黙示録講解

(第293回)


説教日:2017年5月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(46)


 イエス・キリストはテアテラにある教会に語られたみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。
 今は、このことと関連して、ヘブル人への手紙1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。

と記されていることについてお話ししています。
 まず、このこととの関連で先主日にお話ししたことをまとめておきます。

 神さまが御子イエス・キリストを「御子を万物の相続者」とされたことの究極的な背景は、創世記1章26節ー28節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているように、神さまが創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになったことです。
 創世記1章2節に、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されているように、神さまは創造の御業の初めから、この「」にご臨在されて、この「」をご自身の御臨在の場として聖別しておられました。そして、その御臨在の御許から発せられた、

 光があれ。

というみことばから始まる一連の「創造のみことば」によって、この「」を形造られました。それで、この「」は、神さまの御臨在に伴い、神さまの御臨在を現す豊かさに満ちています。そして、神さまはご自身の御臨在に伴い、ご自身の御臨在を現す豊かさに満ちたこの「」を、イザヤ書45節18節に記されているように、「人の住みか」としてくださいました。
 先主日とほぼ同じことばで繰り返しますが、神さまの本質的な特質は愛であり、神のかたちの本質的な特質も愛です。神さまが人を愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られたのは、人をご自身との愛の交わりに生きる者として、ご自身に向けてお造りになったということを意味しています。神さまが創造の御業の初めからこの「」にご臨在されて、「」をご自身の御臨在に伴い、ご自身の御臨在を現す豊かさに満ちた所として形造られ、それを「人の住みか」としてくださったのも、人が常にご自身の御臨在に触れて、ご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださるためでした。
 歴史と文化を造る使命は、神のかたちとして造られた人が、この「」にご臨在される神である「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛の交わりに生きることの中で果たされるものです。このことは歴史と文化を造る使命の核心にあることで、このことを欠いては、神である「」のみこころに沿って歴史と文化を造る使命が果たされることはありません。
 愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人が、神である「」を愛し、神として礼拝することを中心として、歴史と文化を造ることによって、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光がより豊かに現されるようになります。これが、創造の御業おいて人を神のかたちとしてお造りになり、その人に歴史と文化を造る使命を委ねられた神さまのみこころでした。


 けれども、このような神である「」のみこころが実現することを阻止しようとして働いている者がありました。それが、優れた御使いとして造られたのに、自らが神のようになろうとする罪を犯して堕落してしまったと考えられるサタンです。サタンは、常に、神さまに逆らうことを目的とし、動機として生きています。初めから終わりまで徹底的に神さまに逆らおうとしているのです。けれども、一介の被造物でしかなく、神である「」に支えられて存在しているサタンは、神である「」と直接的に戦うことはできません。それでサタンは、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されているみこころの実現を阻止しようとしました。具体的には、人が神である「」に背いて罪を犯し、神である「」を愛し、神として礼拝することを中心とした歴史と文化を造ることがないようにしようとしたのです。
 このようにして、サタンは、神である「」が神のかたちとして造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命の実現してをめぐって、神である「」との霊的な戦いを展開しています。
 そして、このサタンの企ては成功しました。ただし、それは、あくまでも、サタンの思惑どおりにはなったという意味での成功です。
 サタンが「」を用いて「」すなわちエバを誘惑したとき、彼女は神である「」に背いて罪を犯してしまいました。そして、罪によってサタンと一体になってしまった「」、エバが夫であるアダムを誘惑したとき、アダムも神である「」に背いて罪を犯してしまいました。このようにして、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である「」に背いて罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それによって、人は神である「」を神として礼拝することはなくなってしまいました。むしろ、人は罪の自己中心性に縛られてしまい、自らを神としようとするサタンと一つに結ばれてしまいました。それは、罪によるサタンとの一体性です。
 これによって、人は歴史と文化を造らなくなったのではありません。神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人には、歴史と文化を造る使命を遂行するために必要な能力と歴史へのわきまえが与えられています。それで、必然的に、歴史と文化を造ります。けれども、それによって造られる歴史と文化は、造り主である神さまを神として礼拝することなく、罪の自己中心性によって特徴づけられ、人が自らを神の位置に据えようとするような歴史と文化です。それは罪によるサタンとの一体性を現す歴史と文化です。
 このようにして、サタンは神である「」との霊的な戦いに勝利したと思われたのです。
 これに対して、神である「」はサタンに対するさばきの宣告を下しました。それが創世記3章14節ー15節に記されています。それは「」へのさばきの宣告の形を取っていますが、「」の背後で働いていたサタンへのさばきの宣告です。14節ー15節に記されている神である「」のさばきの宣告を見ると、サタンが人を罪に陥れようとして用いた「」は、神である「」がサタンへのさばきの宣告をするのにうってつけの生き物であったという「皮肉」があることが分かります。
 神である「」のさばきの宣告の中心である15節には、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています。
 神である「」は、まず、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

