|
説教日:2017年6月11日 |
これが神さまが創造の御業をとおして示されたみこころですが、そのすべては、神さまの神のかたちとして造られている人への愛から出ています。 これまで数回にわたって、この神さまが創造の御業をとおして示されたみこころをめぐって、暗やみの主権者であるサタンが神である「主」に対して霊的な戦いを展開して、サタンの思惑通りになってしまったということをお話ししました。 それに対して、神である「主」は、3章14節ー15節に記されている、サタンに対するさばきを宣告されました。 要点を簡単にまとめておきますと、14節に出てくる、 おまえは・・・ちりを食べなければならない。 というみことばは、サタンが霊的な戦いにおいて敗北を喫するということを意味しています。そして、それがどのように実現するかということが、15節に記されている、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 というさばきの宣告において示されています。 ここでは、神である「主」が「おまえ」と呼ばれているサタンと「女」すなわちエバとの間に強い「敵意」を置いてくださって、それまで罪によってサタンと一体になってしまっていた「女」が、霊的な戦いにおいてサタンに敵対して戦うようになることが示されています。さらに、この神である「主」が置いてくださった「敵意」は「おまえの子孫と女の子孫」にまで受け継がれて、霊的な戦いが歴史的に継承されていくことが預言的に示されています。 このようにして、「女」と「女の[霊的な]子孫」は、サタンとその霊的な子孫との霊的な戦いにおいて、神である「主」の側に立つようになります。このことから、このサタンに対するさばきの宣告が「最初の福音」と呼ばれています。 先主日にお話ししましたように、ここには、歴史をとおして存在し続ける「おまえ」と「おまえの子孫」すなわちサタンとその霊的な子孫たちの共同体と、「女」と「女の子孫」の共同体があります。そして、それぞれの共同体には「かしら」が存在しています。言うまでもなく、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体の「かしら」は「おまえ」すなわちサタンです。ところが、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」は「女」ではなく、「女の子孫」」の中にいます。ここでは、その意味での「彼」のことが、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われています。 ここに出てくる「踏み砕く」と訳されていることばと「かみつく」と訳されていることばは同じことば(シューフ)です。違いは、「彼」が「砕く」のは「おまえの頭」であり、致命的な打撃であるのに対して「おまえ」が「砕く」のは「彼のかかと」であり、致命的な打撃ではないということです。これに対して、「おまえ」は毒蛇であって、「彼」がかかとにかみつかれれば「彼」も死ぬことになるという反論がなされることがあります。 けれども、この時サタンがエバを誘惑するために用いた「蛇」は毒蛇であった可能性はほとんどありません。 というのは、これは、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまう前のことです。「蛇」が人を害するようになったのは、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後のことであると考えられます。かりに、そうではなかったとしても、いくつかのことから、この場合の「蛇」は毒蛇ではなかったと考えられます。 まず、3章1節で、 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。 と言われている「蛇」が、人を害する毒蛇であったということは考えにくいことです。ここで「狡猾な」と訳されていることば(アールーム)は、よい意味でも悪い意味でも用いられます。よい意味では「賢い」という意味になります。「神である主が造られた」生き物という点では賢かったのです。 また、ここ創世記3章には、サタンが「蛇」を用いてエバを誘惑して成功した時のことが記されていますが、それ以前に、2章19節に記されているアダムだけでなく、エバも生き物たちとの交流をしており、「蛇」のことをよく知っていたと考えられます。そうであるからこそ、そこに記されているやり取りができたわけです。その場合に、優れた御使いとして造られ、知恵(悪知恵)も豊かであったサタンが、いかにもエバの味方であるように語りかけた時に用いたのが、毒蛇であったということは考えにくいことです。 さらに、最初に造られた状態にあったアダムとエバは、神である「主」が造り主であられ、自分たちが被造物であることや、生き物たちには造り主へのわきまえがないことを知っていました。それで、いきなり、単なる生き物である「蛇」が善悪の知識の木についての神である「主」の戒めのことを問いかけたとしたら、エバは驚いて、警戒したはずです。ですから、サタンはそのようなことはしないで、「蛇」をとおして、ごく日常のやり取りから始めて、「蛇」がいろいろなことを話すことに、エバが馴れて、警戒しなくなるのを待ってから、だんだんと複雑なことを話すようにしていき、頃合いを見計らって、善悪の知識の木についての神である「主」の戒めのことを問いかけたと考えられます。そのような時間をかけての接触がなされる間に正体がばれないようにしなければなりません。そのために、サタンが毒蛇を用いたということは考えられないことです。 このようなことから、この時にサタンが用いた「蛇」は、もともと神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人とよい関係にあった生き物であったと考えられます。そして、神である「主」は、その「蛇」を用いて、サタンへのさばきの宣告をされたと考えられます。 このようにして、神である「主」のサタンへのさばきの宣告においては、最終的には、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる「彼」がサタンを滅ぼすようになることが示されていると考えられます。これは、やがて、ダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座して治めるメシアとしてのお働きであることが示されます。それは、このテアテラにある教会へのみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられるイエス・キリストにおいて成就します。 けれども、これだけであるとすると、重大な問題が残ってしまいます。私たちが「女の子孫」として救われて、サタンが最後には滅ぼされてしまうのだからめでたしめでたしではないかと言われるかもしれません。しかし、それはやはり、私たちが自分中心にこれらのことを見ているからに他なりません。もし、これが神である「主」のサタンへのさばきの宣告のすべてであるとすると、サタンが神である「主」に対して仕掛けた霊的な戦いにおいては、サタンが勝利して終わってしまうことになるのです。 