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説教日:2017年1月29日 |
これらのこと踏まえた上で、「主」はアブラハムと契約を結んでくださいました。しかし、それは、「主」がアブラハムと契約を結んでくださったことを記している17章1節ー2節に、 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。 「わたしは全能の神である。 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。 わたしは、わたしの契約を、 わたしとあなたとの間に立てる。 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」 と記されているように、アブラハムが99歳になった時のことです。これは、イシュマエルが生まれてから13年後のことであり、アブラハムが「主」から召しを受けてから24年後のことです。この時、サラは89歳でした。 この時、「主」は、 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。 と約束されました。これは、先ほど取り上げました、アブラハムが召しを受けた時に「主」が与えられた祝福の約束の一つ、 わたしはあなたを大いなる国民とする という約束を受けています。アブラハムは「主」から召しを受けた時、75歳でしたから、ここで、 わたしはあなたを大いなる国民とする という約束を受けたのは、その時から24年後のことです。 17章では、1節ー2節に続いて、3節ー6節に、 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。 「わたしは、この、わたしの契約を あなたと結ぶ。 あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、 もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の 父とするからである。 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。 と記されています。 これは、4節に記されている、 あなたは多くの国民の父となる。 という約束や、5節に記されている、 わたしが、あなたを多くの国民の 父とする(からである)。 という約束から分かりますが、アブラハムが召しを受けた時に「主」が与えられた祝福の約束のうちのもう一つの、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束を受けています。これによって、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という祝福の約束は、「主」が「地上のすべての民族」の中からアブラハムを「父」とする人々を集められることによって実現するということが示されています。 そして、アブラハムを「父」とする人々とは、これまでお話ししてきたことから分かりますように、相続人としてのアブラハムの子孫です。 先ほどお話ししましたように、アブラハムが召しを受けた時に「主」が与えてくださった祝福の約束は、バベルにおけるさばきによって「地の全面に散らされた」 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という意味をもっていました。それで、この祝福の約束は、バベルにおけるさばきによって「地の全面に散らされた」「地上のすべての民族は」、相続人としてのアブラハムの子孫となるという祝福を受けるということを意味しています。 このことと関連して、改めて思い起こしたいのは、「主」はすでに、相続人としてのアブラハムの子孫は血肉の力によって生み出されるものではないことを示してくださっていたということです。 この相続人としてのアブラハムの子孫については、この後なお、二つのことがアブラハムに示されていきます。 第一に、「主」がアブラハムと契約を結んでくださった後、アブラハムとサラに相続人としての子を与えてくださると約束してくださったことです。 17章15節ー19節には、 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」 と記されています。 ここに記されていることから分かりますが、アブラハムも直ちに神さまが約束してくださったことを、そのまま、信じることができたわけではありません。アブラハムが心の中で言った、 百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。 ということばは、アブラハムのとまどいを示しています。実際、18章11節には、 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。 と記されています。アブラハムがとまどうのも無理からぬことです。実際、神さまはアブラハムが心の中で考えていたことをご存知ですが、そのことでアブラハムを責めてはおられません。 アブラハムは、この約束はイシュマエルに関することではないかと考えて、 どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。 と言って、神さまに答えました。これに対して神さまは、きっぱりと、 いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。 とお答えになり、さらに、 あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。 と約束してくださいました。 「イサク」という名(イツハク)は、「笑う」という意味の動詞(ツァーハク)に関連するもので、「彼は笑う」という意味です。アブラハムはとまどって笑いましたし、18章12節に記されていますが、サラも同じように笑いました。 これ以後、アブラハムは、サラが相続人としてのアブラハムの子、イサクを産むことを信じるようになっています。 そして、21章1節ー5節には、 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。 