黙示録講解

(第295回)


説教日:2017年6月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(48)


 イエス・キリストはテアテラにある教会に語られたみことばにおいてご自身のことを「神の子」として示しておられます。
 この場合の「神の子」は、サムエル記第二・7章12節ー16節に記されている「」がダビデに与えてくださった契約において約束してくださったダビデの子として、永遠の王座に着座して治めるメシアであることを意味しています。
 今お話ししているのは、これと関連していることで、ヘブル人への手紙1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。

と記されていることについてです。
 ここには、神さまが御子イエス・キリストを「万物の相続者」とされたことが記されています。このことには旧約聖書の背景があります。それを歴史的にさかのぼっていくと、究極的な背景として、神さまの天地創造の御業に行き着きます。
 神さまの天地創造の御業のことを記している創世記1章1節ー2章3節は、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったことを示しています。知恵と力において無限の神さまは、一瞬にして、この世界を完成したものとしてお造りになることができます。けれども、神さまは天地創造の御業を、創造の御業の6つの日にわけて遂行されました。しかも、より基礎的なものから始めて、豊かな環境を整えてから、いのちあるものをお造りになり、最後に、人を神のかたちとしてお造りになりました。
 このように、神さまが遂行された創造の御業自体が歴史的な御業であることを示しています。また、この創造の御業によって造られたこの世界も歴史的な世界です。
 神さまが人をお造りになったことを記している、1章26節ー28節には、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 ここで神さまは、

 さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

と言われたことが記されています。この「われわれ」をどう理解するかということについては、見方が別れています。この点に関してどのような見方があるかということと、それぞれの問題点などをお話しすると、また、長い議論になってしまいます。それについては、いろいろな機会にお話ししてきました[特に、「天地創造」についてのお話の第31回で詳しくお話ししています]ので、結論的なことを言いますと、これは唯一の神さまに人格的(位格的)な複数性があることによっていると考えられます。もちろん、これを基にして神さまが三位一体であることを論証することはできませんが、これは神さまが三位一体であることと調和しています。
 そして、この「われわれ」が神さまに人格的(位格的)な複数性があるということは、ヨハネの福音書1章1節と2節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されているみことばにおいて、「ことば」が「」と「ともにおられた」と言われていること、すなわち、父なる神さまと御子との間に、永遠の愛の交わりがあるということを反映していると考えられます。ヨハネの福音書では、続く3節に、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われていていて、天地創造の御業は父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにある御子によって遂行されたことが示されています。それは、天地創造の御業が神さまの愛の表現であったということを意味しています。そして、それは、神さまの本質的な特質が愛であることによっています。神さまの創造の御業も贖いの御業も神さまの本質的な特質である愛の表現に他なりません。
 このことを考えますと、創世記1章26節で、神さまが人をお造りになるに当たって、

 さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

と言われたことが、神さまの人への愛から出ているということが分かります。神さまが人をお造りになるに当たって、

 さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

と言われたことは、創造の御業の記事の中では特別なことです。この時までに神さまは、3節に、

 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

と記されているときの、

 光があれ。

というみことばのように、命令形のみことばをもって新たなもの、あるいは、新たな状態を造り出しておられます。そのことが、この3節、6節、9節、11節、14節ー15節、20節、24節に記されています。けれども、人を造られたときには、神さまが命令一下、人をお造りになったのではなく、

 さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

という人への愛のみことばを語り合うことにおいて、人をご自身のかたちとしてお造りになってのです。そして、神さまの本質的な特質は愛です。それで、神のかたちの本質的な特質も愛です。このようにして、神のかたちとして造られた人は神さまが天地創造の御業において表現された愛を受け止めて、愛をもって応答する存在として造られています。
 このことは、旧約聖書において一貫して示されている、神のかたちとして造られている人の相続財産は神ご自身であるということの出発点であり、根底にあることでもあります。
 このように、神のかたちとして造られた人は神さまが天地創造の御業において表現された愛を受け止めて、愛をもって応答する存在として造られています。そうであるとしますと、神さまが人を神のかたちとしてお造りになるに当たって語られた、

 彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。

というみことばも、神さまの人への愛から出ているはずです。神のかたちとして造られている人は、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのもの」が、神さまの愛に基づく創造の御業によって造られたものであることを知っています。そして、特に、人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまう前には、これらのいのちあるものたちとさまざまな形で交流することができました。これによって、神さまがお造りになったこの世界に満ちているものが、神さまの無限の知恵と力と真実によって造られ、支えられていることを汲み取ることができます。
 さらに、自分たちも、神のかたちの本質的な特質である愛を、これらのいのちあるものたちに注いで、そのために労することによって、この世界において神さまの愛といつくしみに満ちた栄光がさらに豊かに表されるようになります。
 そして、これらのことすべてが結集されて、神である「」を神として礼拝し、その栄光を讃え、栄光を神さまに帰することに至ります。これが、神さまが人を神のかたちとしてお造りになるに当たって語られた、

 彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。

というみことばの意味することの広がりです。
 神さまはこのような意味をもっている、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになりました。先主日にもお話ししましたが、神のかたちとして造られている人は、このような意味をもっている歴史と文化を造る使命を果たすことによって、何よりも、神である「」ご自身をよりよく、またより深く知ることができるようになります。それによって、神のかたちとして成長し、成熟して、神である「」の愛といつくしみをより深く豊かに受け止めることができるようになり、神である「」との愛にあるいのちの交わりがより深く豊かになっていくのです。
 天地創造の御業はそれで終わったのではありません。2章1節ー3節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。神さまは創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別されました。もちろん、これは、神さまが創造の御業を遂行されてお疲れになったからではありません。これについても、結論的なことだけをお話ししますと、この創造の御業の第7日は今も閉じてはいません。第7日は、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史が形成されていく時、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が歴史と文化を造る使命を果たす時となっています。神さまはこのような意味をもっている創造の御業の第7日を、ご自身の安息の時として祝福して聖別してくださいました。
 このことも、神さまの神のかたちとして造られている人への愛から出ています。ですから、神さまが創造の御業の第7日において安息されることの中心には、神のかたちとして造られている人との愛の交わりがあります。神さまがご自身の愛をさらに豊かにお示しになるとき、人がその愛に触れて、神のかたちとしてさらに成長し、成熟して、神さまとの愛の交わりを深めていくことを、人間的な言い方になりますが、神さまがご自身の喜びとしてくださるということです。


 これが神さまが創造の御業をとおして示されたみこころですが、そのすべては、神さまの神のかたちとして造られている人への愛から出ています。
 これまで数回にわたって、この神さまが創造の御業をとおして示されたみこころをめぐって、暗やみの主権者であるサタンが神である「」に対して霊的な戦いを展開して、サタンの思惑通りになってしまったということをお話ししました。
 それに対して、神である「」は、3章14節ー15節に記されている、サタンに対するさばきを宣告されました。
 要点を簡単にまとめておきますと、14節に出てくる、

 おまえは・・・ちりを食べなければならない。

というみことばは、サタンが霊的な戦いにおいて敗北を喫するということを意味しています。そして、それがどのように実現するかということが、15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

というさばきの宣告において示されています。
 ここでは、神である「」が「おまえ」と呼ばれているサタンと「」すなわちエバとの間に強い「敵意」を置いてくださって、それまで罪によってサタンと一体になってしまっていた「」が、霊的な戦いにおいてサタンに敵対して戦うようになることが示されています。さらに、この神である「」が置いてくださった「敵意」は「おまえの子孫と女の子孫」にまで受け継がれて、霊的な戦いが歴史的に継承されていくことが預言的に示されています。
 このようにして、「」と「女の[霊的な]子孫」は、サタンとその霊的な子孫との霊的な戦いにおいて、神である「」の側に立つようになります。このことから、このサタンに対するさばきの宣告が「最初の福音」と呼ばれています。
 先主日にお話ししましたように、ここには、歴史をとおして存在し続ける「おまえ」と「おまえの子孫」すなわちサタンとその霊的な子孫たちの共同体と、「」と「女の子孫」の共同体があります。そして、それぞれの共同体には「かしら」が存在しています。言うまでもなく、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体の「かしら」は「おまえ」すなわちサタンです。ところが、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」は「」ではなく、「女の子孫」」の中にいます。ここでは、その意味での「」のことが、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われています。
 ここに出てくる「踏み砕く」と訳されていることばと「かみつく」と訳されていることばは同じことば(シューフ)です。違いは、「」が「砕く」のは「おまえの頭」であり、致命的な打撃であるのに対して「おまえ」が「砕く」のは「彼のかかと」であり、致命的な打撃ではないということです。これに対して、「おまえ」は毒蛇であって、「」がかかとにかみつかれれば「」も死ぬことになるという反論がなされることがあります。
 けれども、この時サタンがエバを誘惑するために用いた「」は毒蛇であった可能性はほとんどありません。
 というのは、これは、人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまう前のことです。「」が人を害するようになったのは、人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後のことであると考えられます。かりに、そうではなかったとしても、いくつかのことから、この場合の「」は毒蛇ではなかったと考えられます。
 まず、3章1節で、

