黙示録講解

(第292回)


説教日:2017年5月21日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(45)


 先主日には、春の特別集会をいたしましたので、黙示録からのお話はお休みしました。本主日は、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話に戻ります。
 今お話ししているのは、この語りかけにおいてイエス・キリストが、ご自身のことを「神の子」として示しておられることと関連して、ヘブル人への手紙1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。

と記されていることについてです。
 まず、これまでお話ししたことで、今日お話しすることとかかわっていることをまとめておきます。
 まず、古い契約の下での「相続者」と相続財産に関わる契約は、「」がアブラハムに与えてくださったアブラハム契約です。そして、アブラハム契約の根底には、創世記12節3節に記されている、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という「」がアブラハムを召してくださったときに与えてくださった約束があります。それは、「地上のすべての民族」の中から、アブラハム契約の祝福にあずかるアブラハムの霊的な子孫がで出てくるということを意味しています。また、アブラハム契約の祝福の核心は、「」ご自身がアブラハムとアブラハムの霊的な子孫の神となってくださり、アブラハムとアブラハムの霊的な子孫が「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛の交わりに生きるようになることにあります。そして、このことは、アブラハムの霊的な子孫の相続財産は「」ご自身であるということを意味しています。
 このアブラハム契約の祝福の約束は、最終的には、創世記22章18節に記されている、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という「」がアブラハムに与えてくださった約束に示されているように、アブラハムの子孫によって実現します。
 このような、アブラハム契約の祝福を背景として、ヘブル人への手紙1章2節後半において、

 神は、御子を万物の相続者とし[ました]

ということが記されています。ここでは、これに続いて、

 また御子によって世界を造られました。

と記されています。この場合の「世界」は、基本的に、「時代」を意味することば(アイオーネス[アイオーンの複数形])で表されています。このことばは、「時代」とともに空間的な面をも表しますが、その力点は歴史的な側面にあります(EDNT, p.46)。
 前回お話ししたように、これは、御子は創造の御業を遂行された方として、歴史的な「世界」の主であり、「万物の」究極の所有者であるけれども、神さまはその「御子を万物の相続者とした」と言われていると考えられます。神さまが「万物の相続者」に任命した「御子」は、なんと、創造の御業を遂行された方であり、「万物の」究極の所有者であるということでしょうか。
 これは、御子が創世記22章18節において約束されている、アブラハム契約の祝福を「地のすべての国々」にもたらすアブラハムの子孫として来てくださったということとかかわっています。神さまが御子を「万物の相続者」に任命したことは、贖いの御業の一環としてなされたことで、それによって、「地のすべての国々」の民の中から出てくるアブラハムの霊的な子孫たちが、御子イエス・キリストとの「共同相続人」となっていること(ローマ人への手紙8章17節)へとつながっています。


 ヘブル人への手紙1章2節後半で、神さまが、

 御子を万物の相続者とし[ました]

と言われていることには、もう一つの、また、より究極的な背景があります。それが、より究極の背景であるのは、アブラハム契約の祝福は、そのより究極の背景となっていることを回復し、実現するものであるからです。
 そのより究極の背景となっていることとは、創世記1章26節ー28節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されている神さまが創造の御業において示されたみこころです。
 神さまは創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになり、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を与えられました。
 創世記1章26節ー28節に記されていることからは、神のかたちとして造られている人に委ねられたのは、この「」と「」にあるすべてのものであるように思われます。しかし、詩篇8篇5節ー6節には、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。
 詩篇8篇は、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも、歴史と文化を造る使命を委ねられているものであることには変わりがないことを示しています。歴史と文化を造る使命は、人が神である「」に対して罪を犯して堕落したことによって取り消されたのではないのです。
 そして、この詩篇8篇5節ー6節は、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命は「万物」を支配する使命であったことを示しています。
 そのことは、このことを踏まえて創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事を読むことによっても推測することができます。
 創造の御業の記事は、その記事全体を要約する見出しに当たる1章1節において、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。この場合の「天と地」はヘブル語の慣用句で、この秩序立てられて調和の中にある世界に存在するすべてのものを表しています。それで、このことばには宇宙大の視野の広がりがあります。それに続く2節には、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。これによって、2節以下の記事は「」に焦点が合わされています。しかも、この記事はあたかも「」にある者が神さまの創造の御業を見ているかのように記しています。それは、この記事が後に、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられるようになる人への啓示として記されているからです。人はこの記事から、自分たちの住んでいるこの世界のことを、あたかも、神さまの創造の御業を見ていた者であるかのように知ることができるのです。
 神さまはおよそこの世界に存在するすべてのものをお造りになった方です。その神さまが、初めから、特別な意味でこの「」にご臨在してくださっていました。この「」は、初めから、神さまの御臨在の場として聖別されていたのです。それで神さまは、その御臨在の御許から発せられる一連のみことば(「創造のみことば」)によって、この「」を「人の住みか」(イザヤ書45章18節)に形造られるに当たって、この「」を神さまの御臨在に伴う豊かさに満ちた世界とされたのです。
 そのようなことを記している、創造の御業の記事においては、14節ー15節に、

