黙示録講解

(第288回)


説教日:2017年4月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(41)


 イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばの冒頭において、ご自身のことを「神の子」として示しておられることと関連するお話を続けます。
 今は、このことと関連することとして、ヘブル人への手紙1章2節後半に、

 神は、御子を万物の相続者とし[ました。]

と記されていることについてお話ししています。
 ここでは、御子イエス・キリストが父なる神さまによって「相続者」として任命されたことと、「相続者」であるイエス・キリストが相続する相続財産は「万物」であることが示されています。
 このことの歴史的な背景は、古い契約の下で「」がアブラハムと結んでくださった契約であるアブラハム契約です。アブラハム契約の祝福の中心は、「」がアブラハムの霊的な子孫の神となってくださり、アブラハムの霊的な子孫が「」の民となることにあります。それは、アブラハムの霊的な子孫が受け継ぐ相続財産が「」ご自身であり、「」との愛の交わりに生きる祝福にあずかることにあるということを意味しています。そして、創世記12章3節には、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、「」がアブラハムを召してくださったときに与えてくださった祝福の約束が記されています。「」はこの祝福の約束に基づいて、アブラハムと契約を結んでくださいました。ですから、アブラハム契約の祝福は「地上のすべての民族」の中からアブラハムの霊的な子孫が出てきて、「」が彼らの神となってくださり、彼らが「」との愛の交わりに生きる祝福にあずかるようになることを意味しています。
 これまで3週間にわたって、このような意味をもっているアブラハム契約の約束にとっては、神さまの天地創造の御業が「原型」となっているということをお話ししてきました。まず、今お話ししていることとかかわるいくつかのことをまとめながら補足しておきましょう。
 ヨハネの福音書1章1節ー2節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されています。ここでは、「ことば」が永遠に存在する神であられることと、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにあって、まったく充足しておられることが示されています。
  ヨハネの手紙第一・4章16節には、

 神は愛です。

と記されています。神さまの本質的な特質は「」です。神さまは永遠に存在しておられる方です。また、神さま以外に永遠に存在される方はありません。もし神さまがユダヤ教やイスラム教、さらには、今日の「ものみの塔」(エホバの証人)などにおいて主張されるように、一位一体の神であるとしたら、神さまは永遠においては、ご自身の愛を通わす相手がいないということになってしまいます。というのは、神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の方です。それで、神さまの愛は無限、永遠、不変です。その無限、永遠、不変の愛をそのまま受け止めることができる存在は、また、無限、永遠、不変の存在でなければならないからです。
 それで、もし神さまが一位一体の神であるとしますと、愛を本質的な特質としておられる神さまには、無限、永遠、不変の愛があるのに、その愛を完全に表現できないし、その愛を完全に受け止めて、同じ無限、永遠、不変の愛をもって愛してくれる相手もいないということになります。そうしますと、神さまは永遠に孤独な方であるということになってしまいます。
 これに対して、神さまは人や御使いたちをお造りになって、ご自身の愛を現しているから神さまは孤独ではないと主張されるかもしれません。けれども、人や御使いたちは被造物でしかありませんから、神さまの無限、永遠、不変の愛をそのまま受け止めることはできません。
 また、神さまが人や御使いたちをお造りになって初めて、ご自身の愛を現すことができるようになったというのであれば、神さまがご自身の本質的な特質である愛を現すためには、人や御使いが必要であったということになります。そうしますと、神さまにも欠けたところがあり、被造物によって満たされなければならないところがあるということになってしまいます。
 また、このことには、先週お話ししました神さまの聖さがかかわっています。神さまの聖さの根本には、造り主であり無限、永遠、不変の栄光の主である神さまが、神さまによって造られて、あらゆる点において有限な被造物とは絶対的に区別される方であるということがあります。テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節には、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と記されています。人も御使いたちも無限、永遠、不変の栄光の主である神さまと直接的に交わりをもつことはできませんし、愛を通わすことはできません。
 一つのことを注釈をしておきますと、ここで、

 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主

と言われていることは、神さまをこの歴史的な世界とのかかわりで理解したときに言えることです。それで、このことは、神さまがご自身のことを私たちに分かるように啓示してくださったものです。また、ここで、神さまが、

ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

と言われていることも、神さまが私たち人間とのかかわりで、ご自身のことを、私たちに分かるように啓示してくださっているものです。神さまがこのように、私たち人間に分かるようにご自身を啓示してくださっているので、そして、そのかぎりにおいて、私たちは神さまがこのような方であると知ることができるのです。
 「そのかぎりにおいて」ということは、神さまについては、私たちは、神さまがご自身のことを私たちに分かるように啓示してくださったことだけを知ることができるということです。決して、直接的に、すなわち、神さまと同じ立場に立って、神さまご自身のことを知ることができるのではありません。
 そして、ここに記されていることも含めて、神さまがご自身のことを私たちに分かるように啓示してくださっているのは、御子によってです。ヨハネの福音書1章18節に、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されているとおりです。
 ここで「父のふところにおられるひとり子の神」と言われているのは、御子イエス・キリストのことです。そして「父のふところにおられる」と言われていることは、御子イエス・キリストが父なる神さまの愛のうちにおられるということを意味しています。やはり、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりにあって充足しておられる御子が神さまがどのような方であるかを私たちに示してくださっています。このことからも、御子イエス・キリストをとおして啓示されているのは、基本的に、

 神は愛です。

ということであり、その神さまの愛であるということを汲み取ることができます。
 いずれにしましても、神さまが一位一体の神であるとしたら、神さまはご自身の本質的な特性である無限の愛を表現できないということになります。しかし、神さまは三位一体の神です。そして、ヨハネの福音書1章1節ー2節と18節に記されているように、御父と御子の間には永遠に愛の交わりがあります。それは、御父と御子の間に、御霊による無限、永遠、不変の愛の交わりがあるということ、あるいは、御父と御子と御霊の間に無限、永遠、不変の愛の交わりがあるということです。神さまはその無限、永遠、不変の愛のうちにあって、完全に充足しておられます。


 そして、ヨハネの福音書1章では、続く3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。これによって、天地創造の御業は「この方」すなわち父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる御子によって遂行されたということが示されています。これによって、天地創造の御業は神さまがご自身の愛をご自身の外に向けて現された御業であることが示されています。
 このことについても、神さまの聖さとのかかわりで、いろいろな機会にお話ししてきたことに触れておきましょう。それは、創造の御業が御子によって遂行されたということには、三位一体の御父、御子、御霊のお働きにおける「役割分担」がかかわっているということです。
 御父、御子、御霊のお働きにおいて、父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまを代表しておられます。これには二つのことがかかわっています。一つは、神さまの無限の栄光は父なる神さまにおいて現されているということです。それで、先ほど引用しましたテモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節に記されているように、私たちはその無限の栄光のうちにおられる父なる神さまを直接的に見ることはできません。もう一つは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまを代表しておられる父なる神さまは、永遠の前から、創造の御業と贖いの御業をご計画しておられるということです。
 御子はそのお働きにおいて、父なる神さまのみこころに従って、ご自身の無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、限りなく身を低くされ、この世界にかかわってくださいます。それで、御子が創造の御業と贖いの御業を遂行されました。その中には、御子が私たちに分かるように神さまを啓示してくださったことも含まれています。
 神さまの栄光は無限です。私たちの理解に合わせた言い方をしますが、それは、神さまの栄光は程度において無限であるし、範囲においても無限であるということです。神さまが一位一体の神であるとしたら、あるいは、実質的に同じことですが、父なる神さまが直接的に創造の御業を遂行されたとしたら、この世界は神さまによって造り出された瞬間に、神さまの無限の栄光に触れて、焼き尽くされてしまうことになってしまいます。それで、そのお働きにおいて、神さまを代表し、無限の栄光を現しておられる父なる神さまが、直接この世界を創造されたのではなく、無限に身を低くされてこの世界にかかわってくださる役割を担っておられる御子イエス・キリストが、創造の御業と贖いの御業を遂行されたのです。
 私はこのことを理解していなかった頃は、御子イエス・キリストが創造の御業を遂行されたとされているのは、キリスト教としてはイエス・キリストに何らかの立場を与えるためにそのように主張しているのではないだろうかと思ったものでした。しかし、神さまの栄光が無限であるのに、どうして宇宙が存在できるのだろうかという疑問を抱くようになって初めて、御子が創造の御業を遂行されたことにその疑問を解く鍵があったことに気がつきました。
 また、ヘブル人への手紙1章3節に、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されているように、御子は、ご自身がお造りになったすべてのものを「その力あるみことばによって」「保っておられます」。
 そして、御霊は、御子が遂行された創造の御業と贖いの御業を造られた一つ一つのもの、贖われた一人一人の人に適用してくださって、それぞれの特質を支え、導き、生かしてくださるお働きを担っておられます。
 とはいえ、これらのことは御父、御子、御霊のお働きの基本的な区別であって、御父、御子、御霊がそれぞれから独立してお働きになるということではありません。これには、三位一体の御父、御子、御霊のお働きの「一体性」という面もあります。具体的なことをいくつか取り上げてみましょう。
 父なる神さまは創造の御業と贖いの御業を永遠からご計画しておられます。しかし、それは御子と御霊のみこころと無関係にご計画されたということではありません。永遠に完全な愛の交わりのうちにある御父、御子、御霊はそれぞれのみこころにおいて完全に一致しています。ですから、父なる神さまのご計画は御子と御霊のみこころとも完全に一致しています。
 創造の御業は御子が遂行された御業ですが、それはまた、父なる神さまが御子によってなされた御業であると言うことができます。
 また、ご自身の民を罪から贖ってくださるために人となって来てくださったのは御子イエス・キリストですが、そのイエス・キリストが、ヨハネの福音書14章10節ー11節において、

