黙示録講解

(第294回)


説教日:2017年6月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(47)


 イエス・キリストはテアテラにある教会に語られたみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。
 今お話ししているのは、このことと関連して、ヘブル人への手紙1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。

と記されていることです。
 いつものように、これまでお話ししたことで、今日お話しすることと関連していることをまとめておきます。
 神さまが御子イエス・キリストを「万物の相続者」とされたことの究極的な背景は、引用をしませんが、創世記1章26節ー28節に記されていることです。
 そこには、二つのことが記されています。一つは、神さまが創造の御業において、人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになったことです。もう一つは、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、神のかたちとして造られている人にお委ねになったことです。
 神さまが人を愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られたのは、人をご自身との愛の交わりに生きる者として、ご自身に向けてお造りになったということを意味しています。
 このことと関連して、神さまの天地創造の御業の記事においては、神さまが創造の御業の初めからこの「」にご臨在されて、この「」をご自身の御臨在の場として聖別しておられたことと、その御臨在の御許から発せられた、一連の「創造のみことば」によって、この「」をご自身の御臨在を映し出す豊かさに満ちている世界として形造られたことが記されています。それは、また、ご自身の御臨在を映し出す豊かさに満ちたこの「」を、イザヤ書45節18節に記されているように、「人の住みか」として形造ってくださる御業でもありました。
 神さまが創造の御業の初めからこの「」にご臨在されて、「」をご自身の御臨在に伴い、ご自身の御臨在を現す豊かさに満ちた所として形造られ、それを「人の住みか」としてくださったのは、神のかたちとして造られている人が、常に、ご自身の御臨在に触れて、ご自身を礼拝することを中心として、ご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださるためでした。ウェストミンスター小教理問答・問1への答えにおいて、「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」と言われていることの出発点はこのことにあります。
 神さまが神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命は、人が、この「」にご臨在される神である「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛の交わりに生きることの中で果たされるものです。
 愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人が、神である「」を愛し、神として礼拝することを中心として、歴史と文化を造ることによって、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光が、歴史の進展とともにより豊かに現されるようになります。これが、創造の御業おいて人を神のかたちとしてお造りになり、その人に歴史と文化を造る使命を委ねられた神さまのみこころでした。


 けれども、優れた御使いとして造られたのに、自らが神のようになろうとする罪を犯して堕落してしまったと考えられるサタンは、このような神である「」のみこころが実現することを阻止しようとして働きました。
 一般的には、サタンは人を不幸にする者であると考えられています。しかし、サタンは神さまに逆らうことを動機とし目的としているのであって、人を相手としているのではありません。人は神さまに逆らうための手段としてしか考えられてはいません。
 人を神のかたちとしてお造りになり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださった神さまは、決して、人を「手段」とされることはありません。これに対して、神さまが人に歴史と文化を造る使命を委ねたことは、人を手段として用いることではないかと問われることでしょう。しかし、その問いは堕落後の人間が、罪の自己中心性のために人ばかりでなく神をも「手段化」してしまっていることに基づく発想によるものであり、まったくの誤解です。
 繰り返しになりますが、神さまがこの「」をご自身のの御臨在を映し出す豊かさに満ちている世界として形造られて、これを「人の住みか」としてくださったのは、人が常に、神である「」の御臨在に触れ、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださるためでした。人は歴史と文化を造る使命を果たすことによって、何よりも、神である「」ご自身をよりよくまたより深く知ることができるようになります。それによって、神である「」の愛といつくしみをより深く豊かに受け止めることができるようになり、神である「」との愛にあるいのちの交わりがより深く豊かになっていくのです。これが、神さまが人を神のかたちとしてお造りになったことの目的であり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことの目的です。
 話を戻しますと、単なる被造物でしかないサタンは、神である「」と直接的に戦うことはできないので、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されているみこころの実現を阻止しようとしました。それで、サタンは、神である「」が神のかたちとして造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命の実現をめぐって、神である「」との霊的な戦いを展開しています。それは過去のことではなく、今も続いていますし、世の終わりまで続きます。
 そして、このサタンの企ては成功し、すべてはサタンの思惑どおりにはなったと思われました。神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である「」に背いて罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それによって、人は神である「」を神として礼拝することはなくなってしまいました。人は罪の自己中心性に縛られてしまい、自らを神としようとするサタンと一つに結ばれてしまいました。
 これによって、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神である「」を神として礼拝することを中心とする歴史と文化を造るのではなく、罪の自己中心性によって特徴づけられ、人が自らを神の位置に据えようとするような歴史と文化を造るようになってしまいました。それが映し出すのは造り主である神さまの栄光ではなく、自らを神としようとするサタンの特質です。

