黙示録講解

(第269回)


説教日:2016年11月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(22)


 イエス・キリストは、テアテラにある教会へのみことばにおいて、まず、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。これは、イエス・キリストが、「」がダビデに与えられた契約、すなわちダビデ契約において約束されているダビデの子としてのメシアであることを示すものです。
 ダビデ契約の約束の核心にあることは、「」がダビデの「世継ぎの子」の「王国を確立させ」てくださること、そのダビデの子が主の御名のための「」を建てるようになること、「」が「その王国の王座をとこしえまでも堅く立て」てくださること、そして、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼は「」「にとって子となる」ということにまとめられます。
 イエス・キリストは、「」がダビデの「世継ぎの子」「にとって父となり」、彼は「」「にとって子となる」と約束してくださっていることに基づいて、ご自身のことを「神の子」として示しておられます。
 今お話ししているのは、このことと関連して、「」が古い契約の下で約束してくださっているメシアは、ダビデ契約において約束されている永遠の王座に着座して治める王としての職務だけでなく、祭司としての職務と預言者としての職務をも併せもつ贖い主であるということです。そして、そのために、イエス・キリストがこのような方であることを示しているヘブル人への手紙1章1節ー3節に記されている、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

というみことばを取り上げてお話ししています。
 この数週間は、2節前半に、

 神は、御子を万物の相続者とし、

と記されていることについてお話ししています。
 イエス・キリストが「万物の相続者」であるのは、イエス・キリストが、ダビデ契約において「」が「とこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっている王座に着座された王であり、先ほど触れましたダビデ契約の約束によって、「神の子」であるからです。ローマ人への手紙8章17節に、 私たち主の民すべてに当てはまることとしてですが、

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。

と記されているとおりです。


 先主日には、古い契約の下では、メシアが「万物の相続者」であることには二つの面があることが示されているということをお話ししました。
 先主日にお話しした順序とは逆になりますが、まず、その二つの面のうち消極的な面とも言うべきことを簡単にまとめておきましょう。
 それはメシアのことを預言的に記している詩篇2篇7節ー9節に、

 「わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 『あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。』」

と記されています。
 ここでは、メシアが「国々」を「ゆずりとして」、「」から受け、「地をその果て果てまで」「所有として」受けると言われています。
 そしてこの場合は、9節に、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする

と記されているように、メシアはこれらの「国々」に対するさばきを執行されます。これがメシアが「万物の相続者」であることの一つの面で、いわば消極的な面です。
 もう一つは、メシアが「万物の相続者」であることの積極的な面です。今日は、このことについて、先主日にお話ししたことをさらに補足してお話ししたいと思います。
 メシアが「万物の相続者」であることは「」がアブラハムに与えてくださった契約、すなわち、アブラハム契約の祝福に関わっています。それは、創世記12章1節ー3節に記されている、「」がアブラハムを召してくださった時に与えてくださった祝福の約束、特に、最後に、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と言われている約束に関わっています。
 この「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福されるという約束は、「」がアブラハムに契約を与えてくださったことを記している17章4節ー5節に記されている、

 わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。

という「」の契約の約束へとつながっていきます。これによって、「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福されるという約束は、アブラハムが「地上のすべての民族」の霊的な父となることによって実現するということが示されています。
 「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福されるという約束は、さらに、22章18節に記されている、アブラハムがその子イサクを「」にささげた時に、アブラハムに与えられた、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という約束につながっていきます。
 この場合の「あなたの子孫」の「子孫」(ゼラァ)は単数ですが、集合名詞的にアブラハムの子孫たちの共同体を表します。そこには、その共同体の「かしら」があります。それがアブラハムの子孫として来られるメシアです。そして、その「地のすべての国々」がアブラハムの子孫によって祝福を受けるようになることは、さらに、ダビデ契約に約束されている、「」がとこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださっている王座に着座される王、すなわちメシアが「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」を治めるようになることによって実現します。
 そのことがイエス・キリストによって成就していることが、ガラテヤ人への手紙3節13節ー14節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。
 ここで、

