黙示録講解

(第280回)


説教日:2017年2月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(33)


 今日も、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられることと関連するお話を続けます。この場合の「神の子」は、「」がダビデ契約において約束してくださった、永遠の王座に着座して治めるダビデの子であるメシアを指しています。
 これまで、このことと関連することとして、ヘブル人への手紙1章1節ー3節に、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されていることについてお話ししてきました。
 今取り上げているのは、2節前半に、

 神は、御子を万物の相続者とし

と記されている中で、御子イエス・キリストが相続するのは「万物」であると言われていることについてです。
 これは相続財産にかかわる問題ですが、古い契約の下では、「相続者」としての子にかかわる契約は、「」がアブラハムに与えてくださった契約、すなわち、アブラハム契約です。
 アブラハム契約は、創世記12章1節ー3節に記されている、「」がアブラハムを召してくださった時に与えてくださった祝福の約束に深くかかわっています。その中心にあるのは3節に記されている、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

といういう約束です。
 この約束は、11章1節ー8節に記されている、バベルにおいて「」がさばきを執行されて、人々を「地の全面に散らされた」ことを背景としています。それで、アブラハムが受けた約束は、バベルにおけるさばきによって「地の全面に散らされた」「地上のすべての民族」が、アブラハムによって祝福されるという意味をもっています。
 聖書に示されている祝福は契約の神である主、ヤハウェとの関係における祝福です。それで、12章3節に記されている「」の約束は、バベルにおけるさばきによって「地の全面に散らされた」「地上のすべての民族」がアブラハムによって「」の契約の民となり、「」の契約の祝福にあずかるようになるということを意味しています。


 この「」の契約の祝福については、いろいろな機会にお話ししてきましたが、今日は、アブラハム契約を念頭に置きながら、お話ししたいと思います。
 「」の契約の祝福は二つのことに集約されます。二つのことといっても、その二つは一つのことの裏表のような関係にあり、互いに意切り離すことはできません。それで、その二つのことは「」の契約の祝福の二つの面であると考えられます。
 「」の契約の祝福のことは聖書のいろいろな個所に示されていますが、その二つの面を最もよく示していると思われる箇所は、レビ記26章11節ー12節です。そこには、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という「」のみことばが記されています。このみことばに基づいて、「」の契約の祝福の二つの面についてお話しします。
 「」の契約の祝福の一つの面は、11節ー12節前半に記されている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

という「」のみことばに示されています。これは、「」がご自身の民の間に「住まい」を建ててくださり、彼らの間にご臨在してくださって、彼らとともに歩んでくださることを約束してくださっています。
 「」が、

 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。

と言われているときの「わたしの住まい」は、イスラエルの民が荒野を旅する時代には主の幕屋を表しています。これは、後の王国の時代には、イスラエルの民はカナンの地に定住するようになりますので、それに則して、「」の神殿として発展します。いずれも、「」の御臨在の場所を表す地上的なひな型です。
 すべての人は神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっています。そのような人の間に「」がご臨在されるなら、人は「」の聖さを冒す者として、たちまちのうちに滅ぼされてしまいます。ですから、そのような人の間に「」がご臨在してくださるためには、人の罪が完全に清算され、その人が贖われなければなりません。それで、「」がご自身の「住まい」として与えてくださった幕屋においても、神殿においても、「」の契約の民の罪の贖いのために、動物のいけにえとそれがささげられる祭壇が備えられていました。これも、やがて「」が備えてくださる「永遠のいけにえ」としての御子イエス・キリストをあかしする「地上的なひな型」でした。
 また、「」が、

 わたしはあなたがたの間を歩もう。

と言われるときの「歩もう」ということばは強調形(ヒスパエル語幹)で表されていて、「歩き回る」という意味合いを伝えています。これと同じ形は、エデンの園に置かれた人とともに歩んでくださるためにそこにご臨在された「」のことを記している創世記3章8節において、

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

と言われているときに用いられています。これは、最初の人であるアダムとその妻エバが神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後のことを記すものです。その時もなお、「」はそれまでと同じように、そこにご臨在してくださっています。それは、「」がアダムとエバとの親しい交わりを持ってくださるためでした。本来、アダムとエバにとって、「」との交わりは最も祝福に満ちた時となるはずでした。しかし、その時は、「」の御臨在が恐怖の的となってしまっていました。
 また、強調形(ヒスパエル語幹)で表されている「歩む」ということばは、人が神である主とともに歩むことを表すときにも用いられています。その例をいくつか見てみます。
 創世記5章22節に、

