黙示録講解

(第273回)


説教日:2016年12月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(26)


 イエス・キリストはテアテラにある教会へのみことばにおいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。この場合の「神の子」は、契約の神である主、ヤハウェが、ダビデに与えてくださった契約、すなわち、ダビデ契約において、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼は「」「にとって子となる」と約束してくださっていることに基づくものです。これによって、イエス・キリストは、ご自身がダビデ契約において約束されていダビデの子としてのメシアであることを示しておられます。
 先主日には、イエス・キリストがダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座されたのは、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日のことであるということと、そのことに関連して、最初の聖霊降臨節の日に起こったことは、創世記11章1節ー9節に記されているバベルでの出来事に対応しているということをお話ししました。そして、そのバベルでの出来事の背景となっている、大洪水によるさばきが執行される前のノアの時代に、人の罪とその腐敗が極まってしまったことついてお話ししました。


 お話を先に進めるために、今日は、まず、その大洪水によるさばきが執行される前の時代の状況が生み出されたことの主な原因となっていることからお話ししたいと思います。
 その主な原因は、最初の人アダムからカインを経て7代目として記されているレメクにあったと考えられます。「7代目として」というのは、創世記に記されている系図には「7」や「10」などの完全数にそろえるために省略があるので、レメクがが実際にアダムから7代目であるかが分からないからです。
 創世記4章23節ー24節には、

さて、レメクはその妻たちに言った。
 「アダとツィラよ。私の声を聞け。
 レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。
 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。
 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。」

と記されています。ここに記されているレメクのことばは、自らが積み上げた権力に訴えて、徹底的な復讐を加えていく姿勢を示しています。
 このレメクの権力を支えたのは、「アダとツィラ」と言われているレメクの二人の妻が生んだ子どもたちですが、特に、22節に、

ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。

と記されているトバル・カインが注目に値します。

 彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。

と言われているとおり、彼は農耕機具を生産し、経済的に大きな富をもたらしたと考えられますが、ここに記されているレメクのことばから、それ以上に、武器を生産してレメクの権力を確固たるものにしたと考えられます。
 レメクは、

 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。

と豪語しました。このレメクのことばは、彼の父祖カインのことを踏まえています。カインはアベルを殺してしまいました。13節ー16節に記されていますが、「」がその罪を明らかにされ、彼に対するさばきの宣告をされたとき、彼は「」に、

 私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう

と言って訴えました。この時は、アダムの子たちしかいませんでしたから、アベルの兄弟たちが自分に復讐するのではないかということを意味していると考えられます。これに対して「」は、

 それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。

と宣言されて、「だれも彼を殺すことのないように」してくださるという保証を与えてくださいました。カインはこの「」からの保証を受け取ってから、主の御前を去っていきました。その保証さえもらえば、「」には用はないということでしょう。しかし、それでもカインは「」を頼みとしていました。
 レメクは「」がカインに与えてくださった保証をあざ笑っています。自分は、父祖カインと違って、「」の保護など必要としていないというだけでなく、自分には「」以上のことができるという高ぶりが感じられます。ここには、アダムから7代目とされているレメクに至って、高ぶりが徹底したものになっていることが示されています。
 創世記の構造では、このアダムからカインを経てレメクに至る歴史が、5章1節ー6章8節の「アダムの歴史の記録」に記されているアダムからセツを経てノアに至る歴史と並行関係にあり、その背景となっています。そして、その背景の方が先に(4章に)記されています。
 創世記4章以下の記事は、3章14節ー15節に記されている「蛇」の背後にあって働いていた暗やみの主権者に対するさばきの宣言において示されている「最初の福音」を踏まえています。それで、「最初の福音」おいて約束されている「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を信じる者の信仰の継承に焦点を合わせて記されています。そして、その信仰の継承は、大洪水によるさばきをが執行される前の時代においては、5章に記されているアダムからセツを経てノアに至る歴史になります。
 とはいえ、アダムからセツを経てノアに至る歴史は、背教の歴史でもあります。先主日にお話ししましたが、4章26節に、

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々はの御名によって祈ることを始めた。

と記されているように、アダムから3代目として記されているエノシュが生まれた時代には、ヤハウェ礼拝者がいることが、特筆されるべき社会現象になっていました。ところが、アダムからセツを経て10代目として記されているノアの時代には、ヤハウェ礼拝者はノアとその家族だけになってしまいました。その意味では、創世記5章に記されているアダムからセツを経てノアに至る歴史は、ヤハウェ礼拝者の子孫たちの背教の歴史でもあるのです。[注]

