黙示録講解

(第276回)


説教日:2017年1月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(29)


 イエス・キリストはテアテラにある教会に語られたみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。
 これによって、イエス・キリストは、ご自身がダビデ契約において約束されているダビデの子としてのメシアであることを示しておられます。
 これまで、このことと関連して、ヘブル人への手紙1章1節ー3節に記されていることを取り上げてお話ししてきました。そこには、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されています。
 今お話ししているのは、2節前半に、

 神は、御子を万物の相続者とし

と記されていることについてです。そして、このことと関連する二つの問題を取り上げてお話ししていますが、第一の問題は父なる神さまは、いつ、御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命されたのかということです。
 これまでお話ししたことの結論的なことをまとめますと、イエス・キリストが「万物の相続者」であるのは、イエス・キリストがダビデ契約の約束に基づく「神の子」であり、子であれば「相続者」であるということによっています。そして、ダビデの「世継ぎの子」が「」「にとって子となる」のは、彼がダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座する時です。それで、イエス・キリストが「万物の相続者」として任命されたのは、イエス・キリストがダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座された時であると考えられます。
 イエス・キリストは、先ほど引用しましたヘブル人への手紙1章3節に、

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されているように、十字架におかかりになって私たち主の契約の民の罪を完全に贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえり、天に上って、父なる神さまの右の座に着座されました。その父なる神さまの右の座こそが、「」がダビデに与えてくださった契約において約束してくださっていた、ダビデの「世継ぎの子」が着座する永遠の王座です。イエス・キリストは父なる神さまの右の座に着座する王として、すべてのものを治めておられますが、特に、私たちご自身の民は、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に注いでくださった聖霊によって治めてくださいます。


 このことは、これまでお話ししてきましたように、最初の聖霊降臨節の出来事が、バベルでの出来事に対応しており、さらに、その背景となっている、ノアの時代に大洪水によるさばきをが執行されたことに対応していることと深くかかわっています。今日は、このことについて、これまでお話ししたことを補足しながら振り返ることによって、イエス・キリストの支配の本質と、アブラハム契約とダビデ契約のつながりを確認したいと思います。
 人類の堕落後の歴史において、ノアの時代には、人がその罪による腐敗と堕落を極まらせてしまって、大洪水によるさばきをもたらすようになりました。その元凶となったのは、アダムからカインを経て7代目に記されているレメクでした。創世記4章22節ー23節には、

 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。
 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。

というレメクのことばが記されています。レメクは、父祖カインは「」の保護を求めたけれども、自分にはそのようなものはまったく必要ないと言っています。またそれ以上に、自分には「」以上のことができるという高ぶりです。その根底にあるのは、暴力に訴えて支配する権力です。
 15節に記されている、

 それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。

という「」のみことばは、表面的には、レメクが言ったことばと同じように聞こえますが、その本質はまったく違います。
 カインは弟アベルを殺しましたが、「」がカインをおさばきになりました。その際に、9節に記されているように、カインがその罪を認めて悔い改めるようになるようにということで、

 あなたの弟アベルは、どこにいるのか

と問いかけておられます。しかし、その罪を認めようとしなかったカインにさばきを宣告されました。そして、14節に記されている、

ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。

というカインの申し立てを受けて、

 それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。

という宣言をされたのです。この「」のみことばは、さばきに服することになったカインのいのちとその尊厳性を守るためのものです。そればかりではありません。アダムとエバの子どもたちでアベルを慕っていたであろう者たちが、復讐心に駆られて、カインを殺すようになることを防止する意味もありました。それはカインのいのちの尊厳性を守る以上に、カインとアベルの兄弟たちの神のかたちとしてのいのちの尊厳性を守るためのものです。私たちは罪を犯すことによって、人に危害を加えるだけではありません。たとえ、それが思いやことばによる罪であって、人には危害を加えないとしても、自らの神のかたちとしての尊厳性を損ない、傷つけていますし、人を神のかたちとしてお造りになった神さまに対して罪を犯しているのです。ですから、

 それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。

という「」のみことばは、あらゆる点で、神のかたちとしての人のいのちを尊厳性を守るためのみことばです。
 これに対して、レメクのことばが示しているのは、あらゆる点で、神のかたちとしての人のいのちを尊厳性を損ない、傷つけるものです。本来、愛を本質的な特性とする神さまのみかたちに造られている人が、自らを神格化して、造り主である神さまの栄光を滅びるべき人のかたちにすり替えてしまうとともに、自分に刃向かう者に対して、憎しみに駆られて、徹底的な復讐をすることおいて、その人の神のかたちとしてのいのちの尊厳性を傷つけ、損なうだけでなく、自らの神のかたちとしての尊厳性を徹底的に傷つけ、損なってしまっています。
 このことがレメクにおいて典型的に現れていますが、6章11節に記されている、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