と言われました。

 神である「」は、サタンと、罪によってサタンと一つとなってしまっている「」すなわちエバと間に「敵意」を置くと言われました。ここでは、この「敵意」ということば(エーバー)が最初に出てきて強調されています。この「敵意」ということばの用例から分かるのは、この「敵意」は相手を殺し、滅ぼしてしまうことにつながるほど強いものであるということです。
 ここではさらに、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に

と言われていて、この「敵意」がサタンと「」との間においてだけでなく、それぞれの子孫の間にまで及ぶと言われています。
 このような「敵意」の強さと持続性は人から出るものではありません。ここでは、

 わたしは置く

と言われていて、この「敵意」が神である「」が置いてくださるものであることが示されています。神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、罪によるサタンとの一体性にあります。そのような状態にある人は自分の力で罪を悔い改め、サタンとの一体性の絆を断ち切って、神である「」に立ち返ることはできません。
 最初の人とその妻がこのような状況にあった時に、神である「」が、サタンと「」の間に「敵意」を置いてくださって、その一体性の絆を断ち切ってくださるというのです。しかも、それは、サタンと「」の間のことで終わるのではなく、サタンの霊的な子孫と「女の子孫」の間にまで及ぶと言われています。このすべては、神である「」が、その一方的な恵みによってなしてくださることです。
 ここでは、神である「」が、ご自身に敵対して働いているサタン対するさばきを宣告しておられます。その宣告の中で、「女」と「女の子孫」が、「おまえ」と呼ばれているサタンとサタンの霊的な子孫に、神である「」が置いてくださる「敵意」をもって立ち向かうようになると言われています。これは、霊的な戦いにおいて、「女」と「女の子孫」が神である「」の側に立つようになるということを意味しています。このことに、「」と「女の子孫」が救われるようになることが示されています。しかも、それは神である「」が、その一方的な恵みによってなしてくださることです。それで、この神である「」のサタンとその霊的な子孫に対するさばきの宣告は「最初の福音」と呼ばれます。
 このことから、「」と「女の子孫」が救われるようになるのは、神である「」が「」と「女の子孫」をとおして、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行されるからであるということが分かります。
 また、この神である「」のサタンとその霊的な子孫に対するさばきの宣告では、この時、直ちに、神である「」がサタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行しないで、「」と「女の子孫」をとおして、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行されるということが示されています。これによって、サタンとその霊的な子孫に対するさばきの執行は、後の時代まで引き延ばされることになりました。「」のみことばが示すところでは、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきは、終わりの日に執行されるようになります。
 このことには大切な意味がありますが、それについては、日を改めてお話しします。今は、「最初の福音」についてのお話を進めていきます。

 神である「」は、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

という宣告に続いて、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と宣告されました。
 このみことばにおいて、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、

というみことばに用いられている「踏み砕き」ということば(シューフ)と、

 おまえは、彼のかかとにかみつく。

というみことばに用いられている「かみつく」ということば(シューフ)はについては、いろいろと論じられてきました。このことば(シューフ)が新改訳などの訳が示しているように、「踏み砕く」、「砕く」、すなわち、実際に砕くこと、砕く行為を意味しているか、それとも、「欲する」、「渇望する」を意味するシャーアフの同族語で、「欲する」、「渇望する」、すなわち、砕こうと欲していることを意味しているかという問題があるからです。
 一般的には、「踏み砕く」、「砕く」を意味しているとされていて、新改訳もこれを採用しています。
 もし、「欲する」、「渇望する」を意味しているとすれば、「」は「おまえ」の頭を砕こうと欲するようになり、「おまえ」は「」のかかとを砕こうと欲するようになる、ということ示していることになります。詳しい説明があるわけではありませんが、このように理解することの背景には、「敵意」はそれぞれが抱いている思いである、という理解があるのではないかと思われます。
 また、このさばきの宣告としてのみことばでは、新改訳で、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、