このことを理解するためには二つのことを踏まえておく必要があります。 第一に、サタンが仕掛けた霊的な戦いは、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されているみこころの実現をめぐる戦いであるということです。 サタンは、この神さまのみこころの実現を阻止しようとして働きました。それで、「蛇」を用いて、巧妙にエバを誘惑して、善悪の知識の木についての神である「主」の戒めに背かせました。そして、次には、罪によってサタンと一体になってしまったエバを用いてアダムを誘惑して、同じように、善悪の知識の木についての神である「主」の戒めに背かせました。これによって、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は罪によってサタンと一体になってしまい、神である「主」のみこころにしたがって歴史と文化を造ることはなくなってしまいました。これによって、人が造る歴史と文化は、自らを神としようとするほどの罪の自己中心性をもつサタンの特質を現すものとなってしまいました。 このようにして、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されているみこころの実現をめぐる霊的な戦いにおいては、サタンが勝利したと思われたのです。 第二に、サタンはもともと優れた御使いとして造られたのに、自らの存在の高さに高慢になり、自分が神のようになろうとして、神さまの聖さを冒す罪を犯して、神さまの御前に堕落したと考えられます。それで、サタンは人を神である「主」に背かせてようとして誘惑する前に、すでに、神である「主」のさばきを受けて滅ぼされるべきものでした。 そのようにして、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったサタンは、絶対的に堕落してしまっています。最初の人アダムとその妻エバも、同じように神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしてしまいました。けれども、アダムとエバの場合には、神である「主」が、神学的に言いますと、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、彼らの目を開いてくださって、自分たちが裸であることを自覚させてくださり、自分たちの内側の状態がさらけ出されることを恥じるようにしてくださいました。とはいえ、それで、ふたりが神である「主」の御前に自らの罪を認め、告白して、神である「主」のあわれみを求めることはありませんでしたし、できませんでした。 神である「主」は、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、彼らの目を開いてくださって、彼らの良心が働くようにしてくださったのです。それは、神である「主」の一方的なあわれみによることであって、人にそのようなあわれみを受けるに値するものがあったのではありません。 これに対して、サタンには一般恩恵に基づく御霊の働きかけはなされませんでした。そうであるからといって神である「主」に不正があるわけではありません。 いずれにしましても、サタンは自らの罪の自己中心性に縛られて絶対的に堕落してしまっています。それで、その思い謀ることのすべてが神である「主」に逆らうことを動機とし目的としています。もちろん、サタンもサタンに従う悪霊たちも、自分たちが神である「主」によってさばきを受けて滅びることを知っています。それでも、彼らの思い謀ることのすべては、神である「主」に逆らうことを動機とし目的としているのです。 すでに、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落しており、神である「主」のさばきを受けて滅びる状態にあったサタンが、それでも、神である「主」に逆らうために、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されているみこころの実現を阻止しようとしたのです。 ですから、サタンとしては、神である「主」が自分に対するさばきを宣言されたとしても、もし、それが自分が滅ぼされて終わるだけのことであったとしたら、それは、どの道自分が受けることになることが起こるということであったでしょう。それによって、自分にさらに厳しいさばきが下されることになるとしても、サタンとしては、創造の御業において示された神さまのみこころの実現を阻止したことになるので、霊的な戦いにおいては勝利したとして喜んだはずです。 これら二つのことを踏まえて、改めて、3章14節に記されている、サタンに対するさばきの宣告において、神である「主」が、 おまえは・・・ちりを食べなければならない。 と言われたことを見てみましょう。 このさばきの宣告は、サタンが霊的な戦いにおいて敗北を喫するということを示しています。そして、その霊的な戦いは、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されている神さまのみこころの実現をめぐる戦いです。そうであれば、これは、ただ単に、サタンが最終的に滅ぼされるようになるということで終わるものではないことが分かります。 霊的な戦いにおいてサタンが敗北するようになるのは、サタンの巧妙な働きがあったにもかかわらず、そして、それが成功したとしか思えないにもかかわらず、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されている神さまのみこころが実現するようになることによっています。 それで、15節に記されている、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という、神である「主」のさばきの宣告のみことばにおいても、このことが示されているはずです。 ここで、神である「主」がサタンと「女」との間に強い「敵意」を置いてくださって、サタンが仕掛けた霊的な戦いにおいて、「女」と「女の[霊的な]子孫」が、神である「主」の側に立って、サタンとその霊的な子孫と戦うようになることが示されています。それは、「女」と「女の子孫」が救われるようになることを意味していますが、それは、さらに、「女」と「女の子孫」が、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されている神さまのみこころを実現するようになることを意味しています。 実際、日を改めてお話ししますが、新約聖書は、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来てくださった御子イエス・キリストは、「主」がダビデに与えてくださった契約において約束してくださったダビデの子として、永遠の王座に着座して、治めるメシアとして、最終的にサタンをさばいて滅ぼされるだけでなく、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命をも実現しておられることを示しています。 |
|
||