光は、神さまが創造の御業において、人をお造りになった時の、神のかたちとしての栄光より、さらに豊かな栄光です。それは、「創造の契約」の祝福として与えられた栄光であり、最初の人アダムが、最後まで神である「」のみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たしていたなら、そのことの報いとして与えられていたはずの栄光でした。
 ですから、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたときの栄光は、終わりの日に完全に実現するようになる新しい天と新しい地に属する栄光です。イエス・キリストにあっては、新しい天と新しい地に属することが、すでに、歴史の中で(2千年前に)実現しています。この新しい天と新しい地も歴史的な世界です。その新しい天と新しい地に属する歴史が、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、すでに始まっています。
 先ほど引用しましたエペソ人への手紙2章4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていました。
 ここに記されているように、私たちは栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストとともに、栄光を受けてよみがえって、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいています。私たちが天に座する者であるということは、神さまが創造の御業において、神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことにかかわっています。歴史と文化を造る使命について記している創世記1章28節に、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

と記されているように、歴史と文化を造る使命には、それを果たす上での「権威」が伴っています。その権威が与えられていることが、「天に座する」ということで表されています。
 ただし、その「権威」とは、私たちの主であられるイエス・キリストが、ヨハネの福音書10章18節において、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

とあかしされておられることに典型的に示されている権威であり、愛によって仕えることに現れてくる権威です。これはもともと愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人に与えられていた権威です。
 いずれにしましても、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいている私たちは、イエス・キリストにあって、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史と文化を造る者とされています。このようにして、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストにあって、すでに始まっている、新しい天と新しい地に属する歴史、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史を、「新しい時代」、「来たるべき時代」と呼びます。そして、この「新しい時代」、「来たるべき時代」を特徴づけ、「新しい時代」、「来たるべき時代」を生み出し、動かしているのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる「御霊」です。私たちはイエス・キリストにあって、この「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る者とされているのです。
 これに対して、エペソ人への手紙2章1節ー3節には、かつての私たちの状態のことが、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。今もこの状態にある人が造り出す歴史は「この世の流れ」を生み出しています。このようにして造られる歴史を、「この時代」と呼びます。かつて、私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であり、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んで」いることによって、「この世の流れ」を生み出し、「この時代」の歴史と文化を造り出していました。そして、「この世」、「この時代」を特徴づけ、「この世」、「この時代」を生み出し、動かしているのは、「御霊」と対立する「肉」です。

 先主日に取り上げました、ヘブル人への手紙2章5節ー10節には、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
 「人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されています。
 ここでも、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命は、イエス・キリストの死とよみがえりにあずかって、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっている神の子どもたちに委ねられていることが示されています。
 このヘブル人への手紙2章5節ー10節では、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命は、「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けに」なったイエス・キリスト、すなわち、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて成就しているけれども、その完全な実現には至っていないことが示されています。これが完全な形で実現するのは、終わりの日においてのことです。この点は、先に取り上げました、コリント人への手紙第一・15章24節ー28節においてより明確に示されています。
 このことについては説明するまでもありません。栄光を受けて死者の中かからよみがえられたイエス・キリストとともに天に座する者としていただいている私たちは、イエス・キリストにあって、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史と文化を造る者とされています。けれども、その新しい天と新しい地そのものは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、再創造されるものです。それで、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史と文化を造ることが完全な形で実現するのは、終わりの日のことです。
 ですから、ここには、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいている私たちが、イエス・キリストにあって、新しい天と新しい地に属する歴史と文化、新しい天と新しい地の本質をもつ歴史と文化を造る使命を果たすことには、「すでに」そのことが私たちの間で実現しているという面と、「いまだ」その完全な形で実現していないという面があります。これが、新約聖書の終末論、特に、パウロの終末論を理解する上での鍵となる「すでにそしていまだ」という「合いことば」、「キーワード」が示すことです。

 私たちは「すでに」イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いにあずかって、罪を完全に贖っていただいています。また、イエス・キリストが「創造の契約」に約束されている祝福により、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことにもあずかって、復活のいのちによって新しく生まれています。そして、イエス・キリストとともに天に座する者としていただいています。
 また、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、神さまの御前に義と認めていただいており、子としての身分をいただいています。このことに基づいて、私たちは父なる神さまに向かって親しく「アバ、父」と呼びかけるほどの近さと親しさにおいて、父なる神さまとの愛の交わりに生きています。先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章4節ー6節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されていたとおりです。
 そして、これら、イエス・キリストにあって受けている「新しい契約」の祝福によって私たちは、すでに私たち「」の契約の民の間の現実となっている、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすようになっています。
 これらすべてのことはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいています。そして、今から2千年前の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、イエス・キリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった聖霊は、御子の御霊として、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりに基づいてお働きになります。
 御霊は私たちを父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、子としてくださり、父なる神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わりに生かしてくださっています。先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章4節ー6節に記されているとおりです。
 このように御霊に導いていただいて、父なる神さまを礼拝することを中心として、神さまとのより豊かな栄光にある愛の交わり、また、同じく神の子どもとしていただいている兄弟姉妹との愛にある交わりに生きることが永遠のいのちの本質です。私たちはこの愛に生きることによって、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たしていきます。
 私たちはイエス・キリストの御霊に導いていただくことによって、また、御霊に導いていただく時にだけ、「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことができます。なぜなら、先ほど触れましたように、「新しい時代」、「来たるべき時代」を特徴づけ、「新しい時代」、「来たるべき時代」を生み出し、動かしているのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる「御霊」だからです。そして、これと対比される「この世」とその歴史である「この時代」を特徴づけ、それを生み出し、動かしているのは、「御霊」に対立する「肉」だからです。
 ガラテヤ人への手紙5章13節ー16節には、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と記されています。


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