黙示録講解

(第281回)


説教日:2017年2月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(34)


 イエス・キリストはテアテラにある教会に語られたみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。これによってイエス・キリストは、ご自身が、一般に「ダビデ契約」と呼ばれる、「」がダビデに与えてくださった契約において約束してくださった、永遠の王座に着座して治めるダビデの子であるメシアであることを示しておられます。
 これまで、このことと関連することとして、ヘブル人への手紙1章1節ー3節に、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されていることについてお話ししてきました。
 今お話ししているのは、2節前半に、

 神は、御子を万物の相続者とし

と記されている中で、御子イエス・キリストが相続するのは「万物」であると言われていることについてです。
 これは「相続者」と相続財産にかかわっていますが、古い契約の下では、「相続者」と相続財産にかかわる契約は、「」がアブラハムに与えてくださった契約、すなわち、アブラハム契約です。
 アブラハム契約の根底にあるのは、創世記12章1節ー3節に記されている、「」がアブラハムを召してくださった時に与えてくださった祝福の約束です。その祝福の約束の中心にあるのは、3節に記されている、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

といういう約束です。
 この約束には歴史的な背景があります。それは11章1節ー8節に記されている、バベルにおける出来事です。「」はバベルにおいてさばきを執行され、人々を「地の全面に散らされ」ました。それで、アブラハムが受けた約束は、バベルにおけるさばきによって「地の全面に散らされた」「地上のすべての民族」が、アブラハムによって祝福されるという意味をもっています。
 それは、17章1節ー8節に記されている、「」がアブラハムと契約を結んでくださったことを記しているみことばに沿って言いますと、4節ー5節に、

 わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。

と記されているように、バベルにおけるさばきによって「地の全面に散らされた」「地上のすべての民族」の中から、アブラハムの霊的な子孫となって、「」がアブラハムに与えてくださった契約にあずかり、「」の契約の民となる人々が起こされるということを意味しています。


 「」はこのことを示してくださるために、アブラハムの生涯をとおして、相続人としてのアブラハムの子孫について、いくつかのことをアブラハムに示してくださっています。これからこのことについてお話ししますが、それは、これまでお話ししてきたことをまとめることになります。
 第一に、15章に記されていますが、「」はアブラハムの相続人としての子は、アブラハム自身から生まれてくることを約束してくださいました。そして、アブラハムはそのように約束してくださった「」を信じました、「」はそのアブラハムを義と認めてくださいました。
 これによって、アブラハムの相続人としての子は、「」が一方的な恵みによって与えてくださった約束によって生まれてくることと、「」を信じて義と認められたアブラハムの子であることが示されました。
 第二に、アブラハムは「」と「」の約束を信じました。しかし、11章30節に記されているように、サラは「不妊の女で、子どもがなかった」ということからでしょう、16章に記されているように、アブラハムはサラの提案を受け入れて、サラの女奴隷であったエジプト人ハガルによってイシュマエルを生みました。しかし、イシュマエルはアブラハムの相続人としての子ではありませんでした。
 これによって、アブラハムの相続人としての子は、アブラハムとの血肉のつながりさえあればいいわけではないこと、また、アブラハムの相続人としての子の誕生は、人の力や創意工夫によるものではないということが示されました。
 第三に、「」がアブラハムと契約を結んでくださったのは、そのことが記されている17章の1節に、

アブラムが九十九歳になったときはアブラムに現れ、こう仰せられた。

と記されているように、アブラハムが99歳になったときでした。「」はアブラハムと契約を結んでくださった後、15節ー16節に、

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

と記されているように、「不妊の女で、子どもがなかった」ばかりでなく、すでに、89歳になっていたサラによって、アブラハムの相続人としての子を与えてくださると約束してくださいました。そして、21章1節ー7節に記されているように、「」はサラを妊らせてくださり、イサクが生まれるようにしてくださいました。
 これによって、アブラハムの相続人としての子は、「」の創造者としてのお働きによって生まれてくる子であるということが示されています。
 第四に、22章1節ー19節に記されていますが、神さまはそのようにして生まれたアブラハムの相続人としての子であるイサクを、全焼のいけにえとしてご自身にささげるようお命じになりました。そして、アブラハムは神さまが命じられたように、その子イサクを神さまにささげました。それは、「」が備えてくださった雄羊をイサクの身代わりとしてささげるという形を取っていますが、アブラハムとしてはイサクを神さまにささげましたし、神さまもイサクをご自身のものとして受け取ってくださいました。これによって、イサクは神さまのものとなりました。
 アブラハムは、もはや自分のものではなく、神さまのものとなったイサク、「新しいイサク」を神さまから与えていただいています。その意味で、イサクはアブラハムとの血肉のつながりのゆえにアブラハムの子であるということを越えた、まったくの恵みによって神さまから与えられたもの、という新しいつながりにおいてアブラハムの子となっています。ヘブル人への手紙11章17節ー19節に、

