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説教日:2017年3月19日< |
これらのことは、「主」がアブラハムに与えてくださった契約のみことばに示されていた約束ですが、みことばだけで示されているのではありません。この約束のみことばは、古い契約の下で遂行された「主」の贖いの御業の歴史の中で成就しています。 それは、いわば2段階において成就しています。その第一段階とも言うべきことは、出エジプト記25章8節ー9節に記されている、 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。 という「主」のみことばに示されています。これは、「主」の命令に従って、シナイ山にご臨在される「主」の御臨在の御許に来たモーセに語られたみことばです。 モーセは「主」が示してくださったとおりに、「主」がご臨在されるための「聖所」を造りました。そのことを記している出エジプト記40章33節後半には、 こうして、モーセはその仕事を終えた。 と記されています。これは、モーセが指導して「会見の天幕」とも呼ばれる幕屋を造り終えたことを記しています。そして、続く34節ー38節には、 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。 と記されています。 ここには、「主」がアブラハムの子孫であるイスラエルの民の間にご臨在されるようになり、約束の地であるカナンに向けて荒野を旅するイスラエルの民とともに歩んでくださるようになったことが記されています。 そして、第二段階とも言うべきことですが、イスラエルの民が約束の地であるカナンに入って定住するようになったとき、ダビデは、「主」が、いわば、イスラエルの民とともに「定住」されるための神殿の建設を志しました。そのことが、サムエル記第二・7章1節ー3節に、 王が自分の家に住み、主が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」すると、ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」 と記されています。 しかし12節ー16節に記されているように「主」は預言者ナタンをとおして、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。 と語られました。ここには契約ということばは出てきませんが、これは、「主」がダビデに契約(ダビデ契約)を与えてくださったことを記しています。 「主」はダビデがご自身の御名のための神殿を建てることをお許しになりませんでした。その理由は、歴代誌第一・22章8節に記されている、「主」がダビデに語られた、 あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。 というみことばに示されています。同じことは歴代誌第一・28章3節にも記されています。 このような経緯があって、「主」がご臨在される神殿は、「主」がダビデの「身から出る世継ぎの子」の王国を確立してくださるときに、そのダビデの子が建設するようになるということが示されました。 これを受けてソロモンが、「主」がご臨在される神殿を建てました。そして、祭司たちが「主の契約の箱」を神殿の至聖所に運び入れたたときのことを記している列王記第一・8章10節ー11節には、 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。 と記されています。 このようにして、「主」は約束の地であるカナンにおいて、イスラエルの民の間にご臨在されるようになりました。 しかし、ソロモンは晩年に偶像を礼拝するようになってしまい、まことのダビデの子ではないことが明らかになりました。また、ソロモンが建てたエルサレム神殿も、南王国ユダの王たちが積み上げた罪に対する「主」のさばきとして、バビロンの王ネブカデネザルによって破壊されてしまいました。ダビデの子ソロモンも彼が建てたエルサレム神殿も「地上的なひな型」として、やがて、まことのダビデの子として来てくださる贖い主と、その方が建てるまことの「主」の神殿を指し示していました。 また、このことは、そのような神殿が建てられたカナンの地も「地上的なひな型」であったことを意味しています。 モーセとソロモンが、「主」がイスラエルの民の間にご臨在してくださり、彼らとともに歩んでくださるようになるための聖所を造ったことは、先ほど取り上げたアブラハム契約とのかかわりで理解することができます。モーセとソロモンが、「主」のご臨在される聖所を造ったことは、「主」がアブラハム契約において、アブラハムに、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 と約束してくださったことが、古い契約の枠の中で成就していることを意味しています。それはまた、「主」がアブラハム契約において、アブラハムに与えてくださった約束は、その約束を実現する力をもっていて、必ず成就することをあかししています。 このように、「主」がアブラハムに与えてくださった契約の約束は、「主」がアブラハムに語ってくださったみことばに示されているだけでなく、その約束の古い契約の下における成就である、モーセとソロモンによる聖所の建設によっても示されていたのです。 お話を進めるに当たって、再確認しておきたいのは、「主」がアブラハムと契約を結んでくださった目的は、「主」がアブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださることにありました。このことは、アブラハムと「相続者」としてのアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産の中心は、「主」ご自身であるということを意味しています。具体的には、アブラハムとアブラハムの子孫が、自分たちの間にご臨在してくださる「主」の御許に近づいて、「主」との親しい交わりのうちに生きるようになることです。 「主」がアブラハム契約において約束してくださっている、このような祝福には「原型」があります。それは、神さまの天地創造の御業です。 創世記1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。これは、1章1節ー2章3節に記されている、神さまの天地創造の御業の記事の「見出し」に当たります。この場合の「天と地」はメリスムスという表現方法で表されていて、「存在するすべてのもの」、今日のことばで言う「宇宙」を表しています。初めに引用しました、ヘブル人への手紙1章2節後半に、 神は、御子を万物の相続者としました。 と記されているみことばに合わせて言いますと、「万物」になります。 創世記1章では、続く2節に、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 と記されています。1節では、およそ存在するすべてのものが視野に入っていますが、この2節からは、「地」に焦点が合わされています。ここに記されているのは、神さまが最初に造り出された「地」の状態です。 イザヤ書45章18節には、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てた方、 これを茫漠としたものに創造せず、 人の住みかにこれを形造った方、 まことに、この主がこう仰せられる。 と記されています。ここでは、「主」は「地」を「茫漠とした」状態のままにされないで、その状態から「人の住みか」に形造られたということが示されています。創造の御業において、神さまはこの「地」を最終的には「人の住みか」として形造られました。しかし、その御業の初めにおいて、「地」が、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、 と言われている状態であったときに、 神の霊が水の上を動いていた。 と言われているように、「地」には神さまの御霊の御臨在、すなわち、御霊による神さまの御臨在がありました。ですから、「地」は最終的には「人の住みか」として形造られたのですが、それに先立って、神さまの御霊がご臨在される所として聖別されていました。 以前お話ししましたことばをほぼそのまま用いますと、それで、「地」には愛と恵みといつくしみに満ちた神さまの御臨在を映し出すさまざまなしるしが満ちあふれています。光によってもたらされる明るさと暖かさ、神さまが整えられた大気の透明さと、適度の乾燥と「地」が乾き過ぎないようにと時に応じて降り注ぐ雨とさわやかに吹く風。しかも、これらは単調なものではなく、四季の移り変わりとともに変化を見せています。これらの環境に支えられて生い茂る植物の多様さ。その間に生きる実に多様な生き物たちのいのちが豊かに育まれています。その驚くべき多様性を大きく包んで支えている自然の調和と循環。すべては造り主にして、無限の知恵と御力に満ちた神さまの愛と恵みといつくしみの御臨在をあかしするものです。 このことは、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも汲み取ることができます。今お話しした「地」において見て取ることができる豊かさは、私たちが実際に目にしていることで、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の世界に見られるものです。 私たちは造り主である神さまの御臨在とそれに伴うさまざまな祝福に満ちた世界に住んでいます。目で見ることができない神さまは、創造の御業によって造り出されたこの世界に現わされている、さまざまな知恵と力と慈しみのしるしを通して、ご自身を示してくださっています。「神のかたち」に造られている人間は、この世界のどこにおいても、造り主である神さまの御臨在と御臨在のしるしに触れることができますし、実際に、触れています。ただ、罪がもたらしている霊的な暗やみのために、その栄光を造り主である神に帰することはしません。ローマ人への手紙1章20節ー23節に、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されているとおりです。 このように私たちは、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の「地」の状態に触れても、その豊かさを汲み取ることができます。そうであれば、神さまが最初に造り出されたときの地の豊かさは、どれほどだったでしょうか。 このことを踏まえて、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを記してしている、創世記1章28節を見てみましょう。そこには、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 創造の御業において、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、そのような状態にあった「地」に住むものでした。それで、私たちの思いを越えた「地」の豊かさに触れながら、それが目で見ることができない神さまの御臨在に伴う豊かさであることを汲み取り、その栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝していたはずです。 これは、神さまが最初に造り出されたときの「地」の豊かさですが、その中でも、特別な意味で「神である主」がご臨在される所として聖別されていたのがエデンの園です。 創世記2章15節に、 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されていますように、「神である主」は、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人をそこに置いてくださり、ご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださいました。「神である主」がエデンの園に特別な意味でご臨在されたのは、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人と愛の交わりをもってくださるためでした。エデンの園はそのような所として豊かな祝福に満ちていました。 以前お話ししたことがありますが、このこととのかかわりでは、一つの疑問があります。それは、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という戒めに従って増え広がっていくなら、エデンの園からはみ出す人が続出することになるのではないかという疑問です。 これにつきましては、「神である主」の御臨在は場所に固定されるものではなく、「主」の契約の民とともにあるものであるということが考えられます。 人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命にしたがって、「地」に増え広がり、神さまを礼拝することを中心とした歴史と文化を造っていく所には、必ず、神である主の特別な意味での御臨在が伴います。そうしますと、そこが、神である主の御臨在の御許からあふれ出る祝福である豊かさと潤いによって満たされるようになります。もともと「人の住みか」に形造られているこの「地」全体が、いわば「エデン化」されていたことでしょう。 これらのことを踏まえて、改めて、神のかたちとして造られている人に委ねられた、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命を見てみましょう。ここで神のかたちとして造られている人に委ねられている「地」は、創造の御業において、初めから、神さまが御霊によってご臨在される所として聖別されており、神さまの御臨在に伴う豊かさに満ちていました。そして、その「地」が「人の住みか」として形造られて人に与えられています。これを、今お話ししていることとのかかわりで言いますと、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、このように、神さまの御臨在に伴う豊かさに満ちている「地」を相続財産として受け継いでいるということになります。歴史と文化を造る使命は、自分たちが受け継いでいる「地」に満ちあふれている神さまの御臨在に伴う豊かさを汲み取り、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することを中心として、歴史と文化を造ることにあります。 これにはもう一つの面があります。それは、天地創造の御業の記事は、創世記1章2節から、その焦点は「地」に合わされています。しかもその記事は、あたかも「地」に住んでいる人が神さまの創造の御業を見ているかのように記されています。その意味で、天地創造の御業の記事は、いわば、「地」に住んでいる人の視点から見た創造の御業が記されているのです(もちろん、このとき人はまだ造られていません)。それは、神さまが、この記事をとおして、ご自身の創造の御業を神のかたちとして造られている人に啓示してくださっているからです。 そのように、「地」に住んでいる人が神さまの創造の御業を見ているかのように記されている天地創造の御業の記事においては、「地」のことだけが記されているのではありません。14節ー15節には、 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。 と記されています。ここでは、天体が「地」との関係でさまざまな役割を果たすようになったことが記されています。「地」に住んでいる人の視点で記されている天地創造の御業の記事の関心は、天体とその役割にまで広がっています。そして、その天体とその役割も神さまの御臨在に伴う豊かさをあかししています。詩篇19篇1節に、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されているとおりです。 さらに、イザヤ書66章1節に、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 と記されているように、「主」はご自身がお造りになった天と地にご臨在しておられます。それで、「主」がお造りになった天と地全体、すなわち、宇宙全体が、「主」がご臨在される場所として聖別されています。またそれで、天と地に存在するあらゆるものが、造り主である神さまの栄光を現しています。神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、そこに現されている神さまの栄光を汲み取り、神さまを礼拝します。その意味で、歴史と文化を造る使命は「万物」を視野に入れており、「万物」にかかわる使命です。詩篇8篇6節に、 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されているとおりです。またこの意味で、人は「万物」を相続するものとして造られています。 |
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