黙示録講解

(第277回)


説教日:2017年1月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(30)


 イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 ここでイエス・キリストは、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。この場合の「神の子」は、契約の神である「」がダビデに与えてくださった契約であるダビデ契約に基づいています。ダビデ契約のことはサムエル記第二・7章12節ー14節に記されています。「」はダビデ契約において、ご自身がダビデの「世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださること、そのとき、そのダビデの子が主の御名のための「」を建てるようになること、そして、「」が「その王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださること、さらに、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼は「」「にとって子となる」ということを約束してくださっています。
 イエス・キリストはご自身のことを「神の子」として示すことによって、ご自身がダビデ契約において約束されているダビデの子としてのメシアであることを示しておられます。
 これまで、このことと関連して、ヘブル人への手紙1章1節ー3節に記されている、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

というみことばに記されていることについてお話ししてきました。
 今は、2節前半に、

 神は、御子を万物の相続者とし、

と記されていることに関連する二つの問題を取り上げてお話ししています。
 第一の問題は、父なる神さまは、いつ、御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命されたのかということです。
 第二の問題は、御子イエス・キリストが相続するのは「万物」であると言われていますが、それはどういうことなのだろうかということです。
 第一の問題である、父なる神さまは、いつ、御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命されたのかということについては、結論的なことをまとめますと、イエス・キリストが「万物の相続者」であるのは、イエス・キリストがダビデ契約の約束に基づく「神の子」であり、子であれば「相続者」であるということによっています。そして、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼が「」「にとって子となる」のは、彼がダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座する時です。それで、イエス・キリストが「万物の相続者」として任命されたのは、イエス・キリストがダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座された時であると考えられます。
 先ほど引用したヘブル人への手紙1章3節には、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されていますが、イエス・キリストが「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」と言われていることは、イエス・キリストがダビデ契約に約束されているまことのダビデの子として、「」が「とこしえまでも堅く立て」てくださった「王国の王座」に着座されたことを意味しています。「」がダビデ契約において約束してくださった永遠の王座は地上のどこかにあるのではなく、父なる神さまの右の座のことです。
 ここでは、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたのは、「罪のきよめを成し遂げて」からのことであることが示されています。御子イエス・キリストは十字架におかかりになって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになって、私たちの罪を完全に贖ってくださった後、十字架の死に至まで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとしての栄光をお受けになって、死者の中からよみがえり、天に上って、父なる神さまの右の座に着座されたのです。
 ヘブル人への手紙では、このことはさらに10章11節ー14節に、

また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と記されています。
 ここでは、御子イエス・キリストの十字架の死が、古い契約の下において地上の聖所において仕えていた祭司たちと彼らがささげたいけにえが「地上的なひな型」として指し示していた「本体」、「本物」であることが示されています。
 そして、イエス・キリストは、私たちご自身の民の「罪のために一つの永遠のいけにえをささげて」くださったと言われています。ここでは「一つの」ということばが前におかれていて強調されています。古い契約のもとで繰り返しささげられた動物のいけにえと、御子イエス・キリストがご自身をささげられたこととの対比が強調されています。また、ここで「永遠のいけにえ」と言われているときの「永遠の」と訳されていることば(エイス・ト・ディエーネケース)は、「途切れることなく」、「いつまでも」ということ、その意味で「永遠に」ということを表しています。[注] これは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの効果がいつまでも、途切れることなく続くことを示しています。

[注]文法的には、このことばはこの後の「神の右の座に着き」にかかって、イエス・キリストがいつまでも神さまの右の座についておられることを表す可能性もあります。しかし、このことばが、同じ「一つのささげ物」がささげられたことを記している14節(「永遠に」)にも出てくることと、ここで「一つのささげ物」が強調されていることに照らして見ますと、「一つのささげ物」をささげられたことの方にかかっていると考えられます。

 このことが示されてから、その後、

 神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

と言われています。これは、イエス・キリストが神の右の座に着座されたのは、メシア詩篇である詩篇110篇1節に、

  は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることの成就であるということを示しています。
 御子イエス・キリストは「罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着」いておられるメシアとして、神のかたちとして造られた人を罪へと誘って、神である主に対して罪を犯させ、今も、罪によって神である主に背を向けて、滅びの道を歩んでいる人々を偽りによって欺くことによって、神である主に背き続けているいるサタンとその霊的な子孫たちを最終的におさばきになります。
 それも、サタンとその霊的な子孫たちをおさばきになること自体が最終目的ではなく、私たち主の民が、その暗やみの主権の下から贖い出されて、父なる神さまの右の座に着座した御子イエス・キリストがダビデ契約に約束されているメシアとして治めてくださる御国の民としてくださるためのことです。2章14節ー15節に、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されているとおりです。また、コロサイ人への手紙1章13節には、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と記されています。
 ヘブル人への手紙10章では、12節ー13節で、

