黙示録講解

(第282回)


説教日:2017年2月19日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(35)


 今日も、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられることについてのお話を続けます。ここでイエス・キリストは、ご自身が、「」がダビデに与えてくださった契約、ダビデ契約において約束してくださった、まことのダビデの子として、永遠の王座に着座して治めるメシアであることを示しておられます。
 今は、このことと関連することとして、ヘブル人への手紙1章1節ー3節に、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されていることについてお話ししています。
 今取り上げているのは、2節前半に、

 神は、御子を万物の相続者とし

と記されていることについてです。
 これは御子イエス・キリストが「相続者」であることと、「相続者」である御子イエス・キリストが相続する相続財産が「万物」であるということにかかわる問題です。古い契約の下では「相続者」と相続財産にかかわる契約は、「」がアブラハムに与えてくださった契約、すなわち、アブラハム契約です。
 先主日には、相続人としてのアブラハムの子孫のことに触れているローマ人への手紙4章13節に、

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

と記されているみことばについてお話ししました。
 それを振り返っておきますと、ここに記されていることで、今お話ししていることとかかわっているのは、二つのことです。
 第一に、アブラハムとその子孫に与えられた約束は「世界の相続人となるという約束」という約束であったということです。ここでは、相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐのは「世界」であると言われていますが、この場合の「世界」とは何であるかが問題となります。
 第二に、アブラハムとその子孫に

 世界の相続人となるという約束があたえられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった

ということです。
 この二つのことの歴史的な背景は、創世記15章に記されています。今日は、今日は、お話が戻る感じになりますが、すでにお話ししたことを少し補足してから、さらに、アブラハムの生涯をとおして、相続人としてのアブラハムの子孫について教えられていることを、特に、割礼とのかかわりで、お話ししたいと思います。
 15章1節ー2節には、

これらの出来事の後、のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
 「アブラムよ。恐れるな。
 わたしはあなたの盾である。
 あなたの受ける報いは非常に大きい。」
そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。

と記されています。
 ここで、アブラハムは、「」が、

 あなたの受ける報いは非常に大きい。

と語りかけてくださったことに対して、アブラハムの家の「相続人」がだれであるかを問いかけています。
 アブラハムはこの時より前に、何度か「」が語りかけてくださったみことばを聞いています。けれども、語りかけてくださった「」に応答したことが記されているのは、この時が初めてです。このことは、それまでアブラハムは「」が示してくださったことを、そのまま信じ、受け入れて、従ってきたことを示しています。このことは、また、アブラハムにとって、「相続人」としての子がなかったことが、とても重大な問題であったことを示しています。そして、

ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう

と述べていることから分かりますように、アブラハムは、そのことは、「」が自分に「子孫」を与えてくださっていないことによっていると理解していました。
 ここでは、

 あなたが子孫を私に下さらないので

というように、「子孫」ということば(ゼラァ)が用いられています。これは、アブラハムが「」の召しに従って、カナンの地に来た時のことを記している12章7節に、

そのころ、がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。

と記されていること、さらに、13章15節ー16節に記されていますが、アブラハムと甥のロトの財産が増えて二人のしもべである牧者たちの間にいさかいが起こるようになったため、二人が別れて住むようになったとき、どこに住むかを選ぶ上での優先権を甥であるロトに与えて、アブラハムはカナンの地に住むようになったとき、「」がアブラハムに、

わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。

と約束してくださったことを受けています。
 また、ここ(15章2節)で、

 ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので

と言われているときの「ご覧ください」のすぐ後に、「私に」ということば(リー)が出てきて、

 私に、あなたが子孫を下さらないので

というように、「私に」が強調されています。これは、「」がこのような約束を与えてくださっている、この「私に」ということでしょう。
 もちろん、これは、アブラハムが「」の約束を疑うようになっていたということではありません。ただ、その約束がどのような形で実現するかということを、その当時の習慣に照らして、問いかけているのです。その当時には、子どもがいない夫婦にとって、忠実なしもべが相続人となることがあったことが知られています。
 「」もその問いかけがもっともなものであることをお認めになって、アブラハムに応えてくださっています。そのことが、15章4節ー5節に、