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

と記されているとおりです。
 ここで注目されるのは、

 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われた

ということです。これは創世記21章12節に記されていることで、そこでは、ハガルによって生まれたイシュマエル、彼も血肉のつながりから言えばアブラハムの子で、イサクより14歳年上ですが、そのイシュマエルではなく、「イサクから出る者」がアブラハムの相続人としての子であるということを意味しています。ヘブル人への手紙は、その神さまの約束に基づいて、アブラハムは、

 神には人を死者の中からよみがえらせることもできる

と考えた、とあかしされています。そして、その信仰のとおり、アブラハムは「死者の中からイサクを取り戻した」とあかしされています。
 この「新しいイサク」こそが、神さまが、アブラハムに、

 イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる

と言われた、相続人としてのアブラハムの子であり、アブラハムの子孫がどのような者であるかを表す典例です。
 創世記22章18節に記されているように、「」はこの「新しいイサク」を指して、アブラハムに、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と約束してくださいました。このように、「」は「新しいイサク」に、12章3節に記されていた、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

といういうアブラハムに与えられた祝福の約束を受け継がせてくださいました。
 これらのことを考え合わせると、相続人としてのアブラハムの子孫がどのような者であるかは、すでに古い契約のもとで示されていることが分かります。それをまとめますと、相続人としてのアブラハムの子孫は、信仰によって義とされたアブラハムの子孫であること、神さまの創造的なお働きによって生み出されたアブラハムの子孫であること、そして、必ずしもアブラハムとの血肉のつながりのある者とは限らず、「」が備えてくださった身代わりの雄羊が指し示しているいけにえをとおして、「」のものとしてささげられて、「」のものとなっているアブラハムの子孫のことであることが分かります。
 そうであれば、アブラハムとの血肉のつながりがない異邦人の中からも、このような意味をもっている相続人としてのアブラハムの子孫となる人々が出てくるはずです。

 ローマ人への手紙では、相続人としてのアブラハムの子孫のことは4章に出てきます。4章13節には、

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

と記されています。
 ギリシア語原文では、「律法によってではなく」ということばが13節の最初に出てきて強調されています。そして、それが13節の最後にある「信仰の義によった」ということと対比されています。ギリシア語においては、あることを強調するために、そのことを最初に記したり、最後に記したりします。ですから、ここでは「律法によって」ということと「信仰の義によった」ということの対比が強調されています。
 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、ここでは、アブラハムとその子孫に与えられたのは「世界の相続人となるという約束」であったと言われているということです。問題となるのは、ここで「世界の相続人」と言われているときの「世界」が何を意味するかということです。
 まず考えられるのは、先ほど取り上げました、「」がアブラハムを召してくださったときに与えてくださった、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という約束です。そして、その「世界」とは「世界」の住人のこと、すなわち「地上のすべての民族」のことではないだろうかという気がします。
 けれども、この「」がアブラハムに与えてくださった祝福は、これまでお話ししてきましたように、「地上のすべての民族」が「相続人」としてのアブラハムの子孫になるという祝福です。そして、その「相続人」である「地上のすべての民族」が受け継ぐ相続財産が「世界」です。それで、「地上のすべての民族」が「世界」であると考えることはできません。
 また、それで、「世界の相続人」が受け継ぐ「世界」とは、アブラハム契約のことを記している創世記17章7節ー8節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されている、「」がアブラハムに与えてくださった契約に約束されている「カナン」の地が表しているものの本体であると考えたほうがいいと思われます。
 このローマ人への手紙4章では、そのカナンの地の本体が何であるかということは説明されてはいません。4章では、

世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

と言われているときの、

 律法によってではなく、信仰の義によった

ということを中心として論述が展開しています。

 律法によってではなく、信仰の義によった

ということは、3章21節から論じられていますが、アブラハムにかかわることは4章の初めから論じられています。1節ー3節には、

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。

と記されています。ここでは、アブラハムは自分の行いによってではなく、主を信じる信仰によって義と認められたということが示されています。つまり、

 律法によってではなく、信仰の義によった

ということが論じられているのです。
 そして、9節ー12節には、契約のしるしとしての割礼を受けることと義と認められることの関係が記されています。アブラハムが信仰によって義と認められたことは創世記15章6節に記されており、アブラハムが割礼を受けたことは創世記17章23節ー27節に記されています。ここでは、このことに基づいて、アブラハムが信仰によって義と認められたのは、まだ割礼を受けていないときのことであったということが示されています。そして、11節ー12節には、

彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

と記されています。
 これはユダヤ人だけでなく、異邦人たちも信仰によって義と認められるということに触れるものです。その意味で、これは先ほど取り上げた創世記17章4節ー5節に、

 わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。

と記されていることとの関連で考えられる、バベルにおけるさばきによって「地の全面に散らされた」「地上のすべての民族」の中から、アブラハムの霊的な子孫となって、「」がアブラハムに与えてくださった契約にあずかり、「」の契約の民となる人々が起こされるということとつながっています

 ローマ人への手紙4章では、今取り上げた9節ー12節に続く13節に、

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

と記されています。
 これには、二つのことがかかわっています。一つは、今問題としている「世界の相続人となるという約束」のことです。もう一つは、その約束が与えられたのは、

 律法によってではなく、信仰の義によった

ということです。そして、ローマ人への手紙では、その二つのことのうちの、その約束が与えられたのは、

 律法によってではなく、信仰の義によった

ということの方を先に論じています。その論述は4章から8章まで続いています。
 そうではあっても、「世界の相続人となるという約束」のことが忘れられているわけではありません。すでにお話ししましたように、アブラハムが信仰によって義と認められたと言われているときの信仰が、「相続人」としてのアブラハムの子孫に関する主の約束を信じる信仰であったからです。
 このように、ローマ人への手紙では8章に至るまで、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められることの意味が論じられています。

 イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められたことによる祝福の頂点は、8章14節ー16節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

と記されていることにあります。
 先主日お話ししましたように、「」の契約の祝福には二つの面があります。一つの面は、レビ記26章12節後半に記されている、

 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という「」のみことばに示されています。「」がイスラエルの民の民の神となってくださり、イスラエルの民を「」の民としてくださるということです。これは「」とその民の関係に基づいて、「」がご自身の民をご自身との愛にある親しい交わり生きるものとしてくださることを意味しています。そして、「」はその祝福を実現してくださるためにご自身の民の間にご臨在してくださいます。それが、レビ記26章11節ー12節前半に記されている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

という「」のみことばに示されている、「」の契約の祝福のもう一つの面です。
 ローマ人への手紙8章14節ー16節に記されているみことばは、この「」の契約の祝福が、「」とその民の関係から、「」と「」の関係にまで高められ、深められていることを示しています。
 ここでは、私たちは「神の御霊に導かれ」て父なる神さまに向かって親しく「アバ、父」と呼ぶことができると言われています。父なる神さまに向かって親しく「アバ、父」と呼ぶことは、本来、御子イエス・キリストご自身の特権です。私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれて、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を完全に贖っていただき、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義にあずかって義と認められています。そればかりか、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれています。
 このように、父なる神さまは、その愛に基づく一方的な恵みによって、私たちを御子イエス・キリストと一つに結び合わせてくださり、ご自身の「養子」として受け入れてくださいました。ここでは、私たちは「子としてくださる御霊を受けた」と言われていますが、この「子としてくださる」と訳されていることば(ヒュイオセシア)は「養子とすること」を意味しています。その当時の法律では、ローマ法もヘブルの法も、養子は実子と同じ特権にあずかるとされていました。
 ローマ人への手紙8章では、「」の契約の祝福のもう一つの面も示されています。9節ー11節には、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と記されています。
 ここには、「あなたがた」と呼ばれている「」の民に関して「もし・・・なら」という条件節が三つ出てきます。そのどれもが、そのことが現実となっていることを示すものです。たとえば、9節では、

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら

と言われていますが、これは実際に「神の御霊」が私たちのうちに住んでおられるという意味合いを伝えるものです。ですから、ここでは、「神の御霊」が私たちのうちに住んでおられることが示されています。同様に、「キリストが」私たちのうちにおられ、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が」私たちのうちに住んでおられることが示されています。これは、レビ記26章11節ー12節前半に記されている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

という「」のみことばに示されている、「」の契約の祝福のもう一つの面に当たることです。

 このように、ローマ人への手紙8章1節ー16節においては、4章から論じられてきた、

世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった

ということのうちの、

 律法によってではなく、信仰の義によった

ということがもたらす祝福の頂点に当たることが示されています。その頂点に当たることは、「神の御霊」が私たちのうちに住んでくださっており、私たちはその「神の御霊」に導いていただいている神の子どもとしていただいていること、そして、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼ぶことができるほどの親しさにおいて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができるということにあります。
 このような祝福を示している1節ー16節に続く17節には、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と記されています。ここに、「相続人」のことが出てくるのは唐突なことのように感じられるかもしれません。けれども、これは4章から論じられてきた、

世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった

ということの「世界の相続人」のことが取り上げられているのです。
 この「世界の相続人」と言われているときの「世界」が何であるかは、8章18節以下に示されています。これについては、日を改めてお話しします。


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