と記されています。 これまでお話ししたことから分かりますが、これは「主」が創造者としての御力を働かせて、サラがみごもって、アブラハムに相続人としての子を産むようにしてくださったことです。 これに続いて、6節ー7節には、 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」 と記されています。 ここで、 神は私を笑われました。 と言われているときの「笑われました」ということばは、「笑い」という名詞(ツェホーク)と「する」という動詞(アーサー)の組み合せです。 聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。 と言われているときの、「笑う」ということば(イツハク「彼は笑う」)で、「イサク」という名前と同じことばです。この、 神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。 というサラのことばは、神さまの御業に対する感謝に満ちた喜びのことばです。それは、また、自分たちのとまどいの笑いを、喜びの笑いに変えてくださったということをも表しています。 第二に、「主」がアブラハムに、相続人としてのアブラハムの子孫についてさらに教えてくださった、もう一つのことは、22章に記されています。これにつきましては、すでに何回かお話ししていますので、要点をまとめておきます。 1節ー3節には、 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 と記されています。 ここでは、 神はアブラハムを試練に会わせられた。 と言われています。そして、神さまはアブラハムに、 わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。 と命じられました。 今お話ししていることとのかかわりで問題となるのは、アブラハムがイサクを「全焼のいけにえとして」ささげることは、神さまがアブラハムを試すための手段であるのか、それとも、アブラハムがイサクを「全焼のいけにえとして」ささげること自体が、目的であるのかということです。この問題は、ここに記されていることの意味にかかわることです。 このことについて考える上での鍵となるのは、9節ー13節に、 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。 と記されていることです。 ここに記されていることから、アブラハムはその子イサクを「全焼のいけにえ」としてささげなくてもよかったと考えることはできません。というのは、もし、神さまが、アブラハムがご自身に従うかどうかを試されるだけであって、イサクを「全焼のいけにえとして」ささげることは手段でしかなかったとしたら、アブラハムがイサクを祭壇の上に置いて、刀をとってほふろうとしたことで十分だったはずです。しかし、神さまは「一頭の雄羊」を備えてくださって、アブラハムがそれをイサクの身代わりとしてささげるようにしてくださいました。このことは、アブラハムがイサクをささげることを完遂するようにしてくださった神さまの備えです。 また、12節の最後には、 あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。 という「主の使い」のことばが記されています。これは新改訳の訳ですが、ここには「ささげた」ということばはありません。ここで「惜しまないでわたしにささげた」と訳されている部分は、直訳調には「わたしから引っ込めなかった」というようになります。これでは分かりにくいので、新改訳は意訳して、分かりやすくしています。実際、意味は新改訳の示すとおりで、その時、アブラハムはイサクをささげたのですす。 ヘブル人への手紙11章17節にも、 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。 と記されています。 イサクがアブラハム100歳、サラ90歳の時に、神さまの創造者としての御力によって生まれた子であるとしても、アブラハムの血肉の子であることには変わりがありません。しかし、「全焼のいけにえ」はすべてを焼いてささげてしまういけにえです。ですから、この時、アブラハムはそのイサクをまったく神さまにささげてしまいましたし、神さまはイサクをご自身のものとして受け取ってくださいました。それによって、イサクはもはやアブラハムのものではなく、神さまのものとなりました。 そして、神さまはそのイサクをアブラハムに与えてくださいました。このようにして、アブラハムにとってイサクはもはや自分との血肉のつながりによる子ではなく、神さまから与えられた「新しいイサク」となりました。 ヘブル人への手紙11章19節には、 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。 と記されています。この「新しいイサク」が、相続人としてのアブラハムの子孫は、アブラハムの血肉の子孫ではなく、神さまの恵みと信仰によるアブラハムの子であることを示しています。ちなみに、 これは型です。 ということば(エン・パラボレー)については見方が別れていますが、私は「いわば」というような意味であると理解しています。 このようにアブラハムがイサクを「全焼のいけにえ」として神さまにささげたことを受けて、創世記22章18節には、「主の使い」がアブラハムに、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 と約束してくださったことが記されています。 イエス・キリストはまことのアブラハムの子として来てくださり、十字架においてご自身をとこしえのいけにえとしておささげになりました。私たちはこれにあずかって、相続人としてのアブラハムの子孫としていただいています。ガラテヤ人への手紙3章29節に、 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されているとおりです。 このことが、御子イエス・キリストが「万物の相続者」であることとどのようにつながっているかについては、改めてお話しします。 |
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