黙示録講解

(第290回)


説教日:2017年4月30日
聖書箇所:テアテラにある教会へのみことば(43)
説教題:ヨハネの黙示録2章18節ー29節


 イエス・キリストはテアテラにある教会に語られたみことばの冒頭において、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。これによって、ご自身がダビデ契約において約束されてている、まことのダビデの子として、「」が確立してくださった、永遠の王座に着座して治めているメシアであることを示しておられます。
 今は、このことと関連することとして、ヘブル人への手紙1章2節後半に、

 神は、御子を万物の相続者とし[ました。]

と記されていることについてお話ししています。
 ここでは、御子イエス・キリストが父なる神さまによって「相続者」として任命されたことと、「相続者」であるイエス・キリストが相続する相続財産は「万物」であることが示されています。
 このことには、「」の贖いの御業の歴史的な背景があります。それは、古い契約の下で契約の神である「」がアブラハムと結んでくださった契約であるアブラハム契約です。アブラハム契約の祝福の中心は、「」がアブラハムの霊的な子孫の神となってくださり、アブラハムの霊的な子孫が「」の民となることにあります。それは、アブラハムの霊的な子孫が受け継ぐ相続財産が「」ご自身であり、「」との愛の交わりに生きる祝福にあずかることにあるということを意味しています。
 そして、このことには、さらに、神さまの天地創造の御業が「原型」、「出発点」となっています。
 今日は、これらのことに関して、これまでお話ししたことを、いくつか補足したいと思います。
 ヨハネの福音書1章1節ー3節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 ここで「ことば」と呼ばれている方は、14節において、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われている方で、私たちご自身の民の罪を贖うために、罪は除いて、私たちと同じ人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストのことです。

 初めに、ことばがあった。

と言われているときの「初め」は、創世記1章1節に、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されている天地創造の「初め」です。ここヨハネの福音書1章1節では、その天地創造の「初め」を受けて、

 初めに、ことばがあった。

と言われています。この場合の「あった」は(未完了時制で表されていて)、「ことば」すなわち御子が天地創造の「初め」に、すでに、継続して存在しておられたことを示しています。ですから、御子は時間を超えた、永遠に存在しておられる方であり、まことの神です。1節の最後で、

 ことばは神であった。

と言われているとおりです。
 これまで特に注目してきたのは、1節で、

 ことばは神とともにあった。

と言われていることです。この場合の「神とともに」という言い方(プロス・トン・セオン)は、御子が「」すなわち父なる神さまの方を向いているという意味合いを伝えていて、父なる神さまとの愛の交わりにあったことを示しています。このことは大切なことなので、2節においても、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていていて、それが永遠の愛の交わりであること、そして、御子は父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにまったく充足しておられることが示されています。
 そして、3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 これによって、天地創造の御業を遂行されたのは、永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにあって、まったく充足しておられる御子であることが示されています。それはまた(三位一体論的には)、天地創造の御業は無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる神さまが、ご自身の愛をご自身の外に向けて現された御業であったということです。
 創世記1章26節ー28節には、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 神さまはその創造の御業にいおいて人を神のかたちとしてお造りになりました。神さまの本質的な特性は愛です。それで、神のかたちの本質的な特性も愛です。とはいえ、神さまの愛は無限、永遠、不変の愛であり、無限、永遠、不変の栄光に満ちた愛です。これに対して、神のかたちとして造られている人の愛は、被造物としての限界にある愛です。
 いずれにしても、人が神のかたちとして造られているということは、人が造り主である神さまとの愛の交わりに生きるものであることを示しています。永遠に無限の愛の交わりにあってまったく充足しておられる神さまが、創造の御業において、ご自身の愛を外に向けて現されましたが、その愛を受け止めて、自らの愛をもって応答する存在が、神のかたちとして造られている人です。
 これと調和して、聖書は、一貫して、神のかたちとして造られている人のいのちは、神さまとの愛の交わりに生きることにあると教えています。
 人が愛を本質的な特性とする神のかたちとして造られていて、造り主である神さまとの愛の交わりに生きるものであるということが、神のかたちとして造られている人の相続財産が神さまご自身であり、神さまとの愛の交わりに生きる祝福であるということを意味しています。神のかたちとして造られている人は、創造の御業の初めから、神さまの愛によって、このような祝福にあずかっていたのです。それで、これが先ほど触れましたように、アブラハム契約の祝福の約束の「原型」、「出発点」となっています。