というみことばは、それが、大洪水によるさばきが執行される前の時代の状態であったことを示しています。
 もし人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことがなかったら、愛を本質的な特性とする人が、創世記1章28節に記されている、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

という造り主である神さまの祝福の下に、地を満たしていたとしたら、造り主である神さまのご栄光がさらに豊かにあらわされる社会と文化とその歴史が造り出され、愛が地に満ちていたことでしょう。しかし、実際には、ノアの時代に至るまでの歴史において、「暴虐」が地に満ちてしまったのでした。

 そして、大洪水によるさばきが執行された後の歴史においても、レメクが支配していた時の時代状況、すなわち、大洪水によるさばきが執行される前の時代の状態がもたらされてしまうであろう状態が生み出されました。それが創世記10章8節ー12節に、

クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼はのおかげで、力ある猟師になったので、「のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。

と記されている、ニムロデが支配した帝国でした。ニムロデはノアの三人の息子の一人であるハムから生まれたクシュの子でしたが、大洪水によるさばきが執行された後の歴史において、

 地上で最初の権力者となった

と言われています。そのニムロデの帝国は、ここに記されているいくつもの町の名から分かるように、後のバビロンからアッシリアにまたがる一大帝国を形成していました。それほどの帝国が築かれるに至るまでに、どれほどの侵略と戦いがなされ、どれほどの殺戮がなされ、血が流されたことでしょうか。
 そして、10節に、

 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

と記されているように、その帝国の初めにして最も重要な中心地が、その筆頭に記されている、シナルの地、後のメソポタミア地方にあったバベルでした。このことが踏まえられた上で、11章1章ー9節に、バベルでの出来事が記されています。
 バベルでの出来事については詳しくお話ししましたので、結論的なことをまとめておきます。
 1節に、

 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

と記されていることは、その当時の人類が一つの言語を用いていて、しかも、それが方言などの違いによって話が通じないということもなく、どこでも意思疎通ができたということを意味していると考えられます。それは、ニムロデという、強大な権力者によって統一されてたために可能なことであったと考えられます。
 2節に、

 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。

と記されていることは、その帝国の中心がシナルの地にあったということを示しています。そればかりでなく、「東のほうから」ということばは、比喩的に主の御前から離れ去るということを表していて、その帝国の建設が、先ほど引用しました、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命に示されている、造り主である神さまのみこころに反する社会と文化と歴史を形成するものであったということを示していると考えられます。
 3節に、

彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

と記されていることは、

 さあ、れんがを作ってよく焼こう。

ということばから汲み取ることができますが、そこに技術革新があったことを示しています。このことばは、日干しのれんがではなく、窯で焼いたれんがが造られるようになったことを示していると考えられます(Wenham, p.239)。「れんが」は古くからメソポタミア地方にあり、その発症は紀元前4千年期のバビロニアで、後に、ほかの国々に輸出されたとされています(Matthews, p.481)。
 ただし、一般的には、ここでの「」と「れんが」の対比は、ヘブル民族がいたカナンでは「」が用いられていたのに対して、バベルでは「れんが」が用いられていたという意味での対比で、我々は「」を用いているが、彼らは「れんが」を用いていたということで、「れんが」を用いていたことをさげすむという意味合いがあると考えられています。
 ただ、このような比較には、バベルでの出来事が起こる前の時代の文化で用いられていた「れんが」と、イスラエルの民がカナンに侵入した後のカナンの地において「」が用いられているということを同一平面上にに置いて比べられるのだろうかという疑問があります。むしろ、ここには、先ほど触れましたように、技術革新があったことが示されていると考えられます。そして、それによって、巨大な建造物の建設が可能となりました。
 そのことに基づいてなされたことが、4節に、

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

と記されています。この場合の「」は後のジッグラトに当たるもので、宗教施設としての神殿です。これは、

 頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。

ということばが示しているように、自分たちの力を誇るものです。そして、

 われわれが全地に散らされるといけないから。

ということばは、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という造り主である神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を、その初めから、否定し退けようとしていることを示しています。このこととのかかわりで、

 頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。

ということばを見ますと、これは、自分たちを神格化するもので、神に対抗しようとするものであることが分かります。その意味で、ここで起こっていることは、ノアの時代の大洪水によるさばきをもたらした元凶であるレメクの高ぶりに通じるものがあります。
 そして、1節に、

 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

と記されていたことに示されているように、すべての人がこのような考え方に染まってしまっていて、その意味での意思の疎通がありました。それで、6節に記されている、

彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

という「」のみことばに示されているように、これはもはや人の力では止めることができないまでになってしまっていました。そのままでは、再び、大洪水によるさばきが執行される前の状態になるのは目に見えています。それで、8節に、

