黙示録講解

(第298回)


説教日:2017年7月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(51)


 イエス・キリストはテアテラにある教会に語られたみことばの冒頭において、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。この場合の「神の子」は、ダビデ契約と呼ばれる、「」がダビデに与えてくださった契約において、ダビデの世継ぎの子が、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座して治めるようになると約束してくださったことを背景としています。そのことを記しているサムエル記第二・7節14節において、「」がダビデの世継ぎの子について、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と約束してくださっています。このことを背景として、イエス・キリストはご自身のことを「神の子」として示しておられます。これによって、ご自身がダビデ契約に約束されているメシアであることを示しておられるのです。
 「」の契約の約束は、預言的なみことばによって与えられますが、それはことばだけで終わっていません。古い契約の枠の中で(古い契約のもとにある時代の中で)の成就、その意味での「当面の成就」があります。
 ダビデ契約の場合には、ダビデとその世継ぎの子たちが王として、シオンの丘にあるエルサレムで治めたのはダビデの即位の年である1011年から、バビロンの手によってエルサレムが陥落した587年です(New Bible Dictionaryによる)ので、ダビデ王朝は424年ほど続いたことになります。南のエジプト、北のアッシリア、さらに、その先のバビロンなどの帝国がせめぎ合う中に、それらの帝国に挟まれた弱小ユダ王国が、しかも一つの王朝によって、これだけ長い間治められたことは稀に見ることであったのです。そればかりではなく、例外的な王たちもいましたが、王たちは偶像礼拝を取り入れて、背教を繰り返していましたが、南王国ユダはダビデ契約に基づく主のあわれみと忍耐によって保たれていました。
 しかし、それも古い契約のもとにある「地上的なひな型」(「模型」、「視聴覚教材」)としての意味をもっているものでした。これには、積極的な意味と消極的な意味がありました。
 積極的な意味としては、その「地上的なひな型」としての意味をもっている古い契約の下での実現は、「」の預言的なみことばと相まってやがて来たるべき「本体」(「本物」)を指し示していました。そして、「」の約束のみことばは、それを実現する力をもったみことばであることをあかししていたのです。
 その消極的な意味は、それ自体が「地上的なひな型」としての限界があることを示していました。ダビデの血肉の世継ぎの子である南王国ユダの王たちは偶像礼拝を推進して「」に背く罪を犯し続けて、「」のさばきを招きました。それによって、エルサレムは陥落し、エルサレム神殿は破壊され、ダビデの王座は廃絶しました。これによって、「」の契約の民は「地上的なひな型」を頼みとするのではなく、それが指し示している、来たるべき「本体」を待ち望み、それを頼みとするように促されていました。
 ダビデ契約に約束されているダビデの世継ぎの子が、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座することについては、詩篇110篇1節に、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されています。これを古い契約の下にある人々が読めば、「」がご臨在されるための聖所、すなわちエルサレム神殿のあるシオンにご臨在される「」の右の座のことだと理解したことでしょう。もちろん、実際に、エルサレム神殿に「」の右の座があったわけではありません。「右の座」はそこに着座する者が特別な特権にあずかっていることを意味しています。この場合は、ダビデの血肉の王位継承者たちが王として即位することを、「」の右の座に着座することと理解し、王が「」から支配権を委ねられ、「」の御名によって周囲の敵と戦うときに、「」が勝利をもたらしてくださることが約束されていると理解したということです。
 しかし、「」がご臨在されるための聖所のあるエルサレム神殿も、そこで絶え間なく献げられた動物のいけにえも、ダビデの血肉の世継ぎである王たちも、彼らが即位した王座も、やがて来たるべき「本体」を指し示す、「地上的なひな型」でした。そして、これらの「地上的なひな型」が指し示していたことは、すべて、イエス・キリストにおいて成就しています。
 新約聖書は、20回近く、詩篇110篇1節のみことばに言及したり、引用したりして、イエス・キリストにおいて、そこで預言的に示されていることが成就していることを示しています。そして、そこに示されている神の右の座、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座は、地上のシオンの丘にあるエルサレムにあるのではなく、天にご臨在される父なる神さまの右の座であるということを示しています。
 イエス・キリストは、これらすべてのことを成就しておられる方として、特に、神の右の座に着座されたまことのダビデの世継ぎの子として、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。