 その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と言われていることは、使徒の働きの2章33節に、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と記されていることにおいて成就しています。イエス・キリストは十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださり、私たちを永遠のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて、死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に着座されて、聖霊降臨節の日に、約束の聖霊を遣わしてくださいました。
 この御霊は神の御霊ですが、今は栄光を受けて父なる神さまの右の座に着座しておられる御子の御霊として、私たちそれぞれのうちに、また、イエス・キリストが十字架において流された血による新しい契約の共同体としての教会に宿ってくださるために遣わされました。
 御霊は神さまが天地創造の御業を遂行された時から、この造られた世界に対して働いておられます。私たちは贖いの御業だけでなくて創造の御業も三位一体論的に理解しています。天地創造の御業の御業は、御子が御父のみこころにしたがって遂行されたものですが、御霊は御子が造り出された一つ一つのものの特質を生かして、導いておられます。また、いのちあるもののいのちが豊かに現され、成長するように、さらには、実を結ぶものとして造られたものが生長し、実を豊かに結ぶように支え、導いておられます。特に、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまから委ねられた使命を自覚し、与えられたさまざまな能力を発揮して、その使命を果たすことを支え導いてくださいます。神のかたちとして造られている人が神さまを礼拝することも、神さまを礼拝することを中心として、歴史と文化を造ることも、御霊のお支えと導きによっています。
 もちろん、人が神さまを礼拝することを中心として歴史と文化を造る使命を果たすことは、人の本来のあり方です。人は神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、造り主である神さまを神として礼拝することをしなくなりました。けれども、人は与えられたさまざまな能力を用いて歴史を造り、それぞれの時代の文化を造ります。それは造り主である神さまのみこころに従って、神さまを礼拝することを中心とした歴史と文化ではなく、人の罪の自己中心性を表現する歴史と文化です。そうではあっても、御霊はそのような人の知性や感情や意志の働きそのものを支えてくださっています。また、人が呼吸をし、食べ物を消化吸収することなどを初めとして、人のいのちのすべての営みを支えてくださっています。人類の堕落の後には、このような御霊のお働きを一般恩恵に基づく御霊のお働きと呼んでいます。
 これは、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づく御霊のお働き、すなわち、贖いの恵みに基づく御霊のお働きと区別されます。この贖いの恵みに基づく御霊のお働きは、一般恩恵に基づく御霊のお働きに取って代わるお働きではなく、その上に、さらに加えられたお働きです。私たち主の契約の民は、これら両方の恵み[一般恩恵と贖いの恵み(特殊恩恵)]に基づく御霊のお働きにあずかっています。
 このように、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが聖霊降臨節の時に遣わしてくださった御霊は、神さまが天地創造の御業を遂行された時から働いておられる御霊と同じ御霊ですが、一般恩恵に基づくお働きとともに、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づくお働きをもなしてくださいます。そして、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業によってもたらされるすべての贖いの恵みを私たちに当てはめてくださいます。

 御霊はイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて、まず、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、私たちをイエス・キリストにある者としてくださいます。これを神学的には、イエス・キリストとの「神秘的結合」と呼びます。この「神秘的結合」は私たちそれぞれにおいて起こりますし、新しい契約の共同体としての教会全体にも起こります。これによって教会はキリストのからだとなり、私たちそれぞれはその肢体となります。
 このようにして、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれた私たちは、イエス・キリストとともに十字架につけられて死んで、イエス・キリストとともによみがえって、新しく生まれた者、栄光ある復活のいのち、すなわち、永遠のいのちに生きる者としていただいています。ローマ人への手紙6章3節ー8節に、

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と記されているとおりです。
 また、ガラテヤ人への手紙2章20節前半には、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と記されています。ここで、

 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と言われていることは、聖霊降臨節の日に、栄光のキリストが遣わしてくださった御霊が御子イエス・キリストの御霊として私たちそれぞれのうちに宿ってくださっていることによって、現実になっています。ローマ人への手紙8章9節ー10節には、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

と記されています。ここでは、「神の御霊」が私たちのうちに住んでくださっていることが、私たちが「キリストの御霊」をもっていることを意味しており、さらに、それは「キリスト」が私たちのうちにおられることを意味していることが示されています。また、9節に出てくる、

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら

という条件節は、文法的には(エイペルと直説法現在時制で)、それが私たちの現実となっていることを表しています。それで、新改定標準訳(NRSV)はこの部分を、

 神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのですから

と訳しています。10節の、

 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら

という条件節には「おられる」を表す(エイミ)動詞が省略されていますが、これは、このことが私たちの現実となっているという応答を引き起こす条件節[cf. Wallace, Greek Grammar Byond the Basics., p.694(「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら」と言われると、「確かに、キリストは私たちのうちにおられる」という応答が生まれてくる条件節)]ですし、文脈から、これが私たちの現実となっていることを表しています。
 このようなわけで、ガラテヤ人への手紙2章20節で、