 このようにして、サタンは神である「」との霊的な戦いに勝利したと思われたのです。
 これに対して、神である「」は、サタンに対するさばきの宣告を下しました。それが創世記3章14節ー15節に記されています。
 いま取り上げているのは、15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

というさばきの宣告です。ここで神である「」は、サタンが「」すなわちエバを誘惑したときに用いた「」を用いてサタンに対するさばきの宣告をしています。
 前半の、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

というみことばは、8節ー13節に記されているように、この時、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人とその妻は、自らの罪を認めて神である「」に立ち返ることはしなかったし、できなくなっていたということを踏まえて理解する必要があります。
 ここで、「」が取り上げられているのは、彼女がサタンの誘惑のことばに従って、神である「」に背いて罪を犯し、サタンと一つに結ばれてしまったために、夫であるアダムを罪に誘ってしまったことによっていると考えられます。彼女が罪を犯してからは「」は背後に退き、彼女が「」に代わって、夫を罪に誘っています。神である「」は、このように、罪によってサタンとの一体にあることを現した「」と「おまえ」と呼ばれているサタンとの間に相手を滅ぼすに至るような強い「敵意」を置いて、彼女とサタンの間の罪による一体性を断ち切ってくださることを示してくださいました。それは、彼女が霊的な戦いにおいて神である「」に敵対しているサタンに「敵意」をもって立ち向かうようになることであり、彼女が神である「」の側に立つようになることを意味しています。これが、この神である「」のサタンに対するさばきの宣告が「最初の福音」と呼ばれる理由です。
 そればかりでなく、神である「」が置いてくださる「敵意」は「」と「おまえ」の一代限りのことではなく、「おまえの子孫」と「女の子孫」にまで受け継がれていくことが示されています。
 先主日には、「おまえの子孫」と「女の子孫」が誰であるかということについてお話ししました。そして、その判断をする規準、指標は、「」との関係のあり方や「おまえ」との関係のあり方を越えた、神である「」との関係のあり方にあるということをお話ししました。
 具体的には、「おまえの子孫」とはサタンの子孫ですが、サタンはもともと優れた御使いとして造られていますので、人のように、結婚して子孫を残すということはありません。それで、サタンの子孫とは、サタンから直接的に生まれた子孫ではなく、サタンの霊的な子孫のことです。ちなみに「霊的な」ということは、聖書の教えに沿って言いますと、「精神的な」ということではなく、基本的に、神である「」との関係のあり方を意味しています。サタンの霊的な子孫には、サタンとともに神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった御使いたち、すなわち、悪霊たちだけでなく、罪によってサタンと一つになってしまっている人も含まれると考えられます。これについてのみことばの根拠は、先主日取り上げた、ルカの福音書10章17節ー20節に記されていることやヨハネの福音書8章44節に記されているイエス・キリストの教えにあります。
 またこれと同じように「女の子孫」も「」の血肉の子孫ではなく、「」の霊的な子孫のことです。エバから生まれた者たちの中でも、霊的な戦いにおいて、神である「」の側に立つようになる人たちのことです。