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

とあかししておられます。また、それで、この10節ー11節の前の9節で、イエス・キリストはピリポに、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

と言っておられます。
 さらに、聖霊も、神の御霊としてお働きになりますし、御子の御霊としてもお働きになります。ローマ人への手紙8章14節ー15節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されています。これと実質的に同じことが、ガラテヤ人への手紙4章6節では、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されています。
 また、ガラテヤ人への手紙5章25節には、

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

と記されています。私たちが御霊によって導いていただいて歩むということは、父なる神さまの右の座に着座してご自身の民である私たちを治めてくださっている御子イエス・キリストが、私たちを御霊によって導いてくださっているということでもあります。

 このように、天地創造の御業は神さまがご自身の愛をご自身の外に向けて現された御業でした。そうであれば、神さまはご自身の愛を受け止めて、愛をもって応答する存在をお造りになったはずです。それが、創世記1章26節ー28節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されている、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人です。
 そのことは、先主日にお話ししましたように、創世記1章においては、植物と生き物たちはそれぞれの「種類にしたがって」造られたと言われています。これに対して、人は「種類にしたがって」造られたと言われているのではなく、「神のかたちとして」造られたと言われています。このことから、人は何よりもまず、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きるものであることを汲み取ることができます。
 このことは、また、創世記2章7節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されていることからも汲み取ることができます。
 ここでは「神である」が人を形造られたことが記されています。この「神である」(ヤハウェ・エローヒーム)という御名は、「」(ヤハウェ)は天地創造の御業を遂行された「」(エローヒーム)であるということを表しています。それで、これは、1章27節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されていることに焦点を当てて、それがどのようにしてなされたかを記しています。「神である」は最初に「」をお造りになったことが示されています。そして、「神である」がこの地にご臨在されて、人と親しく向き合うようにして人を形造り、「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」ことが示されています。
 これまでお話ししてきましたことに照らして言いますと、この地にご臨在して、親しく人と向き合うようにして人を形造られた「神である」とは御子のことです。これは、父なる神さまが御子にあって、また、御子によって、この地にご臨在して御業をなさったと言うこともできます。
 ここには、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。

 神であるは土地のちりで人を形造り

という部分では、「形造る」ということば(ヤーツァル)が、「」という目的語と、素材、材料を表す目的語とともに用いられていますが、その素材が「土地のちり」と言われています。「ちり」と訳されていることば(アーファル)は、乾いている細かい土を表します。この場合は、この素材と「形造る」ということばとの組み合せから、「神である」を「陶器師」になぞらえていると考えられます。ちなみに、「形造る」ということば(動詞)の分詞形(ヨーツエール)が「陶器師」を表します(歴代誌第一・4章23節、イザヤ書29章16節、30章14節、41章25節、49章5節、エレミヤ書18章2節、4節、6節、19章1節、11節、哀歌4章2節)。それで、この「土地のちり」は、「陶器師」が何かを形造るのにふさわしい土のことであると考えられます。
 ここで「陶器師」の表象が用いられていることには、二つほどの意味があります。一つは、「神である」はご自身のデザインにより、丹精を込めて人を形造られたということです。もう一つは、このように形造られた人は、「神である」の主権の下に置かれており、その目的に合うように形造られているということです。
 このことともに、ここでは、