と訳されている部分では「踏み砕く」、「砕く」を意味しているけれども、新改訳で、

 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と訳されている部分では「欲する」、「渇望する」を意味していて、この場合は、「かみつきたいと欲している」ということを示しているとする見方もあります(Cassuto,Vol.1, p.161)。
 これについてどう考えたらよいかということは、すでにお話ししてきたことから考えることができます。
 3章15節に記されていることは、神である「」の「」に対するさばきの宣告です。そして、このさばきにおいて強調されているのは、相手を殺し、滅ぼしてしまうになるような「敵意」です。それは単なる敵対心を越えています。しかも、この「敵意」は神である「」が「」に対するさばきを執行されるために置かれたものです。
 また、このさばきの宣告においては、サタンとその霊的な子孫へのさばきは、神である「」が直接的に執行するのではなく、「」と「女の子孫」との霊的な戦いをとおして執行されることが示されました。サタンとその霊的な子孫としては、「」と「女の子孫」を根絶やしにしてしまえば、自分たちをさばこうとしている神である「」のみこころの実現を阻止することになります。そのようなことから、サタンもその霊的な子孫も、実際に、「」と「女の子孫」を根絶やしにしようとして働くようになりました。このことは、新改訳で、

 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と訳されている部分では「欲する」、「渇望する」を意味していて、この場合は、「かみつきたいと欲している」だけのことであると言うことはできません。
 このようなことから、この場合は、新改訳などのように、どちらも「砕く」ということ、実際に敵対行為がなされることを意味していると考えられます。

 ここでの問題は、「おまえ」と「おまえの子孫」、また、「」と「女の子孫」がだれであるかということです。
 「」と「おまえ」と呼ばれている「」については、すでにお話ししましたように、エバと「」によって示されている「」の背後にあって働いている存在、すなわちサタンであると考えることができます。
 問題は「おまえの子孫」すなわち「」の子孫と「女の子孫」がだれであるかということです。
 ここに出てくる「女の子孫」と「おまえの子孫」は単数形ですが、集合名詞として集合体を表していると考えられます[注]。そうであれば、それぞれの集合体(「女の子孫」と「おまえの子孫」)にはそれを構成する多くの者たちがあります。

[注]この場合の「子孫」は、基本的に、個人的な存在であると主張する学者たちがあります{Jack [C. John] Collins, "A Syntactical Note on Genesis 3:15: Is Woman's Seed Singular or Plural?" Tyndale Bulletin 48, no,1(1997):141-148. T. Desmond Alexander, "Further Observations on the Term 'Seed' in Genesis,Tyndale Bulletin 48, no. 2(1997):363-367 }。私はこの可能性も高いと考えています。日を改めてお話ししますが、私は「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体と、「」と「女の子孫」の共同体のそれぞれに「かしら」があり、それぞれの共同体はその「かしら」との一体性にあると理解しているので、この3章15節の理解は、実質的には、この方々と同じ理解になります。

 これについては、いくつかの意味の層(次元)があると考えられます。
 まず、単純に、「女の子孫」を人類一般と考え、「」の子孫を蛇一般として理解する次元があります。ここで「子孫」と訳されていることば(ゼラァ)が動物の子を表す例は創世記7章3節にあり、新改訳は「種類」と訳しています。これは、蛇と人がお互いに対してどのようにかかわるか、すなわち、蛇は人の足にかみつき、人は蛇の頭を踏み砕くという、よくあることを表しているということです。これは最も表層にある、物理的、肉体的な意味です。
 けれども、これだけであれば、これは単なる原因譚に過ぎないということになります。どうして人は、特に女性は蛇を嫌うのかということについて説明する「お話」であるということになります。しかし、この「最初の福音」は単なる原因譚を記しているのではありません。それで、ここでは、蛇は人の足にかみつき、人は蛇の頭を踏み砕くという、よくあること自体を説明しようとしているのではありません。そうではなく、その奥にある事柄、すなわち、神である「」が「」と「女の子孫」と、「」と「」の子孫との間に「敵意」を置かれたということを、日常見られることをもって表すものとして、意味をもっていると言えます。
 ですから、私たちがいくら自分たちの足で蛇の頭を踏み砕いても、ここで言われている神である「」のさばきの宣告を実行に移したことにはなりません。また、もしここで、そのような一般的な事柄自体に意味があるというのであれば、蛇の頭を踏み砕くことが、神である「」のさばきの宣告を実行に移す人の使命であるというようなことになってしまいます。
 ですから、ここでは、このような日常見られることが、神である「」が「」と「」の子孫と、「」と「女の子孫」との間に「敵意」を置かれることによって、「」と「」の子孫へのさばきを執行されるということを指し示していると考えられます。
 このことから、「女の子孫」は「」から生まれてくる者でありつつ、「」と「」の子孫に対して「敵意」をもって霊的な戦いを戦う立場に立つようになる者であるということになります。
 それは、すでにお話ししましたように、「」の背後にあって働いていたサタンに対して神である「」がさばきを執行されるに当たって用いてくださるしもべとして、霊的な戦いにおいて神である「」の側に立つものとして救われる者のことです。このこと側主の契約の民の間で実現することがローマ人への手紙16章20節に記されています。そこでは、

