黙示録講解

(第297回)


説教日:2017年7月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(50)


 今日も、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 このみことばの冒頭において、イエス・キリストはご自身のことを「神の子」として示しておられます。この場合の「神の子」ということばは、ダビデ契約において「」が約束してくださったダビデの子として、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座して治めるメシアを指しています。
 今は、これと関連して、ヘブル人への手紙1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。

と記されていることについてお話ししています。
 神さまが御子イエス・キリストを「万物の相続者」とされたことには、旧約聖書に記されている、「」が与えてくださったすべての契約が背景となっています。そして、それを歴史的にさかのぼっていくと、究極的な背景である神さまの天地創造の御業、特に、神さまが人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになり、ご自身が創造された歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに行き着きます。
 神さまの本質的な特質は愛です。それで、天地創造の御業は神さまがご自身の愛を、ご自身の外に向けて表現された御業です。人が愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られたことは、人が神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして造られたことを意味しています。人は創造の御業において現されている神さまの愛を自覚的に受け止めて、愛をもって神さまに応答するものとして造られているのです。それで、神さまとの愛にある交わりは、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。
 このことは、旧約聖書に繰り返し出てくる、重要な主題である、神さまがご自身の民に、ご自身を「相続財産」として受け継がせてくださったということの根底にあることであり、出発点ともなっています。
 この神さまとの愛にあるいのちの交わりは、真空の中でなされるのではありません。それは神さまがご自身がご臨在される所として聖別され、ご自身の御臨在を表示する豊かさに満ちたこの「」においてなされます。
 それは、また、神さまが人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことと密接につながっています。
 創世記1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。これは、この1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事の見出しにあたり、およそこの世界に存在するすべてのものは、神さまが創造されたものであるということを示しています。
 続く2節からは、焦点が「」に当てられて、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。ここには、神さまが最初に造り出されたときの「」の状態が記されています。[注]

[注]地球に光があるようになる前に、このような状態があることがおかしいと言われることがあります。しかし、1970年代後半以降の観測技術の発展による天体観測の結果と理論物理学的研究が、これが惑星が形成される初期の状況であることを示してるようです(ヒュー・ロス『創世記の謎を解く』20ー23頁)。

 「」がこのような状態にあった時、すでに、神さまは御霊によって、この「」にご臨在しておられました。そして、その御臨在の御許から発せられたみことばによって、「」を、イザヤ書45章18節のことばに合わせて言いますと、「人の住みか」に形造っていかれました。
 創世記1章3節に、

 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

と記されていますように、神さまは2節に記されている状態にあった「」に光があるようにされて、明るく暖かい世界とされました。また、創造の御業の第2日に、2節に出てきた「大水」を二つに分けられました。そのようにして、大気圏が形成され、それとともに、大気の循環のシステムが確立され、「」が澄み渡り、適度に潤うものとなりました。さらに、そこに多種多様な植物が芽生えて実を結び、さまざまな生き物たちが生息するようにされました。それらすべては、神さまの御臨在がこの「」にあることの現れとしての豊かさです。
 その豊かさが具体的にどのようなもの、どのようなことであるかを探究し、そこに現れている神さまの知恵と力といつくしみなどを理解し、受け止めて、いっさいの栄光を造り主である神さまに帰して、神さまを礼拝することが歴史と文化を造る使命を果たすことになります。今、簡単に、私たちが住んでいるこの「」の成り立ちのことをお話ししていますが、私たちがこのようなことを理解することができるのも、神さまが人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださるとともに、それを遂行するさまざまな能力を与えてくださっているからです。
 愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人は、造り主である神さまの御臨在が映し出されているこの世界のあらゆるところで、またあらゆることにおいて、愛といつくしみに満ちた神さまの御臨在に触れることができます。神さまは人をご自身の御臨在の御前に立たせてくださり、ご自身との愛の交わりに生きる者としてくださっています。この神さまとの愛の交わりこそが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。
 神のかたちとして造られた人が委ねられた歴史と文化を造る使命を果たしつつ、神さまの御臨在の御許に近づいて、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを讃え礼拝するとき、人は神さまご自身との愛にあるいのちの交わりにあずかっているのです。ですから、神さまが神のかたちとして造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださった目的は、人をご自身の御臨在の御前に立たせてくださり、ご自身の愛をもって人を受け入れてくださることにあります。
 このことには、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったことが関わっています。それで、植物は生長して花を咲かせ、実を稔らせます。生き物は成長していきます。人も成長し成熟していきます。その中心には、愛が深められ、豊かになっていくことがあります。なぜなら、神のかたちの本質的な特質は愛であるからです。
 神のかたちとして造られている人は、見えない神さまのさまざまな人格的な特質を、この世界にあって映し出すもの、その意味で、神さまの人格的な栄光を現すものとして造られています。その神さまと神のかたちとして造られている人の人格的な特質の中心にあるのは愛です。
 神のかたちとして造られた人は、造られた最初の状態にとどまるのではなく、愛において成長していきます。それによって、神さまの愛をより深く受け止めるようになりますし、より豊かになった愛をもって神さまと隣人を愛するようになります。それは、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことによって、人として成長し、人格的に成熟し、愛がより深く豊かなものとなっていくということ意味しています。
 このように、神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられました。それは詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているように、「万物」を委ねられたということです。
 このことは、神さまが神のかたちとして造られている人に、「万物」を「相続財産」として受け継がせてくださったということを意味しています。これまでお話ししてきたことから分かりますが、神さまが人にご自身を「相続財産」として受け継がせてくださったということと、「万物」を「相続財産」として受け継がせてくださったということは一つのことの裏表のようにつながっています。


