黙示録講解

(第296回)


説教日:2017年6月25日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(49)


 先主日には川崎 淳先生が説教を担当してくださいましたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストのテアテラにある教会へのみことばについてのお話に戻ります。
 このみことばにおいて、イエス・キリストはご自身のことを「神の子」として示しておられます。これによって、ご自身が、ダビデ契約において「」が約束してくださったダビデの子として、「」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座して治めるメシアであることを示しておられます。
 今お話ししているのは、これと関連していることで、ヘブル人への手紙1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。

と記されていることについてです。
 これまで、ここに記されている、神さまが御子イエス・キリストを「万物の相続者」とされたことの旧約聖書の背景についてお話ししました。これには、旧約聖書に記されている、「」が与えてくださったすべての契約が何らかの形で、背景となってかかわっています。それを歴史的にさかのぼる順序でたどっていくと、ダビデ契約、シナイ契約、アブラハム契約、ノアとその子孫に与えられた永遠の契約、さらに、「最初の福音」を経て、究極的な背景である神さまの天地創造の御業に行き着きます。
 詳しい説明は省いて、要点だけをお話ししますと、神さまの本質的な特質は愛です。それで、三位一体の御父、御子、御霊は永遠に愛の交わりのうちにあって、まったく充足しておられます。天地創造の御業は御父との愛の交わりにある御子によって遂行されました。それで、天地創造の御業は神さまがご自身の愛を、ご自身の外に向けて表現された御業です。
 また、神さまの栄光は無限、永遠、不変です。最も優れた御使いでも、神さまの無限の栄光に直接的に接することはできません。それは、紙切れが太陽に直接的に触れることができないことにたとえられます。御子はその栄光において無限、永遠、不変の主ですが、その栄光をお隠しになり、無限に身を低くされて、ご自身がお造りになったすべてのものにかかわってくださいます。ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節に、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されているとおりです。
 このようにして、創造の御業において現されている神さまの愛は御子によって、また、御子にあって、造られたものに注がれています。それで、造られたすべてのものは神さまの愛に包まれています。けれども、神さまの愛を自覚的に受け止め、愛をもって神さまに応答するのは、神さまを知っているものとして、また、神さまとの愛の交わりに生きるように造られている人格的な存在である御使いと人だけです。暗やみの主権者であるサタンとサタンに従う悪霊たちも、もともとは御使いとして造られていて、愛をもって神さまに応答するものでした。
 そのサタンは自らを神と等しくしようとして、神さまの聖さを冒す罪を犯して、御前に堕落してしまい、悪霊たちもそれに従ってしまいました。彼らは、これによって、神さまへの愛を憎しみに変えてしまいました。
 神さまは天地創造の御業において、人を、愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになって、神さまの愛を自覚的に受け止め、愛をもって応答するものとしてくださいました。そればかりでなく、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられました。それは詩篇8篇5節ー6節に記されている、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばに沿って言うと、「万物」を委ねられたということです。神さまの創造の御業に際してのみことばを記している創世記1章26節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

と記されていることから分かりますが、この二つのことは区別できますが、切り離すことができません。どちも、神さまの愛から出ていることです。
 いまお話ししていることとのかかわりで言いますと、神さまが人を、愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになって、神さまの愛を自覚的に受け止め、愛をもって応答するものとしてくださったことは、神さまが神のかたちとして造られている人に、ご自身を「相続財産」として受け継がせてくださったということを意味しています。そして、神さまが神のかたちとして造られている人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことは、神さまが神さまが神のかたちとして造られている人に、「万物」を「相続財産」として受け継がせてくださったということを意味しています。
 ですから、神さまが神のかたちとして造られている人にご自身を「相続財産」として受け継がせてくださったということと、「万物」を「相続財産」として受け継がせてくださったということは切り離すことはできません。
 歴史と文化を造る使命は、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人が、その愛を具体的に現していくことにおいて果たされるものです。その愛は、神のかたちとして造られている人の心に記されている愛の律法が示すとおり、創造の御業においてご自身の愛を造られた世界に表現された神さまの愛を受け止め、神である「」を神として礼拝することを中心として、神さまへの愛をもって応答すること、すなわち、神さまとの愛の交わりにおいて現されます。そして、その愛は、さらに、神さまとの愛の交わりに支えられて、同じく神のかたちとして造られている人同士が互いに愛し合うことにおいて現されますし、自分たちに委ねられた植物や生き物たちにいつくしみを注ぐことにおいて現されます。人は歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、愛を本質的な特質とする神のかたちとしてのいのちを生きるようになります。言い換えますと、神のかたちとして造られている人にとっては、日常の生活を生きること自体が、歴史と文化を造る使命を果たすことなのです。ですから、神さまが創造の御業において委ねてくださった歴史と文化を造る使命は、人が神のかたちとして存在することそのものの意味と目的にかかわることです。
 神のかたちとして造られている人にとっては、日常の生活を生きること自体が歴史と文化を造る使命を果たすことであるということは、人が人である限り、変わることはありません。したがって、このことは、今日でも、すべての人に当てはまります。人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっても、歴史と文化を造っています。神さまが神のかたちとして造られている人に、歴史的な意識と、歴史と文化を造るためのさまざまな能力を与えてくださっているからです。変わったのは、堕落後の人が神さまのみこころにしたがって、歴史と文化を造ってはいないという点です。
 歴史と文化を造る使命は、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史を形成する使命ですから、その使命の遂行に対する最終的な評価は歴史の終わりになされます。それは、本来、人が神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造ることに対する評価です。しかし、堕落後の人が神さまのみこころにしたがって、歴史と文化を造ることがなくなってしまったために、その評価はさばきとしてなされることになってしまったのです。終わりの日になされる最終的なさばきは、この歴史と文化を造る使命をめぐってなされます。
 ただし、御使いたちには歴史と文化を造る使命が委ねられていませんので、サタンや悪霊たちへのさばきは、歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかということをめぐる評価ではなく、御使いたちに委ねられた使命(役割)をめぐるさばきとなります。ユダ6節に、