 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。

と言われています。
 「」の子孫については、もう少し難しい問題があります。
 ここで、「おまえの子孫」と言われているときの「おまえ」が生き物としての蛇であれば、「おまえの子孫」は先ほど触れました蛇一般です。しかし、「おまえ」が「」の背後にあって働いている存在としてのサタンであるということからは、「おまえの子孫」は単なる生き物としての蛇以上の存在です。それは、蛇によって指し示される、「」の背後にあって働いていたサタンの子孫です。しかし、サタンは御使いとして造られたものですから、人や生き物たちのように子を生むことはありません。
 「おまえの子孫」がどのような存在であるかということは、この時点では具体的には分からなかったと考えられます。けれども、この15節に記されている神である「」のみことばが、「」へのさばきの宣告であるということからしますと、この「」の背後にあって働いていたサタンとともにのろわれていて、さばきを受ける存在であると言うことができます。これは、後の啓示の光に照らして見ますと、罪によって「」の背後にあって働いていたサタンと一つとなってしまっている者たちです。
 一例ですが、ヨハネの福音書8章39節後半ー41節前半と44節に記されている、イエス・キリストがユダヤ人に語られたみことばを見てみましょう。39節後半ー41節前半には、

あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています。

と記されています。また、44節前半には、

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。

と記されています。
 これらの引用個所に出てくるのは人ですが、「」の子孫は人にかぎられるものではなく、悪霊たちが含まれていると考えられます。
 これも一例ですが、ルカの福音書10章17節ー20節には、

さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

と記されています。
 ここでは、サタンと悪霊たちのことが記されていますが、19節には、イエス・キリストが弟子たちに、

確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。

と教えられたことが記されています。この教えの背景には創世記3章15節の神である「」のみことばがあると考えられます。
 このように、「」の子孫は罪によってサタンと一体になっていて、霊的な戦いにおいて、神である「」に敵対して働く、悪霊たちと人たちであると考えられます。
 これに対しては、人はすべて「女の子孫」であるから、「」の子孫に人を含ませると、「女の子孫」である人が同時に「」の子孫になってしまうことになるから、「」の子孫は悪霊たちだけに限定すべきであるという主張があります(G. Vos, BT, p.53)。
 これに対して、ただ神さまとの一体性にある者だけが真の人間性をもつものであり、「女の子孫」と呼ばれるのにふさわしいという答えがなされてきました(ibid.)。
 けれども、これらの見方はともに大切な点を見落としています。それは、ここで「女の子孫」というときには、単に人間一般が示されているだけではないということです。それで、ここで問題となっているのは真の人間性がだれにあるかということではありません。
 先ほどお話ししましたように、「」の子孫と「女の子孫」には意味の層があり、その最も表層的な意味は、「」の子孫は蛇一般を表し、「女の子孫」は人類一般を表しているということですが、3章15節に記されている神である「」のみことばにおいては、このこと自体が意味をもっているのではありません。それで、今問題としているのは、このような最も表層的な意味における「」の子孫と「女の子孫」がだれであるかということではありません。
 ここに記されている神である「」の「」に対するさばきの宣告においては、この「女の子孫」の「」は、神である「」のみこころによって、それゆえに一方的な恵みによって、「」にたいする「敵意」をもって、霊的な戦いを戦うようになる「」としてのエバのことです。
 これらのことから、「」の子孫と「女の子孫」について、もう一つのことが分かります。それは、「」の子孫であるか、「女の子孫」であるかを決定する規準、指標は、その人の「」(の背後にある存在であるサタン)との関係や「」との関係というよりは、霊的な戦いにおける神である「」との関係のあり方にあるということです。「」の背後にある存在であるサタンは、初めから神である「」に対して罪を犯し、神である「」に敵対している存在です。このことが根本にあります。そして、「」の子孫はサタンと同じように神である「」に対して罪を犯して、霊的な戦いにおいて、神である「」に敵対している状態にあります。その意味で、サタンと罪によって一つとなってしまっています。これに対して、「」はサタンと同じように神である「」に対して罪を犯して神である「」に敵対している状態にありましたが、神である「」の一方的な恵みによって、霊的な戦いにおいて、神である「」の側に立つものとされています。「女の子孫」も、この点で、「」と同じ状態にあります。ですから、「」の子孫であるか、「女の子孫」であるかを最終的に決定しているのは、霊的な戦いにおける神である「」との関係のあり方にあります。


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