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説教日:2017年3月12日 |
このことが背景となって、祭司の国として召されていたイスラエルの民の中にあっても、「主」の御前での特別な奉仕のために聖別されていた祭司とレビ人には「相続地」が割り当てられなかったということがあります。 民数記18章20節ー24節には、 主はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える。これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。それは、イスラエル人が、奉納物として主に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」 と記されています。 ここには、「主」が「相続地」について大祭司アロンに語られたみことばが記されています。ヤコブ(イスラエル)の12人の息子の中の3番目の息子であるレビの子孫がレビ人です。そのレビの3人の息子の中の2番目のケハテの長子がアムラムで、そのアムラムの子がアロン、モーセ、ミリヤム(「アロンの姉、女預言者」[出エジプト記15章20節])です。 「主」はアロンを大祭司とされ、アロンの子たちが祭司となりました(出エジプト記28章1節ー3節)。ここ民数記18章20節で、 あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。 と言われているのは、アロンだけでなく、その子たちである祭司たちに当てはまることですし、アロンの子孫である大祭司と祭司たちにも当てはまることでした。[注] [注]アロンの子たちの場合は、本来、長子であるナダブが大祭司としての職に任ぜられるはずでしたが、ナダブと次男のアビフは、「主」が命じられなかった「異なった火を主の前にささげた」ためにさばきを受けて死んでしまいました。それで、3男のエルアザルが大祭司に任ぜられ、その後は(レビ記21章16節ー23節に記されている「例外規定」に当てはまらない)、エルアザルの長子が大祭司に任ぜられました。 祭司とレビ人は約束の地であるカナンに「割り当て地」(ヘーレク)あるいは「相続地」(ナハラー)を持ちませんでした。それは、彼らが主の御前での特別の奉仕のために聖別されていたために、その地を耕して作物を育てる務めをしなかったためです。21節ー24節に記されているように、イスラエルの民はその地の収穫の十分の一を主にささげましたが、それがレビ人に割り当てられました。さらに、引用はしませんが、これに続く25節ー29節には、レビ人は自分たちが受けたものの十分の一を主にささげ、それが祭司たちに与えられたことが記されています。 そして、20節では、主ご自身が祭司の「割り当て地」また「相続地」であると言われています。 ここでは、レビ人についてはそのように言われていません。しかし、申命記10章8節ー9節には、 そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である と記されています。さらに18章1節ー2節も見てください。 このことから、「主」ご自身が「割り当て地」また「相続地」であるということには意味の広がりがあったことが分かります。まず、祭司の国として召されたイスラエルの中心にある「主」のご臨在の御前に仕えている祭司たちの「割り当て地」また「相続地」は「主」ご自身です。それが、さらに、神殿のさまざまな務めとイスラエルの民の間にあってみことばに仕えていたレビ人に当てはめられ、「主」ご自身が彼らの「割り当て地」また「相続地」であると言われています。 そして、それがさらに一般化されて、「主」ご自身が相続人としてのアブラハムの子孫であるイスラエル民の「割り当て地」また「相続地」であると言われるようになりました。そのことが、詩篇16篇5節に、 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。 あなたは、私の受ける分を、 堅く保っていてくださいます。 と記されています。また、73篇25節ー26節にも、 天では、あなたのほかに、 だれを持つことができましょう。 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。 この身とこの心とは尽き果てましょう。 しかし神はとこしえに私の心の岩、 私の分の土地です。 と記されており、142篇5節には、 主よ。私はあなたに叫んで、言いました。 「あなたは私の避け所、 生ける者の地で、私の分の土地です。 と記されています。 これには、もう一つの面があります。申命記32章9節には、 主の割り当て分はご自分の民であるから、 ヤコブは主の相続地である。 と記されています。「主」がイスラエルを「ご自分の民」としてお選びになり、ご自身の「割り当て分」(民数記18章20節で「割り当て地」と訳されており、詩篇73篇25節や142篇5節で「分の土地」と訳されていることば[ヘーレク])、ご自身の「相続地」としておられるということです。これは、同じ申命記の7章6節に、 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。 と記されていることを、アブラハム契約に基づく「割り当て分」、「相続地」を用いて表したものです。 「主」ご自身がイスラエルの民の「割り当て地」また「相続地」であり、イスラエルの民が「主」の「割り当て地」であるということは、実質的には、レビ記26章12節後半において、「主」がご自身の契約の祝福のことを、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と述べておられることに当たります。そして、この「主」の契約の祝福は、その前の11節ー12節前半に記されている、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。 という祝福をも伴っています。「主」がイスラエルの民の間にご臨在され、イスラエルの民は「主」の御臨在の御許に住まい、「主」とともに歩むことにおいて、「主」との交わりにあずかるという祝福です。 このことは、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血による新しい契約においては、ローマ人への手紙8章14節ー15節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。 と記されている祝福に高められています。ガラテヤ人への手紙4章6節にも、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されています。 私たちは御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊を受けています。この御霊は、父なる神さまに向かって、個人的に親しく「アバ、父」と呼びかけておられる(マルコの福音書14章36節)「御子の御霊」です。私たちはこの「御子の御霊」によって導かれて、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父」と呼びかけることができる「神の子ども」です。 このことを、これまでお話ししてきました、「主」ご自身がイスラエルの民の「割り当て地」また「相続地」であるということに沿って言いますと、神ご自身が私たち「神の子ども」の「割り当て地」また「相続地」であるということになります。私たち「神の子ども」が受け継ぐ相続財産の中心は、「主」ご自身であり、父なる神さまご自身です。 