黙示録講解

(第287回)


説教日:2017年4月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(40)


 イエス・キリストは、テアテラにある教会に語られたみことばの冒頭において、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。これによって、ご自身がダビデ契約において約束されてている、まことのダビデの子として、「」がダビデ契約の約束に基づいて確立してくださった、永遠の王座に着座して治めているメシアであることを示しておられます。
 今は、このことと関連することとして、ヘブル人への手紙1章2節後半に、

 神は、御子を万物の相続者とし[ました。]

と記されていることについてお話ししています。
 ここでは、御子イエス・キリストが父なる神さまによって任命された「相続者」であることと、イエス・キリストが相続する相続財産は「万物」であることが示されています。このことの歴史的な背景は、古い契約の下で「」がアブラハムと結んでくださった契約であるアブラハム契約があります。先々主日から、そのアブラハム契約の約束には「原型」となっていることがあり、それは、神さまの天地創造の御業であるということをお話ししています。
 先主日には、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていることに基づいて、天地創造の御業は、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあって充足しておられる、永遠の「ことば」すなわち御子によって遂行されたということをお話ししました。
 それで、天地創造の御業は神さまがご自身の愛をもって遂行し、ご自身の愛を表現された御業でした。そして、そのようにして現された神さまの愛を受け止めて、愛をもって応答するように造られたのが、神のかたちとして造られている人です。
 そのことは、先主日と先々主日にお話ししましたように、創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事から汲み取ることができます。そのことは今日お話しすることとかかわっていますので、そのことをまとめながら、補足して、お話を進めていきます。
 1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されていますが、これは創造の御業の記事全体を要約している「見出し」に当たります。「天と地」ということばは、メリスムスという表現方法で表されているヘブル語のイディオムで、この造られた世界のすべてのものを示しています。それは存在している一つ一つのものすべてとその特質だけでなく、それぞれの間の関係性など、神さまが創造の御業によって造り出された秩序と調和の中にあるすべてのものを指しています。この「天と地」ということばそのものからは、この世界のすべてのものだけでなく、そのすべてのものそれぞれの間の関係性など、すべてのものが、神さまが創造の御業によって造り出された秩序と調和の中にあるということまでは汲み取ることができないという主張もあります。しかし、この「天と地」ということばが創造の御業の記事全体を要約している「見出し」に用いられているということから、そのような意味を汲み取ることができます。創造の御業の記事は全体として、神さまがすべてのものが秩序と調和のうちにある世界をお造りになったことを示しているからです。
 2節には、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。これは神さまが最初に造り出された「」の状態を記しています。これによって、2節以下に記されていることにおいては、その焦点が「」に合わされていることが示されています。しかも、その視点は「」に据えられていて、あたかも「」に住む人(人々)が見ているかのように記されています。もちろん、これは創造の御業を遂行された神さまが、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人に啓示してくださったものです。それが人への啓示ですので、人が見ているかのように記されているのです。
 イザヤ書45章18節には、

 天を創造した方、すなわち神、
 地を形造り、これを仕上げた方、
 すなわちこれを堅く立てた方、
 これを茫漠としたものに創造せず、
 人の住みかにこれを形造った方、
 まことに、このがこう仰せられる。

と記されています。ここでは、「」が「天を創造した方、すなわち神」であり「地を形造り、これを仕上げた方」であると言われていますが、この「」が「」を「茫漠としたもの」にではなく、「人の住みか」に形造られたと言われています。ここでは「茫漠としたもの」[創世記1章2節で「茫漠として」と訳されていることば(名詞・トーフー)と同じことば]と「人の住みか」が対比されています。
 ここで「人の住みかに」と訳されたことば(レシェベト、「座る」とか「住む」を意味する動詞・ヤーシャブの不定詞の構成形に目的を表す前置詞「レ」がついたもの)は受動態ではありませんが、「住まわれるために」という、受け身的な意味合いを伝えています。ここには「人の」ということばはありませんが、この文脈、特に、12節において、