神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。

と記されているように、太陽、月、星などの天体も「」との関係において、特に、人や生き物たちの営みに関連して果たす役割を負うものとして造られていることが示されています。それで、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人の目は、神さまがこのような意味をもったものとして造られた宇宙空間にまで及ぶようになっています。
 この宇宙は観測できる範囲だけでも、137億光年の彼方に広がっていますが、実際の広がりは470億光年であると言われています。宇宙がそのように広大であるとしても、宇宙は自分が何ものであるかを知りません。宇宙の存在と意味を造り主である神さまとのかかわりで理解し、告白し、神さまの御名を讃えるのは、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。その意味で、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命は神さまがお造りになったすべてのもの、すなわち「万物」にかかわっています。
 前回お話ししましたように、神のかたちとして造られている人は、この意味で、創造の御業において「万物の相続者」として立てられていたのです。
 神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、神のかたちとして造られている人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。神さまの本質的な特性は愛であり、神のかたちの本質的な特性も愛です。神さまが人を愛を本質的な特性とする神のかたちとして造られたのは、人をご自身に向けて、ご自身との愛の交わりに生きる者としてお造りになったということを意味しています。そして、神さまが創造の御業の初めからこの「」にご臨在されて、「」をご自身の御臨在に伴う豊かさに満ちたところとして形造られ、それを「人の住みか」としてくださったのも、人が常にご自身の御臨在に触れて、ご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださるためでした。
 歴史と文化を造る使命は、神のかたちとして造られた人が、この「」にご臨在される神である「」を神として礼拝することを中心とした「」との愛の交わりに生きることの中で果たされるものです。このことを欠いては、神である「」のみこころに沿って歴史と文化を造る使命が果たされることはありません。神のかたちとして造られている人が、神である「」を愛し、神として礼拝することを中心として、歴史と文化を造ることによって、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光がより豊かに現されるようになります。これが、創造の御業おいて人を神のかたちとしてお造りになり、その人に歴史と文化を造る使命を委ねられた神さまのみこころでした。
 この意味で、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神である「」ご自身を相続財産としていただいていることの祝福を経験するようになっていたのです。

 けれども、このような神である「」のみこころが実現することを阻止しようとして働いているものがありました。
 優れた御使いとして造られたのに、自らが神のようになろうとする罪を犯して堕落してしまったと考えられるサタンは、常に、神さまに逆らうことを目的とし、動機として生きています。そのようなサタンとその主権の下にある悪霊たちの堕落を「絶対的堕落」といいます。
 ちなみに、サタンの堕落のことを直接的に示しているみことばはありません。ただ、イザヤ書14章12節ー15節に記されているバビロンの王の高ぶりの描写や、エゼキエル書28章11節ー17節に記されているツロの王の高ぶりの描写が、単なる人を越えた存在の高ぶりを映し出す表象によって示されていることから推察できます。
 サタンはどのように優れた御使いとして造られていたとしても、一介の被造物でしかありません。あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主である神さまとは、絶対的に区別されます。また、サタンは神である「」に造られたものであるばかりでなく、神である「」よって支えられて存在しています。
 そのようなものであるサタンは、神である「」と直接的に戦うことはできません。それで、サタンがしようとしたのは、創造の御業において、神のかたちとして造られている人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されているみこころの実現を阻止することでした。そのために、人が神である「」に背いて罪を犯し、神である「」を愛し、神として礼拝することを中心とした歴史と文化を造ることがないようにしようとしたのです。
 サタンは、すでに、「」を誘惑するようになる前に、神である「」に対して罪を犯して、神である「」に敵対している状態にありました。それで、サタンは「」を誘惑する前に、すでに、神である「」のさばきに服すべきものでした。そのサタンは神である「」への恐れをもって慎んだのではなく、「」を誘惑して罪に陥れ、さらに、彼女をとおして人を罪に陥れました。それは、ただ単に、人をも、自らの罪に巻き込み、滅びの道連れにするだけでなく、神のかたちとして造られ、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人を、神である「」に背かせて、神である「」のご計画の実現を阻止しようとするものでした。これによってサタンは、神である「」への反逆を増し加え、さらにのろいを積み上げることになりました。
 このようにして、サタンは、神である「」が神のかたちとして造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命をめぐって、神である「」との霊的な戦いを展開しています。
 そして、このサタンの企ては成功しました。サタンの思惑どおりにはなったのです。神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である「」に背いて罪を犯し、御前に堕落してしまったのです。それによって、人は神である「」を神として礼拝することはなくなってしまいました。むしろ、人は罪の自己中心性に縛られてしまい、自らを神としようとするサタンと一つに結ばれてしまいました。それは、罪によるサタンとの一体性です。それで、サタンは神である「」との霊的な戦いに勝利したと思われたのです。
 このこととのかかわりで、神である「」に対し罪を犯して、御前に堕落してしまった人とその妻の状態について記しているみことばを見てみましょう。
 創世記3章6節ー7節には、

