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説教日:2016年12月4日 |
このことを示す典型的なみことばである、最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日の出来事について語ったペテロの教えを記している、使徒の働き2章29節ー35節を見てみましょう。そこには、 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。 「主は私の主に言われた。 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは わたしの右の座に着いていなさい。」 と記されています。 30節で、 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。 と言われていることは、ダビデ契約の約束にもとづくことです。そして、続く31節で、 それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」と語ったのです。 と言われていることは、ペテロが、先ほどの引用の少し前の27節において引用している、 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、 あなたの聖者が朽ち果てるのを お許しにならないからである。 という詩篇16篇10節のみことばが、イエス・キリストの復活において成就していることを示しているものです。そして、これに基づいて、ペテロは、続く32節で、 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。 とあかししています。そして、33節で、最初の聖霊降臨節の日に起こった出来事を、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と説明しています。さらに、このことを旧約聖書のみことばから説明するために、34節ー35節において、詩篇110篇1節のみことばを引用して、 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。 「主は私の主に言われた。 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは わたしの右の座に着いていなさい。」 と語っています。 ですから、「主」がダビデ契約において約束してくださっている、まことのダビデの子であるメシアが着座する永遠の王座は、地上にはなく、天にある父なる神さまの右の座です。そして、そのメシアの支配は、この世の国々の支配者たちの背景にある軍事力、経済力、人的な数の多さなどの血肉の力によるものではなく、御子イエス・キリストが最初の聖霊降臨節に注いでくださった聖霊によるものです。 この最初の聖霊降臨節において起こった出来事には、神である主の贖いの御業の歴史において、重要な意味をもっています。 それは、第一に、この日に、御子イエス・キリストが十字架において流された血による新しい契約の共同体であり、キリストのからだである教会が、普遍的な教会として誕生したからです。 それとともに、今お話ししていることと関わっていることとして注目したいのは、使徒の働き2章1節ー11節に記されていることです。そこに記されていることを見てみましょう。 1節ー4節には、 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。 と記されています。 これは、先ほどお話ししました、栄光を受けて死者の中からよみがえって、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、約束の御霊を注いでくださったことによって起こったことです。 「五旬節」の祭りは「七週の祭り」とも呼ばれ、「過越の祭り」あるいは「種を入れないパンの祭り」、「仮庵の祭り」とともに、イスラエルの成人男子が年ごとにエルサレムにある主の神殿において主の御前に出でて、ささげ物をもって主を礼拝するように定められた三つの祭りの一つです(申命記16章16節参照)。 「五旬節」がいつであったかについては、レビ記23章15節に出てくる安息日がどの安息日であるかについてのサドカイ派とパリサイ派の間で解釈が違っているために、二つの理解があります。私たちは、この「五旬節」の日の出来事が起こった時には、まだエルサレム神殿が建っていて、その時代には、その安息日は週ごとの安息日のことであるという、サドカイ派の解釈が権威をもっていたと考えられるということから、サドカイ派の解釈に従って理解しています。そうしますと、「五旬節」は過越の日の後の最初の(週ごとの)安息日の次の日、すなわち日曜日から数えて50日目の日曜日であるということになります。 また、ここで、 みなが一つ所に集まっていた。 と言われているときの、「みな」は、6節に出てくる「弟子たち」のことです。この「弟子たち」という一般的な言い方から、これは14節に出てくる十二弟子だけではなかったと考えられます。このことは、また、4節で、弟子たちが「他国のことばで話しだした」と言われているときの、「他国のことば」が、9節ー11節に記されているように、12をかなり越えていることからも支持されます。 5節ー11節には、 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」 と記されています。 5節に記されている、 敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て と言われていることは、その人々が、この「五旬節」の祭りのためにエルサレムに来て滞在していたということを示しています。それで、ここにはエルサレムの住人たちとともに、「五旬節」の祭りのためにエルサレムに来て滞在していたユダヤ人たちと「改宗者」たち(11節)がいたと考えられます。 9節ー11節に記されている、この人々の出身地は、ユーフラテス川の東の地方とメソポタミアからアラビアまで、また小アジアの町々からエジプトとリビアに至るまで、そしてローマまでと広がっています。 そして、その人々が、 あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。 と述べています。