また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

と記されていることは、これを反映しています。とはいえ、これは彼らへのさばきが歴史と文化を造る使命にかかわっていないということではありません。ヘブル人への手紙1章14節には、

御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

と記されています。そのような御使いであったサタンや悪霊たちが、神さまが人に委ねられた歴史と文化を造る使命を果たそうとしていた人を助けるどころか、それを妨害し、神さまのみこころを無にしてしまうように仕向けたのです。そのことに対するさばきは受けることになります。


 今日は、このこととの関連で、暗やみの主権者であるサタンの働きによって、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったにもかかわらず、歴史と文化を造る使命は御子イエス・キリストによって、回復されており、実現していることを示している新約聖書のあかしをお話しします。このことについては、すでに何度かお話ししたことがありますが、今お話ししていることとの関係で改めてお話ししたいと思います。
 このことを示している新約聖書の個所はいくつかありますが、明確に示しているのは、コリント人への手紙第一・15章24節ー28節、エペソ人への手紙1章20節ー23節、そして、ヘブル人への手紙2章5節ー10節の三つです。
 今日は、コリント人への手紙第一・15章24節ー28節を取り上げたいと思います。そこには、

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

と記されています。
 今お話ししていることに関連していることだけを取り上げますが、これに先立つ、20節ー23節に、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

と記されています。ここには、イエス・キリストにあって、私たち「」の契約の民が栄光を受けて死者の中からよみがえることが記されています。私たちが自分たちのことを中心にイエス・キリストの救いを理解してしまうと、これで救いが完成することになります。
 けれども、イエス・キリストの救いの御業、贖いの御業はこれで終わってはいません。これに続いて、24節ー25節に、

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

と記されています。
 ここで注目したいのは、

 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められている

ということばです。このことが「定められている」ということは、旧約聖書にそのことが示されているということを意味しています。そして、このことは、メシア詩篇として知られている詩篇110篇1節に記されている、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

というみことばに記されています。
 この詩篇110篇1節のみことばは、神である「」がダビデに与えてくださったダビデ契約の約束のことを記しています。そして、「」がダビデ契約において約束してくださっている永遠の王座は、「」が「わたしの右の座」と言われる「神の右の座」のことであるということと、まことのダビデの子が、メシアとして、その神の右の座に着座して、霊的な戦いにおける「」をその「足台とする」ようになることを示しています。
 コリント人への手紙第一・15章24節ー25節に記されているみことばは、この詩篇110篇1節に記されていることが、イエス・キリストにおいて成就していることを示しています。ただし、ここでは、詩篇110篇1節のみことばをそのまま引用しているわけではありません。このことについては、後ほどお話しします。
 24節で、

 そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、

と言われているときの「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力」は、「」と「」がお立てになった贖い主(メシア)に敵対して働いているサタンとそれに従っている悪霊たちだけでなく、罪によってサタンと一つになってしまって、権力を濫用している、この世の権力者や、政治的な分野や軍事的な分野だけにかぎらない、さまざまな分野において権力機構を構成している者たちも含まれると考えられます。
 そのことは、同じくメシア詩篇である詩篇2篇2節に、

 地の王たちは立ち構え、
 治める者たちは相ともに集まり、
 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

と記されており、その「主に油をそそがれた者」すなわちメシアのことが、7節ー9節に、

 わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 「あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。」

と記されていることから支持されます。
 テアテラにある教会へのみことばにおいて、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられるのは、この詩篇2篇7節に記されている、

 あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

という「」がメシアに語られたみことばを背景としています。先ほどお話ししましたように、イエス・キリストはご自身がダビデ契約に約束されているメシアとして、父なる神さまの右の座に着座している主であることを示しておられます。
 神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命は、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