 人は、神さまの愛のみこころによって、愛を本質的な特質とする神のかたちに造られて、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられています。しかし、その人が、暗やみの主権者であるサタンの誘惑によって、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。これによって、人を神のかたちとしてお造りになって、歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになった神さまのみこころの実現は阻止されてしまったと思われました。
 しかし、神である「」は、人がご自身に対して罪を犯して堕落してしまった直後に、創世記3章14節ー15節に記されているサタンに対するさばきを宣告され、その中で、サタンが仕掛けた、神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いにおいて、サタンが敗北することをお示しになりました。それは、神である「」が「女」と「女の子孫」の共同体と、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体の間に「敵意」を置いてくださって、この二つの共同体が霊的な戦いを戦うようになること、そして、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方が、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体への最終的なさばきを執行することによるというのです。
 先主日から、このこととの関連で、暗やみの主権者であるサタンの働きによって、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったにもかかわらず、歴史と文化を造る使命は御子イエス・キリストによって、回復されており、実現していることを示している新約聖書のあかしをお話ししています。
 今日取り上げるのは、エペソ人への手紙1章20節ー23節に記されているみことばです。そこには、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 20節では、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

と言われています。これは、イエス・キリストが父なる神さまの「右の座」に着座されたことを示しています。これは、先主日にもお話ししましたが、詩篇110篇1節に記されている、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

というみことばが、イエス・キリストにおいて成就していることを示しています。
 それで、これに続いて21節に、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されているときの「支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節に出てくる「あなたの敵」、すなわち、メシア(キリスト)の「」のことです。
 エペソ人への手紙では、6章11節ー12節において、

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言われている中に出てくる「悪魔」と「悪魔」を「かしら」とする「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちのことです。
 1章21節では、暗やみの主権者たちがメシア、すなわち、イエス・キリストの「」であることが示されています。これは、「最初の福音」に示されている、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」が、ダビデ契約に約束されていたダビデの子として、神である「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座して治める王であられることによっています。
 そして、6章11節ー12節においては、その暗やみの主権者たちが「私たち」主の契約の民の「」であることが示されています。これも、「最初の福音」に示されている「女」と「女の子孫」の共同体に属する、「私たち」主の契約の民が、サタンとサタンの霊的な子孫たちの共同体と霊的な戦いを戦っていることによっています。
 このように、ここ1章21節では、暗やみの主権者たちが、イエス・キリストの主権の下に服していることが示されており、それゆえに、最終的なさばきを受けるようになることが暗示されています。
 21節後半では、神さまがイエス・キリストを、神さまに敵対して働く暗やみの主権者たちだけでなく、「今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」と言われています。これは、この世、この時代においてだけでなく、来たるべき世、来たるべき時代においても、あらゆる主権者たちが、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストの主権の下にあることを示しています。
 けれども、これで終わってはいません。これに続いて、22節には、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と記されています。ここで、

 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と記されているときの「キリストの足の下に従わせ」は、先週お話しした、コリント人への手紙第一・15章27節で

 彼は万物をその[直訳「彼の」]足の下に従わせた

と訳されているのと同じことばで表されています。
 新改訳は「万物」(パンタ)を「いっさいのもの」と訳し、「彼の」(直訳)を「キリストの」と訳しているので分かりにくくなっていますが、これは先ほど引用しました、詩篇8篇5節ー6節の最後に記されている、
 万物を彼の足の下に置かれました。
というみことばの引用です。詩篇8篇は特にメシアのことを預言的に記しているメシア詩篇ではなく、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人のことを記しているものです。ですから、ここエペソ人への手紙1章22節では、その詩篇8篇5節ー6節に記されていることがイエス・キリストにおいて実現しているということを示しています。神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが、イエス・キリストにおいて成就していることが示されているのです。
 そして、このこととのかかわりでキリストのからだである教会の存在が意味をもっていることが、22節後半ー23節に、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。22節後半の、

 いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト

とは、その前で、詩篇8篇6節を引用して、

 神は、いっさいのものをキリストの[直訳「彼の」]足の下に従わせ

と言われていることを受けていますので、歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストのことです。それで、

 教会はキリストのからだであり

と言われているのは、教会が歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストのからだであるということを意味しています。また、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは栄光のキリストのことです。ここでは、歴史と文化を造る使命を成就しておられる栄光のキリストが、ご自身のからだである教会に満ちておられ、教会を満たしておられるということが明らかにされています。
 このように、神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねられたということを離れて、キリストのからだとしての教会の存在の意味と目的を理解することはできません。

 このこととの関わりで、2章1節ー7節を見てみましょう。
 1節ー3節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 これは、「私たち」主の契約の民のかつてのあり方を示しています。注目したいのは、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と言われていることです。
 ここでは、その頃の私たちは二つのものに従って歩んでいたと言われています。一つは、最初に出てくる「この世の流れ」です。「この世の流れ」と訳されていることばは、文字通りには「この世の時代」です。この「時代」(新改訳では「流れ」)と訳されることばはアイオーンですが、基本的には時間的に「時代」を表していますが、空間的に「世」をも表します。
 アイオーンは、また、ヘレニズムの時代には広く知られていた(異教の)神の名でした。エペソ人への手紙は異邦人クリスチャンに宛てて記されているので、ここでは、この「神」のことであるという主張があります。
 けれども、このアイオーンは、1章21節で「今の世ばかりでなく、次に来る世においても」と言われているときの「今の世」、文字通りには「この時代」の「時代」で、続く「次に来る世」、文字通りには「来ようとしている時代」(「時代」は省略されています)と対比されています。また、このアイオーンは、2章7節で「あとに来る世々において」、文字通りには「来たるべき諸時代において」として出てきます。それで、このアイオーンは、新約聖書の終末論、この場合は、パウロの終末論に見られる、「この世」、「この時代」と、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の対比というヘブル的な発想を反映していると考えられます。
 「この世」、「この時代」を動かし、特徴づけているのは「肉」であり、「来たるべき世」、「来たるべき時代」を動かし、特徴づけているのは、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)に遣わしてくださった「御霊」です。ローマ人への手紙8章5節ー7節前半には、

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。

と記されています。神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、「肉」に縛られており、「肉」に従って歩みます。そのような状態にある人が造り出す歴史と文化が「この世」、「この時代」を形造っているのです。それが、かつての私たちの状態でした。エペソ人への手紙2章1節ー3節では、この状態にある人のことが3節で、

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と言われています。この「私たち」は、ユダヤ人のことですが、この場合は、「異邦人とは違って」というような意味合いはないと考えられます。というのは、次に出てくる「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」はサタンのことを指していますが、生まれながらのユダヤ人も「肉」に縛られていて、サタンの働きによって欺かれていたからです。
 もう一つ、かつての私たちを動かしていたのは、今触れた、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」であると言われています。これは単数形で表されていて、サタンを指しています。
 これがかつての私たちの状態でしたが、続く4節ー7節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

と記されています。
 ここには、神さまが一方的な愛と恵みによって、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、死者の中からのよみがえりにあずからせてくださったことが記されています。私たちがイエス・キリストの十字架の死にあずかっていることは当然のこととして踏まえられています。それは、ここでパウロが言おうとしていることの主旨が、神さまが私たちを、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

ということにあるからです。
 ここで、

 ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました

と言われているときの「ともに」は「よみがえらせる」と「すわらせる」ということば(動詞)の接頭辞(シュン)で表されていて、「キリスト・イエス」とともにということを表しています。そして、

 ともに天の所にすわらせてくださいました

と言われているときの「天の所に」ということば(エプウーラニオイス)は、1章20節において、神さまが、

 キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて

と言われているときの「天上において」ということばと同じことばです。ですから、私たちは、1章20節において、神さまがイエス・キリストに対してなさったことにあずかっているのです。その違いは、イエス・キリストは父なる神さまの右の座に着座しておられますが、私たちはそうではないということです。
 とはいえ、私たちはイエス・キリストにあって、父なる神さまの御臨在の御許に座するものとしていただいています。それは、私たちがこの世の権力とは本質的に違うキリストの主権にあずかる権威の座に着いていることを示しています。それで、私たちは「女」と「女の子孫」の共同体に属するものとして、イエス・キリストを「かしら」としていただいて、サタンとその霊的な子孫の共同体との霊的な戦いを展開しています。それで、6章11節ー12節で、

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言われているわけです。
 繰り返しになりますが、このように私たちが戦っている霊的な戦いは、神さまが神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命の実現をめぐる戦いです。
 この霊的な戦いにおいて、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、ご自身がお遣わしになった「御霊」によって、私たち主の契約の民が「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造るように導いてくださっています。


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