 けれども、ここには、一つの問題があります。
 神さまはあらゆる点において(存在とすべての属性において)無限であり、永遠であり、不変の方です。それで、存在と属性の輝きである栄光も無限であり、永遠であり、不変です。無限、永遠、不変の栄光の主である神さまは、ご自身がお造りになったもの(被造物)とは絶対的に区別されます。
 ですから、テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節に、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

と記されているように、御使いであれ人であれ、いかなる被造物も、無限の栄光に満ちておられる神さまと直接的に向き合うこと、直接的な交わりをすることはできません。かすかなたとえですが、無限の栄光に満ちておられる神さまを、表面温度約6千度(中心部の温度約千5百万度)と言われる太陽にたとえるとしますと、被造物は、現代の宇宙論では4百7十億光年の彼方に広がっていると言われている宇宙全体さえも、紙切れにたとえられます。もし、神さまがその栄光をそのまま現されたとしたら、大宇宙も一瞬で焼け溶けてしまいます。
 そうしますと、神のかたちとして造られている人のいのち(の本質)が神さまとの愛の交わりにあるということはどういうことなのかという問題が生じます。そもそも、一介の被造物である人は、無限、永遠、不変の栄光の主である神さまを見ることも知ることもできないのですから、神さまとの交わり自体がありえないのではないかということです。
 これに対して、聖書は、まことの神にして、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子が無限に身を低くし、その無限、永遠、不変の栄光を隠して、創造の御業を遂行されたこと、そして、お造りになったものを真実に保ってくださっていることを示しています。コロサイ人への手紙1章15節ー17節に、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と記されているとおりです。
 三位一体の神さまの創造の御業と贖いの御業における役割分担において、御父は無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまを代表し、創造の御業と贖いの御業のご計画を立てる役割を負われました。御子は、その無限、永遠、不変の栄光を隠して、この世界、特に、神のかたちとして造られている人に関わってくださる役割を負っておられます。それで、御子が父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業と贖いの御業を遂行されました。また、造られたすべてのものを真実に保ってくださっているのも御子です。
 このように、創造の御業を遂行されたのは御子です。これは、父なる神さまが御子によって創造の御業を遂行されたということでもあります。それで、これまで繰り返し取り上げてきた、創世記1章2節に、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されている中に出てくる、「神の霊」(神の御霊)によって「」にご臨在し、その御臨在の御許から発せられた、

 光があれ。

から始まる一連の創造のみことばをもって、創造の御業を遂行しておられたのは御子です。また、2章7節に、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されている、「」にご臨在して人と向き合うようにして、人を形造って「その鼻にいのちの息を」吹き込んでくださった「神である」も御子のことです。

 さらに、ヨハネの福音書1章18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。
 被造物である人も御使いたちも、無限、永遠、不変の栄光の主である神さまを、直接的に、見ることも知ることもできません。しかし、御子イエス・キリストが、無限に身を低くされ、その栄光を隠してご自身を啓示してくださっています。人も御使いたちも、無限に身を低くされてご自身を現してくださっている御子を知ることによって、神さまがどのような方であるかを知ることができるのです。これは、造り主である神さまと神さまによって造られた被造物との絶対的な区別によることで、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによってそうなったのではありません。また、それで、このことは御使いたちにも当てはまります。
 御使いたちは、自分たちが神さまによって造られたものであることをわきまえています。最初に造られた状態にあった人も、そのわきまえをもっていました。このわきまえは、単なる知的な理解で終わることではなく、造り主である神さまの愛を受け止め、造り主である神さまを神として愛して、御前にひれ伏して、その無限、永遠、不変の栄光を讃えつつ、礼拝することに現れてきます。「造り主である神さまは被造物と絶対的に区別される方である」と、何百回告白したとしても、神さまを愛して、無限、永遠、不変の栄光の主として礼拝することがないとしたら、その告白は偽りです。
 イザヤ書6章1節ー4節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。
 ここでイザヤは、

 私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と述べています。それはイザヤが自分の意志でしたことではなく、「」が幻のうちに、イザヤをご自身の栄光の御臨在の御前に立たせたのです。この「」も、三位一体論的には、無限に身を低くされ、その栄光を隠してご自身を現してくださった御子のことです。
 ここに出てくる「セラフィム」(複数)は、「」の御臨在の御前に仕えている最も聖い御使いたちに属しています。そのような御使いたちでさえも、「」の栄光の御臨在の御前においては、顔を覆い、足を覆って、ひたすら、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満つ。

