黙示録講解

(第275回)


説教日:2017年1月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(28)


 今年は、元旦が主の日となりました。本主日も、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、イエス・キリストがご自身のことを「神の子」として示しておられることと関連するお話です。
 この場合の「神の子」は、一般に「ダビデ契約」と呼ばれる、契約の神である「」(ヤハウェ)がダビデに与えてくださった契約において、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼は「」「にとって子となる」と約束してくださっていることに基づくものです。イエス・キリストはご自身のことを「神の子」として示すことによって、ご自身がダビデ契約において約束されているダビデの子としてのメシアであることを示しておられます。
 これまで、このことと関連して、ヘブル人への手紙1章1節ー3節に記されている、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

というみことばに記されていることについてお話ししてきました。
 この数週間は、2節前半に記されている、

 神は、御子を万物の相続者とし[て任命された/立てられた]

ということに関連する二つの問題を取り上げてお話ししています。第一の問題は、父なる神さまは、いつ、御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命されたのかということです。第二の問題は、御子イエス・キリストが相続するのは「万物」であると言われていますが、それはどういうことなのだろうかということです。この二つの問題は互いに関連していて、第一の問題を考えることは、第二の問題を考えることへとつながっています。
 第一の問題である、父なる神さまは、いつ、御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命されたのかということについて考える上での鍵は、イエス・キリストが「万物の相続者」であるのは、イエス・キリストがダビデ契約の約束に基づく「神の子」であり、子であれば「相続者」であるということによっているということです。
 これについてこれまでお話ししたことの結論的なことをまとめますと、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼が「」「にとって子となる」のは、彼がダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座する時です。それで、イエス・キリストが「万物の相続者」として任命されたのは、イエス・キリストがダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座された時であると考えられます。
 新約聖書は、イエス・キリストがダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座されたのは、十字架におかかりになって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになって、私たちの罪を完全に贖ってくださった後、十字架の死に至まで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとしての栄光をお受けになって、死者の中からよみがえり、天に上って、父なる神さまの右の座に着座された時であとあかししています。そして、そのイエス・キリストの支配は、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ、「五旬節」)の日に、約束の聖霊を注いでくださったことによって始まっています。
 第二の問題である、御子イエス・キリストが相続するのは「万物」であると言われていることを考える上での鍵は、古い契約の下では、「相続者」としての子にかかわる契約は、一般に「アブラハム契約」と呼ばれる、契約の神である「」(ヤハウェ)がアブラハムに与えてくださった契約であるということです。また、イエス・キリストはアブラハム契約において約束されているまことの「相続者」としてのアブラハムの子である贖い主として来られたということです。
 このアブラハム契約とダビデ契約は密接につながっています。これから、そのことについてお話ししたいと思いますが、今日は、まず、神さまがアブラハムに与えてくださった契約において、ダビデ契約とかかわっている部分についてお話しします。


 神さまがアブラハムに契約を与えてくださったことは創世記17章1節ー8節に記されています。アブラハム契約の核心にあることは7節ー8節に記されていますが、ここで注目したいのは、1節ー6節に記されていることです。そこには、

アブラムが九十九歳になったときはアブラムに現れ、こう仰せられた。
 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
 「わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

と記されています。
 今お話ししているアブラハム契約とダビデ契約のかかわりを示しているのは、6節に記されている、

 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

というみことばの最後に出てくる、

 あなたから、王たちが出て来よう。

という預言的なみことばです。
 今日は、そのみことばの意味を考えるためにも、それに先だって記されている、

 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。

という約束のみことはについてお話しします。
 最初の、

 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす

というみことばで「ふやす」と訳されていることば(パーラー[のフィフィール(使役)語幹])は、植物が「実を結ぶ」ことや、人や生き物が「多くの子を生む」ことを表します。このことばが用いられている二つの個所を見てみたいと思います。まず、創世記1章28節には、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。ここには、創造の御業において神のかたちとして造られた人に、祝福とともに、歴史と文化を造る使命が与えられたことが記されています。この歴史と文化を造る使命において「生めよ」と訳されているのがこのことば(パーラー[の命令形])です。ここでは、これに「ふえよ」ということば(ラーバー[の命令形])が加えられています。
 次に、創世記9章1節ー2節には、

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。

と記されています。ここには、創造の御業において神のかたちとして造られている人に与えられた歴史と文化を造る使命が、ノアの時代に執行された大洪水によるさばきの後に、再び与えられたことが記されています。ノアの時代に執行された大洪水によるさばきは、ただ、人や生き物たちを滅ぼしただけのものではありません。その時代に至るまでに人が築いてきた歴史と文化を清算してしまう、終末的なさばきでした。けれども、それによって、天地創造の御業において、神のかたちとして造られている人に与えられた歴史と文化を造る使命が取り消されてしまったのではなく、大洪水によるさばきが執行された後の時代の初めに、改めて、更新されたのです。
 ここに出てくる、

 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

ということばは、1章28節に記されている歴史と文化を造る使命に出てきたことばです。
 このように、17章6節で、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったときに語られた、

