イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
この語りかけにおいてイエス・キリストは、まず、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。この場合の「神の子」は、旧約聖書のサムエル記第二・7章、特に、12節ー16節に記されていることですが、「主」がダビデに与えてくださった契約において約束してくださったダビデの子として、永遠の王座に着座して、治めるメシアであることを意味しています。
今お話ししているのは、これと関連していることで、ヘブル人への手紙1章2節後半において、
神は、御子を万物の相続者とし・・・ました。
と記されていることについてです。
これまで、古い契約の下での「相続者」と相続財産に関わる契約は、「主」がアブラハムに与えてくださったアブラハム契約であるということをお話ししました。
アブラハム契約の祝福の核心にあるのは、「主」ご自身がアブラハムとアブラハムの霊的な子孫の神となってくださり、アブラハムとアブラハムの霊的な子孫が「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きるようになることです。このことは、アブラハムの霊的な子孫の相続財産は「主」ご自身であるということを意味しています。
そして、アブラハム契約においては、この核心にあることと関連して、カナンの地がアブラハムとアブラハムの子孫に与えられると約束されていました。この約束の地としての「カナン」は、アブラハムとアブラハムの霊的な子孫が「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きるようになることが具体的に実現する所としての意味をもっています。聖書においては、そのような意味をもっている約束の地としての「カナン」も、アブラハム契約における相続財産とされています。ただし、それは、あくまでも、アブラハムの霊的な子孫の相続財産は「主」ご自身であるということとの関わりにおいてのことであって、そこで「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きるようになることがないなら、いくらその地が「父と蜜の流れる地」と言われる豊かな地であったとしても、「主」がアブラハムの霊的な子孫に与えてくださる相続財産としての意味を失ってしまいます。
古い契約の下で、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民に与えられた地上のカナンの地は、イエス・キリストが十字架の上で流された血による新しい契約に基づいて実現する「本体」を指し示す「地上的なひな型」、いわば、視聴覚教材でした。その「本体」は、最終的には、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業に基づいて再創造される、新しい天と新しい地において実現します。
アブラハムとアブラハムの霊的な子孫が「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きるようになることには、二つの大きな問題があります。これについては、この数回にわたってお話ししてきたことですが、補足も加えつつ、まとめておきます。
第一の問題は、存在論的な問題で、アブラハム契約の祝福に限らず、神さまと神のかたちとして造られている人との愛の交わりの根本にある問題です。それは、神さまはあらゆる点において無限の栄光の主であり、人はあらゆる点において有限な被造物であるということから来る問題です。最初に造られて罪がなかった状態の人でも、最も聖い御使いでも、無限の栄光の主である神さまを直接的に見ることも、知ることもできません。470億光年の彼方に広がっていると言われている壮大な宇宙であっても、神さまの無限の栄光に触れるようなことがあれば、一瞬のうちに、焼け溶けてしまいます。
この問題に対しては、三位一体の御子が、人間的な言い方になりますが、無限に身を低くされ、その無限の栄光を隠して、この世界に関わってくださる役割を負ってくださっているということをお話ししました。それで、創造の御業を遂行されたのも、造られたすべてのものを保ってくださっているのも、御子です。ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節前半に、
神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
と記されているとおりです。
御子は、創造の御業において、御霊によって、この「地」にご臨在され、「地」をご自身の御臨在に伴う豊かさに満ちた「人の住みか」(イザヤ書45章18節)として形造られました。また、神である「主」は、エデンの園をご自身の特別な意味での御臨在の場所として聖別し、その御臨在に伴う豊かさと潤いに満ちている所とされました。「主」は、そこに神のかたちとしてお造りになった人を置いてくださり、ご自身の御臨在の御前に立たせてくださり、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださいました。
その意味で、エデンの園における人と「主」との愛の交わりは、アブラハム契約の祝福の核心にある、アブラハムとアブラハムの霊的な子孫が「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きるようになることの「原型」です。また、エデンの園は、アブラハム契約において約束されていた、約束の地カナンの「原型」であると考えることができます。実際、黙示録では、21章には、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地のことが記されています。そして、続く22章1節ー4節には、
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
と記されています。新しい天と新しい地における祝福が、エデンの園の表象によって、しかも、最初のエデンの園の祝福より、はるかに優る祝福に満ちているものとして示されています。エデンの園においては、その中央にいのちの木が一本ありましたが、新しい天と新しい地における新しいエルサレムには、「いのちの水の川」の両岸にいのちの木があります。
アブラハムとアブラハムの霊的な子孫が「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きるようになることにかかわる第二の問題は、倫理的な問題で、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって生じた問題です。人は神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、無限に身を低くし、その無限の栄光を隠してエデンの園にご臨在しておられた「主」の御前にさえも立つことはできないものとなってしまいました。
そればかりでなく、人の罪は、基本的に、無限の栄光の主である神さまに対する罪で、その重さは無限です。それで、その罪を償うためには無限の償いがなされなければなりません。言い換えますと、人の罪を贖うためには、無限の贖いの代価が支払われなければならないのです。