 神であるは・・・その鼻にいのちの息を吹き込まれた。

と言われています。ここには「いのちの息」が出てきます。ノアの時代に大洪水によるさばきをが執行されたときのことを記している7章22節には、

 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

と記されています。ここ7章22節に出てくる「いのちの息」(ニシュマト・ルーァハ・ハイィーム)は2章7節に出てくる「いのちの息」(ニシュマト・ハイィーム)と同じものを指していると考えられます。また、7章22節で「いのちの息を吹き込まれたもの」と訳されている部分は、文字通りには「その鼻にいのちの息のあるもの」で、「吹き込む」ということばはありません。「その鼻にいのちの息のあるもの」とは、この前後関係から、人をも含めたすべての生き物たちを指しています。ですから、人も生き物たちも「その鼻にいのちの息のあるもの」であるという点では同じです。けれども、生き物たちは初めから「その鼻にいのちの息のあるもの」として造られています。これに対して、神のかたちとして造られている人の場合は、2章7節で、「神である」が人と向き合うようにして「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」と言われています。このことからも、「神である」が人にどれほど心を注いでくださっていたかを汲み取ることができます。
 このように、私たちにとって、最も自然なことである呼吸することは、「神である」が人の「鼻にいのちの息を吹き込まれた」ことによって始まっています。このことから、私たちはこの私たちにとって最も自然なことにも「神である」がみこころを注いでくださっていることに思い至ります。私たちの呼吸は私たちのからだのメカニズムによって自動的に起こるものであると感じているかもしれません。確かに、私たちは呼吸することを意識もしないで、ほぼ自動的に呼吸をしています。しかし、「神である」は、そのようなことにまでみこころを注いでくださって、私たちのからだの機能を真実に支えてくださっています。
 このことは、「神である」の真実なお支えが私たちの最も自然なことである息をすることにさえも及んでいることを意味していますが、逆に言いますと、「神である」の真実なお支えがなければ、私たちは最も自然なことである息をすることさえもできないということを意味しています。
 イザヤ書2章22節には、

 鼻で息をする人間をたよりにするな。
 そんな者に、何の値うちがあろうか。

と記されています。これはこれに先立って記されていることから分かりますが、「神である」がさばきを執行されるときのことを述べています。
 ここで「鼻で息をする人間」と訳されたことばは、直訳調には「鼻に息がある人間」です。これは、今取り上げています創世記2章7節に記されていることが意識されていて、人は最も自然なことである呼吸をすることさえも、「神である」の真実なお支えによってなしているのであって、自分の力でなしているのではないことが踏まえられています。そして、このようなものである人間を頼みとすることの愚かさが示されています。
 創世記2章7節に、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されていることについて、もう一つのことに注目したいと思います。
 私たちが眠り込んでしまっていて、眠りから覚めたときに、私たちを見守るように見ていてくれた人がいたとしましょう。そのときに、私たちが最初に意識するのは、自分自身のことではなく、私たちを見ていてくださる人の方です。それと同じように、2章7節で、

 そこで人は生きものとなった。

と言われているとき、人が最初に意識したのは、自分と向き合うようにしてご臨在してくださっている「神である」であったはずです。
 このことからも、人は何よりもまず、「神である」との愛の交わりのうちに生きるものとして造られていることを汲み取ることができます。しかも、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されていることは、人が「神である」との愛の交わりのうちに生きることができるのは、人がそのようなものとして造られているからということだけでなく、というより、人がそのようなものとして造られているからということ以上に、「神である」が人ともにあるようにご臨在してくださって、人と親しく向き合ってくださっているからです。
 創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事においては、その焦点が「」に合わせられていて、この「」が初めから、造り主である神さまがご臨在される所として聖別されていることが示されていました。そして、「」は神さまの御臨在に伴う豊かさに満ちたものとして形造られていって、それが「人の住みか」として、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人に委ねられたことが記されています。これは、いわば全体的なこと、大局的なことです。
 これに対して、2章7節に記されていることは、いわば個人的なことです。そのようにしてこの「」にご臨在される「神である」が個人的に人と向き合ってくださり、「陶器師」が丹精を込めて器を造るように、人を形造ってくださったことと、人が生きる上で最も自然で、人はほとんど意識さえしない呼吸にまで、「神である」はみこころを注いでくださっていることが示されています。
 そして、これらのことをとおして、「神である」が、人に、それゆえに、私たちに、どんなに豊かな愛を注いでくださっているかが示されています。詩篇8篇4節には、そのことへの驚きが、

 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。

と記されています。
 このような愛といつくしみをもって人を神のかたちとしてお造りになった神さまご自身が、人にとって最も大切な相続財産、人が受くべき分となってくださっています。


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