|
説教日:2016年11月27日 |
また、先ほど引用しましたヘブル人への手紙1章3節と10章12節には、御子イエス・キリストが「罪のきよめを成し遂げ」られた(1章3節)こと、「罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」られた(10章12節)ことが記されていました。これは、イエス・キリストの大祭司としてのお働きに触れるものです。そして、これも、詩篇110篇の4節に預言的に記されていたことでした。そこには、 主は誓い、そしてみこころを変えない。 「あなたは、メルキゼデクの例にならい、 とこしえに祭司である。」 と記されています。 イエス・キリストが大祭司であられることについて、先週はヘブル人への手紙7章に記されていることを取り上げてお話ししましたが、今日は、先週触れることができなかった、5章に記されていることを取り上げたいと思います。少し長い引用になりますが、5章1節ー10節には、 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、 「あなたは、わたしの子。 きょう、わたしがあなたを生んだ。」 と言われた方が、それをお与えになったのです。別の個所で、こうも言われます。 「あなたは、とこしえに、 メルキゼデクの位に等しい祭司である。」 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。 と記されています。 ここでは、イエス・キリストがどのようにして「私たちの大祭司」として任命されたかを、まず、1節ー6節において、旧約聖書に基づいて説明し、次いで、7節ー10節において、イエス・キリストの地上の生涯のあり方をとおして説明しています。 1節には、 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。 と記されています。これは「大祭司はみな」(「みな」が最初に出てきて強調されています)と言われているように、古い契約の下におけるアロン系の大祭司にも、「私たちの大祭司」であるイエス・キリストにも当てはまることです。ここでは大祭司の人との関係と、神さまとの関係における働きが明らかにされています。 まず、人との関係ですが、「大祭司はみな、人々の中から選ばれ」ます。大祭司は人であり、人々と一体となっていて、人々とともにあります。そして、 神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです と言われています。「神に仕える事がらについて」と訳されている部分は意訳で、「仕える」ということばはありません。このことば(タ・プロス・トン・セオン)は、いくつかの英訳が示しているように「神に関することにおいて」ということで、「神に仕える事がらについて」というよりは意味が広いと考えられます。また「人々に代わる者として」(ヒュペル・アンスローポーン)は文字通りの訳ですが、少し分かりにくいかも知れません。これは(前置詞ヒュペルの「・・・に代わって、・・・の代理として」と「・・・のために」という意味合いから)大祭司が「人々」を代表し、「人々」のために働くという意味合いを示しています。 ここでは、大祭司が「人々の中から選ばれ」「人々に代わる者として、任命」された(「任命を受けた」は受動態)と言われています。この受動態は、いわゆる「神的受動態」で、神さまがお選びになり、任命されたということを示しています。そして、その目的が、 それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。 と説明されています。 そして、2節では、 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。 と記されています。ここでは、大祭司は自分にも「無知な迷っている人々」と同じ弱さがあることを自覚して、その人々を「思いやる」ことができると言われています。これは、大祭司が「人々の中から選ばれ」、人々と一体であり、人々とともにある、人々に寄り添う者であることから来ています。大祭司であることを笠に着て、人々の上に立って、人々を見下したり、さばいたりするのではありません。そのようなことは、黙示録12章10節で、 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者 と呼ばれているサタンがすることです。これに対して大祭司は、人々のためにとりなしをするのです。 ヘブル人への手紙5章3節では、大祭司について、 そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。 と記されています。これは、9章7節に、贖罪の日(大贖罪の日)のことが、 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。 と記されていることへとつながっていきます。贖罪の日(大贖罪の日)には、大祭司は自分のためにもいけにえをほふり、その血を携えて至聖所へと入っていきました。ヘブル人への手紙では、そのことが毎年、繰り返されることについて、10章3節ー4節に、 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。 と記されています。これに対して、私たちの大祭司であるイエス・キリストについては、10節10節に、 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 と記されており、14節に、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されています。 私たちの大祭司であるイエス・キリストは、1章3節に、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されているように、「神の栄光の輝き」であられ、「神の本質の完全な現れ」であられます。また、先ほど触れた、1章5節ー13節においては、御子イエス・キリストが御使いたちに優る方であることが、旧約聖書のみことばに基づいて論証されていました。そこでは、イエス・キリストが契約の神である主、ヤハウェであられることも示されています。 6節には、 さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。 「神の御使いはみな、彼を拝め。」 と記されています。この「長子」は御子のことです。そして、ここでは、神さまが、 神の御使いはみな、彼を拝め。 と命じておられると言われています。これは、申命記32節43節の七十人訳(「すべての神の子たちに彼を拝ませよ」)や詩篇97篇7節の七十人訳(「彼のすべての御使いたちよ、彼を拝め」)からの緩やかな引用ですが、御子はすべての「神の御使い」たちの礼拝を受けるべき方であることが示されています。御使いたちは、神さまのみを礼拝し、ミカエルやガブリエルなど上位にある御使いをも礼拝することはありません。 また、8節ー12節には、 御子については、こう言われます。 「神よ。あなたの御座は世々限りなく、 あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。 あなたは義を愛し、不正を憎まれます。 それゆえ、神よ。あなたの神は、 あふれるばかりの喜びの油を、 あなたとともに立つ者にまして、 あなたに注ぎなさいました。」 またこう言われます。 「主よ。あなたは、初めに 地の基を据えられました。 天も、あなたの御手のわざです。 これらのものは滅びます。 