こうしては人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

と記されているように、「」がその流れを止めてくださいました。
 けれども、それによって、人々は「地の全面に散らされ」国と国、民族と民族が分かれて、対立するようになりました。「」はそのことを用いてくださって、人類が一つとなって、あの大洪水によるさばきをが執行されるに至る状態へと突き進んでしまうことを防いでくださっています。それによって、大洪水によるさばきをが執行された後の人類の歴史が、今日に至るまで、そして、終わりの日に至るまで保たれることになりました。

 そのようにして、人類の歴史が保たれてきたのは、一つには、その間に、「」がご自身の契約のみことばにおいて約束してくださったメシアをとおして贖いの御業を遂行してくださるためでしたし、イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる聖霊によって、すべての民族、すべての国民の中から、ご自身の民を御許に召し集めてくださるためです。
 ペテロの手紙第二・3章9節に、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と記されているとおりです。「」は徒に歴史を引き延ばしておられるのではありません。。
 実際、父なる神さまは、今から2千年前に、御子イエス・キリストを贖い主としてお遣わしになり、イエス・キリストの十字架の死によって、贖いの御業を成し遂げてくださいました。そして、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださり、天においてご自身の右の座に着座させてくださいました。これによって、すでにお話ししてきましたように、イエス・キリストがダビデ契約に約束されている、まことのダビデの子として、永遠の王座に着座されて、すべてのものを治めてくださるようになりました。ヘブル人への手紙1章3節に、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

と記されているとおりです。
 イエス・キリストは、今、父なる神さまの右の座に着座されて、

 その力あるみことばによって万物を保っておられます

が、特に、私たちご自身の民を治めてくださるのは、最初の聖霊降臨節の日に注いでくださった御霊によっています。
 この御霊は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、それを私たちご自身の民全体とその一人一人に当てはめてくださいます。
 御霊はまず、私たちを、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天において父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと一つに結び合わせてくださいました。それによって、私たちをイエス・キリストの死とよみがえりにあずかって新しく生まれた者としてくださいました。そして、私たちが福音のみことばを理解し悟るように導いてくださいました。それで、私たちはイエス・キリストと、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業を信じるようになりました。それによって、神さまは、私たちを、罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださいましたし、私たちを義と認めてくださり、ご自身の子としてくださいました。
 それだけではありません。ガラテヤ人への手紙4章4節ー7節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されているように、御子イエス・キリストが、父なる神さまから受けて、最初の聖霊降臨節の日に遣わしてくださった御霊は、「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」として私たちの心に宿ってくださっています。そして、私たちを導いてくださって、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼ばせてくださいます。御霊は、私たちが再び、父なる神さまの御臨在の御許に近づいて、父なる神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださっています。そして、これが永遠のいのちの本質です。
 ですから、ダビデ契約において約束されていた、まことのダビデの子として、永遠の王座に着座しておられるイエス・キリストは、私たち主の民がこの永遠のいのちに生きるようにと、御霊によって、私たちを治めてくださっています。これは、これまでお話ししてきました、大洪水によるさばきを招くに至ったレメクの帝国や、バベルにおけるさばきを招くに至ったニムロデの帝国によって典型的なものとして現れている、武力を初めとする血肉の力によって人々を威嚇し、外側から規制し、縛りつけ、自らをがその上に立とうとする主権のあり方と本質的に違っています。
 神の国は父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストが、御霊によって、治めてくださっていることによって成り立っています。また、イエス・キリストが御霊によって私たちをご自身と一つに結び合わせてくださったことによって成り立っているキリストのからだである教会も、イエス・キリストが御霊によって宿ってくださり、御霊によって導いてくださっている新しい契約の共同体です。
 また、ガラテヤ人への手紙では、父なる神さまが「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」を私たちの心に遣わしてくださったことは、神さまがアブラハムに与えてくださった契約に基づくことであるということを示しています。
 3章8節ー9節には、

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されています。ここで引用されている、

 あなたによってすべての国民が祝福される

という約束は、創世記12章3節に記されている、アブラハムが召された時に与えられた祝福の約束です。ここでは、それは私たちもそうですが、異邦人が「信仰の人アブラハムとともに、祝福を受ける」ようになることを意味していると言われています。そして、このアブラハムへの祝福は、バベルにおけるさばきによって散らされた「すべての国民が祝福される」という意味をもっています。
 このことを受けて、13節ー14節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。そして、このことが、先ほど引用しました、4章4節ー7節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されていることへとつながっています。
 これらのことから、神さまがアブラハム契約において約束してくださっている祝福は、ダビデ契約に約束されているまことのダビデの子として、永遠の王座に着座されたイエス・キリストが最初の聖霊降臨節の日に御霊を注いでくださったことによって、実現していることが分かります。私たちはこのことに、アブラハム契約の約束と、ダビデ契約の約束が、内容ての上でも、密接にかかわっていることを見て取ることができます。


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