 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす

というみことばに出てくる「多くの子を生む」ことを表すことば(パーラー)は、神さまが天地創造の御業の初めと、大洪水によるさばきをが執行された後の歴史の初めに、神のかたちとして造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことを記している中で用いられています。そして、どちらにおいても、新しい(意味をもっている)歴史の初めに、神さまが祝福とともに委ねてくださった使命とかかわっています。
 それで、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったことにおいても、歴史的に新しいことが始められるのではないだろうかと考えたくなります。
 とはいえ、ここ17章6節に記されている、

 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす

というみことばには、1章28節と9章1節に記されている、

 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

というみことばに出てくる「多くの子を生む」ことを表すことば(パーラー)が用いられているだけで、「ふえる」ということば(ラーバー)は用いられていません。
 けれども、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったことを記している17章2節には、

 わたしは、わたしの契約を、
わたしとあなたとの間に立てる。
わたしは、あなたをおびただしくふやそう。

という「」のみことばが記されています。この「」のみことばの最後では、

 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。

と言われています。ここでは「あなたを」とアブラハム自身のことが語られており、6節では「あなたの子孫を」とアブラハムの子孫のことが語られています。ここ2節に出てくる「ふやす」ということば(ラーバー[のヒフィール語幹])は、1章28節と9章1節に出てくる、

 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

というみばにおいて用いられている「ふえる」ということば(ラーバー)の方です。
 ですから、「」がアブラハムに与えてくださった契約においては、実質的に、1章28節と9章1節に出てくる、

 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

という、新しい歴史の出発に際して神さまが与えてくださった祝福のみことばが踏まえられていると考えられます。そうであるとしますと、神さまがアブラハムに与えてくださった契約においては、神さまがこれによって歴史的に新しいことをなしてくださることが示されている(少なくとも、暗示されている)と考えられます。
 また、このこととの関連で注目しておきたいのは、1節と6節では、ともに、「おびただしく」ということばで、「ふやす」ということば(1節、ラーバー)と「多くの子を生ませる」ことを表すことば(6節、パーラー)が修飾されています。この「おびただしく」と訳されていることば(ビムオード・メオード)は「非常に」、「多いに」などの強調を表すことば(副詞・メオード)を二つ重ねて、強調をさらに強調しています。それで新改訳は「おびただしく」と訳しています。ここではアブラハムから生まれる子孫がふえることが容易ならないこと、きわめて特別なことであることが示されています。このことにおいても、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったことによって歴史的に新しいことが始められることが示唆されています。

 このことと関連して、さらに、三つほどのことをお話ししたいと思います。
 第一に、17章1節には、

 アブラムが九十九歳になったときはアブラムに現れ、こう仰せられた。

と記されています。神さまがアブラハムに契約を与えてくださったのは、アブラハムが「九十九歳になったとき」のことでした。
 アブラハムが「」から召しを受けたことを記している12章1節ー4節には、

はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。」
アブラムはがお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

と記されています。アブラハムが「」から召しを受けてハランを出て「」が示してくださる地に向けて旅立ったのは、アブラハムが75歳の時でした。
 この時、アブラハムは「」から、

 わたしはあなたを大いなる国民とする

という約束を受けていました。けれども、11章30節に、

 サライは不妊の女で、子どもがなかった。

と記されているように、アブラハムの妻であるサラは「不妊の女」でしたから、ふたりの間には子どもがありませんでした。その上、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったとき、すなわち、アブラハムが99歳だったとき、サラは89歳でした。また、神さまがアブラハムに契約を与えてくださった年におけることを記している18章11節には、

 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。

と記されています。サラは「不妊の女」であったばかりでなく、このときには「普通の女にあることがすでに止まって」いました。
 ですから、サラから子どもが生まれることは、通常では、ありえないことでした。
 しかし、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったときのことを記している17章15節ー16節には、

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

と記されています。
 神さまは、そのサラによって、アブラハムに「男の子」(ベーン、息子[単数形])を与えてくださると約束してくださいました。そして、「」はその約束を果たしてくださいました。21章1節ー5節に、

は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりにはサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。

と記されているとおりです。
 神さまは「不妊の女」であった上に、すでに、「普通の女にあることがすでに止まって」いたサラによって、「百歳」になっていたアブラハムに「男の子」を与えてくださいました。これは神さまが創造者としての御力を働かせてくださったことによっています。
 第二に、1章28節と9章1節に記されている、

 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

という神さまの祝福のみことばは、1章27節に、

 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されていることを受けています。
 神さまは創造の御業において、神のかたちとして造られた人を男と女に創造されました。これによって、ふたりが子を生むことによって、人が増え広がり、社会を形成し、文化を造りながら、地を満たすようになり、歴史が継承されていくようにされました。ですから、1章28節に記されている、

 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

という祝福のみことばは、命令として、人がなすべきことを示しています。しかも、それはもともと人がそのようなものとして造られていることを踏まえていて、人にとっては自然なことでもありました。
 これに対して、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったときに与えられた、