 このわたしが地を造り、
 その上に人を創造た。

と言われていることから、これが「人の住みか」を意味していると考えられます。さらに、詩篇115篇16節に、

 天は、の天である。
 しかし、地は、人の子らに与えられた。

と記されていることも参照してください。
 また、ここで用いられている「ヤーシャブ」ということばは、旧約聖書では1090回ほど出てくるので、そのすべての用例に当たることはできませんが、調べた限りでは、基本的に、神さま(天にお住まいになる/座しておられること)と人について述べられるときに用いられています。獣が住むことについて述べるときに用いられる事例もいくらかありますが、その場合でも、しばしば、その所はもともと人が住むべき所であったのが、その地の住人たちの罪によってその地が荒廃して獣が住むようになることを示すことに用いられています。
 神さまはまず、創世記1章2節において、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、

と言われている状態にある「」を造り出され、これを最終的に「人の住みか」に形造られました。その際に、「」が、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、

と言われている状態にあったとき、すでに、

 神の霊が水の上を動いていた。

と言われているように、神さまがそこにご臨在しておられました。「」は「人の住みか」に形造られる前に、神さまがご臨在される所として聖別されていました。そして、「」にご臨在される神の御臨在の御許から発せられた、

 光があれ。

という創造のみことばから始まる、一連の創造のみことばによって、この「」が神さまの御臨在に伴う豊かさ、神さまの御臨在を映し出す豊かさに満ちた世界として形造られていきました。神さまはこのようにして形造られたこの「」を「人の住みか」としてくださったのです。このことは、創造の御業が神さまの愛から出ている御業であったことを物語っています。


 そればかりではありません。これも以前お話ししたことの再確認ですが、26節ー28節には、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。このことに、神さまの創造の御業が神さまの愛から出ている御業であり、その愛が、特に、神のかたちとして造られている人に向けて現されていることを汲み取ることができます。
 このことは、この個所だけを見ていると分かりにくいかもしれませんが、植物や生き物たちの創造を記している記事と比べてみることによってはっきりとします。植物の創造を記している11節ー12節には、

神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。

と記されています。また、生き物たちの創造を記している20節ー22節には、

神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」

と記されており、24節ー25節には、

神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。

と記されています。これらの個所では、植物や生き物たちは「種類にしたがって」造られたと言われています。ところが、人は「種類にしたがって」造られたと言われているのではなく、「神のかたちとして」創造されたと言われています。
 このことに関して二つのことに注目したいと思います。
 一つは、人は植物や生き物たちと同じく神さまによって造られたと言われています。その意味で、人は植物や生き物たちと同じく「被造物」として分類されます。このことは、神のかたちとして造られている人が、28節に記されているように、神さまがお造りになったこの世界と、その中にあるすべてのものを治める歴史と文化を造る使命を委ねられていることと関わっています。
 もう一つは、人は「神のかたちとして」創造されたと言われている点で、「種類にしたがって」造られたと言われている植物や生き物たちとは区別されます。この意味で、人は、植物や生き物たちとは区別されて、神さまとの関わりにおいて見られるべきものです。
 ここで特に心しておかなければならないことは、創造者と被造物の間の絶対的な区別をあいまいなものにしてはならないということです。神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主です。これに対して、人は神のかたちとして造られ、神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられていますが、あらゆる点において有限な被造物です。それで、神のかたちとして造られている人と神さまとの間には絶対的な区別があります。
 「絶対的な区別」と言ってはいますが、それが実際にどのようなものかは、私たち有限な存在には神さまに当てはまる無限を知ることができない以上、分かりません。また、私たちにはわかりませんが、ご自身無限であられる神さまはその絶対的な区別を完全に知っておられます。
 そして、神さまがすべての被造物と絶対的に区別される方であることが、神さまの聖さの根底にあります。それで、神さまと被造物との間にある絶対的な区別を曖昧なものとすることは、神さまの聖さを冒すことです。この点については、後ほど、もう少しお話しします。
 このように、創造者と被造物の間には絶対的な区別があるのですが、それでもなお、人は神のかたちとして造られていることからくる特質と特権を与えられています。
 「種類にしたがって」造られた植物や生き物たちは、いわば、それ自体の中で一種の完結性をもっています。生き物たちは同じ「種類にしたがって」造られたもの同士が、群れをなして生息したりすることはありますが、その「種類」を越えての交流をするということは、まったくないわけではありませんが、ほとんどありません。それ以上に、生き物たちには、造り主である神さまへのわきまえ、超越者の観念はまったくありません。
 これに対して、「神のかたちとして」創造された人は、その交わりという点において、基本的に、造り主である神さまとの交わりに生きるものです。人はその「種類にしたがって」造られている以上に、神のかたちとして造られています。それで、何よりもまず、造り主である神さまとの交わりのうちに生きることを、その本質的な特性としています。
 それで、聖書は一貫して、人のいのちの本質は造り主である神さまとの愛にある交わりに生きることにある、ということを示しています。詩篇36篇9節には、