と叫んで「」を讃えています。そこにご臨在される「」の御前では、「セラフィム」であっても、ひたすら「」の栄光を讃えるほかはないのです。そうするほかはないと言っても、これは「」の御前で仕えている「セラフィム」にとっては、最もさいわいで、祝福に満ちたことであったはずです。
 神のかたちとして造られている人は、無限、永遠、不変の栄光の主である神さまを、直接的に、見ることも知ることもできませんし、直接的に神さまを礼拝することもできません。ただ、神のかたちとして造られた人を愛してくださって、無限に身を低くされ、無限、永遠、不変の栄光を隠して、ご自身を啓示してくださっている御子を知ることによって、神さまがどのような方であるかを知ることができます。また、その御子にあって、また御子によって、ご自身を現してくださっている父なる神さまを愛して、礼拝することができるのです。繰り返しになりますが、このことは、神さまが被造物と絶対的に区別される方であることによっていますので、先ほどの「セラフィム」のように、最も聖い御使いたちにも当てはまります。
 神さまが被造物と絶対的に区別されることが、神さまの聖さの根底にあります。神さまは被造物と絶対的に区別される方であるということが、神さまの聖さの本質です。それで、私たちや御使いたちが神さまを直接的に見ることや知ることができるとすることは、神さまと被造物との絶対的な区別を否定することで、神さまの聖さを冒すことです。また、造り主である神さまを愛して、神として礼拝しないことも、神さまと被造物との絶対的な区別を否定することで、神さまの聖さを冒すことです。さらに言いますと、私たちや御使いたちが、直接的に、神さまの御前に出でて、神さまを礼拝することができるとすることも、神さまの聖さを冒すことです。
 このようにいろいろな形がありますが、神さまの聖さを冒すことが罪の本質です。人は神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、造り主である神さまを神とすることはなくなりましたし、礼拝することもなくなってしまいました。
 このようにして、罪を犯した人は神さまの聖さを犯しています。そればかりではありません。人は罪を犯して、造り主である神さまの御前に堕落してしまっても、神のかたちとして造られており、神さまに向くものとして造られています。それで、どうしても「神」に当たるもの、自分たちの間尺に合う「神」(「偶像」[必ずしも、手で造った像とはかぎりません])を造り出してしまいますし、それを拝み、それに頼ってしまいます。そのようにして、神のかたちとして造られて、造り主である神さまを礼拝するものとして造られている人が、造り主である神さまの代わりに偶像の神を礼拝することによって、神さまの聖さを冒してしまっています。そして、すべての罪は無限、永遠、不変の栄光の主である神さまの聖さを冒すことですので、無限の重さをもっています。罪はすべて永遠の刑罰に値します。
 先ほどのイザヤ書6章では、引用しました1節ー4節に続く5節に、

 そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍のである王を、
 この目で見たのだから。」

と記されています。イザヤは罪に汚れている自分が「」の聖さを冒すものであり、直ちに、滅ぼされるほかないものであることを直感的に感じています。それは、まさに身の毛もよだつ恐怖を伴う経験であったはずで、あの「セラフィム」たちが経験している至福の状態と正反対のところにあります。これが高潔な人であったと考えられているイザヤの、「」の御臨在の御前における現実でした。それは、罪を犯して、神さまの聖さを冒している状態にあるすべての人の現実でもあります。

 そうであっても、神さまは創造の御業において現された愛のみこころを変えてしまわれたのではなく、私たちに対する愛をさらに深く豊かに示してくださいました。
 創造の御業においては、御子が限りなく身を低くされ、その無限、永遠、不変の栄光を隠して、神のかたちとして造られている人が住まう「」にご臨在してくださいました。それによって、御子が、また、御子にあって父なる神さまが、神のかたちとして造られている人をご自身との愛の交わりに生きることができるようにしてくださったのです。
 そのような祝福にあずかっていた人が、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。神さまの聖さを冒しているものとして、永遠の刑罰に値するものとなってしまいました。けれども、父なる神さまは、そのように、ご自身の聖さを冒してしまっている状態にある私たちのために、御子を贖い主として立ててくださいました。
 無限、永遠、不変の栄光の主である御子は、無限に身を低くされ、その栄光を隠して、この世界に関わってくださり、創造の御業を遂行され、お造りになったすべてのものを真実に保ってくださっています。その御子が、さらに身を低くして、私たちご自身の愛を退け、神さまの聖さを冒してしまっているもののために、贖いの御業を遂行してくださったのです。
 そのことが、最初の方で引用したヨハネの福音書1章14節に、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と記されています。この「ことば」は、1節ー2節で、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