 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。

と記されており、24節に、

 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

と記されているエノクの生涯や、6章9節に、

 ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

と記されているノアの生涯を表すのに用いられています。また「」がアブラハムと契約を結んでくださるに当たってアブラハムに、

 わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

と語られたみことばにも用いられています。
 それで、「」が、

 わたしはあなたがたの間を歩もう。

と言われることは、「」がご自身の契約の民とともに歩んでくださること、すなわち、生活をともにしてくださるほどに、親しい交わりをもってくださることを意味しています。それは、また、「」の契約の民が、自分たちの間にご臨在してくださっている「」とともに歩むことを伴っています。このような、「」との親しい交わりこそが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。
 この「」の契約に基づく「」の御臨在は、新しい契約の下においては、ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されているイエス・キリストの受肉において成就しています。
 また、それはエペソ人への手紙1章23節に、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されている、栄光のキリストの御霊がキリストのからだである教会にご臨在してくださっていることにおいて、より豊かなものとなっています。
 そして、最終的には、黙示録21章1節ー4節に、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されていることにおいて完成します。

 「」の契約の祝福のもう一つの面は、先ほど引用しましたレビ記26章12節後半に記されている、

 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という「」のみことばに示されています。
 ここでは、

 わたしはあなたがたの神となる

ということと、

 あなたがたはわたしの民となる

ということが言われています。この二つのことも一つのことの裏表のような関係にあります。それで、「」が私たちの神となってくださっているなら、私たちは、必ず、「」の民となっています。また、この「逆も真なり」で、「」の民となっていれば、必ず、「」が私たちの神となってくださっています。
 これは、「」の御前における「」契約の民の身分を表しています。このみことばは「」と「」の契約の民の間に、「私」と「あなた」あるいは「あなたがた」という人格的な関係があることを示しています。そして、この、

 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

というみことばに示されている「」と「」の契約の民との関係が、「」と「」の契約の民との愛にあるいのちの交わりの法的な基盤です。それは、夫と妻が親しい交わりのうちに生活をともにすることの法的な基盤が結婚に関係にあるのと同じです。
 この「」の契約に基づく「」と「」の民の関係は、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を贖われ、御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって復活のいのちによって生かされている私たちの間では、「父」と「子」の関係にまで深められ、高められています。そして、イエス・キリストにあって、そのような関係にある私たちと父なる神さまの愛にあるいのちの交わりも、それにふさわしく深められ、高められています。ガラテヤ人への手紙4章4節ー7節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されているとおりです。
 このように、レビ記26章11節ー12節には、「」の契約の祝福の二つの面が記されています。それで、「」が、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

と言われるように、私たちの間にご臨在してくださっているなら、必ず、

 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と言われることも、私たちの現実になっています。あるいは、その逆に、「」が私たちの神となり、私たちが「」の民となっているなら、「」は必ず、私たちの間にご臨在してくださっています。
 この、「」の契約の祝福の二つの面を併せて見ると次のようになります。「」は、

 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と言われるように、私たちをご自身の民としてくださっており、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださっています。それは、「」が、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

と言われるように、私たちのごく日常的なことにおいても、すなわち、私たちの生活のすべてのことにおいて「」ご自身が私たちとともにいてくださって、私たちとともに歩んでくださるということを意味しています。

 父なる神さまは、ご自身の契約において約束してくださった祝福を実現してくださるために、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からよみがえって私たちを復活のいのちによって新しく生かしてくださったのは、この契約の祝福を私たちの間に実現してくださるためでした。
 このことを考えますと、イエス・キリストの誕生の次第を記しているマタイの福音書1章22節ー23節に、

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

と記されているように、ご自身の民のために贖いの御業を遂行される贖い主の預言された御名が「神は私たちとともにおられる」という意味の「インマヌエル」であったということの意味が理解できます。「インマヌエル」という御名は、「」の契約の祝福を表しており、その御名においてお働きになる贖い主は、「」の契約の祝福を私たちの間に実現してくださる方であるのです。
 このように、「」がご自身の契約において約束してくださっている祝福は、十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からよみがえってくださって私たちを復活のいのちで生かしてくださっているイエス・キリストにあって、私たちの間で実現しています。そして、この祝福は、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって、完全に実現します。この終りの日に、私たちは栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちをもつようになります。それは、今すでに父なるの子どもとされるまでに「」の御臨在の御許に近づけられている私たちが、完全に御子イエス・キリストの栄光に満ちたいのちにあずかって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりをこの上なく深く、豊かなものとしていただくということを意味しています。
 このように、「」の契約において約束されている祝福はさらに深められ、豊かにされていきます。そのどの段階にあっても、大切なことは、「」と私たちとの愛の交わりは、「」がその一方的な愛と恵みによって与えてくださった契約関係における交わりであるということです。そして、愛の交わりにおいては、その相手の存在そのものが最も大切なものであるということです。私たちは「」ご自身を愛しており、「」が神であられることを喜びます。「」も私たち自身を愛してくださり、私たちがご自身の民であることを喜んでくださっています。
 この契約の神である「」ご自身が私たちの愛の目的であることは、しばしば、「」が私たちの相続財産であるということばで表されています。
 詩篇16篇5節には、

