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説教日:2017年4月23日 |
このように、神のかたちとして造られている人は、その一方的な愛をもってこの「地」にご臨在してくださっている神である「主」との愛の交わりに生きるものとして造られています。この「主」との愛の交わりは、「主」がご臨在してくださっている「地」においてなされるものですが、これには、この「地」における交わりという地理的、空間的な面とともに、時間的、歴史的な面があります。それは、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったことによっています。 知恵と力において無限の神さまは、一瞬のうちに、完成した宇宙をお造りになることができます。けれども、創造の御業においては、この「地」を、まず、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあった という状態に造り出され、天地創造の6つの日に分けて、ご自身の御臨在に伴う豊かさ満ちた「人の住みか」として形造っていかれました。ですから、神さまの創造の御業自体が、神さまの永遠からのみこころによる目的を実現される歴史的な御業でした。歴史的であるということは、ただ変化していくということではなく、それによって意味や価値を生み出すことを意味しています。創造の御業においては造り主である神さまが永遠からご計画しておられる創造の御業の目的が実現する世界が創造されていくことを意味しています。 そして、このようにして創造された、神さまの御臨在の現れとしての意味をもつ豊かさに満ちたこの世界も、歴史的な世界として造られています。それで、この世界においては、さまざまな植物が芽生え、生長して、より豊かな実を結ぶようになりますし、生き物たちが生まれて、成長して、さらにふえ広がっていくようになります。それによっていつくしみに満ちた神さまの造り主としての栄光がより豊かに現されるようになります。 このことは、神のかたちとして造られている人にも当てはまります。人もほかの生き物たちと同じように、生まれて、成長して、さらにふえ広がっていきます。けれども、神のかたちとして造られている人の場合は、生き物たちの場合とは違う面があります。それは、神のかたちとして造られている人は、本来のあり方においては、一方的な愛をもってこの「地」にご臨在してくださっている神である「主」との愛の交わりに生きるものとして生まれてきます。それで、神のかたちとして造られている人として成長することは、基本的に、「主」との愛の交わりにおいて成長すること、「主」との愛の交わりが深くなっていくことを意味しています。それは、神のかたちとして造られている人が「主」の愛をより深く豊かに受け止めるようになり、「主」への愛をより深く豊かに現していくようになることを意味しています。それはまた、自分自身が、神のかたちとして成長していくこと、神のかたちの本質的な特性である愛において成長していくことを意味しています。 また、人は「主」との愛の交わりにおいて成長して、「主」の愛をより深く豊かに受け止め、「主」への愛をより深く豊かに現していくようになることによって、お互いの間の愛の交わりをも深く豊かなものとしていくことになります。それは、「主」の愛をより深く豊かに受け止め、「主」への愛をより深く豊かに現すようになることは、神のかたちとして成長すること、特に、神のかたちの本質的な特性である愛において成長することであるからです。 このことは、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになった神さまが人の心に記してくださった律法が愛の律法であることにも現れています。その律法は突き詰めていきますと、マタイの福音書22章37節ー39節に 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 と記されているイエス・キリストの教えによって要約されます。 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めに示されている神である「主」への愛と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ という第二の戒めに示されている隣人への愛は、一つのものの裏表の関係にあり、切り離しがたく結び合っています。 このことは、今引用しましたイエス・キリストの教えに示されていますが、そのほかの教えにも示されています。その代表的な教えはヨハネの手紙第一に記されています。記されている順序に従いますと、4章7節ー8節には、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 と記されています。そして、続く9節ー11節にも、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 と記されていますし、さらに続く12節には、 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 と記されています。これらの教えを受けていますが、少し後の、4章20節には、 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 と記されています。また、5章1節にも、 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。 と記されています。 これらのみことばは、イエス・キリストにある神さまの愛が、私たちのうちに、兄弟姉妹への愛を生み出すこと、また、その兄弟姉妹への愛があるところにおいて神さまの愛がまっとうされることを示しています。 これらの教えはイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦され、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている私たち主の契約の民に対する教えですが、イエス・キリストの贖いの御業によって、私たちの間に神のかたちとして造られている人の本来のあり方が回復されているということを意味しています。 最後に引用しました5章1節に記されている、 生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。 という教えを創造の御業におけることに当てはめますと、 神のかたちとして造ってくださった方を愛する者はだれでも、その方によって神のかたちとして造られた者をも愛します。 ということになるでしょう。これをさらに広げますと、 神のかたちとして造ってくださった方を愛する者はだれでも、その方によって造られたものをも愛します。 ということになるでしょう。 一方的な愛をもってこの「地」にご臨在してくださっている神である「主」との愛の交わりに生きる者は、「主」と「主」の民を愛するだけではありません。「主」がお造りになったものにも愛を現し、いつくしみの目を向けます。 私たちはこのようなことが根底にあることを踏まえて初めて、創世記1章28節に、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されている、神さまが神のかたちとして造られている人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命を理解することができます。 これは、造り主である神さまが神のかたちとして造られている人に、「地を従え」、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」する権威を委ねてくださったことを意味しています。このことから、キリスト教は人間がこの世界の支配者として君臨し、搾取することにお墨付きを与えているというようなことが言われることがあります。もしかすると、クリスチャンであってもそのような考え方の影響を受けている人々がいるかもしれません。 しかし、究極の権威者はこの世界のすべてのものを創造された神ご自身です。これまでお話ししてきたことから分かりますが、神さまの本質的な特性は愛です。創造の御業は神さまがご自身の愛を外に向けて現された御業です。そうであれば、神さまの権威は愛において働く権威です。実際、神さまはご自身がお造りになったすべてのものを支配しておられます。その神さまは、ご自身がお造りになったどのようなものをも搾取することはありません。