イエス・キリストはテアテラにある教会に語られたみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。これによってイエス・キリストは、ご自身が、「主」がダビデに与えてくださった契約において約束してくださった、まことのダビデの子として、永遠の王座に着座して治めるメシアであることを示しておられます。
今は、このことと関連することとして、ヘブル人への手紙1章2節後半に、
神は、御子を万物の相続者としました。
と記されていることについてお話ししています。
これは御子イエス・キリストが「相続者」であることと、「相続者」である御子イエス・キリストが相続する相続財産が「万物」であるということにかかわる問題です。古い契約の下では「相続者」と相続財産にかかわる契約は、「主」がアブラハムに与えてくださった契約、すなわち、アブラハム契約です。それで、これまで、「主」がアブラハムに、相続人としてのアブラハムの子孫について、どのように示してくださったのかを、おもに、旧約聖書に記されているアブラハムの生涯の記事に基づいてお話ししてきました。
それをまとめますと、相続人としてのアブラハムの子孫については、消極的な面と積極的な面が示されています。
まず、消極的には、相続人としてのアブラハムの子孫は、第一に、必ずしもアブラハムとの血肉のつながりのある者とは限らないこと、第二に、アブラハムの家に属する者として割礼を受けている者ともかぎらないということになります。このことは、先主日まで繰り返しお話ししてきたことですが、アブラハムとの血肉のつながりがあり、アブラハムとともに割礼を受けたイシュマエルが、相続人としてのアブラハムの子孫ではなかったことにおいて、典型的に示されていました。
そして、積極的には、相続人としてのアブラハムの子孫は、第一に、信仰によって義とされたアブラハムの子孫であること、第二に、神さまの創造的なお働きによって生み出されたアブラハムの子孫であること、そして、第三に、「主」が備えてくださった身代わりの雄羊が指し示しているいけにえをとおして、「主」のものとしてささげられて、「主」のものとなっているアブラハムの子孫のことであるということになります。
このことは、アブラハムとの血肉のつながりがある人々からだけでなく、アブラハムとの血肉のつながりがない異邦人の中からも、相続人としてのアブラハムの子孫が出てくるということを意味しています。それで、このことは、創世記12章3節に記されている、「主」がアブラハムを召してくださったときに与えてくださった、
地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される。
という約束と深くかかわっています。「地上のすべての民族」がアブラハムによって「祝福される」ということは、「地上のすべての民族」から、相続人としてのアブラハムの子孫が出てくるということです。
このことを踏まえて、創世記17章7節ー8節に記されているアブラハム契約のことを見てみましょう。そこには、
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。
と記されています。
8節前半には、
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。
という「主」の約束のみことばが記されています。このみことばは、「カナンの全土」が相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産であることを示しています。そして、実際に、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民は、エジプトの奴隷の状態から贖い出されて、カナンの地に導き入れられました。
しかし、これは「地上的なひな型」として起こったことです。その意味で、これは「当面の成就」としての意味をもっています。「当面の成就」というのは私が勝手につけた呼び方です。これは、古い契約における「主」の約束のみことばが、古い契約の枠の中で成就することを指しています。この約束のみことばとその「当面の成就」とが相まって、二つのことを示しています。
一つは、「主」の契約によって与えられた約束のみことばは単なることばではなく、それによって表されている約束を成就する力があるみことばであるということ、言い換えますと、それはご自身の契約の約束を必ず成就される「主」の約束のみことばであるということです。
もう一つは、「主」の契約によって与えられた約束とその「当面の成就」が相まって、「究極の成就」を指し示しているということです。「究極の成就」とは御子イエス・キリストの血によって確立された新しい契約における成就のことです。
イスラエルの民がカナンの地に侵入してそこに住むようになったことがアブラハム契約の約束の「当面の成就」であるということは、すでに、先ほどお話ししましたように、「主」がアブラハムを召してくださったときに与えてくださった、
地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される。
という約束は、「地上のすべての民族」から相続人としてのアブラハムの子孫が出てくるということを意味しています。そうであるとしますと、相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産はカナンという、地上の一地域ではないはずです。その意味で、カナンの地は「地上的なひな型」としての意味をもっていたと考えられます。
また、少し前にお話ししましたように、アブラハム契約の約束のみことばにおいて、8節前半に記されている、
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。
という約束のみことばは、7節後半に記されている、
わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
という約束のみことばと、8節後半に記されている、
わたしは、彼らの神となる。
という約束のみことばに挟まれています。特に、7節後半に記されている、
わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
というみことばは、その前に記されている、