 今日お話ししたいことは、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である「」のサタンに対するさばきの宣告において、個人的なメシアのことが示されているかということです。
 ここで「おまえの子孫と女の子孫」と言われているときの「子孫」(ゼラァ)ということばは単数ですが、個人を表すこともあります(創世記4章25節、15章3節など)し、集合名詞的に集合体を表すこともあります(創世記9章9節、12章7節など)。このことばの用例としては個人を表すことが圧倒的に多いのですが、ここでどのように用いられているかは、文脈の上から考えるほかありません。
 ただ、先主日、口頭で触れましたが、このことばの用例から、ここでは個人を表していると主張している学者たちがあります{Jack [C. John] Collins, "A Syntactical Note on Genesis 3:15: Is Woman's Seed Singular or Plural?" Tyndale Bulletin 48, no,1(1997):141-148. T. Desmond Alexander, "Further Observations on the Term 'Seed' in Genesis, Tyndale Bulletin 48, no. 2(1997):363-367 }。私はこの可能性は高いと考えていますが、そうだと言いきる確信がありません。それで、これを集合名詞的に集合体を表すものとした上で、文脈の上から考えていきたいと思います。
 ここでは「女の子孫」という集合体だけでなく、特定の個人も示めされているという見方は次のような点を根拠としています。15節前半では、神である「」が「おまえ」と言われる「」と「」との間に、そして、「おまえの子孫」すなわち「」の子孫と「女の子孫」との間に「敵意」を置くと言われています。ここには「」対「」、そして、「」の子孫対「女の子孫」という対立があります。しかし、次の15節後半では、「」すなわち「女の子孫」が「おまえ」すなわち「」の頭を踏み砕くと言われています。それで、ここには「女と女の子孫」の共同体対「蛇と蛇の子孫」の共同体という敵対関係において、それぞれの共同体が「」すなわち「女の子孫」と、「おまえ」すなわち「」によって代表されているという意味における一人対一人が示されているということです(G. Vos, BT, pp.54-55)。
 ここで注意しておきたいことは、この場合「」(「女の子孫」)ということばが個人しか示していないというのではないということです。それは、あくまでも、「女と女の子孫」の共同体が「蛇と蛇の子孫」の共同体と敵対することにおいて、その最終的な段階において、あるいは、究極的な次元においては、それぞれを代表する一つの人格が霊的な戦いを戦うということが示されているということです。
 このような見方に対しては、次のような反論があります(榊原康夫『創造と堕落』、1967年、164頁)。
(1)個人的なメシアの預言は、こんな初期には啓示されなかった。
(2)「砕く」は一度限りの決定的動作を表す完了時制でなく、反復継続を表す未完了時制でしるされている。
(3)「おまえのすえ」と「女のすえ」という二つの男性集合名詞を代名詞で受け止めて、「前者、後者」と区別できる用法は、ヘブル語にはない。後者を「彼(それ)」で受け止めたとき、前者を区別して取り上げるには「すえ」にかかる人称代名詞所有格「おまえ」」を取り出すほか、区別のしようがない。・・・集団結束の原理に生き、また考えた古代イスラエル人にとって、「あなたのすえ(子孫)」と「あなた」は大差なかったのである。
 以上、ほぼ字義どおりの引用です。
 この反論(1)については、もし、この反論が、15節後半の「」は個人的なメシアのことでしかない、ということに対する反論であれば、「」は集合名詞としての「女の子孫」を表しているけれども、それとともに、「」と「女の子孫」の共同体を代表する個人的な存在をも示していると理解している人々も同意します。しかし、もしこの反論が、この「」は集合名詞としての「女の子孫」とともに「」と「女の子孫」の共同体を代表する個人的な存在をも示しているという見方に対する反論であれば、それは一方的な決めつけであると言わなければなりません。実際、後ほどお話ししますように、ここでは、文脈の上から、そのような共同体を代表する個人的な存在が示されていることを論証することができます。
 反論(2)については、確かに、「踏み砕く」という動詞(シューフ)が未完了時制で表されていて、未完了時制が繰り返しの動作を表すことがあります。しかし、そのことは、この「」は集合名詞としての「女の子孫」とともに「」と「女の子孫」の共同体を代表する一人をも示しているという見方に対する反論にはなりません。ここでは、「」と「女の子孫」、また、「おまえ」と「おまえの子孫」という歴史的な継続性が示されていますので、「踏み砕く」動作も歴史的な継続性を表していることになります。
 反論(3)は、文脈の上での考察など、その他のことから、「」と「おまえ」がそれぞれの共同体を代表する個人的な存在をも示しているということを論証することができない場合に、それでは、この「」と「おまえ」をどのように理解するかということを示すものです。それで、これは、それ自体では、反論として積極的なことを示してはいません。つまり、この、「おまえ」は「おまえの子孫」を受ける人称代名詞の代用であるという見方以外の見方が成り立たないということを示すものではありません。