 さて、神であるが造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。

と言われている「」が、人を害する毒蛇であったということは考えにくいことです。ここで「狡猾な」と訳されていることば(アールーム)は、よい意味でも悪い意味でも用いられます。よい意味では「賢い」という意味になります。「神であるが造られた」生き物という点では賢かったのです。
 また、ここ創世記3章には、サタンが「」を用いてエバを誘惑して成功した時のことが記されていますが、それ以前に、2章19節に記されているアダムだけでなく、エバも生き物たちとの交流をしており、「」のことをよく知っていたと考えられます。そうであるからこそ、そこに記されているやり取りができたわけです。その場合に、優れた御使いとして造られ、知恵(悪知恵)も豊かであったサタンが、いかにもエバの味方であるように語りかけた時に用いたのが、毒蛇であったということは考えにくいことです。
 さらに、最初に造られた状態にあったアダムとエバは、神である「」が造り主であられ、自分たちが被造物であることや、生き物たちには造り主へのわきまえがないことを知っていました。それで、いきなり、単なる生き物である「」が善悪の知識の木についての神である「」の戒めのことを問いかけたとしたら、エバは驚いて、警戒したはずです。ですから、サタンはそのようなことはしないで、「」をとおして、ごく日常のやり取りから始めて、「」がいろいろなことを話すことに、エバが馴れて、警戒しなくなるのを待ってから、だんだんと複雑なことを話すようにしていき、頃合いを見計らって、善悪の知識の木についての神である「」の戒めのことを問いかけたと考えられます。そのような時間をかけての接触がなされる間に正体がばれないようにしなければなりません。そのために、サタンが毒蛇を用いたということは考えられないことです。
 このようなことから、この時にサタンが用いた「」は、もともと神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人とよい関係にあった生き物であったと考えられます。そして、神である「」は、その「」を用いて、サタンへのさばきの宣告をされたと考えられます。
 このようにして、神である「」のサタンへのさばきの宣告においては、最終的には、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる「」がサタンを滅ぼすようになることが示されていると考えられます。これは、やがて、ダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座して治めるメシアとしてのお働きであることが示されます。それは、このテアテラにある教会へのみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられるイエス・キリストにおいて成就します。