すると、のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

と記されています。
 そして、これに続く6節に、

 彼はを信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。これが、新約聖書に繰り返し出てくる、アブラハムが信仰によって義と認められたということです。
 アブラハムが12章1節ー3節に記されている「」からの召しと祝福の約束を受けてカナンに向けて旅立ったのは、12章4節に記されているように、アブラハムが75歳の時でした。11章10節ー26節に記されている「セムの歴史」を見ますと、大洪水によるさばきが執行された後に生まれた父祖たち(セムは大洪水によるさばきの前に生まれているので除きます)は、アルパクシャデからペレグの父エベルまでは4百数十年生き、ペレグ以後は2百数十年生きました。この寿命の半減は、10章25節に記されているように、ペレグの時代にバベルにおけるさばきが執行されたことによっています。これらすべての父祖たちには、アブラハムの父テラを除いて、30代に子どもを生んでいます。その唯一の例外であるテラも、70歳になってアブラハムと弟たちを生んでいます。ですから、75歳になっても子がなかったアブラハムが「」の召しと約束を信じてカナンの地に向かって旅立ったこと自体が、アブラハムの信仰を物語っています。
 しかし、「」はご自身の召しに従ったアブラハムの従順をもってアブラハムを義と認めてくださったのではありません。
 その後、「」はカナンの地に入ったアブラハムに、先ほど引用しましたみことばに記されていたように、カナンの地を、アブラハムとその子孫に与えてくださると約束してくださいました。そして、さらにいろいろな出来事が起こって時が過ぎていきましたが、アブラハムには子どもが生まれない状態が続きました。それは、「」が語りかけてくださったときに、アブラハムが、

 ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう

と答えるほかはなかったような状態でした。
 アブラハムがそのような状態にあったとき、「」はアブラハムに、

 ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。

と仰ってから、天の星を見せて、

 あなたの子孫はこのようになる。

と約束してくださいました。そして、そのように約束してくださった「」を信じたアブラハムを義と認めてくださいました。
 アブラハムが先ほどお話ししましたような事情の中にあったことを考えますと、この「」の約束は、人間的な目から見ると、ありえないとしか思えないようなことでした。アブラハムには、ただそのように約束してくださった「」を信じることしかありませんでした。
 これらのことを踏まえて見ますと、「」はアブラハムを信仰によって義と認めてくださるために、この時まで待っておられたと考えるほかはありません。あるいは、アブラハムをこのような状態になるまで導いてくださってから、アブラハムを信仰によって義と認めてくださったと言ったらいいでしょうか。これによって、アブラハムが義と認められたのはただ信仰によるのであって、アブラハムの行いにはよらないということが、この上なく明確に示されました。
 それと同時に、そのアブラハムの信仰は、アブラハムから、相続人としてのアブラハムの子孫を起こしてくださり、それが天の星のようになるという約束を与えてくださった「」を信じる信仰でした。それは、また、相続人としてのアブラハムの子孫に関する「」の約束を信じる信仰でした。
 このことを受けて、パウロは、

世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった

と記しています。


 「」はこのアブラハムの信仰を受けて、直ちに、アブラハムに相続人としての子を与えてくださったのではありません。実際に、相続人としての子が与えられるようになるまでに、「」はさらにいくつかのことを教えてくださっています。
 その一つが、 おそらく、サラは自分が不妊の女であることを自覚していたからでしょう、そのサラの提案を受けて、アブラハムがハガルによってイシュマエルを生んだことです。「おそらく」というのは、11章30節に、
  サライは不妊の女で、子どもがなかった。
と記されていますが、ここでサラが「不妊の女」であったと言われていることは、いわば客観的なことです。それで、必ずしもサラがそのことを知っていたとは限りません。いずれにしましても、それは、16章3節に記されているように、アブラハムがカナンの地に来てから10年目のことで、アブラハムが85歳の時でした。そして、その翌年、アブラハムが86歳の時に、イシュマエルが生まれました。これは「」の約束を自分たちの考えによって実現しようとしたことでした。けれども、それによって生まれたイシュマエルは、確かにアブラハムの子でしたが、相続人としてのアブラハムの子ではありませんでした。
 実際に、相続人としてのアブラハムの子が与えられるようになるまでには、なお十数年待たなければなりませんでした。17章1節ー2節に、