 これまで、このことと関連して、ヘブル人への手紙1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。

と記されていることについてお話ししてきました。
 そして、このことには、旧約聖書に記されている、「」の契約すべてが背景となっているということをお話ししました。また、その究極的な背景は、神さまが天地創造の御業において、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになり、ご自身が創造された歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことにあるということもお話ししました。
 要点をまとめておきますと、人が愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られたことは、人が神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして造られたことを意味しています。このことは、旧約聖書に繰り返し出てくる、重要な主題である、神さまがご自身の民に、ご自身を「相続財産」として受け継がせてくださったということの根底にあり、出発点となっています。
 この神さまとの愛にあるいのちの交わりは、神さまが創造の御業において、ご自身がご臨在される所として聖別され、ご自身の御臨在を表示する豊かさに満ちた所として形造られたこの「」においてなされます。神のかたちとして造られている人は、神さまがご臨在される所として聖別され、ご自身の御臨在を表示する豊かさに満ちた所として形造られたこの「」を「相続財産」として受け継がせていただいているのです。
 それは、また、神さまが人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことと密接につながっています。人は神さまの御臨在の豊かさを現すこの世界がどのように造られているかを探究します。それは、自分たちが住んでいる「」に限られてはいません。「」に住むものとしての視点からではありますが、その探究は神さまがお造りになった「すべてのもの」、「万物」に及びます。そこのことは、詩篇8篇5節ー6節に記されている、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばに示されています。
 そして、その「万物」に現れている神さまの知恵と力といつくしみなどを理解し、受け止めて、いっさいの栄光を造り主である神さまに帰して、神さまを礼拝することが歴史と文化を造る使命を果たすことになります。
 神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人にとって、そのように、いっさいの栄光を造り主である神さまに帰して、神さまを礼拝することが、神さまとの愛の交わりの中心にあります。
 このように、神さまが人にご自身を「相続財産」として受け継がせてくださったことと、「万物」を「相続財産」として受け継がせてくださったことは切り離し難くつながっています。
 このことは、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、暗やみの主権者であるサタンの誘惑によって、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって失われてしまったかと思われました。けれども、神である「」はその一方的な愛と恵みによって、サタンに対するさばきの宣告において、「最初の福音」をお示しになりました。このことからから始まる贖いの御業の中で、アブラハムに与えられた契約においては、相続人としてのアブラハムの子孫のことと、相続財産のことが中心的な主題となっています。
 相続人としてのアブラハムの子孫はアブラハムの血肉の子孫ではなく、アブラハム100歳、サラ90歳の時に生まれたイサクを「地上的なひな型」としてあかしされている、神である「」の約束とそれを実現してくださるお働きによって生まれた子たちです。
 そして、アブラハムとアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産は、カナンを「地上的なひな型」としてあかしされていた、「約束の地」でした。その「約束の地」が相続財産であるのは、神である「」がそこにご臨在してくださるからです。それは、アブラハムの子孫たちがそこにご臨在してくださる神である「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛の交わりに生きるようになるためのことです。ですから、アブラハム契約においては、神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られている人にご自身を相続財産としてお与えになっていることと、ご自身がご臨在されるこの「」を中心として、「万物」を相続財産として与えてくださったことが、神である「」が遂行される贖いの御業をとおして回復されることが示されているのです。
 しかし、「最初の福音」に示されているように、暗やみの主権者であるサタンは、この神である「」が遂行される贖いの御業が実現することをも阻止しようとして働いています。その霊的な戦いの状況で、先ほどお話しした、ダビデ契約が与えられたのです。詩篇110篇1節に、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることは、アブラハム契約の祝福の実現をめぐる霊的な戦いにおいて、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座して治めるメシアが、暗やみの主権者であるサタンとその霊的な子孫たちに勝利することを示しています。これは、それによって、アブラハム契約の祝福が実現すること、ひいては、神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られている人にご自身を相続財産としてお与えになっていることと、ご自身がご臨在されるこの「」を中心として、「万物」を相続財産として与えてくださったことが回復され、完成するようになることへとつながっているのです。

 今日は、これらのこととの関連でヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されていることを取り上げてお話しします。そこには、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
 「人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されています。
 5節では、

 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

と言われています。ここで「後の世」と言われているのは、文字通りには、「来ようとしている世界」です。それは、「来たるべき世」、「来たるべき時代」のことで、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される、新しい天と新しい地のことです。その新しい天と新しい地も歴史的な世界です。ここでは、その「来ようとしている世界」を「御使いたちに従わせることはなさらなかった」と言われています。
 そして、続く6節ー8節には、詩篇8篇4節ー6節の七十人訳を引用して、

 人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。

と記されています。これによって、神さまは、その「来ようとしている世界」を神のかたちとしてお造りになった人に従わせるようにされたとあかししています。
 先ほども、ここに引用されている詩篇8篇4節ー6節のうちの5節ー6節を引用してお話ししましたが、ここには、

 人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。

ということばから始まっていることから分かるように、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしての栄光と尊厳性をもつものとしてお造りになって、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられたことへの驚きと感謝が記されています。
 ところが、ここヘブル人への手紙2章5節では、それが「来ようとしている世界」にも当てはまるということが示されています。これは、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業によって回復されるだけでなく、「来ようとしている世界」、すなわち、新しい天と新しい地にまで受け継がれていくということを意味しています。
 8節には、これに続いて、

