黙示録講解

(第286回)


説教日:2017年3月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(39)


 イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばの冒頭においてご自身のことを「神の子」として示しておられることについてのお話を続けます。
 今は、このことと関連することとして、ヘブル人への手紙1章2節後半に、

 神は、御子を万物の相続者としました。

と記されていることについてお話ししています。
 先主日まで数ヶ月にわたって、御子イエス・キリストが「万物の相続者」であることの歴史的な背景は、古い契約の下で「」がアブラハムと結んでくださった契約であるアブラハム契約があることをお話ししてきました。そして、先主日は、そのアブラハム契約の約束には、神さまの天地創造の御業が「原型」となっていることをお話ししました。
 今日は、それを補足しつつまとめてから、さらにお話を進めて行きます。
 創世記1章1節ー2章3節には、神さまの天地創造の御業が記されています。冒頭の1章1節に記されている、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばは、全体の「見出し」に当たります。この場合の「天と地」はヘブル語の慣用表現で「この世界に存在するすべてのもの」、今日のことばで言う「宇宙」を表しています。これはまた、今お話ししているヘブル人への手紙1章2節後半で、

 神は、御子を万物の相続者としました。

と言われているときの「万物」に当たります。創世記1章1節では、この世界に存在しているすべてのものには初めがあり、それは神さまの創造の御業によっているということを示しています。
 このことがヘブル人への手紙1章2節後半では、

 (神は、御子を万物の相続者とし、)また御子によって世界を造られました。

と記されています。ここで「世界」と訳されていることばは「時代」を意味するアイオーンの複数形(アイオーネス)です。つまり、この「世界」ということばが表しているのは空間的な広がりをもっていますが、基本的に、時間的、歴史的な世界です。
 創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業も歴史的な世界の創造を記しています。知恵と力において無限の神さまは、一瞬のうちに、完成した宇宙をお造りになることができます。けれども、天地創造の御業においては、天地創造の六つの日に分けて御業を遂行されました。その際に、より基礎的なものから初めて、それに積み重ねるような形で、より複雑で精巧なもの、生長する植物、さらに、いのちあるもの、そして、神のかたちとしての人をお造りになりました。
 また、1章2節には、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されていますが、この2節からは、「」に焦点が合わされています。ここに記されているのは、神さまが最初に造り出された「」の状態です。神さまはこのような状態にあった「」を、イザヤ書45章18節に記されているように、「人の住みか」に形造っていかれました。
 このように、天地創造の御業自体が歴史的な御業でした。また、その歴史的な御業である創造の御業によって造り出されたこの世界も歴史的な世界です。
 ヘブル人への手紙1章2節後半に、

 神は・・・御子によって世界を造られました。

と記されていることでは、もう一つのことが注目に値します。それは、父なる神さまが「御子によって」この歴史的な世界をお造りになったということです。これは言い換えますと、御子が父なる神さまのみこころにしたがって、天地創造の御業を遂行されたということです。
 御子イエス・キリストが創造の御業を遂行されたことは、コロサイ人への手紙1章16節やヨハネの福音書1章3節にも記されています。今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、ヨハネの福音書1章3節に、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていることです。これについては、いろいろな機会にお話ししてきましたので再確認ということになりますが、これは1節ー2節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されていることを受けています。この1節と2節に出てくる「初めに」ということばは、創世記1章1節に、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されているときの「初めに」を背景としています。この歴史的な世界は、神さまが御子によっ遂行された創造の御業とともに始まっています。したがって、この世界の時間も、その時から始まっています。その「初めに」おいて、「ことば」すなわち御子は存在しておられました。ですから、御子は時間的・歴史的なこの世界に属しておられる方ではなく、この歴史的な世界を超えた永遠の存在であり、歴史的な世界をお造りになった方です。
 ヨハネの福音書1章1節で、