アブラムが九十九歳になったときはアブラムに現れ、こう仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

と記されているように、「」がアブラハムと契約を結んでくださったのは、アブラハムが99歳になったときでした。それは、イシュマエルが生まれてから13年後のことです。
 7節ー8節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されているように、「」はアブラハムと契約を結んでくださいました。
 そして、続く9節ー14節には、

ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

と記されています。「」は契約のしるしとして割礼を与えてくださいました。
 ここで、今お話ししていることとのかかわりで注目しておきたいことが二つあります。
 一つは、割礼は、男子が「生まれて八日目に」授けるということです。これは、そのほかの民族で、思春期から成人となり、大人の社会の一員となったことのしるしとしてなされた割礼と異なっています。アブラハム契約のしるしとしての割礼は、生まれた子どもが「」の契約共同体の中にあることを示しています。
 もう一つは、割礼は契約のしるしですが、それは、アブラハムの子たちだけでなく、アブラハムの家のすべての男子に施すようにと命じられていることです。これにはアブラハムのしもべや金で買い取られたしもべたちと、その子どもたちが含まれています。
 この人々はアブラハムの子孫ではありませんので、「」がアブラハムと結んでくださった契約の祝福にあずかっていないのではないかと思われそうです。
 私はこの点に関して論じられているものに接することができないので、このことが、一般にどのように考えられているのかは分かりません。ただ私は、このことにも、先主日にお話ししたように、相続人としてのアブラハムの子孫は、アブラハムとの血肉のつながりさえあればいいわけではないという、みことばの教えが当てはまると考えています。
 これを積極的に言いますと、相続人としてのアブラハムの子孫とはアブラハムの信仰に倣う人のことです。確かに、アブラハムの家の者となって、割礼を受けていることで自動的に相続人としてのアブラハムの子孫になるわけではありません。けれども、アブラハムの家の者となったという特権にあずかっている人が、アブラハムが信じている「」を信じるようになっているとしたら、 その人はアブラハムのしもべであったとしても、アブラハムの霊的な子孫になっているはずです。その意味では、その人も相続人としてのアブラハムの子孫になっているはずです。
 すでにお話ししましたように、アブラハム契約においても、相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産は、最終的には「」ご自身であり、「」との愛にあるいのちの交わりです。アブラハムの家のしもべたちの中で、アブラハムに倣って「」を信じるようになった人は、「」との愛にあるいのちの交わりにあずかっていたことでしょう。
 このような考えは、新約聖書の教えを読み込んでいると言われるかもしれません。しかし、繰り返しになりますが、これは先主日にお話しした、アブラハムの生涯について記しているみことばから引き出すことができる結論です。
 また具体的な例もあります。アブラハムがイサクに嫁を迎えるために、親族の住んでいるアラム・ナハライムにしもべを遣わしたことを記している24章1節ー4節には、

アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神であるにかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」

と記されています。
 ここで、アブラハムは、しもべに「天の神、地の神であるにかけて誓わせ」ています。これは、そのしもべが「」を信じているからこそのことではないでしょうか。さらに、このしもべがアラム・ナハライムのナホルの町に行った時のことを記している11節ー14節には、このしもべが「」に祈っていることが記されています。また、このしもべがリベカに出会ったときのことを記している26節ー27節には、

そこでその人は、ひざまずき、を礼拝して、言った。「私の主人アブラハムの神、がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」

