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説教日:2016年11月20日 |
ヘブル人への手紙1章2節においては、 神は、御子を万物の相続者とし、 と記されていますが、これについては二つの問題があります。 一つは、父なる神さまは、いつ御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命された(エセーケン)のかということです。 もう一つは、御子イエス・キリストが相続するのは「万物」であると言われていますが、それはどういうことなのだろうかということです。それは、これまでお話ししてきましたように、イエス・キリストがすべての民、すべての国々を相続財産として受け取り、治めるようになることを意味していますが、そのことに尽きるのだろうかということです。 今日は、父なる神さまはいつ御子イエス・キリストを「万物の相続者」に任命されたのかということと、それに関連することをお話しします。それによって、もう一つの問題についてお話しする足がかりが得られることになると思われます。 これまでお話ししてきましたように、御子イエス・キリストが「万物の相続者」であるのは、イエス・キリストが、ダビデ契約において約束されているまことのダビデの子であり、「主」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼は「主」「にとって子となる」と約束してくださっているように、「神の子」であることによっています。詩篇2篇7節に、 わたしは主の定めについて語ろう。 主はわたしに言われた。 「あなたは、わたしの子。 きょう、わたしがあなたを生んだ。」 と記されていることは、ダビデ契約に約束されているダビデの子孫、特に、まことのダビデの子であるメシアが王として即位する時のことを指しています。それで、 神は、御子を万物の相続者とし、 と記されていることは、イエス・キリストがダビデ契約に約束されている、「主」がとこしえまでも堅く立て」てくださる王座に着座された時に実現していると考えられます。もちろん、すべてのことは主の聖定的なみこころによっていますので、その最終的な起源は永遠の聖定にありますが、このヘブル人への手紙1章2節の文脈では、このように考えられるということです。 また、イエス・キリストがダビデ契約に約束されている永遠の王座に着座されたことについては、ヘブル人への手紙1章3節後半に、 御子は・・・罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されています。ですから、イエス・キリストが「万物の相続者」となられたことは、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架におかかりになって「罪のきよめを成し遂げ」てから、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたことによっています。 このことと関連して、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことをヘブル人への手紙に記されていることに沿って見ていきたいと思います。 1章3節後半に、 御子は・・・罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されていることは、詩篇110篇1節に、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 と記されていることが、イエス・キリストにおいて成就していることを示しています。 この詩篇110篇1節に記されていることは、「主」がダビデ契約において約束されていた永遠の王座が「主」の「右の座」であることを示しています。このことは、これまで2回ほど触れてきました、聖霊降臨節の日にペテロがその日起こった出来事について人々に語った教えにおいても示されていました。 そして、イエス・キリストが教えられたこと(マタイの福音書22章41節ー45節)に基づいて言うのですが、この詩篇の作者であるダビデが「私の主」と呼んでいる方、すなわち、メシアがその「主」の「右の座」に着座することが示されています。メシアがそこに座るのは、「主」の御名によって、また、「主」のみこころにしたがって、「主」から委ねられた権威をもって治めるためです。そのことは、「主」の「右の座」に着座するということ自体が意味していますが、続く2節に、 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。 「あなたの敵の真ん中で治めよ。」 と記されていることからも分かります。ここに出てくる「杖」(マッテー)は支配者の杖で、その権威、権力を象徴しています。そして、ここではその権威、権力が「敵」に及ぶことが示されています。ですから、1節では、「主」がメシアの「敵」をメシアの足台とされると言われていますが、実際には、「主」はメシアの働きをとおして、ご自身とメシアの「敵」を屈服させられるということになります。それはまた、先ほど引用しました詩篇2篇7節ー9節、特に、9節に、 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。 と記されていることに示されています。それで、ここでは、「主」の「右の座」に着座されるメシアが、「主」のみこころにしたがって、「敵」へのさばきを執行されることが示されています。 ヘブル人への手紙1章3節後半に、 御子は・・・罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されていることは、イエス・キリストにおいて、詩篇110篇1節に記されていることが成就していることを示しています。 そればかりでなく、ここで、 御子は・・・罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と言われているときの「罪のきよめを成し遂げて」ということは、イエス・キリストがまことの大祭司として、父なる神さまの右の座に着座しておられることを意味しています。 このことは、ヘブル人への手紙では10章11節ー14節においてさらに説明されています。そこには、 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されています。 ここでは、古い契約の下での「地上的なひな型」である幕屋や神殿の聖所で仕えていた祭司が「同じいけにえをくり返しささげ」ていたのに対し、イエス・キリストは「罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」られたと言われています。 古い契約の下では「同じいけにえをくり返しささげ」ました。それは、そのいけにえでは罪が贖われることがなかったからです。同じ10章の1節ー4節に、 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。 と記されているとおりです。 1節に出てくる「年ごとに絶えずささげられる同じいけにえ」(複数形)とは、4節で「雄牛とやぎの血」と言われていることから分かりますように、年に一度「贖罪の日」(ヨーム・キップール)あるいは「大贖罪の日」(ヨーム・ハキップリーム)にささげられたいけにえのことです。それは、第7の月の10日に、大祭司がすべてを整えた上で、いけにえの血を携えて、至聖所に入っていって 「自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いを」しました(レビ記16章17節)。そして、そのことが毎年繰り返されてなされました。ここでは、これによって、 罪が年ごとに思い出されるのです と言われています。 しかし、イエス・キリストは古い契約の下で「地上的なひな型」として造られた聖所に入られたのではありません。そうではなく、それがひな型として指し示している本体であるまことの聖所に入られました。