[注]それで、アダムからセツを経てノアに至る歴史は信仰者たちの系図であると一律に言うことはできません。このことはまた、アダムからカインを経てレメクに至る歴史は主を信じない者たちの系図であると一律に言うことはできないと言うことを意味しています。アダムからカインを経てレメクに至る歴史の中に、たとえば、あのエノシュが生まれた時代に、「」を信じ、ヤハウェ礼拝者になった人々がいた可能性があります。

 そして、先ほど触れましたように、その背教の歴史の背景となっているのがアダムからカインを経てレメクに至る歴史です。レメクの時代になって、レメクが権力を掌握することによって、人の罪による腐敗とその現れである高ぶりは徹底したものとなり、人類全体がそれに巻き込まれてしまいました。それによって、6章11節ー12節に、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されている、大洪水によるさばきが執行される前の暴虐に満ちた時代状況が生み出されたと考えられます。
 「」は人類の歴史の中でただ一度だけ、それまでの人類の歴史全体を清算する終末的なさばきを招くに至ったほどに、人の罪による腐敗とその現れが徹底化してしまうことをお許しになりました。これによって、人の罪がどのようなものであるか、すなわち、そのままに放置されるなら、どんどんその腐敗を深めてしまい、徹底化してしまうものであるということを、現実の歴史の中でお示しになりました。人は自然と良くなっていくものであるということは聖書の教えるところではありません。人が罪の腐敗を徹底化していかないのは「」が一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人が罪の腐敗を限りなく深めてしまうことを抑止してくださったり、人の心を啓発してくださったりしているからです。

 ノアの時代の大洪水によるさばきをが執行された後のことを記している創世記9章8節ー11節には、神さまがノアとその息子たちを代表として、ノアの子孫たちと、ノアとその息子たちとともに大洪水によるさばきを通って救われた生き物たちと契約を結んでくださったことが記されています。[注]

[注]ノアの時代に大洪水によるさばきをが執行されたことは、人類の歴史が最終的なさばきによって清算されるものであるということ指し示す「地上的なひな型」でした。そして、神さまがノアとその息子たちを代表として、ノアの子孫たちと、ノアとその息子たちが大洪水によるさばきが執行された後の時代の歴史と文化を造る使命を果たしていくことは、私たち主の契約の民が新しい時代の歴史と文化を造る使命、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たしていくことの「地上的なひな型」としての意味をもっています。そして、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を造るのは、終末的なさばきを通って救われた者たちであることをも指し示しています。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死によって終末的なさばきを通って救われた者となっています。

 11節に記されているように、その契約において神さまは、

わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない

と約束してくださいました。
 けれども、これは人類がどのような状態になっても大洪水によるさばきを執行されないという意味ではありません。もし、人類の罪と罪による腐敗が大洪水によるさばきの執行の前の状態のように徹底的なものになってしまうなら、そして、神さまがそれをそのままにしておかれるなら、神さまの聖さが問われることになります。それで、神さまは終末的なさばきを執行されて人類の罪を清算されることになります。ですから、

すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない

という約束には、人類の罪とその腐敗が徹底的なものとならないようにしてくださる神さまの備えが伴っていました。
 その備えとしては三つのことが考えられますが、その最もはっきりとした備えがバベルにおける出来事です(もう一つの備えは、先ほど触れました一般恩恵に基づく御霊のお働きによる罪の現れの抑止や心の啓発です)。
 創世記11章1節ー9節には、

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうしては人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

と記されています。
 2節には、

そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。

と記されています。この「シヌアルの地」は、メソポタミアのことです。新改訳では、人々は「東のほうから」移動してきたと訳されています。これが「東のほうから」と訳されていることば(ミケデム)の基本的な意味です。しかし、この場合には、13章11節に、

それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。

と記されているいるのと同じように「東のほうに」(ミケデム)という意味であると考えられています。というのは、ノアの箱舟が漂着したのは「アララテの山の上」であったと言われています(8章4節)。この「」は複数形で「山脈」を表しています。ノアの箱舟はアララテの山脈のどこかに漂着したのです。それも、いくつかの理由によって山の頂上ということではなく、山の麓に近い辺りであったと考えられます。この人々が、そのアララテの山脈から「シヌアルの地」にやって来たとすると、やや東寄りに南下して来たということになります。それで、この場合は、「東のほうから」ではなく「東のほうに」ということであると考えられるのです。
 そして、この「東のほうに」ということは、創世記の記事の中では、しばしば、ロトがアブラハムから別れていったことと同じように、離れていくことを表しています。この典型的な例は、4章16節に記されている、

 それで、カインは、の前から去って、エデンの東[キドゥマー(名詞)、ミケデムのケデム(名詞「東」)の同族語]、ノデの地に住みついた。

ということです。これと同じように、この人々が「東のほうに」移動して「シヌアルの地」へ行ったのは、その人々が「」の御前から離れていったことを象徴的に表していると考えられます。続いてお話ししますように、この人々はノアの子孫ですから、ヤハウェ礼拝者の家族の子孫です。