 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす

という約束はアブラハムに何かをするよう求めるものではなく、神さまがアブラハムに、また、アブラハムのためになしてくださることを約束してくださるものです。それは、先ほどお話ししましたように、「不妊の女」であった上に、すでに、「普通の女にあることがすでに止まって」いたサラによって、「百歳」になっていたアブラハムに「男の子」を与えてくださるということでした。
 アブラハムには、その約束と約束を与えてくださった神さまを信じることだけが残されていました。
 そして、先ほど引用しました21章1節ー2節に、

は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりにはサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

と記されていたように、「」がそれを実現してくださいました。
 「」は確かに、このことにおいて、創造者としての御力を働かせて、アブラハムに与えられた契約の約束を実現してくださいました。
 ローマ人への手紙4章18節ー21節には、このアブラハムの信仰について、

彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

と記されています。
 実は、このローマ人への手紙4章18節ー21節に記されていることは、アブラハム契約の中心主題である「世界の相続人」としてのアブラハムとそのの子孫にかかわることが記されている4章13節ー25節の中に出てくることです。ここに出てくる「世界の相続人」であることについては、日を改めてお話ししたいと思います。
 第三に、神さまがアブラハムに、

 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす

という約束を与えてくださったことは17章6節に記されていますが、これに先立つ5節には、

 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。

と記されています。
 神さまは、

わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

と約束してくださるに当たって、それまでの「アブラム」という名を変えて「アブラハム」という新しい名を与えてくださっています。
 この二つの名前については以前お話ししたことを、いくつか補足を加えて、繰り返すことにいたします。
 アブラムという名は、一般的には、「父」を意味する「アブ」と「高められている」、「高貴である」を意味する「ルーム」の組み合せで、「父は」高貴である」という意味であると考えられています。あるいは「父」が「神」を意味しているとすれば、「父(すなわち神)は非常に高い」を意味していると考えられます。いずれの場合も、アブラハムが高貴な階級の出であることを示していると考えられています。
 アブラハム(アブラーハーム)という名の語源ははっきりしていません。ここ5節では、アブラハムという名は「多くの者の父」(アブ・ハモーン)を意味しているとされています。[注 「アブ」は「父」を意味しており、「ハモーン[ハーモーンの構成形]」は「群衆」、「多くの人々」などを意味しています。この5節では、「アブ・ハモーン」をひとまとめに読むようになっています。それで、この場合の「多くの国民の父」は、直訳では「諸国民の多くの者の父」となります。]
 ただ「アブラハム」の「ラハム」(ラーハーム)が「多くの者」を意味するというヘブル語の用例がないということから、一般的には、「アブラハム」が「多くの者の父」を意味するということは、「アブラハム」と「アブ・ハモーン」が音声の上で類似していることに基づく語呂合わせ、あるいは、通俗の語源の説明によっていると理解されています。
 とはいえ、「アブラハム」の「ラハム」に当たると考えられるアラビア語の「ルハームン」が「多くの者」を意味しているということから、「アブラハム」という名が「多くの者の父」を意味しているとすべきであるという主張もあります(TWOT, #4; cf. Matthews, p.500)。
 アブラハムばかりではなく、先ほど引用しました、同じ17章の15節ー16節には、

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

と記されていました。
 神さまは、サラについて、

わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。

と約束してくださるに当たって、「サライ」という彼女の名を変えて「サラ」という新しい名を与えてくださいました。
 「サライ」(サーライ)と「サラ」(サーラー)という名は、ともに、「王女」を意味することばで、二つは、同じ名前の別の言い方であると考えられています。どういう形での言い方の違いであるかについては、はっきりとしたことは分かりません。「サラ」は「サライ」の方言ではないかという見方がありますが、単なる方言ではないのではないかという見方もあります。
 旧約聖書においては、名はその名をもつものの本質的な特質、役割、地位、将来のあり方などを表します。この場合は、神さまがアブラハムを「多くの国民の父」となる者として立ててくださったことを表しています。
 これによって、アブラハムとサラは、神さまが与えてくださった契約の約束によって、新しい意味を与えられた存在となりました。それは、12章3節に記されている、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福の約束は、「地上のすべての民族」が「多くの国民の父」となるアブラハムと「国々の母」となるサラの子孫となることにおいて実現するということを示しています。
 その意味でも、これは歴史的に、特に、神さまの贖いの御業の歴史において新しい意味をもっていることです。
 また、名をつけることは権威を発揮することで、名をつけた者が、名を与えられたものに対して権威をもっていることを意味しています。この場合は、詳しい説明を省いて結論的なことだけを言いますが、神さまが新しい名を与えられたアブラハムとサラに対して主権者として関わってくださり、二人に与えてくださった約束を真実に守ってくださり、必ず、実現してくださるということを意味しています。
 そして、このようにして与えられたアブラハム契約において、

 あなたから、王たちが出て来よう。

という預言的な約束が与えられており、これがやがて、ダビデ契約の約束へとつながっていきます。これについては、日を改めてお話しします。


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