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。
というみことばを受けていて、「主」がアブラハムやアブラハムの子孫と契約を結んでくださったことの目的を表しています。それで、カナンの地は、そこで、「主」がアブラハムやアブラハムの子孫の神となってくださることが具体的な形で実現するための地として、アブラハムおよびアブラハムの子孫に与えられています。このことは、相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐべき相続財産の中心はカナンの地そのものではなく、「主」ご自身であるということを意味しています。
このようなことを背景として、ヘブル人への手紙11章8節ー10節には、
信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
と記されています。また、それはアブラハムだけのことではなく、古い契約のもとで「主」の契約の民としていただいた聖徒たちにも当てはまることでした。ヘブル人への手紙11章では、続く11節ー16節に、
信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
と記されています。
12節には、
そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
と記されています。これは、「主」が相続人としての子孫についてアブラハムに約束してくださり、アブラハムが「主」を信じて義と認められたときのことを記してる創世記15章5節ー6節に、
そして、彼[アブラハム]を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
と記されている中に出てくる「主」の約束のみことばや、創世記22章16節ー18節に記されている、アブラハムが「主」の命令に従って、イサクを、「主」が備えてくださった雄羊をとおして、全焼のいけにえとしてささげたことを受けて語られた、
わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。
という「主」のみことばを背景としていて、その成就を示しています。
今お話ししていることとのかかわりで特に注目したいのは、最後の16節に記されている、
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
というみことばです。「主」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかって、「主」の契約の民としていただいた聖徒たちは、地上にある故郷ではなく、「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」にあこがれていたと言われています。そして、このことを受けて、
それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。
と言われています。これは、言い方は違いますが、実質的には、「主」がアブラハムに与えてくださった契約において、その契約を与えてくださった目的について、
わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
と仰ったことと同じことを示しています。
アブラハム契約において約束されていた「地上的なひな型」としてのカナンの地が指し示していたのは、この「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」でした。これが何であるかは、ヘブル人への手紙では、12章22節ー24節に、
しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
と記されている中で示されています。
11章16節に、
事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
と記されていることとのかかわりでは、「生ける神の都、天にあるエルサレム」が考えられます。これは、黙示録21章ー22節に記されている、新しい天と新しい地の中心にある「聖なる都、新しいエルサレム」のことです。黙示録21章1節ー4節には、
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
と記されています。
このように、相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産であるカナンの地が「地上的なひな型」として指し示していたのは「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」でした。そこにおいて、
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
という神である「主」の契約の祝福は完全な形で実現します。その意味で、相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産の中心は「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」そのものではなく、神ご自身です。
先々主日から、相続人としてのアブラハムの子孫のことに触れているローマ人への手紙4章13節に、
というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
と記されているみことばについてのお話を始めました。
ここに記されていることで、今お話ししていることとかかわっているのは、二つのことです。
一つは、アブラハムとその子孫に与えられた約束は「世界の相続人となる」という約束であったということです。ここでは、相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐのは「世界」であると言われていますが、この場合の「世界」とは何であるかが問題となります。
もう一つのことは、アブラハムとその子孫に「世界の相続人となるという約束があたえられたのは」、
律法によってではなく、信仰の義によった
ということです。
これまで、ローマ人への手紙では、このうちの、アブラハムとその子孫に「世界の相続人となるという約束があたえられたのは」、