 この人々のことは10章6節ー12節に、

ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼はのおかげで、力ある猟師になったので、「のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。

と記されています。
 この人々はノアの三人の息子のうちのハムの子孫です。ハムの最初の子はクシュですが、このクシュの子であるニムロデがこの人々の王です。「ニムロデ」という名前は、「われわれは反逆しよう」という意味であると考えられています。これは、11章1節ー9節に記されているバベルでの出来事を思い起こさせます。
 8節には、

 ニムロデは地上で最初の権力者となった。

と記されています。「最初の」と訳されていることば(ヘーヘール)は、革新的なことの始まりを表すことばによって表されていますので、「最初の権力者となった」と訳されています。同じことばはバベルでの出来事を記している11章6節にも用いられていて、

は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めた[ヘーヘール]のなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

と記されています。ですから、

 ニムロデは地上で最初の権力者となった。

ということは、ノアの時代の大洪水によるさばきの後の歴史に起こった大変革でしたが、それは、「」に反逆する帝国を造り出し、組織的に主に反逆し始めたことを意味しています。
 ニムロデについては、さらに9節に、

彼はのおかげで、力ある猟師になったので、「のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。

と記されています。

 主のおかげで、力ある猟師になった。

と言うと、「」(ヤハウェ)が告白されているような感じがしますが、ここで「おかげで」と訳されたことば(リプネー)は意味の広いことばです。一般には、この場合は、「主がご覧になっても」とか「主の評価によっても」というような意味で、これがさらに、慣用表現として最上級を表し、「この上なく力ある猟師」ということを表していると考えられています。[注]

[注]聖書の中では、「神」(エローヒーム)や「」(ヤハウェ)などが最上級を表すという見方があります。それで、創世記1章2節に、
  神の霊が水の上を動いていた。
と記されているときの「神の霊」は「強い風」(「」と訳されているルーァハは「風」をも意味します)のことであるとする見方もあります。ただし、私は創世記1章2節では、この見方は成り立たないと考えています。これについては、夕拝で説教しました「天地創造」の6回目のお話を見てください。

 またニムロデは「猟師」と言われていますが、古代オリエントの王たちが、狩りをする能力を誇ったことの始まりと考えられます。ですから、ここでは「」が告白されているのではなく、前例のないほど強力な猟師であるニムロデが出現したということが示され、ことわざとしては、「この上なく力ある猟師、ニムロデのようだ」と言われるようになったということが示されていると考えられます。
 ニムロデ自身のことに続いて、10節には、

彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

と記されています。「シヌアル」はメソポタミアを指しています。ニムロデの帝国はメソポタミアに建設されました。「彼の王国の初め」の「初め」と訳されていることば(レーシート)は、「初め」とともに「中心」をも表すものです。その一つの「バベル」は、後のバビロンのことです。
 これに続く11節ー12節には、

その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。

と記されています。この「アシュル」はメソポタミアの北に位置するアッシリアのことでて、続いて記されている「ニネベ」、「レホボテ・イル」、「ケラフ」、「レセン」はその地方の町です。
 このように、創世記10章10節ー12節では、ニムロデの帝国がメソポタミアからアッシリヤに広がる大帝国であったことが示されています。

 バベルでの出来事を記している11章1節には、

 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

と記されています。
 これはニムロデの帝国が勢力を拡大していた時代のことですから、ノアの子孫たちは、すでに、地に増え広がっていました。それでこれは、そのように地に増え広がっていったノアの子孫たちが話したことばは一つのことばであったということです。
 そして、このような文化的な状況の中で、ハムの子孫であるニムロデは、メソポタミアからアッシリアにまたがる地方を力によって征服して一大帝国を築いていきました。
 4節には、

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

と記されています。
 ここに出てくる「」は単数で、9節で、それが「バベル」であることが示されています。
 「頂が天に届く塔」は、メソポタミアに見られるジグラトの起源に当たる建造物ことで、宗教的な建物です。その頂上には、特別な祭儀において、天にいるその町の神が人と交わるため下ってくるとされている神殿がありました。しかし、ニムロデの帝国の人々が建てた塔は、後の時代のジグラトと少し違った意味をもっていたと思われます。「頂が天に届く塔」を建てるに当たって、人々が、

さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。

と言ったことが記されています。新改訳では訳し出されていませんが、ここには「われわれのために」ということばが2回出てきます。それを生かして訳しますと、

さあ、われわれのために町を建て、頂が天に届く塔を建て、われわれのために名をあげよう。

となります。これは、この人々が「頂が天に届く塔」を建てたのは、自分たちを神格化して、神と対抗しようとする試みであったということを意味しています。
 さらに、この人々は