 さらに、これには、それ以上の問題があります。もし、この反論のとおりであったとしたら、より重大な問題を生み出すことになります。
 まず確認しておきますと、15節前半に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

という神である「」のみことばにおいては、「」(エバ)と「女の子孫」は区別されていますし、「おまえ」(「」の背後にあるサタン)と「おまえの子孫」は区別されています。
 このことを踏まえて、この反論(3)に従って、15節後半に記されている、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である「」のみことばを見てみましょう。
 ここに出てくる「」は前半に出てくる「女の子孫」を指しています。そして、この「女の子孫」は「」(エバ)と区別されます。また、ここに出てくる「おまえ」は、反論(3)によると、すでに使われている指示代名詞「彼」が使えないので、その代用として用いられていて、前半に出てくる「おまえの子孫」を指しています。そして、この「おまえの子孫」を指す指示代名詞の代用としての「おまえ」は、前半に出てくるサタンを指す「おまえ」とは区別されます。
 問題点を明確にするために、「女の子孫」を指す指示代名詞の「」と、「おまえの子孫」を指す指示代名詞の代用としての「おまえ」に、それぞれが指している「女の子孫」と「おまえの子孫」を補って訳すと、15節後半は、反論(3)によると、
 彼(=「女の子孫」)は、おまえ(=「おまえの子孫」)の頭を踏み砕き、
 おまえ(=「おまえの子孫」)は、彼(=「女の子孫」)のかかとにかみつく。
となります。このように、この反論(3)によると、15節後半では、「女の子孫」と「おまえの子孫」の霊的な戦いと「女の子孫」の勝利、すなわち、「おまえの子孫」への最終的なさばきの執行のことが示されているということになります。それで、15節後半では、「女の子孫」と「おまえ」と呼ばれている「」の背後にあるサタンとの霊的な戦いと、サタンへの最終的なさばきの執行は示されていないことになります。
 そうすると、15節では、「おまえ」と呼ばれているサタンへのさばきは、単に、「」との間に「敵意」が置かれたことだけであるということになり、サタン自身への最終的なさばきが執行されることは示されていないということになります。これは、14節ー15節においては「おまえ」と呼ばれている「」の背後にあるサタンへのさばきが記されているということに合いません。
 また、14節において、「おまえは・・・ちりを食べなければならない」と記されていて、「おまえ」(サタン)はこの霊的な戦いにおいて敗北を喫する、と宣言されているにもかかわらず、それをより具体的に示している15節では、「おまえ」自身のさばきよりも「おまえの子孫」へのさばきの方が示されているということになります。
 このことから、15節後半の「おまえ」は「おまえの子孫」を指し示す指示代名詞の代用ではなく、「おまえ」自身のことを表していると考えられます。さらに、このことから、15節に記されている神である「」のさばきの宣告においては、「おまえ」と「おまえの子孫」は一体の関係にあり、その「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体のかしらが「おまえ」であるという関係にあることを汲み取ることができます。
 このように、15節に記されている神である「」のさばきの宣告においては、「おまえ」と「おまえの子孫」は一体の関係にあり、その「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体の代表的なかしらが「おまえ」であると考えられます。そうであれば、もう一方の「」も、「」と「女の子孫」の共同体を代表するものとして用いられていると考えられます。
 さらに、この理解は、次の二つのことからも支持されます。
 第一に、聖書においては、共同体には「かしら」が存在しています。この15節に記されている「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体や「」と「女の子孫」の共同体にも当てはまると考えられます。
 第二に、4章1節には、エバがカインを産んだ時に言った、