 ことばは神とともにあった

と記されているときの「神とともに」ということば(プロス・トン・セオン)は、「ことば」すなわち御子が「」すなわち父なる神さまの方を向いているという意味合いを伝えています。これは、御子が父なる神さまとの愛の交わりのうちにあるということを示しています。このことは、2節において、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と繰り返し記されていて強調されていると同時に、父なる神さまと御子との愛の交わりが永遠の交わりであることを示しています。父なる神さまと御子は永遠に愛の交わりのうちにまったく充足しておられます。そして、このことを受けて、3節に、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。ですから、ここでは、「すべてのもの」は父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにいます御子イエス・キリストによって造られたということが示されています。これによって、天地創造の御業が神さまの愛の御業であったこと、神さまがご自身の愛を表現される御業であったことがあかしされています。
 このことを踏まえて、改めて、創世記1章2節に記されていることを見てみましょう。そこには、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。先主日お話ししましたように、ここでは、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、

と言われている状態であったときに、

 神の霊が水の上を動いていた。

と言われているように、「」には神さまの御霊の御臨在、すなわち、御霊による神さまの御臨在がありました。「」は最終的には「人の住みか」として形造られたのですが、それに先立って、神さまの御霊がご臨在される所として聖別されていました。「」は「人の住みか」である以前に、また、「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される所です。それがこの「」の最も基本的な意味です。それで、この「」には、神さまの御臨在に伴う豊かさ、特に、いのちの豊かさが満ちています。
 このように、神さまはご自身がご臨在される所として聖別しておられるこの「」、それゆえにご自身の御臨在に伴う豊かさに満ちているこの「」を「人の住みか」としてくださいました。それは、まさに、天地創造の御業が神さまの愛の御業であったこと、神さまが天地創造の御業においてご自身の愛を表現されたことの具体的な現れです。
 神さまはその愛をもって人を、愛を本質的な特性とする神のかたちとしてお造りになり、人のいのちの本質がご自身との愛の交わりに生きることにあるようにお造りになったのです。そして、神のかたちとして造られている人がご自身との愛の交わりに生きることができるようにと、人が住まうようになるこの「」をご自身がご臨在される所として聖別し、御臨在の祝福に満ちた所としてくださっていました。
 また、神さまは神のかたちとしてお造りになった人の心にご自身のみこころを表す律法を記してくださいました。神さまの律法は、マタイの福音書22章37節ー39節に記されているイエス・キリストの教えに示されているように、

 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約されます。その意味で、神さまの律法は愛の律法です。これによって、神のかたちとして造られている人は、この愛の律法に導かれてすべてのことをなし、自分がなすすべてのことにおいて、神のかたちの本質的な特性である愛を、神である主に対して、また、隣人に対して、さらには、創世記1章28節に記されている歴史と文化を造る使命とともに、自分たちに委ねられた生き物たちに対して、具体的に現すようになりました。
 神のかたちとして造られている人の心に神さまの律法が記されていることは、ローマ人への手紙2章14節ー15節に、

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

と記されていることから知ることができます。
 少し注釈をしておきますと、ここでは、「律法の命じる行いが彼らの心に書かれている」と言われています。ここで「律法の命じる行い」と訳されていることばは、直訳では「律法の行い」で、「行い」は単数形です。この単数は集合名詞としての単数で、この「行い」がいろいろな行いであっても「律法の行い」、新改訳が訳しているように「律法の命じる行い」であることにおいてひとまとまりをなしていると考えられます。
 この「律法の命じる行いが彼らの心に書かれている」ということは、律法が心に記されているということとは微妙に意味合いが違っています。神さまの律法が心に記されている状態は、神のかたちとして造られた人の本来の状態で、先ほどお話ししましたように、

 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めがまったく自分自身の思いとなっていて、神さまへの愛と隣人への愛を動機として、すべてのことをなす状態です。それは神のかたちの本質的な特性である愛を現すことであり、神のかたちとして造られている人にとって最も自然なことです。
 これに対して、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。