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

と言われた後、14節で、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と言われています。
 ここでも「一つのささげ物によって」ということばが最初に出てきて強調されています。また、「永遠に全うされたのです」と言われているときの「永遠に」はその前に出てきました「途切れることなく」、「いつまでも」ということを表すことば(エイス・ト・ディエーネケース)で表されています。
 ここで「聖なるものとされる人々」と言われているのは、私たち主の契約の民のことです。これは現在分詞受動態で表されていて、これが意味していることには二つの可能性があります。
 一つは、私たちが今も継続してきよめられつつあるということです。これは、私たちの実体にかかわることで、私たちは今なお内に罪の性質を宿していて、常にきよめていただかなければならないものであるということにかかわっています。
 もう一つは、私たちが(ずっと)きよめられている状態にあるということです。これは、契約の神である主との関係にかかわることで、私たちが主の契約の民とされていること、私たちが主の契約の民として聖別されていることを意味しています。パウロがさまざまな問題を抱えている教会に送った手紙の中で、その教会の信徒たちのことを「聖徒」と呼んでいるのはこのことによっています。
 この二つのことは必ずしも矛盾するものではなく、どちらも、現在の私たち主の契約の民に当てはまります。ただこの場合は、「一つのささげ物によって、永遠に全うされた」と言われていることとのかかわりから、私たちがきよめられている状態にあることを表していると考えられます。その意味で、これは「聖なるものとされている人々」です。
 また、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と言われているときの「全うされた」ということは、私たちが聖なるものとされて、主の契約の民とされていることだけでなく、それによってもたらされる祝福、すなわち、主がご自身の契約において約束してくださっているすべての祝福にあずかっているということを意味しています。その祝福には、たとえば、ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されているように、今すでに私たちの現実となっている祝福だけでなく、同じローマ人への手紙8章23節に、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されているように、なお将来、私たちの現実となる祝福も含まれています。
 私たちは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによってもたらされたこのような祝福にすでにあずかっています。それで、ヘブル人への手紙10章では、19節ー25節に、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

と記されています。
 このように、御子イエス・キリストがダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座された王として治めておられるメシアであることは、私たちご自身の民のためにあわれみ深い大祭司として働かれるメシアであることと切り離すことができません。ダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座されたイエス・キリストは、私たちを、ご自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づく祝福、主がご自身の契約において約束してくださっていた祝福のすべてに、私たちをあずからせてくださるために私たちを治めてくださっています。これはヘブル人への手紙では、先ほど引用しました1章3節に、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されていることから一貫して示していることです。また、それが福音のみことばにあかしされているメシアの御国の本質的な特徴です。そして、この御子イエス・キリストがメシアとして治めておられる御国の主権こそが、父なる神さまの栄光を映し出す主権です。


 先主日には、このイエス・キリストがメシアとして治めておられる御国の主権が、大洪水によるさばきを招くに至ったレメクの帝国や、バベルにおけるさばきを招くに至ったニムロデの帝国によって典型的なものとして現れている、この世の国々の主権のあり方と本質的に異なっているということをお話ししました。この世の国々の主権は、武力を初めとする血肉の力によって人々を威嚇し、外側から規制し、縛りつけ、自らをがその上に立とうとする主権です。そのかぎりにおいて、この世の国々の主権は暗やみの主権者であるサタンの主権を映し出します。
 今日はこのことと関連して、一つのことをお話ししたいと思います。
 マルコの福音書10章35節ー45節には、イエス・キリストの十二弟子たちの間に権力の序列をめぐる争いがあったことが記されています。
 その発端である36節ー37節には、

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

と記されています。
 この時、ヤコブとヨハネは自分たちをメシアの御国の序列においてメシアの次の座に座らせてくれるよう願いました。それは、メシアの御国はこの世の国々の頂点に立って治めるという、その当時、一般的であったメシアの御国についての考え方を反映しています。ヤコブとヨハネは、この世の国々の頂点に立つメシアの国の頂点にメシアであるイエス・キリストがあり、その次に自分たち、イエス・キリストに選ばれた十二弟子がいると考えていて、その中でも、自分たちがイエス・キリストの次になるようにしていただきたいと願っています。それで、38節に記されているように、イエス・キリストはヤコブとヨハネに、

 あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。

と言われました。もちろん、ヤコブとヨハネとしては、自分たちがなにを求めているか分かっていました。けれども、それはメシアの御国の本質的な特性をまったく誤解していたためになされた願いです。また、41節には、

十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

と記されています。ほかの十人の弟子たちもヤコブとヨハネと同じように考えていました。弟子たちは、メシアの御国にこの世と同じような権力構造があると考えて、序列争いをしていたのです。
 このことは、この時に始まったのではなく、これに先立って、9章33節ー34節に、

カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。

と記されていることに見られます。
 このような状態にある弟子たちに、イエス・キリストは(10章)42節に記されているように、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

と言われて、この世の国々の主権の特質をお示しになりました。そして、

しかし、あなたがたの間では、そうでありません。

と言われて、メシアの御国の主権の特質がこの世の国々の主権の特質とは本質的に違うことをお示しになりました。
 そして、その上で、

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

と言われて、メシアの御国の主権の特質がどのようなものであるかをお示しになりました。
 メシアの御国の主権の本質的な特質は、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

という教えに示されています。
 イエス・キリストはご自身のことを「人の子」として示しておられますが、これは、ダニエル書7章13節ー14節において、「主権と光栄と国が与えられ」、

 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
 その国は滅びることがない。

と預言的にあかしされている「人の子のような方」を背景としていて、メシアを指しています。イエス・キリストがこの「人の子」という称号をお用いになったのは、この称号がその当時の一般的なメシアについての考え方と結びついていなかったからであると考えられています。
 イエス・キリストの、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

という教えの背景にはイザヤ書52章13節ー53章12節に記されている、一般に「主のしもべの第四の歌」と呼ばれている預言的なみことばがあると考えられます。
 そのことを示すものをいくつか見てみましょう。
 第一に、イエス・キリストは、ご自身が来られた目的について、

 多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

と教えておられます。この「贖いの代価として、自分のいのちを与える」ということは、イザヤ書53章10節に、

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 のみこころは彼によって成し遂げられる。

と記されているときの「自分のいのちを罪過のためのいけにえとする」ということに類似しています。また、12節にも、

 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。

と記されていて、「そむいた人たち」との結びつきにおいて、「自分のいのちを」捨てることが示されています。
 第二に、イエス・キリストの教えには、

 多くの人のための、贖いの代価として

ということばが出てきます。特に「多くの人」(ギリシア語・ポッロイ、ヘブル語・ラッビーム[どちらも複数形])に注目しますと、これは、イザヤ書53章11節に、

 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう。

と記されていることと、12節に、

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
     ・・・・・
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

と記されていることを反映しています。
 第三に、イエス・キリストの教えは、マルコの福音書10章43節ー44節に、

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

と記されているように、メシアの国で偉大な存在は「仕える者」であり「しもべ」であることが示されています。
 イザヤ書52章13節ー53章12節に記されているのは、52章13節に、

 見よ。わたしのしもべは栄える。

と記されているように、主の「しもべ」のことであり、53章5節に、

 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

と記されているように、ご自身の民のために砕かれ、いのちを注ぎ出される方です。
 第四に、イエス・キリストがこのことを教えられたのは、マルコの福音書10章37節に記されているように、ヤコブとヨハネが、

 あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。

とイエス・キリストに願ったことを受けて語られた教えです。ですから、このイエス・キリストの教えはメシアの国における栄光がどのような栄光であるかについての教えです。
 そして、イザヤ書52章13節ー53章12節に記されているのは、冒頭の52章13節に、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と記されており、結びの53章12節に、

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。

と記されているように、メシアの栄光のことです。
 これらのことから、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

というイエス・キリストの教えは、イザヤ書52章13節ー53章12節に預言的に記されていたみことばを反映しており、メシアとしてのご自身の栄光についての教えであることが分かります。
 ですから、この時、弟子たちはイザヤ書52章13節ー53章12節に記されていたメシアの栄光がどのようなものであるかについてまったく理解していなかったために、序列をめぐる争いをしていたのです。
 いずれにしましても、メシアの御国の主権の本質的な特性は、その王であり、主権者である方が、ご自身の民のために苦しみを受け、いのちを死に明け渡し、罪の贖いを成し遂げてくださり、ご自身の民に永遠のいのちを与えてくださるくださることに典型的に現れています。そして、このような主権をもってメシアが、あわれみ深い大祭司である王として治めている御国においてこそ、父なる神さまの栄光が現されています。


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