律法によってではなく、信仰の義によった
ということを先に論じていて、それが8章14節ー16節に、
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
と記されていることに至ります。これは、
わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
というみことばに示されている、「主」がアブラハムに契約を与えてくださった目的が、主とそのしもべの関係を越えた、父と子の関係にまで高められ、栄光化されて実現していることを示しています。
このことを踏まえて、17節には、
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
と記されています。
ここでは、「・・・とともに」ということを表す接頭辞(シュン)を接頭辞とすることばが三つ出てきます。新改訳では「共同相続人」(シュグクレーロノモス)、「苦難をともにしている」(シュムパスコー)、「栄光をともに受ける」(シュンドクサゾマイ)と訳されています。これが「キリストとともに」ということであることは、ギリシア語では「キリストとの共同相続人」が最初に出てくることから分かります。
ここに「相続人」のテーマが出てきますが、これは、4章13節に出てきた、「世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられた」ということを受けています。
問題は、4章13節に出てくる「世界」とは何かということです。この「世界」はギリシア語では「コスモス」で表されていますが、これだけでは、これが何を指しているかを判断することはできません。
この問題を解くためには、やはり、4章13節の次に「相続人」のテーマが出てくる8章17節以下に記されていることを見る必要があります。17節には、
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
と記されていました。
ここでは、私たち新しい契約の祝福にあずかって、神の子どもとしていただき、相続人としてのアブラハムの子孫としていただいている者は「キリストとの共同相続人」であると言われています。これを、ヘブル人への手紙1章2節後半に記されている、
神は、御子を万物の相続者としました。
というみことばとのつながりで言うと、私たちは神さまが「万物の相続者」として任命された「キリストとの共同相続人」であるということになります。
ローマ人への手紙8章では、17節に続く18節ー23節に、
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
と記されています。
18節には、
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
と記されています。新改訳では訳し出されていませんが、この18節の初めには「なぜなら」というように理由を表す接続詞(ガル)があります。ですから、18節に記されていることはその前の17節で、
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
と言われていることとつながっていて、その理由を示しています。
このつながりに注目しますと、18節で、
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
と言われているときの「今の時のいろいろの苦しみ」は、私たちがキリストと「栄光をともに受けるために」キリストと「苦難をともにしている」という意味での苦しみのことであると考えられます。
そして、19節ー21節に記されている、
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
というみことばにおいても、19節に接続詞(ガル)があります。それで、19節ー21節に記されていることは、18節で、
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
と言われていることにつながって、その理由を示しています。
これによって、私たちがキリストと「栄光をともに受けるために」キリストと「苦難をともにしている」という意味の苦しみが、19節以下に記されていること、すなわち、私たちが被造物全体の「うめき」の中で、ともにうめきつつ苦しむ苦しみであることが示されています。
ここで「今の時のいろいろの苦しみ」と言われているときの「今の時」(ホ・ヌン・カイロス)は、「主」の贖いの御業の歴史における「今の時」で、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによってなし遂げられた贖いの御業に基づいて、再創造される新しい天と新しい地の歴史としての「来たるべき時代」と対比されます。それは、一つには、「今の時」ということば(ホ・ヌン・カイロス)がそのようなことを表すためのいわば「専門用語」のようなものであるからです。また、この18節ー23節においては、「被造物全体」が、私たち「主」の契約の民とともに、回復と栄光化を求めてうめいているということが取り上げられているからです。私たち「主」の契約の民は「私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」が、その回復は栄光のキリストの再臨の日に実現し、完成します。このように、「今の時」は、栄光のキリストの再臨の日までの時を示しています。
ですから、
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
と言われているときの「今の時のいろいろの苦しみ」は、個人的に、自分が生きている間の苦しみや、自分が将来どうなるかということで終わるものではなく、「被造物全体」が回復されることを求めて、今に至るまでうめき続けているということに心を注いでいるために味わっている苦しみです。そこには、「被造物全体」のうめきの中に自分の苦しみもあり、その苦しみの中で自分も「被造物全体」が回復されることを求めてうめいているという理解があります。このことには神さまの創造の御業がかかわっています。そのことについては、日を改めてお話しします。
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