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

と記されています。
 エバは「蛇」の背後にあって働いていたサタンの誘惑に欺かれて、善悪の知識の木から取って食べてしまい、神である「」に対して罪を犯してしまいました。その後、エバは、それまで「蛇」が負っていた役割を果たして、夫が神である「」に対して罪を犯かすように誘っています。そこに、罪の自覚や良心の痛みの影もありません。このことは、人は罪を犯したので罪を自覚するようになるのではないことを示しています。また、このことは、善悪の知識の木に人の目を開く力があって、人に罪を自覚させるのではないことも示しています。
 ここでは、夫であるアダムが神である「」の戒めに背いて罪を犯した後に、二人が、同時に、自分たちが罪を犯したことを自覚するようになったことが記されています。二人が罪を犯したことを自覚できたのは、神である「」が、今日のことばで言うと、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、二人の目を開いてくださったからである、つまり、二人の良心が働くようになったからであるということを示しています。
 このように、神である「」が二人の目を開いてくださったのですが、二人は、ある種のこっけいさを感じさせることですが、「いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを」造って、お互いに対して自分の内側にある罪の真相を隠そうとしただけでした。
 ちなみに、絶対的に堕落しているサタンや悪霊たちは良心のとがめを感じながら、神である「」に逆らっているのではありません。また、人のように、造り主である神さまの存在を否定しながら、結果的に神さまに背いているのでもありません。ヤコブの手紙2章19節に、

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

と記されているように、サタンや悪霊たちにとっては、神さまは恐ろしくて身震いするほどの現実なのです。けれども、彼らは神さまを恐れて、慎んだり、神さまのあわれみを求めることはありません。彼らはその神さまに常に背いて、神さまのみこころの実現をはばもうとして働いています。これが罪の暗やみの実体です。もし神さまが一般恩恵に基づく御霊のお働きによって人の目を開いてくださって、良心が働くようにしてくださっておられなかったら、人もこれと同じ状態になっていたことでしょう。
 創世記3章に戻りますが、続く8節ー10節には、

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神であるは、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

と記されています。
 二人が作った腰の覆いは、神である「」に対してはまったく通用しませんでした。神である「」の御臨在に接した二人は、自分たちの存在自体を隠そうとしたのです。
 さらに続く11節節ー13節には、

すると、[神であるは]仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神であるは女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

と記されています。
 ここには、二人が神である「」に対して罪を認めて、悔い改めることをしなかったし、できなかったことが記されています。二人は、自分たちは被害者であると主張しています。被害者は悪くないのです。自らの罪の暗やみに閉ざされていた二人としては、「事実」を言っているだけだと思っていたことでしょう。罪を犯した人は、自分の力で、罪を悔い改めることはできません。
 これを霊的な戦いという観点から見ますと、罪を犯した人は、自分の力でサタンとの一体性の絆を断ち切って、神である「」の許に帰ってくることはできないということです。罪を犯した人は暗やみの主権者の主権の下に閉じ込められてしまっています。エペソ人への手紙2章1節ー2節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と記されているとおりです。また、その暗やみの主権の下からの解放は、神である「」が約束してくださった贖い主のお働きによることです。コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されているとおりです。
 神である「」は、まず、罪を犯した人が自分の力でサタンとの一体性の絆を断ち切って、ご自身の許に帰ってくることはできないということをはっきりさせました。それは、「」がそのことを分からなかったからではなく、人のためです。人とその妻は、後ほど、「最初の福音」の約束を信じて救われるようになりますが、救われた後で自分たちのことを振り返ってみると、自分たちの力で罪を悔い改めて神である「」の許に立ち返ることはできなかったことを悟るようになりますし、自分たちが救われて「」の民となったのは、ただ「」の一方的な恵みによっているということを悟るようになったはずです。

 神である「」は、罪を犯した人が自分の力でサタンとの一体性の絆を断ち切って、ご自身の許に帰ってくることはできないということをはっきりさせた後で、さばきの宣告をされました。
 まず、「」のは以後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣告がなされました。
 14節には、