とあかしされている方です。まことの神であられ、永遠に父なる神さまとの無限の愛の交わりのうちにあって、まったく充足しておられる御子です。18節では「父のふところにおられるひとり子の神」としてあかしされている方です。「父のふところにおられる」ということばも、「ひとり子」ということばも、父なる神さまの愛を一身に受けていることを表しています。
 この「ことば」なる方が、罪は除いて、私たちと同じ人としての性質を取って来てくださいました。それは、造り主である神に対して罪を犯して、造り主である神さまを神とすることなく、礼拝することもなかった私たち、それゆえに、神さまの聖さを冒しているものとして永遠の刑罰としての滅びに値するものとなってしまっていた私たちと一つとなってくださり、私たちの身代わりとなって、私たちが受けなければならない罪の刑罰を受けてくださるためでした。
 14節で、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われているときの「住まわれた」と訳されていることば(スケーノオー)は出エジプトの時代に、神である「」がイスラエルの民に与えてくださった幕屋(スケーネー、[ヘブル語・ミシュカーン])を背景としています。出エジプト記25章8節ー9節に、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と記されているように、幕屋は「」がイスラエルの民の間に住んでくださるための聖所として与えられました。その幕屋は「」の御臨在を表示し、その聖さを守っているケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。その前の部分である聖所には、毎日、祭司たちが入って仕えましたが、そのために、幕屋の前にある祭壇においていけにえがほふられました。、幕屋の奥の部分である至聖所には、契約の箱があり、その上蓋は「贖いのふた」と呼ばれました。「贖いのふた」の両端には蓋と一体に造り出されたケルビムがあり、その間に、神である「」の御臨在(を表示する雲の柱)がありました。しかし、「」がご臨在される幕屋はイスラエルの民の間にありましたが、「」の御臨在のある至聖所には、年に一度、贖罪の日(ヨーム・キップール、あるいは、ヨーム・ハキップリーム「大贖罪の日」)に大祭司がいけにえの血を携えて入ることができただけでした。この幕屋は、「」はご自身の民の間にご臨在してくださっているけれども、罪によって汚れた状態にあるものは、そのままでその御臨在の御前に近づくことはできないということと、「」の御臨在の御前に近づくためにはいけにえの血によって罪がきよめられていなければならないということが示されていました。
 けれども、動物の血が神のかたちとして造られている人の罪をきよめることはできません。これらはやがて「」ご自身が備えてくださる「本体」を指し示す「地上的なひな型」、視聴覚教材でした。その「本体」とは、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

とあかしされている、まことの神にして無限、永遠、不変の栄光の主であるのに、私たちと一つとなってくださるために人としての性質を取って来てくださった「ことば」、すなわち、御子イエス・キリストです。
 すでにお話ししましたように、神のかたちとして造られている人の罪は無限、永遠、不変の栄光の主である神さまに対する罪であり、神さまの聖さを冒すものです。それは無限の重さをもっていますので、無限の償いをもってしか贖うことができません。それで、まことの神にして無限、永遠、不変の栄光の主である御子イエス・キリストが、その人としての性質において、私たちの受けなければならない永遠の刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださったのです。これが、御子イエス・キリストの十字架の死の意味です。ヘブル人への手紙10章10節には、

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

と記されていますし、14節には、

 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。御子イエス・キリストはこれによって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちが再び、神である「」の御臨在の御前に近づき、「」との愛の交わりに生きることができるようにしてくださいました。これによって、私たちは「」ご自身を相続財産として受け継ぎ、「」との愛の交わりに生きるいのち、すなわち、永遠のいのちをもつものとしていただいています。
 これは、創造の御業において神さまの愛を私たちに現してくださった御子イエス・キリストが、造り主である神さまを神として礼拝することなく、神さまの聖さを冒している状態にあった私たちを、さらに深く豊かに愛してくださったからにほかなりません。そして、その御子イエス・キリストの贖いの御業をとおして、私たちに対する父なる神さまの愛が豊かに示されています。ローマ人への手紙5章8節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されています。


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