黙示録講解

(第274回)


説教日:2016年12月18日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(27)


 今日も、イエス・キリストがテアテラにある教会へのみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられることと関連するお話を続けます。
 この場合の「神の子」は、契約の神である主、ヤハウェが、ダビデに与えてくださった契約、すなわち、ダビデ契約において、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼は「」「にとって子となる」と約束してくださっていることに基づくものです。これによって、イエス・キリストは、ご自身がダビデ契約において約束されているダビデの子としてのメシアであることを示しておられます。
 これまで、このことと関連して、ヘブル人への手紙1章1節ー3節に記されている、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

というみことばに記されていることについてお話ししてきました。
 今お話ししているのは、2節前半に記されている、

 神は、御子を万物の相続者とし[て任命された/立てられた]

ということについてです。
 この、

 神は、御子を万物の相続者とし

と記されていることには、二つの問題があります。第一に、父なる神さまは、いつ、御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命されたのかということです。第二に、御子イエス・キリストが相続するのは「万物」であると言われていますが、それはどういうことなのだろうかということです。
 第一の問題である、父なる神さまは、いつ、御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命されたのかということについては、イエス・キリストが「万物の相続者」であるのは、イエス・キリストがダビデ契約の約束に基づく「神の子」であり、子であれば「相続者」であるということによっています。また、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼が「」「にとって子となる」のは、彼がダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座する時です。それで、イエス・キリストが「万物の相続者」として任命されたのは、イエス・キリストがダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座された時であると考えられます。
 イエス・キリストがダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座されたのは、父なる神さまの右の座に着座された時であり、その支配は、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ、「五旬節」)の日に、約束の聖霊を注いでくださったことによって始まっています。その日に起こったことの意味についてあかしをしているペテロのことばを記している使徒の働き2章32節ー34節に、

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。
 「主は私の主に言われた。
 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」

と記されているとおりです。
 ここでペテロは、イエス・キリストがメシア詩篇である詩篇110篇1節に、

 主は私の主に言われた。
 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。

と記されていることの成就として、神の右の座に着座され、「御父から約束された聖霊を受けて」お注ぎになったとあかししています。これはイエス・キリストがダビデ契約の約束の成就として父なる神さまの右の座に着座されたことによることを示しています。ペテロはダビデについて、先ほど引用した32節ー34節の前の30節で、

彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。

と述べています。これも、この日の出来事がダビデ契約の約束の成就であることを示しています。

[注]「彼の子孫のひとり」と訳されているエク・カルプー・テース・オスフュオス・アウトゥーは前置詞句ですが、名詞相当句として用いられていると考えられるので、新改訳もそうですが、名詞として訳されています。また、これはイディオム表現で直訳は「彼の腰の実」で、ここでは単数形です。この場合の「腰」(オスフュース)と同じ用例がヘブル人への手紙7章10節に見られます。

 先ほど引用しました32節ー34節の中の33節ではイエス・キリストが注いでくださった聖霊のことが、

 今あなたがたが見聞きしているこの聖霊

と言われています。言うまでもなく、これは聖霊を見たり聞いたりすることができるという意味ではなく、1節ー11節に、

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

と記されているように、聖霊が注がれたことにいくつかのしるしを伴っていたことを指しています。
 この日は「五旬節」でギリシア語のペンテーコステーを音訳して「ペンテコステ」とも呼ばれます。これは古い契約の下での過越の日に続く安息日の次の日(レビ記23章10節ー11節[祭司が「収穫の初穂の束」を揺り動かしてささげる日])、すなわち日曜日から数えて50日目(15節ー16節)の日曜日であると考えられます。
 4節には、その日「一つ所に集まっていた」弟子たちが、

聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

と記されています。それを聞いた人々の出身地は、9節ー11節前半に記されていますが、ユーフラテス川の東の地方とメソポタミアからアラビアまで、また小アジアの町々からエジプトとリビアに至るまで、そしてローマまでと広がっている地域に広がっています。これは、その当時の人々にとっては「全世界」に相当する地域です。この人々は、エルサレムの住人と、祭りのためにここに記されている地方の国々からエルサレムに来たユダヤ人や改宗者たちであると考えられます。
 11節には、その人々が、

あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。

と言ったことが記されています。ここで「神の大きなみわざ」と言われているときの「大きなみわざ」ということば(メガレイア)は、旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳で、出エジプトの贖いの御業を初めとして、神さまがご自身の民を力強い御手をもってさまざまな苦難や試練から贖い出してくださった御業を讃美とともに表すときに用いられたことばです。ここでは、神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業を指しています。ですから、その当時の人々にとって「全世界」に当たる地域から来た人々が、それぞれの国のことばで、神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業についてのあかしを聞いたのです。


 先々主日と先主日には、このことが創世記11章1節ー9節に、

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうしては人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