 いのちの泉はあなたにあり、
 私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

と記されています。また、ヨハネの福音書17章3節には、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

というイエス・キリストの祈りのことばが記されています。ここで「唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」と言われているときの「知る」ことは、ヘブル的な発想による「知る」ことです。これは、「交わりにおいて知る」ことで、「愛する」ことに近いものです。このことも、神のかたちとして造られている人の交わりが、基本的に、造り主である神さまとの交わり、契約の神である「」との交わりであり、人のいのちの本質が神さまとの愛の交わりにあるということを意味しています。
 このように、人が神のかたちとして造られていることは、人が神さまとの愛の交わりに生きるものとして造られているということを意味しています。アウグスティヌスの『告白』の第一巻1章1には、

 偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その思いははかりしれない。
 しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとします。それは、おのが死の性(さが)を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが「高ぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です。
 それにもかかわらず人間は、小さいながらも被造物の一つの分として、あなたを讃えようとするのです。よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。(山田 晶訳)

と記されています。このアウグスティヌスのことばを借りれば、神のかたちとして造られている人は、神さまに向けて造られているのです。
 このことの上に立って、神のかたちとして造られている人は、同じく神のかたちとして造られている人との交わりに生きるものとして造られています。このことは、創世記1章27節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されているように、男も女も「神のかたちとして」造られているということを土台としています。
 ここで大切なことは、人はただ単に「種類にしたがって」造られているということで、お互いに出会い、交わりに生きるのではないということです。もしただ単に「種類にしたがって」造られているということでそうするのであれば、生き物たちと同じことになります。人はそれ以上に、神のかたちとして造られているものとして、お互いに出会い、交わりに生きるのです。人は神のかたちとして造られていて、何よりもまず、神である「」との交わりに生きているものとして出会い、お互いの交わりをもつものです。その意味で、神のかたちとして造られている人の間の交わりは、本来、神である「」にあっての交わりであるのです。
 このことは、神さまの律法の全体を集約した「たいせつな」「二つの戒め」に反映しています。マタイの福音書22章37節ー40節には、

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

と記されています。
 また、父なる神さまは御子イエス・キリストによって、私たちそれぞれをご自身との愛の交わりのうちに生きるものとして回復してくださっただけでなく、私たちがイエス・キリストにあってご自身との愛の交わりに生きているものとして出会い、互いに愛し合うものとして回復してくださっています。ヨハネの手紙第一・4章9節ー12節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

と記されています。
 さらに、これらのことは、神のかたちとして造られている人が、自分たちの間で完結してしまっているものではないこと、自分たちの「種類」を越えて、交わりを広げるものであることを意味しています。神のかたちとして造られている人が自分たちの「種類」を越えて、交わりを広げるものであるということは、さらに、同じくいのちあるものとして造られている生き物たちにまで広がっていきます。さらには、神さまがお造りになったすべてのものにまで、自分たちの心を注いでいきます。神のかたちとして造られている人の間の交わりが、それに先だって、造り主である神さまとの交わりのうちに生きているものとしての出会いと交わりであると言いましたが、それは、同じくいのちあるものとして造られている生き物たちとの交わりや、神さまがお造りになった植物を初めとして、その他のすべてのものとの関わりにおいても当てはまります。人は本来、造り主である神さまとの交わりのうちに生きているものとして、神さまがお造りになった生き物たちや植物と関わっていくのです。もちろん、その関わり方や交わりの深さは、相手となるものの特質によって変わります。このことが創世記1章28節に、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されている歴史と文化を造る使命にかかわっています。