 おまえが、こんな事をしたので、
 おまえは、あらゆる家畜、
 あらゆる野の獣よりものろわれる。
 おまえは、一生、腹ばいで歩き、
 ちりを食べなければならない。

という神である「」のみことばが記されています。
 今お話ししていることとかかわっていることの要点だけをお話ししますと、14節で、

 おまえは、一生、腹ばいで歩き、
 ちりを食べなければならない。

と言われていることは、この時まで「」は腹ばいではなかったということではありません。神さまは創造の御業において這う生き物たちをお造りになりました。それで、這う生き物たちが這うこと自体はのろいの現れではありません。ここでのポイントは、

 おまえは・・・ちりを食べなければならない。

ということの方にあります。これは蛇の食べ物のことを言っているのではありません。蛇は小さな生き物を食べます。「ちりを食べる」ということは慣用表現で、敗北を喫すること、日本語で言う「土がつく」ということを表しています。その用例は、この他、新改訳欄外引証にある、イザヤ書65章25節、ミカ書7章17節などに見られます。これによって神である「」は、「蛇」の背後にあって働いているサタンに、サタンは霊的な戦いにおいて敗北するということを宣告しておられます。
 言うまでもなく、これはサタンにとっては思ってもみなかったことです。どう見ても、神さまが神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命にかかわるみこころの実現は阻止されたとしか思われません。
 ですから、神である「」が、

 おまえが、こんな事をしたので

と仰ったとき、サタンは「恐れいったか」と言わんばかりの思いをもって、秘かにほくそ笑んでいたはずです。しかし、神である「」はサタンは霊的な戦いにおいて敗北すると宣言されました。
 そして、続く15節において、神である「」は、サタンの霊的な戦いにおける敗北がどのように実現するかを明らかにしておられます。そこには、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である「」のさばきの宣言が記されています。
 神である「」は、まず、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

と言われました。
 神である「」は、サタンと、罪によってサタンと一つとなってしまっている「」すなわちエバと間に「敵意」を置くと言われました。ここでは、この「敵意」ということば(エーバー)が最初に出てきて強調されています。この「敵意」ということばは、この他には、民数記35章21節ー22節、エゼキエル書25章15節、35章5節に出てきますが、これらの個所においては、この「敵意」は相手を殺し、滅ぼしてしまうことにつながるものであることを示しています。それで、これは単なる敵意という、内に秘めた思いより強いもので、相手を滅びへと至らせてしまうほどのものです。
 ここではさらに、この「敵意」がサタンと「」の間においてだけでなく、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に

と言われているように、この「敵意」がそれぞれの子孫の間にまで及ぶと言われています。
 このような「敵意」の強さと持続性は人から出るものではありません。ここでは、この「敵意」ということばに続いて、「わたしは置く」(アーシート)ということばが出てきます。「敵意を、わたしは置く」という形です。この「敵意」は人から出るものではなく、神である「」が置いてくださるものです。先ほどお話ししましたように、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった最初の人とその妻は、さらには、その子孫たちは、自分の力で罪を悔い改め、サタンとの一体性の絆を断ち切って、神である「」に立ち返ることはできません。
 最初の人とその妻がこのような状況にあった時に、神である「」が、サタンと「」の間に「敵意」を置いてくださって、その一体性の絆を断ち切ってくださるというのです。しかも、それは、サタンと「」の間のことで終わるのではなく、サタンの霊的な子孫と「女の子孫」の間にまで及ぶというのです。このすべては神である「」が、その一方的な恵みによってなしてくださることです。
 ここでは、神である「」が、サタンと「」の間に、互いに相手を滅ぼしてしまうようになるほどの強い「敵意」を置かれると言われました。これは、サタンか「」のどちらかが、今ある罪とそれがもたらす暗やみの中にあって、神である「」に敵対している状態から、それと相容れない状態にあるようになるということです。この場合は、このことが、サタンに対するさばきの宣告として語られているので、サタンではなく、「」の方が暗やみの状態、神である「」に敵対している状態から、それとは相容れない状態にある者に変えられるということを意味しています。
 このようにして、サタンに告げられたさばきの宣告において、神である「」は、直ちにサタンを滅ぼすと宣言されたのではなく、ご自身が「」とサタンの間に、お互いを滅びに至らせようとするほどに強い「敵意」を置かれると言われました。これによって、もともと神である「」に敵対して働いているサタンに対して、「」が「敵意」をもって立ち向かうようになるというのです。
 これは、霊的な戦いにおいて「」が神である「」の側に立つようになるということを意味しています。このことは「」だけではなく、「女の子孫」にも当てはまります。このことに、「」と「女の子孫」が救われるようになることが示されています。しかも、それは神である「」が、その一方的な恵みによってなしてくださることです。それで、この神である「」のサタンとその霊的な子孫に対するさばきの宣言は「最初の福音」と呼ばれます。
 「最初の福音」について、また、「最初の福音」と御子が「万物の相続者」であることとのかかわりについては、さらにお話を続けます。


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