そして、先ほどお話ししましたように、アブラハム契約において約束されていた、相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐべき約束の地であるカナンの地は、そこで、「主」がアブラハムやアブラハムの子孫の神となってくださることが具体的な形で実現するための地として、アブラハムおよびアブラハムの子孫に与えられるものでした。そのカナンの地が、「地上的なひな型」として指し示していたのは、父なる神さまが私たち「神の子ども」をご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださるために備えてくださっている、ご自身のご臨在される所です。それは、最終的には、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される、新しい天と新しい地において完全な形で実現します。 イエス・キリストはアブラハムの子孫として来られた贖い主です。アブラハムがその子イサクを神さまににささげたときのことを記している創世記22章18節には、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 という「主」の約束のみことばが記されています。この約束のみことばは、まことのアブラハムの子孫として来てくださったイエス・キリストによって成就し、私たちの現実となっています。ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されているとおりです。 そして、先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4章6節に、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されているように、私たちは「『「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊』と呼ぶ、御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼ぶことができるほどに、個人的で親しい交わりに生きる神の子どもとされています。 そして、ローマ人への手紙8章17節では、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と言われています。ここでは、私たち新しい契約の祝福にあずかって、神の子どもとしていただいただいている者は「キリストとの共同相続人」であると言われています。 これは、ヘブル人への手紙1章2節後半で、 神は、御子を万物の相続者としました。 と言われていることとのつながりで言いますと、私たちは神さまが「万物の相続者」として任命された「キリストとの共同相続人」であるということです。そうしますと、私たちが「キリストとの共同相続人」として相続するのは「万物」であるということになります。 これはあまりにも大げさなことであると思われるかもしれません。けれども、これまで繰り返しお話ししてきましたように、私たち主の契約の民が相続する相続財産の中心は、「主」ご自身であり、父なる神さまご自身です。これは私たちが「キリストとの共同相続人」として相続するのは「万物」であるということ以上のことです。ですから、私たちが「キリストとの共同相続人」として相続するのは「万物」であるということは決して大げさなことではないのです。実際、相続財産のことを記しているわけではありませんが、ローマ人への手紙8章32節には、 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのもの[タ・パンタ(「万物」、ここでは冠詞・タが付いているが、ヘブル人への手紙一章二節では冠詞がつかないパンタ・「万物」)]を、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 と記されています。 このこと、すなわち、私たちがキリストとの共同相続人」として相続するのは「万物」であるということには、神さまの天地創造の御業の背景があります。 創世記1章26節ー28節には、 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 神さまは天地創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。 このことに触れている詩篇8篇5節ー6節には、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されています。 ここでは、「主」が神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことが、 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と説明されています。これは「主」が神のかたちとして造られている人に、歴史と文化を造る使命として「万物」を治める権威を授けられたことを意味しています。 このことが腑に落ちないと感じられるかもしれません。しかし、神さまが人に委ねられた歴史と文化を造る使命は、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものにおいて現されている神さまの知恵と力、愛といつくしみに満ちた栄光を汲み取って、神さまにすべての栄光を帰して、神さまを礼拝することを中心とした歴史と文化を造ることにあります。それで、この詩篇8篇3節にも、 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 と記されているように、いにしえの時代から、その観察の目を宇宙にまで広げて、そこに現れている造り主である神の栄光を讃えていたのです。今日の天文学もこのことの延長線上にあります。ただし、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、その観察を通して神さまの栄光に接しているのですが、いっさいの栄光を造り主である神さまに帰して、神さまを礼拝することはありません。 このように「主」は、神のかたちとして造られている人に、歴史と文化を造る使命として「万物」を治める権威を授けられました。 このことによって、「万物」は神のかたちとして造られている人と一体にあるものとされています。それで、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時、「万物」も、人との一体において、人の罪がもたらしたのろいの下に置かれるようになりました。 ローマ人への手紙8章19節ー20節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 と記されていて、「被造物が虚無に服した」と言われているのは、このような事情によっています。 けれども、21節に、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されているように、被造物は「神の子ども」たちとの一体において、「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るという約束と望みのうちにあります。 そして、この約束は終わりの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地において実現します。この新しい天と新しい地が、「地上的なひな型」としてのカナンの地が指し示していた、アブラハムとアブラハムの子孫が受け継ぐ相続地の本体です。 |
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