むしろ、ご自身がお造りになったすべてのものを、それぞれの特質を生かしつつ、真実に支え続けてくださっています。これが、神さまの支配の現実です。 神さまの権威が愛において働く権威であることは、御子イエス・キリストにおいて、特に、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架におかかりになったことにおいて、明確に示されています。ヨハネの福音書10章18節には、 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。 と記されています。 ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節にも、 神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されています。ここには、御子が創造の御業を遂行された方であることが示されています。それで、御子は万物の支配者です。その御子が、 その力あるみことばによって万物を保っておられます とあかしされています。「万物」を搾取するように支配しているのではなく、「万物」を真実に支え続けてくださっているのです。さらに、御子については、 罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 とあかしされています。「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」たということは、至高の権威の座に着いてすべてのもの、特に、私たちご自身の民を支配しておられるということを意味しています。しかし、御子イエス・キリストは私たちを搾取するように支配してはおられません。むしろ、2章17節ー18節に、 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 と記されています。「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれ」た御子イエス・キリストは、そこで、「あわれみ深い、忠実な大祭司」として私たちご自身の民のために働いてくださっています。 このように、究極的な権威者として、すべてのものをお造りになり、すべてのものを所有し、支配しておられる神さまの権威は、愛にあって働く権威であり、ご自身の本質的な特性である愛を現す権威です。 そうであれば、神さまが天地創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命とともに与えてくださった支配権は、愛にあって働く権威であるはずです。実際、創世記2章15節には、 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。歴史と文化を造る使命とともに、 地を従えよ。 という命令を与えられている人がなしたことは、エデンの園を耕し、そこを守ったことでした。 これがどのようなことであったかについては、すでにお話ししましたので、それをまとめておきます。神である「主」の御臨在があるために豊かに潤っていたエデンの園においては、多様な植物がどんどん生い育つようになっていたことでしょう。植物には意思がありませんから、そこはさまざまな植物が入り乱れた状態になってしまいます。それで、歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、神さまがお造りになった多種多様な植物の特性を知り、それぞれがふさわしい所に生い育つように整理し、それぞれにふさわしく手入れをして、より豊かな実が結ばれるようにしたと考えられます。それによって、生き物たちのいのちが豊かに育まれるようになったと考えられます。 また、創世記2章20節には、 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。 と記されています。聖書においては「名をつけること」は権威を発揮することです。それによって、名をつけた人と、名をつけられた生き物たちの間に関係性が築かれています。 このことは、20節において、続いて、 しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。 と記されているように、「ふさわしい助け手」としての女性が造られるようになることとのかかわりでなされたことです。それで、 人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。 ということは、人が生き物たちと親しく触れ合ったけれども、「人には、ふさわしい助け手が見つからなかった」ということです。 また、「名」は、その名をもつものの特質を表します。この場合もそれに当たりますので、人はそれぞれの生き物と触れ合いながら、それをよく観察して、その特質を理解し、その特質を表示する名をつけたと考えられます。また、これによって、人は生き物たちをよく知るようになしましたし、それぞれの生き物たちががよりよい環境の中でいのちの営みをすることができるように、お世話をすることができるようになったと考えられます。そして、このことが、先ほど取り上げました、人がエデンの園を耕していたことと深くかかわっています。 このように、創造の御業において神さまが神のかたちとして造られている人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命において与えられた支配権は、愛にあって、また、愛とともに働く支配権であって、委ねられた「地」や生き物たちをいつくしみ、そのために労する権威です。 本来、このようなものであった支配権が、造り主である神さまから委ねられた「地」や生き物たち、さらには、同じく神のかたちとして造られている人の上に立って抑圧し、搾取したりするものとなってしまったのは、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後のことです。 そして、このような、自分が上に立って、その下にあるものを抑圧し搾取するという、罪によって腐敗した権威の根源をたどっていくと、暗やみの主権者であるサタンに行き着きます。 神のかたちとして造られた人は、一方的な愛をもってこの「地」にご臨在してくださっている神である「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛にある交わりに生きることの中で、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を現す歴史と文化を造り出すように召されています。 当然、神さまは人にこの使命を遂行するために必要なさまざまな能力を与えてくださっています。先ほどお話ししましたように、神さまは創造の御業においてこの世界をご自身がご臨在される世界としてお造りになりました。この世界は神さまの御臨在に伴い、神さまの御臨在を映し出す豊かさに満ちています。また、神さまがお造りになった「地」には、秘められている資源が豊かに埋蔵されています。「地」を治めるように召されている人は、それらにも働きかけて秘められているものを見出し、それを神さまのみこころにしたがって開発していきます。 このように、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、これらすべてに映し出されている造り主である神さまの愛といつくしみを汲み取りつつ、いっさいの栄光を神に帰する歴史と文化を造るように召されています。 この意味で、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神さまが創造の御業においてお造りになった、この歴史的な世界、特に、神である「主」がご臨在される「地」を「相続財産」として相続しています。そうであれば、この「地」を相続財産として相続することの核心にあるのは、一方的な愛をもってこの「地」にご臨在してくださっている神である「主」を神として礼拝することを中心として、「主」との愛にある交わりに生きるという祝福です。これは、「主」ご自身を相続財産として相続することにほかなりません。 これまでお話ししてきたこととの関連で、イエス・キリストが山上の説教で語られた祝福の一つが思い起こされます。マタイの福音書5章5節には、 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。 と記されています。 |
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