 は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。
 あなたは、私の受ける分を、
 堅く保っていてくださいます。

と記されています。また、73篇25節ー26節には、

 天では、あなたのほかに、
 だれを持つことができましょう。
 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
 この身とこの心とは尽き果てましょう。
 しかし神はとこしえに私の心の岩、
 私の分の土地です。

と記されています。

 このことをアブラハム契約とのかかわりで見てみましょう。アブラハム契約のことは、創世記17章7節ー8節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

と記されています。
 この「」のみことばにおいて、「相続財産」に関する約束は、

わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。

という「相続地」に関する約束となっています。この約束は、これに先立つ、

 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

という「」が契約を与えてくださった目的を表わすことばと、最後に記されている、

 わたしは、彼らの神となる。

という約束のことばに挟まれています。
 このことから、「」がアブラハムとその子孫たちにカナンを相続地として与えてくださるのは、その約束の地において「」がアブラハムとその子孫たちの神となってくださり、彼らが「」の民となるためであったことが分かります。
 このことには、先ほどお話ししました「」の契約の祝福の二つの面がかかわっています。ここに記されているように、「」がアブラハムとその子孫たちの神となってくださるなら、「」は必ずアブラハムとその子孫たちの間にご自身の住まいをお建てになり、アブラハムとその子孫たちの間を歩まれます。そして、アブラハムとその子孫たちは「」の御臨在の御前に歩むようになり、「」との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになります。約束の地であるカナンは、「」がこのことを実現してくださるために与えられています。
 これらのことから、「」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福の中心は、アブラハムとその子孫たちが「」ご自身を相続財産として受け継ぐことにあったことが分かります。
 先ほど、このことが新しい契約の下では、私たち主の契約の民と神さまとの関係が「父」と「子」の関係にまで深められ、高められているということをお話ししました。そのことを記している、ガラテヤ人への手紙4章4節ー7節には、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されていました。
 ガラテヤ人への手紙では、このみことばに示されている祝福も、アブラハム契約の祝福の成就として示されています。このみことばに先立って3章26節ー29節には、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されています。
 26節では、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

と言われています。このことから直ちに「子であれば相続人です」と言ってもいいはずです。実際、ローマ人への手紙8章17節では、

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。

と言われています。しかし、ここでは、そう言われないで、私たちがイエス・キリストのものとなっていることを示した上で、

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と述べています。
 この「約束による相続人」が受け継ぐ相続財産は、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが、ご自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによってなし遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地です。先ほども引用しましたが、その新しい天と新しい地におけることを記している黙示録21章3節には、

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。・・・」

と記されています。「御座から出る大きな声」は、まず、

 見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、

と言っています。これは、レビ記26章11節ー12節前半に記されている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

という「」の契約の祝福が、新しい天と新しい地において、完全に実現することを示しています。そして、「御座から出る大きな声」は、続いて、

 彼らはその民となる。

と言っています。これは、レビ記26章12節後半に記されている、

 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という「」の契約の祝福が、新しい天と新しい地において、完全に実現することを示しています。
 このことにも、これまでお話ししてきたことがそのまま当てはまります。私たち神の子どもが新しい天と新しい地を相続するのも、アブラハム契約の約束にもとづくことですが、それも、そこ(新しい天と新しい地)で、私たちが神ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためであることが分かります。それは、また、神ご自身こそが、私たち神の子どもが受け継ぐ相続財産の中心であるということを意味しています。
 アブラハムが受けた約束は、バベルにおけるさばきによって「地の全面に散らされた」「地上のすべての民族」が、アブラハムによって祝福を受けるようになるということです。その祝福は、「地上のすべての民族」の中から、「」ご自身を相続財産として受け取り、「」との愛にあるいのちの交わりにあずかるようになる人々が、「」の御臨在の御許に集められるようになることを意味しています。


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