と記されています。さらに、リベカの家族が、リベカがイサクの妻となることを認めたときのことを記している52節には、

アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏してを礼拝した。

と記されています。
 これらのことは、明らかに、この人がヤハウェ礼拝者であることを示しています。
 また、先ほど引用しました、15章2節に記されている、

私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。

というアブラハムのことばに出てくる「ダマスコのエリエゼル」は、アブラハムがナホルの町に遣わしたしもべである可能性がありますが、確かなことは分かりません。そのしもべが「エリエゼル」ではないとしても、このしもべはアブラハムに倣って「」を信じていた可能性があります。そうでなければ、アブラハムがこのように、彼のことを引き合いに出して、自分の「家の相続人」、すなわち、アブラハム契約の祝福の相続人になるのは「エリエゼル」ではないかと「」に問いかけることはなかったのではないでしょうか。
 これらのことから、アブラハムの家のしもべたちは、アブラハムとのかかわりにおいて祝福を受け、中には「」を信じるようになった人々がいたと考えられます。
 そのことは、また、12章3節において、「」がアブラハムに、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と約束してくださっていることにかかわっています。この約束は「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福を受けるようになると約束されているアブラハムは、また、アブラハムの家に属する者すべてにとっても祝福をもたらす存在でした。このことは、この時代に、この国、この社会において、アブラハムの霊的な子孫として生きている、私たち主の契約の民にも当てはまることです。

 しかし、これにはもう一つの面があります。
 17章に戻りますが、「」が契約のしるしとしての割礼を与えてくださったことに続いて、15節ー22節に、

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。

と記されています。
 これまでお話ししてきたこととのかかわりで注目しておきたいのは、20節に、

イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。

と記されているように、イシュマエルはアブラハムとのつながりのゆえに「」の祝福にあずかっています。けれども、それは、イシュマエルが「十二人の族長たちを生む」ようになるということから始まり、彼の子孫が非常に多くなるということであり、必ずしも、「」を信じるようになるということではありません。
 イシュマエルについては、16章12節に、

 彼は野生のろばのような人となり、
 その手は、すべての人に逆らい、
 すべての人の手も、彼に逆らう。
 彼はすべての兄弟に敵対して住もう。

と記されています。これはイシュマエルの誕生の前に「の使い」がハガルに語ったみことばです。
 このことの成就が、25章12節ー18節に記されている、「イシュマエルの歴史」に示されています。この「イシュマエルの歴史」という表題は、

 これはサラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である。

となっていて、イシュマエルがアブラハムの子ではあるけれども、「サラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだ」子であることが明記されています。この「イシュマエルの歴史」の最初(13節ー16節)には、イシュマエルが生んだ「十二人の族長たち」のことが記されています。そして、17節にイシュマエルの死が記されていて、最後の18節に、

イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。

と記されています。
 イシュマエルとその子孫たちは「」を神として礼拝することに基づく一致を実現することはなかったようです。
 17章15節ー22節に戻りますと、「」は、サラによってアブラハムに相続人としての子を与えてくださることを約束してくださいました。この時も、アブラハムは、それはイシュマエルのことではないかと問いかけました。これは、15章において、アブラハムがアブラハムの相続人はダマスコのエリエゼルではないかと問いかけたことと同じです。しかし、「」はアブラハムの問いかけに答えて、それはイシュマエルのことではなく、サラを通してイサクを与えてくださることと、イサクとイサクの子孫と永遠の契約を立ててくださると約束してくださいました。
 続く23節ー27節には、

そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。

と記されています。アブラハムは「」を信じて、自らも割礼を受け、アブラハムの家のすべての男子に割礼を受けさせました。
 これに関しても一つのことに注目しておきます。
 今引用しました23節ー27節は五つの節になりますが、そのうちの、三つの節(23節、25節、26節)において、イシュマエルが割礼を受けたことが記されています。これはイシュマエルがアブラハムとともに割礼を受けたことを強調するものです。けれども、先ほどお話ししましたように、これは、たとえアブラハムの血肉の子であり、アブラハムとともに割礼を受けたとしても、それでアブラハムの信仰に倣うアブラハムの霊的な子孫であるわけではないことを示す典型的な例となっています。
 ローマ人への手紙2章28節ー29節には、

外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

と記されています。ここに記されていることは、すでに、アブラハムの生涯の中で示されていたことです。


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