 私は、によってひとりの男子を得た

ということばが記されています。ここで「男子」と訳されていることばは2章23節に出てくる「」(イーシュ)ということばです。このことばが男の子どもを表す用例はほかにはありません。それで、この時、エバはカインが成人することを思い描いていて、カインが3章15節に、

 彼は、おまえの頭を踏み砕く

と記されていることを実行する者であると考えていたことを反映していると思われます。
 また、25節には、エバがセツを産んだ時に、

 カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。

と告白したことが記されています。ここに出てくる「もうひとりの子」の「」は3章15節に出てきた「子孫」(ゼラァ)です。これは、エバがセツのことを「女の子孫」であると考えていたことを反映していると考えられます。
 このとは、エバが3章15節に記されている神である「」のサタンへのさばきの宣告において、個人的なメシアに相当する存在が与えられることを汲み取っていたことを示しています。

 このように、3章15節に記されている神である「」のみことばを、14節ー15節の主題が神である「」の「」へのさばきの宣告であるということを踏まえて見ると、「おまえ」と「おまえの子孫」との一体性、そして「」と「女の子孫」との一体性が認められるだけでなく、それぞれの共同体をを代表する「かしら」は、一方は「おまえ」ですが、もう一方は「」ではなく、集合体としての「女の子孫」の中にいることが認められます。
 このことは、15節前半で、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

と言われていることと、後半で、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われていることの間には発展があることを示しています。
 15節前半では、「おまえ」に対して「」が、そして、「おまえの子孫」に対して「女の子孫」が「敵意」をもって対立することが示されています。ここでは、すでにお話ししたように、「」と「女の子孫」の共同体が「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体に対して敵対関係に置かれることと、その敵対関係が歴史的に継続されていくということが示されています。
 そして、15節後半では、このことをさらに進めて、それが単なる敵対関係というのではなく、「」と「女の子孫」共同体の側の勝利に至るということを示しています。そして、この勝利する側である「」と「女の子孫」の共同体を代表するのは「」であり、敗北する側である「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体を代表するのは「おまえ」であるということが示されています。
 もし、15節後半の「」と「おまえ」が、単に、15節前半の「女の子孫」と「おまえの子孫」を指すだけであれば、15節後半に示されているのは、単に、「女の子孫」と「おまえの子孫」の間の戦いであり、「女の子孫」の勝利だけであるということになります。そうであれば「」入ったいどうなるのかという問題が生じてきます。けれども、15節後半の「」が15節前半の「」と「女の子孫」の共同体の代表であるということは、「」も「」との一体性によって、霊的な戦いの勝利者となるという望みをもつことができるということになります。そして、実際に、先ほど取り上げた、4章1節と25節に記されている「」(エバ)の告白は、彼女が「最初の福音」に示されていた、「」(自分自身)と「女の子孫」の共同体の「かしら」としての「」の存在を信じて、待ち望んでいたことを意味しています。
 同じように、15節後半の「」が15節前半の「」と「女の子孫」の共同体の代表であるということは、集合名詞的に考えられる「女の子孫」の共同体を構成する者たちも、最終的な「」の勝利にあずかるようになるということを意味しています。いま取り上げている黙示録2章18節ー29節の中の26節ー27節に記されている、

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

という栄光のキリストの約束は、突き詰めていくと、ダビデ契約字からアブラハム契約へとさかのぼって、最終的には、この神である「」のサタンへのさばきの宣告を背景としています。


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