 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と言われていることは、御霊が私たちのうちに宿ってくださっていることによって、私たちの現実となっています。それはまた、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが、御霊によって私たちを治めてくださっていること、私たちを支えてくださり、導いてくださっていることの現れです。
 私たちは御霊によってイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに古い人に死に、イエス・キリストとともによみがえることによって、新しく生まれています。コリント人への手紙第二・5章17節には、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されていますが、私たちが「キリストのうちにある」ことは、御霊が私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださったことによっています。
 私たちは、このようにしてイエス・キリストにあって、また御霊によって新しく生まれたことによって初めて、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストを信じることができるようになりました。十字架につけられて殺されたイエス・キリストこそが、「」が旧約聖書をとおして約束してくださっていた贖い主であり、救い主であることを信じることができるようになったのです。これは御霊のお働きによっていますが、それは御霊が私たちの心を照らしてくださったことによっているというだけでなく、それに先立って、私たち自身をイエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、新しく生まれさせてくださったことによっています。

 このように、御霊のお働きによってイエス・キリストを信じるようになった私たちのことが、ガラテヤ人への手紙3章26節ー29節に、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されています。
 今お話ししていることとの関わりで注目したいのは、29節に記されている、

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

というみことばです。

 もしあなたがたがキリストのものであれば、

と言われていることも、エイミ動詞が省略されている形式で、先ほど触れました、このことが私たちの現実となっているという応答を引き起こす条件節です(Wallace, Greek Grammar Byond the Basics., p.694)。そして、

 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

ということでは、先ほど引用しました、創世記17章4節ー5節に記されている、

 わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。

という「」の契約の約束と、創世記22章18節に記されている、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という、「」がアブラハムに与えられた約束の成就であることが踏まえられています。
 どういうことかと言いますと、ガラテヤ人への手紙3章29節で、

 もしあなたがたがキリストのものであれば、

と言われているときの「キリスト」は、創世記22章18節に記されている、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という約束に示されていた「あなたの子孫」すなわちアブラハムの子孫の(共同体の)かしらとして来られたメシアです。
 そのことは、ガラテヤ人への手紙3章に記されていることから汲み取ることができます。先ほど引用しました13節ー14節においては、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されていました。これに続く15節ー16節には、

兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

と記されています。ここでは、アブラハム契約の祝福がアブラハムとアブラハムの霊的な子孫に与えられたことが踏まえられています。そして、アブラハムの子孫全体の代表者(かしら)がイエス・キリストであることが示されています。このことは、創世記22章18節に記されている、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という約束にも当てはまります。イエス・キリストはアブラハムの子孫のかしらなる方として来られて、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という約束に示されている「地のすべての国々」への祝福を実現してくださいました。
 そして、ガラテヤ人への手紙3章29節に、

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されていますように、私たちはイエス・キリストのものですので、アブラハムの子孫です。このことは、創世記17章4節ー5節に記されている、

 わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。

という「」の契約の約束が、イエス・キリストにあって、私たちの現実となっていることを意味しています。

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

という教えにおいては、さらに、アブラハム契約の祝福の中心主題である「相続人」としてのアブラハムの子孫のことが取り上げられています。
 ガラテヤ人への手紙3章はこの29節で終わりますが、続く4章では、この「相続人」としてのアブラハムの子孫という主題がさらに取り上げられています。4章4節ー7節には、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されています。
 ガラテヤ人への手紙4章では、この後の8節以下には、その相続人が受ける相続財産のことは触れられてはいません。それで、突然、

 子ならば、神による相続人です。

ということばで終わっているような印象を受けます。けれども、これが3章13節ー14節において、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されていることとつながっていることを考え合わせますと、そのアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産の中心が「約束の御霊」であり、その御霊が「「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊」として私たちのうちに宿ってくださり、私たちを父なる神さまとの愛にある親しい交わりに生きる者としてくださっていることにあることが分かります。
 これは、聖書に一貫して出てくる、神である「」ご自身こそが私たちの相続財産であるということにほかなりません。


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