しかし、あなたはいつまでもながらえられます。 すべてのものは着物のように古びます。 あなたはこれらを、外套のように巻かれます。 これらを、着物のように取り替えられます。 しかし、あなたは変わることがなく、 あなたの年は尽きることがありません。」 と記されています。 8節ー9節では、詩篇45篇6節ー7節が引用されていますが、ここで「神よ」と呼ばれている方は、御子イエス・キリストであるということを示しています。[注] 詩篇45篇6節ー7節ではこの「神よ」と呼ばれている方は、ダビデ契約において約束されている王座に着座される方を指していますが、この、ヘブル人への手紙1章)8節ー9節では、この方が3節で、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 とあかしされている方であることを踏まえて、文字とおり「神よ」と呼ばれているとしています。 [注]ここでは「神」は冠詞付きの主格ですが、「神よ。あなたの御座は世々限りなく」という訳では、これを、新約聖書と古典ギリシャ語によく見られるように、呼格として用いられていると理解しています。同様の例は、マルコの福音書5章41節、14章36節、ローマ人への手紙8章15節などに見られます。 より明確なのは、それに続く10節ー12節において、詩篇102篇25節ー27節のみことばが引用されて、そこに記されていることが御子イエス・キリストに当てはめられているということです。詩篇102篇25節ー27節で「あなた」と呼ばれている方は、24節で詩篇の作者が「わが神」と呼んでいる方であり、1節、12節、15節、16節、19節、21節、22節において「主」(ヤハウェ)として示されている方です。 このように、御子イエス・キリストは、無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、まことの人となられました。このことは、私たちには、御子イエス・キリストと私たちの間には越えられない隔たりがあり、イエス・キリストは私たちのはるか遠くの存在であるように感じられるかも知れません。 けれども、それは福音のみことばがあかししていることではありません。 先ほど、6節では、御子はすべての「神の御使い」たちの礼拝を受けるべき方であることが示されていることを見ました。それでは実際にどのようになっているかを見てみましょう。、天における神さまの御臨在の御前のことを記している黙示録5章では、11節ー14節に、 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。 と記されています。御子イエス・キリストは御使いたちの礼拝と讃美を受けておられます。しかも、 御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。 という讃美のことばは、御子イエス・キリストが父なる神さまと同じことばで讃えられていることを示しています。けれども、ここでは、御子イエス・キリストは「ほふられた小羊」として讃えられています。私たちご自身の民の罪のために十字架におかかりになって、父なる神さまの聖なる御怒りによる私たちの罪に対する刑罰をすべて、私たちに代わって、また、私たちのために受けてくださって、死がもたらす最も恐ろしい現実を余す所なく経験されました。そのことにおいてこそ、御子が「神の栄光の輝き」であられ、「神の本質の完全な現れ」であられることが最も豊かに現れているのです。 ヘブル人への手紙5章7節には、 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。 と記されています。これは、イエス・キリストの地上の生涯におけるお働き、特に、まことの大祭司としてご自身を、私たち主の契約の民の罪のためのいけにえとしておささげになることに関わっています。それは、マタイの福音書26章38節とマルコの福音書14章34節に記されているように、イエス・キリストが弟子たちに、 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。 と言われ、ルカの福音書22章44節に、 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。 と記されている、ゲツセマネにおける祈りに、典型的に見られることです。 父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあられる御子にとって、父なる神さまの聖なる御怒りによる私たちの罪に対する刑罰をすべて、私たちに代わって、また、私たちのために受けてくださるということがどれほどの恐ろしさ、どれほどの悲しみと苦しみをもたらすものだったのでしょうか。それは、私たちには想像をはるかに越えたことです。それでもイエス・キリストは、父なる神さまのみこころがなされることを祈り求められました。それが、ヘブル人への手紙5章7節で、 そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。 と言われていることの核心にあることです。 このことはイエス・キリストの地上の生涯の終わりにおいて見られただけのことではありません。イエス・キリストがメシアとしてのお働きを始められた時のことを記している、マタイの福音書8章16節ー17節には、 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 と記されています。 イエス・キリストは「悪霊につかれた」人々を悪霊から解放してくださり、「病気の人々をみないやされ」ました。そのことはイエス・キリストが無限、永遠、不変の栄光の主であられることによっていますが、それで終わるものではありません。 その時、イエス・キリストは「悪霊につかれた」人々や「病気の人々」の痛みや苦しみ、さらには、それまでの人生において味わった苦しみや悲しみをすべて、ご自身のこととして背負ってくださり、ご自身が、イザヤ書53章3節で、 悲しみの人で病を知っていた。 と前もってあかしされていた方であられたのです。人が傷ついた時、最も痛まれたのはイエス・キリストです。人が悲しみに暮れた時、最も苦しまれたのはイエス・キリストです。イエス・キリストがこのように、人々の病を負い、悪霊たちのもたらした悲惨さをご自身の苦しみとされることがおできになったのは、イエス・キリストが無限、永遠、不変の栄光の主であられたからにほかなりません。そして、このことから、イエス・キリストは、人々の苦しみと悲しみの深さと、それが行き着くところが死であり滅びであるという悲惨さの根本原因である人の罪を、何としても贖わなければならないという思いを深くされていったと考えられます。 私たちは、無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられる方が、そして、罪を犯したことがなかった方が、どうして、自らの罪に苦しむ私たちの苦しみを思いやってくださるのだろうか、それは、全知全能の神として、客観的にすべてのことをご存知であられるからではないだろうかと、考えてします。 しかし、そうではなかったのです。イエス・キリストは私たちの苦しみや悲しみを、真の意味で、ご自身の悲しみとして悲しんでくださり、ご自身の苦しみとして苦しんでくださることがおできなるし、実際に、そうなさっておられます。そうであるからこそ、ヘブル人への手紙4章15節ー16節においては、 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 とあかしされており、勧められているのです。 |
|
||