「主」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福の核心は、アブラハムとアブラハムの霊的な子孫が「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きるようになることにあります。そして、この祝福を実現してくださるのは「主」です。「主」がこの祝福の約束を実現してくださるためには、アブラハムとアブラハムの霊的な子孫の罪が贖われなければなりません。そして、そのためには無限の贖いの代価が支払われなければなりません。
この問題に対しても、無限の栄光の主である御子が、さらに身を低くして、神のかたちとして造られている人としての性質を取って来てくださいました。そして、私たちご自身の民の身代わりとなって、十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。ピリピ人への手紙2章6節ー8節に、
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
と記されており、マルコの福音書10章45節において、イエス・キリストご自身が、
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
とあかししておられるとおりです。
また、コリント人への手紙第二・5章21節には、
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
と記されています。
少し注釈をしておきましょう。
「罪を知らない方」とは人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストのことです。「罪を知らない」と言われているときの「知る」ということは、ヘブル的な意味におけることことで、実際に経験して知ることを意味しています。イエス・キリストが「罪を知らない方」であったということは、イエス・キリストが心のうちの思いにおいても、行いにおいても、罪を犯した経験がなかったということを意味しています。そして、それは、
神は、罪を知らない方を
と言われていることによって、ただイエス・キリストがご自身のことをそう思っていただけだということではなく、「神」すなわち父なる神さまが認めておられたということを意味しています。
父なる神さまはこの方を「私たちの代わりに罪とされました」。この「私たちの代わりに」(ヒュペル・ヘーモーン)は「私たちのために」とも訳すことができますが、どちらでも意味が通ります。
また、「罪とされました」ということについては、(1)神さまはイエス・キリストを罪を犯した人のように取り扱われたということを意味している。(2)神さまはイエス・キリストを、私たちの罪を負った方として取り扱われたということを意味している。(3)神さまはイエス・キリストを罪そのものとして取り扱われたということを意味している、ということなど、いくつかの理解の仕方があります。どのような理解の仕方においても、父なる神さまが、私たちの罪に対する聖なる御怒りによる刑罰を、イエス・キリストに対して執行されたということを伝えています。
また、
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
と言われているときの「神の義」は、神さまが与えてくださる義であり、法的に神さまとの本来の正しい関係にあることを意味しています。それは、「この方にあって」、すなわち、「私たちの代わりに罪とされた」イエス・キリストにあってのことであり、イエス・キリストを離れては、神さまとの関係は回復されることはありません。
少し前の18節に、
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ・・・てくださいました。
と記されているように、すべては父なる神さまが「キリストによって」なしてくださったことです。
アブラハム契約との関わりでは、ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節に、
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
と記されています。イエス・キリストが十字架にかけられて殺されたことは、旧約聖書の申命記21章22節ー23節に記されている、木につるして死刑を執行した場合には、死体をその日のうちに木から下ろして埋葬しなければならないという戒めの根底にある、
木につるされた者は、神にのろわれた者・・・である。
ということに当たります。ただし、イエス・キリストはご自身の罪のためではなく、私たちの罪のために「神にのろわれた者」となってくださいました。
ガラテヤ人への手紙3章14節では、
その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
と言われていますが、この「約束の御霊を受ける」ことについては4章4節ー7節に、
しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
と記されています。これを3章からの流れの中で見ますと、3章の終わりである29節に、
もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
と記されていて、4章1節から「相続人」のことが取り上げられています。それで、4節ー7節に記されていることは、アブラハム契約の祝福の約束が、イエス・キリストによって私たちの間で実現して、私たちが「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」によって、父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになっていることを意味しています。このことも、アブラハム契約の祝福としての相続財産の核心が「主」ご自身であることを反映しています。
復習としてのまとめが長くなってしまいましたが、お話を進めるために、改めて、ヘブル人への手紙1章2節後半に、
神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
と記されていることに注目したいと思います。
ここで注目したいのは、まず、神さまが、
御子を万物の相続者とし[ました]
ということが記され、続いて、
また御子によって世界を造られました
ということが記されています。ここでは、この二つのことの関係がどうなっているかが問題となっています。それは、後の方で、
また御子によって世界を造られました
と記されているときの、新改訳が「また」と訳している接続詞(カイ、英語のandに当たる)をどう理解するかにかかっています。
一般的には、新改訳のように、この接続詞(カイ)を「また」と訳して、神さまが「御子によって世界を造られ」たことが、神さまが「御子を万物の相続者とし」たことを説明していると理解されています。神さまが「御子を万物の相続者とした」のは、神さまが「御子によって世界を造られた」からであるということです。つまり、御子は創造の御業を遂行された方として「世界」の主であり、「万物の」究極の所有者です。それで、「万物の相続者」とされたというように理解するのです。