と記されているように、何かを考えることにおいても、行うことにおいても、造り主である神さまを神とすることはありません。それで、すべてのことにおいて、

 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めに背いています。
 そうであっても、ローマ人への手紙2章14節に記されているように「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合」があります。この場合の「律法の命じる行い」と訳されていることば(タ・トゥー・ノムー)は直訳調には「律法の(命じる)こと(複数形)」です。それは、もともと、神のかたちとして造られている人の心に記されている愛の律法が、罪によって自己中心的に歪められてしまっているけれども、また、そのために、造り主である神さまを神とすることはないけれども、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、徹底的に歪んでしまうことがないように保たれたり、より積極的に啓発されたりして、いわゆる「市民的善」と呼ばれる「善いこと」を行うようになっていることを指しています。また、15節後半に、

彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

と記されているように、自分たちなりの善の規準をもっていて、それに従って良心が働くようになっています。これも、もともと、神のかたちとして造られている人の心に律法が記されていることの現れです。
 話を戻しますと、神さまの天地創造の御業は、ご自身の愛を現す御業でした。それで、神さまは人を神のかたちとしてお造りになり、ご自身の愛を受け止めるようにしてくださいました。ですから、創世記1章26節に、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

と記されていること、特に、人をご自身のかたちとしてお造りになるということは、神さまの愛に基づくみこころをあかししています。また、27節ー28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることは、その神さまの愛に基づくみこころが実現していることをあかししています。
 そうであるとしますと、28節に記されている、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命は、この「」をご自身がご臨在される所として聖別してくださり、実際に、この「」にご臨在してくださっている神さまとの愛の交わりに生きることの中で果たされるものです。それは、先主日にお話ししましたように、この「」に神さまがご臨在しておられることに伴う豊かさに触れながら、それが目で見ることができない神さまの御臨在に伴う豊かさであることを汲み取り、その栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することを中心とした神さまとの交わりです。
 このことは、今お話ししていることとのかかわりで言いますと、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまがお造りになったこの歴史的世界だけでなく、神さまご自身を相続財産として受け継いでいるということを意味しています。


 神さまがこの「」をご自身がご臨在される所として聖別してくださり、実際に、この「」にご臨在してくださっているということは、この「」におけることとして、いわば、地理的なこと、より広くは空間的なことです。これとともに、歴史と文化を造る使命には、より重要な時間的、歴史的な面があります。
 先ほどお話ししましたように、神さまの天地創造の御業自体が歴史的な御業でした。それは、創世記1章2節に、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されている状態の「」を造り出されたことから始まって、その「」を「人の住みか」として形造られたことに現れています。
 そうしますと、神さまの創造の御業は1章31節に、

 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

と記されていることで終わっているように思われます。
 実際、続く2章1節には、

 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

と記されています。
 確かに、天地創造の御業の遂行は終わっているのですが、天地創造の御業そのものは、それで終わってはいません。2章1節に続く2節ー3節には、

神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。
 2節に、

 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。

と記されていることは、直訳すれば、

 神は第七日に、なさっていたそのわざを終えられた。

となります。新改訳が、

 なさっていたわざの完成を告げられた

と訳しているは、「終えた」ということば(カーラー)がの強調形(ピエル語幹・キッラー)で記されていて、その強調形に「宣言する」という意味合いが含まれていると理解しているからです。けれども、この前の1節で、

 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

と言われているときの「完成された」も、同じことばの(受動態・プアル語幹ですが)強調形です。それで、この2節でも、

 なさっていたわざの完成を告げられた。

と訳すよりも、

 なさっていたわざを完成された。

と訳した方がいいと思われます。
 そうしますと、ここに記されているのは、神さまが創造の第七日に天地創造の御業を完成されたことです。そのために神さまは、二つのことをなさいました。
 一つは消極的なことで、2節後半に記されている、

 第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

ということです。ある方は、神さまにとっての消極的なことは、私たちにとってはとても積極的な意味をもっていると言っています。具体的なことは後ほどお話ししますが、この場合はそれが当てはまります。
 もう一つは積極的なことで、3節前半に記されている、