 われわれが全地に散らされるといけないから。

と言っています、これは、天地創造の御業のことを記している1章28節に、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されており、大洪水によるさばきの後のことを記している9章1節に、

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

と記されている神さまの祝福を、意識的に踏みつけようとする姿勢を示しています。
 このように、ニムロデの帝国の人々は、帝国の中心であるバベルに「頂が天に届く塔」を建てて、これを宗教的な中心としました。それは自分たちの獲得した権力の巨大さに自ら欺かれて、自分たちを神格化して神に並ぶものとすることでした。人々はこのような思想の下に帝国を統一し、その結束を強めようとしました。それはニムロデの軍事力を初めとする血肉の力に裏打ちされた権力によることです。
 これによって、神のかたちとして造られている人が造り主である神さまの祝福の下に、全地に増え広がっていくことによって神さまを礼拝することを中心とする歴史と文化が造られていくという神さまのみこころに反する歴史と文化が造られていくことになりました。
 このような歴史の流れが行き着く先は、大洪水によるさばきの前の状況を記している6章11節ー12節に、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されている時代状況です。ですから、このままの状態が続けば、人類は再び「」の御前に罪の升目を満たしてしまい、終末的なさばきを招くに至ってしまいます。11章6節に、

は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

と記されているように、その流れは、もはや、人が自分たちの力では止めることができないほどになっていました。

 このような、自らを神の位置に据えようとするニムロデの帝国の高ぶりに対して、11章5節には、

 そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

と記されています。人々は「頂が天に届く塔」を建てて、名を天にまで上げたつもりでいました。けれども、それは天にまで届いたどころか、「」はそれを見るために、わざわざ降りてこなければならなかったというのです。もちろん、これは擬人化された言い方で人の高ぶりの愚かさを示しています。
 このように、人が罪とその腐敗を徹底化していき、罪の升目を満たして最終的なさばきを招くに至る道を突き進むことを、自らの力によっては止めることができなくなったとき、「」が介入して、それを止めてくださいました。11章6節ー9節には、

は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうしては人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

と記されています。
 この「バベル」という町の名前には二通りの意味があります。メソポタミアのことばであるアッカド語ではバーブイルで「神の門」を表します。これに対して、ヘブル語ではバーベルで「混乱」を表します。ニムロデ帝国の人々は、帝国の統一の中心として、その頂が天にまで届く塔のある町を建てて、それを「神の門」と呼びました。しかし、それは歴史の中では、今日に至るまで、「」のさばきを招いて「混乱」もたらしたものとして覚えられることになりました。
 これが洪水後の人類の歩んだ道でした。人類は地の全面に散っていきましたが、それは「」のさばきによって「混乱」のうちに散っていったもので、分裂に分裂を重ねて散っていったと言うべきものです。とはいえ、これには、「」の備えという意味がありました。「」のさばきによって、思想や価値観が違ってしまった人々、さらには、お互いの間での憎しみと敵意などによって対立するようになった人々が地の面に散っていくようになりました。それによって、全人類が一つとなって、罪の腐敗を極まらせてしまう流れを造り出すのではなく、国あるいは民族が互いに競い合い、チェックし合って、結果的に、腐敗が極まってしまうことが阻止されるように、主が摂理の御手をもって導いてくださるようになったのです。一つの国が国家建設のために規律あるあり方をして栄えていき、栄華を極めるようになると、やがて腐敗が始まり、弱体化します。すると、それを打ち破って、再び、国家形成のために規律を保つ国が興るようになります。それらの国々は自分たちの罪の自己中心性に縛られ、権力を追い求めているのですが、「」はそのような人の思惑を越えて、すべてを導いてくださり、歴史を保ってくださいます。このようにして、主は終わりの日に至るまで、人類が罪による腐敗を極まらせて、最終的なさばきを招くようになることがないように、歴史を保ってくださっています。
 その間に、「」はアブラハムを召してくださり、バベルにおいて散らされたすべての国民が、アブラハムによって祝福を受けるようになると約束してくださいました。その「」の約束を記している創世記12章3節に、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と記されているとおりです。
 このアブラハムへの約束は、アブラハムが約束によって生まれたイサクを「」にささげた時に与えられた約束につながっていきます。創世記22章18節には、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と記されていて、アブラハムへの約束は、アブラハムの子孫によって地のすべての国民が祝福されるということであることが示されました。御子イエス・キリストはこのアブラハムの子孫のかしらなる方としてきてくださり、ご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられました。
 「」の救いの御業の歴史の中では、バベルにおいて主のさばきによってことばが乱されたこと、それによって、人々が分裂を重ねて散っていったことへの解決は、使徒の働き2章に記されている最初の聖霊降臨節の日に実現しています。


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