 最後に、今お話ししたことと関連している一つの問題を考えたいと思います。
 神さまはすべての被造物と絶対的に区別される方です。そして、このことが神さまの聖さの根底にあります。それで、神さまと被造物との間にある絶対的な区別を曖昧なものとすることは、神さまの聖さを冒すことです。そして、人の罪による堕落の根底には、神さまと自分たちとの間にある絶対的な区別を曖昧なものとしてしまうこと、その意味で、神さまの聖さを犯すことがありました。
 人は自分と造り主である神さまとの間にある絶対的な区別を見失って、自分も神のようになれるという思いをもって、神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。そして、罪によって本性が腐敗し、罪がもたらした暗やみに閉ざされてしまっている人は、自分と造り主である神さまとの間にある絶対的な区別を見失ってしまっています。
 このように、罪によって本性が腐敗し、罪がもたらした暗やみに閉ざされてしまっている人は、テアテラにある教会でも問題となっていますが、自分たちの発想に合う偶像を作り出してしまいます。その現実が、ローマ人への手紙1章21節ー23節に、

それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。
 このことには、二つのことがかかわっていますが、どちらも、神さまの愛を踏みにじることです。
 第一に、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。

と記されているように、「神はいない」ということを根本的な原理として自分たちと自分たちの住んでいる世界のことを理解しています。それなのに、人はどうして、自分たちの発想に合う偶像を作り出してしまうのでしょうか。それは、人が神のかたちとして造られており、アウグスティヌス流に言いますと、神さまに向けて造られているからです。何よりもまず、造り主である神さまとの交わりに生きるものとして造られているからです。
 人が神のかたちとして造られており、神さまに向けて造られているということ、また、それゆえに、何よりもまず、造り主である神さまとの交わりに生きるものとして造られているということは(ヴァン・ティルの弁証学の用語で言いますと形而上的・心理的なことで)、人が人である限り変わることはありません。それで、人はどうしても「神」を求めないではいられません。けれども、人は神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました(ヴァン・ティルの弁証学の用語で言いますと認識的・倫理的なことです)。それで、造り主である神さまを神とすることはありません。そのために、自分たちの発想に合う偶像を作り出して、これを神として礼拝し、これに仕えてしまうのです。
 第二に、神さまと神さまによって造られたものとの間には絶対的な区別があります。それなのに、神のかたちとして造られている人が神さまとの愛の交わりに生きることができるのは、神さまが御子にあって無限に身を低くしてくださって、この世界にご臨在してくださっているからです。そのことが、最初に触れました、創世記1章2節に、

 神の霊が水の上を動いていた。

ということに示されています。
 人や御使いたちが神さまとの愛の交わりに生きることができるのは、神さまが御子にあって無限に身を低くして、ご臨在してくださっているからですが、常に自分たちの間にご臨在してくださっている神さまとの交わりに生きているうちに、神さまと自分たちの間の絶対的な区別が曖昧に感じられて、相対化されてしまう危険があります。エバが善悪の知識の木から取って食べれば神のようになれるというサタンの誘惑のことばを信じてしまった原因はいくつかありますが、その根底には、神さまと自分たちの間の絶対的な区別が曖昧に感じられて、相対化されてしまっていたことがあったと考えられます。そして、それはまた、サタンの堕落の根本原因でもあったと考えられます。
 同じ危険は私たちの間にもあります。たとえば、神さまは私たちより遥かに高い天におられると言われます。それは間違ってはいません。けれども注意しなければならないこともあります。この場合、「私たちより遥かに高い」ということは、比較してのことであり、その意味で相対的なことです。実は、それは、神さまが御子にあって無限に身を低くされて、天にご臨在しておられるということです。これも、神さまが、やがて、私たちを御子イエス・キリストによって天におけるご自身の御臨在の御前に生きるものとしてくださるためのことです。私たちは終わりの日に、イエス・キリストの復活の栄光にまったくあずかって、栄光化されますが、それも、人としての栄光化です。ですから、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主である造り主である神さまと、あらゆる点において有限な被造物である私たちの間の絶対的な区別がなくなってしまうことは、決してありません。


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