 けれども、これだけであるとすると、重大な問題が残ってしまいます。私たちが「女の子孫」として救われて、サタンが最後には滅ぼされてしまうのだからめでたしめでたしではないかと言われるかもしれません。しかし、それはやはり、私たちが自分中心にこれらのことを見ているからに他なりません。もし、これが神である「」のサタンへのさばきの宣告のすべてであるとすると、サタンが神である「」に対して仕掛けた霊的な戦いにおいては、サタンが勝利して終わってしまうことになるのです。
 このことを理解するためには二つのことを踏まえておく必要があります。
 第一に、サタンが仕掛けた霊的な戦いは、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されているみこころの実現をめぐる戦いであるということです。
 サタンは、この神さまのみこころの実現を阻止しようとして働きました。それで、「」を用いて、巧妙にエバを誘惑して、善悪の知識の木についての神である「」の戒めに背かせました。そして、次には、罪によってサタンと一体になってしまったエバを用いてアダムを誘惑して、同じように、善悪の知識の木についての神である「」の戒めに背かせました。これによって、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は罪によってサタンと一体になってしまい、神である「」のみこころにしたがって歴史と文化を造ることはなくなってしまいました。これによって、人が造る歴史と文化は、自らを神としようとするほどの罪の自己中心性をもつサタンの特質を現すものとなってしまいました。
 このようにして、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されているみこころの実現をめぐる霊的な戦いにおいては、サタンが勝利したと思われたのです。
 第二に、サタンはもともと優れた御使いとして造られたのに、自らの存在の高さに高慢になり、自分が神のようになろうとして、神さまの聖さを冒す罪を犯して、神さまの御前に堕落したと考えられます。それで、サタンは人を神である「」に背かせてようとして誘惑する前に、すでに、神である「」のさばきを受けて滅ぼされるべきものでした。
 そのようにして、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったサタンは、絶対的に堕落してしまっています。最初の人アダムとその妻エバも、同じように神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしてしまいました。けれども、アダムとエバの場合には、神である「」が、神学的に言いますと、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、彼らの目を開いてくださって、自分たちが裸であることを自覚させてくださり、自分たちの内側の状態がさらけ出されることを恥じるようにしてくださいました。とはいえ、それで、ふたりが神である「」の御前に自らの罪を認め、告白して、神である「」のあわれみを求めることはありませんでしたし、できませんでした。
 神である「」は、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、彼らの目を開いてくださって、彼らの良心が働くようにしてくださったのです。それは、神である「」の一方的なあわれみによることであって、人にそのようなあわれみを受けるに値するものがあったのではありません。
 これに対して、サタンには一般恩恵に基づく御霊の働きかけはなされませんでした。そうであるからといって神である「」に不正があるわけではありません。
 いずれにしましても、サタンは自らの罪の自己中心性に縛られて絶対的に堕落してしまっています。それで、その思い謀ることのすべてが神である「」に逆らうことを動機とし目的としています。もちろん、サタンもサタンに従う悪霊たちも、自分たちが神である「」によってさばきを受けて滅びることを知っています。それでも、彼らの思い謀ることのすべては、神である「」に逆らうことを動機とし目的としているのです。
 すでに、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落しており、神である「」のさばきを受けて滅びる状態にあったサタンが、それでも、神である「」に逆らうために、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されているみこころの実現を阻止しようとしたのです。
 ですから、サタンとしては、神である「」が自分に対するさばきを宣言されたとしても、もし、それが自分が滅ぼされて終わるだけのことであったとしたら、それは、どの道自分が受けることになることが起こるということであったでしょう。それによって、自分にさらに厳しいさばきが下されることになるとしても、サタンとしては、創造の御業において示された神さまのみこころの実現を阻止したことになるので、霊的な戦いにおいては勝利したとして喜んだはずです。
 これら二つのことを踏まえて、改めて、3章14節に記されている、サタンに対するさばきの宣告において、神である「」が、

 おまえは・・・ちりを食べなければならない。

と言われたことを見てみましょう。
 このさばきの宣告は、サタンが霊的な戦いにおいて敗北を喫するということを示しています。そして、その霊的な戦いは、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されている神さまのみこころの実現をめぐる戦いです。そうであれば、これは、ただ単に、サタンが最終的に滅ぼされるようになるということで終わるものではないことが分かります。
 霊的な戦いにおいてサタンが敗北するようになるのは、サタンの巧妙な働きがあったにもかかわらず、そして、それが成功したとしか思えないにもかかわらず、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されている神さまのみこころが実現するようになることによっています。
 それで、15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という、神である「」のさばきの宣告のみことばにおいても、このことが示されているはずです。
 ここで、神である「」がサタンと「」との間に強い「敵意」を置いてくださって、サタンが仕掛けた霊的な戦いにおいて、「」と「女の[霊的な]子孫」が、神である「」の側に立って、サタンとその霊的な子孫と戦うようになることが示されています。それは、「」と「女の子孫」が救われるようになることを意味していますが、それは、さらに、「」と「女の子孫」が、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されている神さまのみこころを実現するようになることを意味しています。
 実際、日を改めてお話ししますが、新約聖書は、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来てくださった御子イエス・キリストは、「」がダビデに与えてくださった契約において約束してくださったダビデの子として、永遠の王座に着座して、治めるメシアとして、最終的にサタンをさばいて滅ぼされるだけでなく、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命をも実現しておられることを示しています。


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