と記されている、バベルでの出来事に対応しているということをお話ししました。
 バベルでの出来事を補足しながら振り返っておきましょう。
 1節に、

 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

と記されているように、大洪水によるさばきをが執行された後の時代には人類は「一つのことば、一つの話しことば」を用いていました。「一つのことば」(サーファー・エハート)は文字通りには「一つの唇」(単数形)で「言語」を指しており「一つの話しことば」(デェバーリーム・ァハーディーム)は、複数形で、一般に話されていることば(あるいは、用いられている語彙)を表していると考えられています。一つの言語でも、方言のように、地域などによる違いがあって、通じないということもなかったということでしょう。このうち、「一つのことば」の「ことば」(サーファー)は7節(2回)と9節にも出てきますので、こちらの方が基本的であると考えられます。
 6節には、「」が、

彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

と言われたことが記されています。この「」のみことばが示しているように、その時代は「一つの民」でした。具体的には、10章8節ー12節に、

クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼はのおかげで、力ある猟師になったので、「のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。

と記されているように、「地上で最初の権力者」であったニムロデによって統一された帝国が形成されていたと考えられます。
 その人々は、その帝国の中心であったバベル(10節、11章9節)に統一の象徴である宗教施設(神殿)を建てました。それは11章4節に記されている、

さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。

という、人々が言ったことばに示されているように、自分たちを神格化し、権力の集中を徹底化しようとするためのものでした。
 また、それは、

 われわれが全地に散らされるといけないから。

ということばに示されているように、1章28節に、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されている、造り主である神さまが祝福とともに、神のかたちとして造られている人に委ねられた使命、神さまのみこころにしたがって、「」を神として礼拝することを中心とした、神さまの栄光を現す歴史と文化を造る使命を否定すること、少なくとも、無意識のうちにであっても、実質的にそれを否定することでした。
 それで、11章9節には、「が全地のことばをそこで混乱させ」、「人々をそこから地の全面に散らした」と記されています。
 このことは、これによって異なった言語が生み出されたというだけのことではありません。7節には、「」が、

さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。

と言われたことが記されています。この「」が語られたみことばが示唆しているように、それは、人々がお互いを理解することができなくなることを意味しています。異なった考え方、異なった価値観をもつ人々が生まれてきて、それまでの大帝国の統一の基盤が根底から崩れていくことを意味しています。
 このことを理解することが、最初の聖霊降臨節の日に起こったことが、バベルで起こったことに対応していることを理解する鍵です。その日に、また、その後に、人類のことばが一つになったということではありません。異なったことばを話す人々が、それぞれの言語で、神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業について聞くようになったということです。
 そして、使徒の働き2章では、先ほど引用しました32節ー34節に続く35節に、その時ペテロが語った最後のことばが、

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

と記されています。
 ここでは、

 イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。

というように一般的なこととして語り始めていますが、肝心なことについては、

 神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

というように、それはほかならぬ「あなたがた」がなしたことであるという語りかけになっています。また、ここでは「このイエスを」が強調されていますし、その後に、関係代名詞があります。それを生かして直訳調に訳せば、

 ほかならぬこのイエスを、この方を、あなたがたは十字架につけたのです。

となります。
 注目したいのは、続く37節ー39節に、

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

と記されていることです。
 ここでは、

 人々はこれを聞いて心を刺され[た]

と言われています。これはペテロが旧約聖書に基づいて語った、イエス・キリストについてのあかしを人々が信じたということを意味しています。しかも、それは、十字架につけられて殺されたナザレのイエスは「神が、今や主ともキリストともされた」方であるということを信じたということです。この人々は、ユダヤ人と改宗者たちですから、

 木につるされた者は、神にのろわれた者[である]

という、申命記21章23節のみことばの教えを知っていました。それでも、イエス・キリストが神さまから遣わされた約束のメシアであることを信じたのです。
 これは驚くべきことです。というのは、福音書に繰り返し記されているように、イエス・キリストが地上においてメシアとしてのお働きを始めてから、イエス・キリストに選ばれて、イエス・キリストにつき従っていた弟子たちでさえも、メシアが人々から見捨てられて殺されるということは信じることができませんでした。まして、「神にのろわれた者」として死ぬというようなことは、とても信じることができなかったはずです。しかし、この人々は弟子たちでさえ信じられなかったことを、信じたのです。
 そればかりではありません。この人々は、ペテロが、