これに対して、この接続詞(カイ)を「しかし」、「しかるに」というように反意的に訳す理解の仕方があります。御子は創造の御業を遂行された方として「世界」の主であり、「万物の」究極の所有者です。それにもかかわらず、神さまは「御子を万物の相続者とした」というように理解するのです。
とても難しい判断ですが、私は後の方の、あまり一般的ではない理解の方がいいのではないかと考えています。というのは、ここで神さまが「御子を万物の相続者とした」と言われているのは、私たち「主」の契約の民がアブラハム契約の祝福の約束にあずかっている「相続者」であることと深くかかわっていると考えられるからです。もし、御子イエス・キリストが創造の御業を遂行されて、すでに、「万物」を所有しておられる方であるから「万物の相続者」でもあるということであれば、私たち「主」の契約の民は、創造の御業を遂行した者ではなく、「万物」の所有者ではないので、この意味での相続に関わることはできません。そうしますと、ここで、神さまが、
御子を万物の相続者とし[ました]
と言われていることは、ローマ人への手紙8章14節ー17節に、
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
と記されている中に出てくる、私たちが「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」であるということとは次元が違っているということになります。
しかし、これまでお話ししてきましたように、「相続人」に関する契約はアブラハム契約です。そして、アブラハムの子孫として来てくださった御子イエス・キリストこそが、まことの「相続人」です。しかし、そのことは、私たちアブラハムの霊的な子孫たちを「相続人」から除外するものではありません。むしろ、私たちを「神の相続人」、「キリストとの共同相続人」としてくださるためのものです。言い換えますと、神さまが御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命されたのは、神さまが御子イエス・キリストをとおして遂行される贖いの御業の一環であるのです。そして、それは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たち「主」の契約の民が罪と死の力から贖い出されて、神の子どもとされ、父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになることで終わるものではありません。さらに、「万物」が回復され、さらに、栄光ある状態に入れられるようになることへとつながっています。
このことは、先ほど触れましたように、アブラハムの血肉の子孫たちに与えられた地上のカナンの地が「地上的なひな型」として指し示していた「本体」が完全に実現するのは、終わりの日に再臨される御子イエス・キリストが、贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地においてであるということでもあります。
お話ししていることの大筋をつかむために、詳しい説明を省きますが、「万物」が回復され、さらに、栄光ある状態に入れられるようになることは、先ほど引用しましたローマ人への手紙8章14節ー17節に続く、18節ー23節に、
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
と記されています。
19節ー21節に、
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
と記されていることの背景には、創世記1章26節ー28節に、
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
と記されている神さまが創造の御業において示されたみこころがあります。神さまは人を神のかたちとしてお造りになり、ご自身がお造りになったものを支配する使命、歴史と文化を造る使命を与えられました。
創世記1章からは、神のかたちとして造られている人に委ねられたのは、この「地」と「地」にあるすべてのものであるように思われます。しかし、詩篇8篇5節ー6節には、
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
と記されています。
神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命は「万物」を支配する使命でした。実は、この意味で、神のかたちとして造られている人は創造の御業において「万物の相続者」として立てられていたのです。そして、日を改めてお話ししますが、このことが、ヘブル人への手紙1章2節後半において、
神は、御子を万物の相続者とし[ました]
と言われていることと関係しています。
話を戻しますと、この歴史と文化を造る使命において、神さまは神のかたちに造られた人を「万物」の「かしら」とされました。これによって、「万物」は神のかたちとして造られている人との一体にあるものとされました。
それで、神のかたちとして造られている人が、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時、人自身が罪ののろいに服しただけではありません。人との一体にある被造物も虚無に服することになりました。そのことは、罪を犯した最初の人に対する神である「主」のさばきの宣告を記している創世記3章17節に、
あなたが、妻の声に聞き従い、
食べてはならないと
わたしが命じておいた木から食べたので、
土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
と記されていることから汲み取ることができます。
そうであれば、神さまが「万物」の「かしら」としてお立てになった人が、父なる神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、神の子どもとして回復されるなら、「万物」も神の子どもたちとの一体において回復されるはずです。そのことが、先ほど引用しましたローマ人への手紙8章19節ー21節に、
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
と記されているのです。ですから、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、神さまとの愛の交わりに生きる神の子どもとしていただいていることは、そして、アブラハム契約の祝福にあずかって「相続者」としていただいていることは、「被造物」が回復され、「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」ことの第一歩であり、「被造物」が「切実な思いで」待ち望んでいることに応えることであるのです。
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