ヘブル人への手紙9章24節ー26節に、 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。 と記されているとおりです。また、10章10節には、 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 と記されています。 このように、イエス・キリストがまことの大祭司としてのお働きを遂行されて、私たちご自身の民の罪をきよめてくださったことを記している中で、10章12節ー13節では、 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。 と言われています。これは先ほど引用しました詩篇110篇1節に、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 と記されていることを背景として記されています。 このことは、ダビデ契約に約束されていた永遠の王座に着座されたまことのダビデの子であられるイエス・キリストは、王としてすべてのものを治めておられ、「敵」へのさばきを執行されるだけではないことを示しています。まことのダビデの子であられるイエス・キリストは、天のまことの聖所において仕えておられる大祭司として、私たちご自身の民のために働いておられるということが示されています。 このことは、詩篇110篇においてすでに示されていたことです。1節では、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 と記されていましたが、4節には、 主は誓い、そしてみこころを変えない。 「あなたは、メルキゼデクの例にならい、 とこしえに祭司である。」 と記されています。ここでは、ダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座されるメシアが「メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である」と言われています。 ヘブル人への手紙は7章において、このみことばを根拠として、イエス・キリストがモーセ律法が規定している、レビ族に属している「アロンの位でなく」、それに優る「メルキゼデクの位に等しい祭司である」ことを示しています。 1節ー4節には、 このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。 と記されています。ここでは、メルキゼデクがどのような存在であるかが説明されています。 「メルキゼデク」(ヘブル語マルキー・ツェデク)という名前は、「マルキー」と「ツェデク」の二つの要素によって構成されています。「マルキー」は「王」を表わす「メレク」の変化した形です。そして、「ツェデク」は「義」を表わします。「マルキー」は二様に取れて、それをどう取るかによって「メルキゼデク」の意味は「私の王は義である」という意味か、「義の王」あるいは「義なる者の王」という意味になります。 これとともに、「マルキー」と「ツェデク」が、それぞれ別の神の名前である可能性もあります。その場合には、「ミルキ、あるいはミルクは義である。」となるか、「私の王はツェデク、あるいはツァディクである。」となります。ただし、メルキゼデクはアブラハムと同じく「天と地を造られた方」を神として信じています。 また、「サレムの王」(創世記「シャレムの王」)の「サレム」[「シャレム」(ヘブル語シャーレーム)]は、ことばとしては「完全な」、「まったき」、「安全な」ということなどを意味していて、ヘブル人への手紙7章2節では「平和」を意味しているとされています。ここでは場所の名前で、これは古い時代のエルサレムのことであると考えられます。 メルキゼデクがアブラハムを祝福したことは、創世記14章18節ー20節に記されています。 その前の14章1節ー17節に記されていますが、東(メソポタミア)の三人の王たちの連合軍が遠征してきてカナンの地の五人の王たちと戦って、これを打ち破り、彼らのしもべたちや財産を奪い取りました。その時、アブラハムの甥のロトとその家の者たちや財産も奪われてしまいました。それを聞いたアブラハムは同盟者たちとともに東の王たちの連合軍を追撃して、彼らを打ち破り、ロトとその家のものや財産ばかりでなく、王たちの財産を取り戻して帰ってきました。アブラハムも戦略を練って戦いましたが、敵は強大な国の王たちでした。ですから、その勝利はアブラハムの力によるものではなく、そこにはアブラハムが信頼した神である主の御手による支えと導きがありました。それはメルキゼデクの祝福のことばに表されています。アブラハムを迎えたメルキゼデクは「天と地を造られた方、いと高き神」の御名によって、アブラハムを祝福しました。19節ー20節には、 彼はアブラムを祝福して言った。 「祝福を受けよ。アブラム。 天と地を造られた方、いと高き神より。 あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ。」 アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。 と記されています。 アブラハムはメルキゼデクの祭司としての祝福に応答して「すべての物の十分の一を彼に与え」ています。ヘブル人への手紙7章4節では、 その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。 と述べて、メルキゼデクの偉大さを示しています。また、7節では、 いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。 と言われています。これによって、アブラハムを祝福したメルキゼデクがアブラハムより「上位の者」であることが示されています。 そして、17節には、イエス・キリストについて、 この方については、こうあかしされています。 「あなたは、とこしえに、 メルキゼデクの位に等しい祭司である。」 と記されています。これは詩篇110篇4節を引用して、それがイエス・キリストにおいて実現していることを示すものです。これによって、イエス・キリストがアブラハムより「上位の者」であることが示されるとともに、アブラハムの子孫の中のレビ族に属しているアロン系の祭司よりも「上位の」祭司であることを示しています。 そして、ヘブル人への手紙7章22節ー27節には、 そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。 と記されています。 この教えは、さらに、私たちが親しんでいる、2章14節ー18節に記されている、 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 教えを思い起こさせます。 ここには、イエス・キリストは「あわれみ深い、忠実な大祭司」となってくださるために、そして、ご自身より「下位の者」である「アブラハム」の霊的な子孫である私たちを助けてくださるために、私たちと一つになってくださり、私たちがこの罪の世で味わうすべての苦しみをご自身のこととして味わってくださったことが示されています。ダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座されてすべてのものを治めておられるイエス・キリストは、栄光の主です。その栄光の主が、今も、このように身を低くされて、私たちのために大祭司としてのお働きを続けてくださっています。これは、イエス・キリストが栄光の主であられるにもかかわらず、このように身を低くされたと考えたくなりますが、むしろ、このように身を低くされたことにこそ、イエス・キリストが栄光の主であられることの豊かな現れがあるということです。それが、私たちご自身の民の贖いのために十字架におかかりになったイエス・キリストにおいて、父なる神さまの栄光は最も豊かに現されているということにそった受け止め方です。 |
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