 神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

と言ったことを聞いて、「心を刺され」るほどになりました。
 この人々は「五旬節の日に」エルサレムに来ていた人々ですから、過越の祭りのためにもエルサレムに来ていたことでしょう。それで、イエス・キリストの十字架の死を目撃した可能性が高いと考えられます、そして、人々と同じように、十字架につけられたイエス・キリストをにせメシアとしてあざけったかも知れません。そうではあっても、その時は、そこにいたユダヤ人が、こぞって、そうしていたことです。それで、いくらでも弁解ができたことです。
 けれども、この人々は、イエス・キリストを十字架につけた責任は「あなたがた」にあると言われて、怒ってしまったのではなく、弁解したのでもなく、「心を刺され」て、

 兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか

と、弟子たちに聞きました。イエス・キリストを十字架につけたのは自分たちであり、自分にその責任があるということを、恐れをもって認めたのです。
 このとき以来、私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを信じるようになった主の民は、イエス・キリストを十字架につけたのは自分であることを認めています。
 このようなことを考えますと、これは、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、ご自身が注がれた約束の聖霊によって、この人々の心を開いてくださったことによって起こったことであるということが分かります。同じ使徒の働きの16章12節以下には、パウロがピリピで福音を伝えたことが記されています。そして、14節には、

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

と記されています。最初の聖霊降臨節の日にも、主イエス・キリストが人々の心を開いて、ペテロの語ることを悟らせてくださったと考えられます。
 その人々は「心を刺された」と言われています。この「刺される」と訳されたことば(カタニュッソマイ)は文字通り「刺される」ことを表しますが、BAGDと略称されるギリシア語のレキシコンでは、「比喩的に、不安や深い後悔の念などと結びついた鋭い痛みの感情」を表すとしています。ここでは「心を刺された」ということですから、この比喩的な意味合いを伝えています。自分たちは「神が、今や主ともキリストともされた」方を、にせキリスト、にせメシアであるとして、またそれゆえに「神にのろわれた者」であるとして、十字架につけてしまったということを悟ったとき、自分たちこそ「神にのろわれた者」になってしまっていると感じたはずです。その人々は、

 兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか

と問いかけました。
 2章38節には、その問いかけに答えて、ペテロが、

悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。

と語ったことが記されています。
 「神が、今や主ともキリストともされたこのイエス」は、神にのろわれるべき方ではありませんでしたが、確かに、「神にのろわれた者」として十字架につけられて殺されました。それはほかならぬ罪を犯して「神にのろわれた者」となってしまっている私たちご自身の民に代わって「神にのろわれた者」となってくださって、私たちを罪がもたらした神ののろいから贖い出してくださるためでした。ガラテヤ人への手紙3章13節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

と記されているとおりです。
 ペテロはこの人々に、まず、

 悔い改めなさい。

と語りかけました。心をまったく入れ替えるということですが、それは、自らが犯した罪を悔いるというだけのことではなく、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエス」を「」であり、神さまによって立てられた贖い主として信じるようになるという、心の方向転換をすることです。けれども、それは自分の力でできることではありません。先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが注いでくださっている聖霊の力と導きによってできることです。その心のあり方の転換は、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受け」ることによって示されている、イエス・キリストと一つに結ばれるようになることに現れてきます。それは水による洗礼を受けることですが、ペテロが、

 そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

と語っているように、最初の聖霊降臨節の日以来、それによって、その水による洗礼の本体である聖霊による洗礼にあずかるようになりました。そして、それによって、聖霊によってイエス・キリストと一つに結ばれた者たちが、新しい契約の共同体としてのキリストのからだである教会を形成し、聖霊によって、神である主を神として礼拝することを中心とした神である主とのいのちの交わりと、お互いの間の愛の交わりにあずかるようになります。
 そのことが現実となったことが、使徒の働き2章41節ー42節に、

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

と記されています。
 これによって、ユーフラテス川の東の地方とメソポタミアからアラビアまで、また小アジアの町々からエジプトとリビアに至るまで、そしてローマまでと広がっている地域の国々の出身者で、それぞれの国のことばを話す人々が、新しい契約の共同体としてのキリストのからだである教会を形成するようになりました。これは、バベルにおいて地の全面に散らされた人々の中から、御霊によって導かれて、イエス・キリストと一つに結ばれて、造り主である神さまを神として礼拝することを中心として、神である主のとのいのちの交わりと、お互いの間の愛の交わりに生きるようになるという意味をもっています。
 ペテロは、

悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

と語りかけた後、

なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。

と述べています。「あなたがたと、その子どもたち」ということばは、創世記17章7節に、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

と記されている、アブラハム契約の約束のことばを背景としています。また、「ならびにすべての遠くにいる人々」ということばは、創世記12章3節に記されている、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、「」がアブラハムを召してくださったときの約束を背景としています。
 これは、バベルでのさばきによって、地の全面に散らされた人々の中から、「私たちの神である主がお召しになる人々」が、最初の聖霊降臨節の日から、アブラハム契約の祝福にあずかって、「」の民として一つに集められ、新しい契約の共同体を形成するようになったということを意味しています。


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