万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。

と記されています。ここでは、詩篇8篇4節ー6節に記されていることとのかかわりで、現在の状態のことを述べています。神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったのに、そのことが「今でもなお」、完全には実現していないというのです。
 その原因は、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことにあります。ここでは、そのことは明白に示されてはいませんが、踏まえられています。
 続く9節には、

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

と記されています。
 ここでは、まず、イエス・キリストのことが「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方」と言われています。これは7節で、詩篇8篇5節を引用して、

 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、

と言われていることを受けています。この詩篇8篇5節のみことばは、神さまが人を神のかたちとしてお造になったことに言及するものです。これが、ここ9節で、イエス・キリストに当てはめられています。これによって、イエス・キリストが神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人となって来てくださったということを示しています。
 9節ではこれに続いて、

 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

と言われています。ここでは、先ほど触れた7節において、詩篇8篇5節を引用して、

 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え[られました。]

と言われているときの、

 彼に栄光と誉れの冠を与え[られました。]

ということをイエス・キリストに当てはめています。この、

 彼に栄光と誉れの冠を与え[られました。]

ということも、詩篇8篇5節では、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人鋸とを述べています。それが、ここヘブル人への手紙2章9節で、人となって来てくださったイエス・キリストに当てはめられているのです。
 けれども、ここに記されている、

 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

ということは、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになったということを越えたこと(それ以上のこと)を示しています。
 どういうことかと言いますと、詩篇8篇5節に記されているように、人は神のかたちとしての「栄光と誉れの冠を与え」られています。このことは、そのまま、まことの人となって来てくださったイエス・キリストに当てはまります。それは、また、創造の御業において神のかたちとして造られた状態の最初の人アダムとその妻エバに当てはまることでした。しかし、アダムとエバは神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、このこの「栄光と誉れの冠」[注]を、罪によって腐敗させてしまいました。けれども、イエス・キリストは罪を犯されませんでしたから、それを腐敗させたことはありません。

[注]「栄光と誉れの冠を与え」ということばは、「冠を与える」、「冠をかぶらせる」ことを表す動詞(ステファノオー)と「栄光」(ドクサ)と「誉れ」(ティメー)の与格で表されています。それでここには「栄光と誉れの冠」という名詞があるわけではありません。ただ、このような場合の与格は素材を表しています(Greek Grammar Beyond Basics, p170)。それで、この場合は、与えられた冠の素材が「栄光と誉れ」であるということを示しています。それで、ここで「栄光と誉れの冠」について語ることは許されると考えられます。

 9節では、まことの人となられたために、すでに神のかたちとしての「栄光と誉れの冠」をもっておられるイエス・キリストが、

 死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

と言われているのです。
 このことを理解する鍵は「死の苦しみのゆえに」と言われていることです。これは、十字架の「死の苦しみのゆえに」ということで、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことを指しています。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえられました。そして、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されました。ピリピ人への手紙2章6節ー9節に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

と記されているとおりです。
 このことを、詩篇8篇5節のことばで言いますと、まことの人として来てくださったイエス・キリストがすでにもっておられた神のかたちとしての「栄光と誉れの冠」を、さらに豊かな「栄光と誉れの冠」としていただいたということを意味しています。
 それでは、イエス・キリストがすでにもっていた、創造の御業において神のかたちとして造られた人に与えられた「栄光と誉れの冠」より、さらに豊かな「栄光と誉れの冠」、すなわち、復活の栄光を与えられたということにはどのような意味があるのでしょうか。
 これには二つのことがかかわっています。
 第一に、7節ー8節で引用されている詩篇8篇5節ー6節では、

 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。

と言われているように、神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られている人に「栄光と誉れの冠を与えられた」ことは、

 万物をその足の下に従わせられました。

と言われていること、すなわち、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったこととつながっているということです。
 第二に、この5節ー10節に記されていることの中心主題は、最初の5節において、

 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

と言われていることにあるということです。
 この二つのことから、イエス・キリストがさらに豊かな神のかたちとしての「栄光と誉れの冠」をお受けになったことは、イエス・キリストが「後の世」(「来ようとしている世界」)、すなわち、「来たるべき世」、「来たるべき時代」に属する「栄光と誉れの冠」をお受けになったということが分かります。それは、また、イエス・キリストが「「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすのにふさわしい「栄光と誉れの冠」をお受けになったということを意味しています。
 「来たるべき世」、「来たるべき時代」は、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される、新しい天と新しい地において完全な形で実現します。その新しい天と新しい地も歴史的な世界です。神さまはその新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たすのにふさわしい「栄光と誉れの冠」をイエス・キリストにお与えになりました。
 これは、1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。

と記されているときの、御子イエス・キリストが相続する「万物」には新しい天と新しい地も含まれているということを意味しています。
 これらのことは、私たち主の契約の民にとっても、大切な意味をもっています。それについては、日を改めてお話しします。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第297回)へ戻る

「黙示録講解」
(第299回)へ進む
-->

(c) Tamagawa Josui Christ Church