つまり、ガリラヤの人である弟子たちが、ここに集まってきた人々がやって来たすべての国のことばで「神の大きなみわざ」をあかししたということです。「神の大きなみわざ」ということばは、神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業のことを指しています。ですから、この人々は、自分たちの国のことばで、イエス・キリストに関する福音のみことばを聞いているわけです。 このことから、ここに記されていることは、創世記11章1節ー9節に、 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。 と記されている、バベルでの出来事に対応していると考えられます。 確かに、ここに集ってきている人々はユダヤ人たちと改宗者たちです。それで、ここには、いまだ旧約聖書にあかしされている「主」のことを知らない異邦人たちはいません。けれども、使徒の働きは1章8節に記されている、 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 というイエス・キリストの教えに示されているように、イエス・キリストについてのあかしが「地の果てにまで」及ぶことを踏まえています。そして、ここで、イエス・キリストが、 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。 と言われたことは、最初の聖霊降臨節の日に実現しています。このことを踏まえますと、、ユーフラテス川の東の地方とメソポタミアからアラビアまで、また小アジアの町々からエジプトとリビアに至るまで、そしてローマまでと広がっている国々のことばを話す、ユダヤ人たちと改宗者たちは、それぞれのことばを話す地方を代表的に表すような意味をもっていたと考えられます。言い換えますと、最初の聖霊降臨節の日にこれらの人々が自分たちの国のことばで、イエス・キリストに関する福音のみことばを聞いたことは、これで完結してしまうことではなく、 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 というイエス・キリストのみことばがいよいよ実現し始めているということを告げるものです。 このようなことから、最初の聖霊降臨節の日の出来事が、バベルでの出来事に対応しているということは、無理なこじつけではないと考えられます。 バベルでの出来事の歴史的な背景にあるのは、ノアの時代の大洪水によるさばきです。洪水前のノアの時代状況は、創世記6章に記されています。5節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 と記されています。ここでは、人が「心に計ることが」「みな」、「いつも」、「『悪いことだけ』に傾く」と言われていていて、人の罪による本性の腐敗が極まってしまっていることが示されています。それで、続く6節ー7節には、 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 と記されています。この「主」のみことばは、「主」が創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、これに歴史と文化を造る使命を委ねられたことに示されているみこころが踏みにじられてしまっていることを示しています。「人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで」という「主」のみことばは、創世記1章28節に記されている、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 という、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を踏まえています。 また、神さまは神のかたちとして造られている人に、「地を従えよ」という使命をお委ねになっていますが、6章11節ー13節には、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。 と記されています。ここでは、「地」ということばが、この三つの節のそれぞれの節で2回(代名詞で表されないで)ずつ用いられています。これは神さまが「地」そのものに深い関心を寄せておられることを意味しています。それは、神さまが神のかたちとして造られている人に、ご自身のみこころにしたがって「地」を管理する使命を委ねられたことによっています。やはり、創造の御業において示された神さまのみこころが踏みにじられてしまったのです。 このことは、堕落後の人類の状態を記している4章26節に、 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されていることに照らして見る必要があります。アダムから3代目のエノシュが生まれた時には、 そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と言われています。ここで、「主の御名によって祈ること」と訳されていることばは、文字通りには「主の御名によって呼ぶこと」で、これを祈ることと理解しても、礼拝することと理解しても実質的には同じです。より本質的なことを生かすとすれば、これは「主」ヤハウェを礼拝することになります。いずれにしましても、この、 そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 というみことばは、その時代においては、ヤハウェ礼拝者がいることが、特筆されるべき社会現象になっていたことを示しています。これが、創世記5章に記されているアダムからノアに至る時代の流れの中で、ヤハウェ礼拝者はノアとその家族だけになってしまったのです。これによって、人の罪は、もし「主」の働きかけがなければ、その腐敗の度合いを深めていって、徹底的なものになってしまうことが、歴史の中で、一度だけ示されたことになります。 このことが、バベルの出来事とどのようにつながっているのか、そして、聖霊降臨節の出来事とどのようにつながっているのか、さらには、メシアとして来てくださった御子イエス・キリストの受け継ぐ相続財産とどのようにつながっているのかについては、続いてお話しします。 |
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