というもので、これには支配権がかかわっています。けれども、これまで繰り返しお話ししてきましたが、その支配権は、それを委ねてくださった神さまのみこころを実現するための支配権です。それは、神さまが委ねてくださった植物や生き物たちの特質をよく知って(それは、科学的な探求になります)、そのお世話をし、植物が豊かな実を結び、生き物たちのいのちが育まれるようになるために行使されるものです。実際に、

 地を従えよ

というみことばとともに支配権を委ねられたアダムは、創世記2章15節に、

 神であるは人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されているように、エデンの園を耕していたのです。
 権力を濫用している、この世の権力者や権力機構を構成している者たちは、神さまが歴史と文化を造る使命とともに委ねてくださった支配権を、罪によって腐敗した支配権に変質させてしまっています。
 詩篇110篇1節のみことばは、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人を誘惑して、神である「」に対して罪を犯すように誘った暗闇の主権者とその霊的な子孫たちに対するさばきの執行を意味しています。ここでのキーワードは「『主』の右の座に着くこと」と、「敵を足台とすること」です。これはメシアの働きのことを述べています。
 コリント人への手紙第一・15章24節ー25節では、

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

と言われていていて、メシア(すなわち、キリスト)が神の右の座に着座されていることは踏まえられていて、わざわざ述べられてはいません。また、詩篇110篇1節で「あなたの敵をあなたの足台とする」と言われているときの「足台とする」」ということばは、「足の下に置く」と言い換えられていますが、実質的には同じことを述べています。
 この暗闇の主権者であるサタンとその霊的な子孫たちに対するさばきは、神さまが人を神のかたちとしてお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったこととかかわっています。すでにお話ししましたように、神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、神のかたちとして造られている人にお委ねになりました。サタンとしては、そのような使命を委ねられた人を造り主である神さまに対して罪を犯させ、もはや、神さまのみこころにしたがって歴史と文化を造る使命を果たすことがないようにしてしまえば、神さまが創造の御業において示されたみこころは実現しないことになります。サタンはまさにそのような理由によって人を誘惑しました。
 このことを理解しますと、終わりの日におけるサタンとその霊的な子孫たちへのさばきが、歴史と文化を造る使命と深くかかわっていることが分かります。そして、

そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし

と言われている、サタンとその霊的な子孫たちに対するさばきの執行は、先主日まで繰り返しお話ししてきた、創世記3章15節に記されている「最初の福音」の最終的な成就です。

 コリント人への手紙第一では、これに続く26節ー27節に、

最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。

と記されています。
 ここでは、「」が「最後の敵」であると言われています。「」の中には「」が含まれています。このことから、先ほどお話ししましたメシアの「」がこの世の権力者や権力機構を構成する者たちに限られなく、そこに、サタンや悪霊たちが含まれていると考えられます。メシアの「」にサタンや悪霊たちが含まれていることは、また、霊的な戦いのことを述べているエペソ人への手紙6章12節に、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と記されていることからも支持されます。
 コリント人への手紙第一・15章27節では、

 最後の敵である死も滅ぼされます。

と言われていることに続いて、

 「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。

と言われています。
 ここで引用されている、

 彼は万物をその足の下に従わせた

というみことばは、先ほども引用しました詩篇8篇に出てきます。3節ー6節を引用しますと、そこには、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。コリント人への手紙第一・15章27節で引用されているのは、このみことばの最後に出てくる、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばです。
 詩篇8篇3節ー6節では、神さまが創造された壮大な世界が神さまの栄光を現していることに比べて、まことに取るに足りない人を、神さまが御心に留め、顧みてくださっていることへの驚きが表されています。そして、その神さまの人に対する御思いの深さは、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

ということ、つまり、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに現されていると言われています。
 コリント人への手紙第一・15章27節では、この、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばを引用することによって[注]、創造の御業において、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に委ねてくださった、歴史と文化を造る使命が、御子イエス・キリストによって実現しているということを示しています。

[注]27節で引用されている、
  彼は万物をその足の下に従わせた
は、その七十人訳です。ただ、「下に」が七十人訳とは別の同じ意味の前置詞で表されています。

 コリント人への手紙第一・15章24節ー28節に記されていることの順序としては、まず、詩篇110篇1節の、

 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。

という「」のみことばの成就として、サタンとその霊的な子孫たちに対するさばきの執行があります。これは「最初の福音」を出発点として、罪の問題が解決されることを意味しています。そして、その後に、詩篇8篇6節の、

 彼は万物をその足の下に従わせた

というみことばの成就として、創造の御業において、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に委ねてくださった、歴史と文化を造る使命が回復され実現しています。
 大切なことは、最終的には、神さまが創造の御業において始められたこと、すなわち、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して回復され、さらに、完成するということです。


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