  神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。

ということです。
 この二つのことは一つのことの裏表のように、切り離し難くつながっています。
 言うまでもなく、神さまが、

 第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

のは、お疲れになったからではありません。これには二つの意味があります。
 第一に、神さまが「なさっていたすべてのわざを休まれた」ことによって、創造の御業の遂行が終わったこと、したがって、すべてのものが完成していることが示されました。
 第二に、それまで、神さまの思いは創造の御業の遂行に向けられていましたが、これによって、神のかたちとして造られている人を中心とするこの世界そのものに向けられるようになったということを意味しています。
 天地創造の御業は、父なる神さまとの永遠にして無限の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる御子が遂行されました。それは、父なる神さまが御子にあって、また、御子によって、ご自身の愛をお造りになったこの世界に向けて現してくださることでした。そしてその神さまの愛を自覚的に受け止めるのは、神のかたちとして造られている人です。それで、神さまは御子によって、また、御子にあって、ご自身の愛を神のかたちとして造られている人に注いでくださり、人がご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださいました。神さまの安息はこのことにかかわっています。人間的な言い方になりますが、神さまは、ご自身が神のかたちとしてお造りになった人がご自身との愛の交わりに生きることをもって、ご自身の安息されるということです。
 神さまはご自身の愛を神のかたちとして造られている人に注いでくださいましたが、愛の交わりは現状維持で終わるものではありません。それは人の成長とともにさらに深められて行くものです。それで、神さまは、人がご自身とのさらに親しい交わりに生きるようになることを願っておられますし、それをご自身の喜びとしてくださっています。そのようにして、人がご自身との愛の交わりをさらに深くすること、その意味で、人がさらに豊かな栄光にあるいのちに生きるようになることをもって、ご自身の安息が完成するようにされたのだと考えられます。
 このような意味をもっている神さまの安息は、天地創造の第七日全体を包んでいます。そして、そこから、

 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。

という、第七日全体の祝福と聖別が流れ出てきています。
 神さまの創造の御業において、第六日までは、

 夕があり、朝があった。第・・・日。

と言われているように、それぞれの日は閉じています。しかし、第七日は閉じていません。ですから、この第七日は、今日に至るまで続いていて、さらに、歴史の主であられる神さまが区切りをつけられるまで続きます。そして、神さまが歴史に区切りをつけられる時が「終わりの日」です。それまでの間が、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまにいっさいの栄光を帰して、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きることによってその使命を果たす時となっています。
 神さまは、神のかたちとして造られている人がこのような意味をもっている歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、ご自身との愛の交わりをさらに深めていくようになるために、天地創造の第七日をご自身の安息の時として聖別してくださり、祝福してくださっています。
 そして、新約聖書においては、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、この使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに従いとおしたなら、神さまはそれに対する報いとして、人をさらに豊かな栄光にあずからせてくださり、ご自身とのより豊かな栄光にある愛の交わりに生きるものとしてくださることになっていたことが示されています。この場合の「さらに豊かな栄光」とは、最初に神のかたちとして造られた時の栄光のことではなく、また、神のかたちとして造られた状態にあって、年齢を重ねることによって成長した状態でもなく、神さまのみこころに従いとおしたことに対する報いとして与えられる、一段と高く豊かな栄光のことです。
 そのことは、御子イエス・キリストが私たちご自身の民を愛してくださり、父なる神さまのみこころに従って、まことの人としての性質を取って来てくださったこと、そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられたことから分かります。イエス・キリストは最初に造られた状態のアダムと同じ神のかたちとしての栄光にある人としての性質を取って来てくださいました。そして、十字架の死に至るまでの完全な従順に対する報いとして、より豊かな栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。
 新約聖書はさらに、私たち主イエス・キリストの民が、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、父なる神さまとのさらに豊かな栄光にある交わりに生きるもの、永遠のいのちに生きる者としていただいていることを示しています。
 このことはすでに私たち主の民の現実となっていますので、ローマ人への手紙8章では、14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されています。それとともに、この祝福の完全な実現は、終わりの日に再臨される栄光のキリストが私たちご自身の民を栄光のからだに造り変え、よみがえらせてくださることによっていることも示されています。その時には、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されているように、私たちと主イエス・キリストの交わりがより豊かな栄光に満ちたものとして完成します。それによって、天地創造の第七日をご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださった神さまの安息が完成します。


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